ジジェクのヘーゲル理解は本物か(1) 闇と鬱

高橋一行

 
  S.ジジェクは、その単著の内30冊が邦訳されている。また共著やインタビュー集なども10冊の訳が出ている。未邦訳のものは単著で10冊以上、あちらこちらに寄稿しているものは一体どのくらいあるのか、全部押さえることはできない。しかしそれだけの著作で知られているのに、ジジェクを論評したものは、とりわけ日本人によるものは極めて少ない。さらにジジェクのヘーゲル理解に関して論じられているものを私は見たことがない(注1)。ここでは、私はジジェクの多岐にわたる思想の根本にヘーゲル論があると考えて、それを細かく見て行きたいと思う。
 
  「世界の闇夜」という概念から書く。ジジェクはしばしば『イェーナ実在哲学』の中から以下の引用をする。これは現在では『イェーナ体系構想』(1803-06)として訳されている、若きヘーゲルが執筆した論稿の中に見られる文言である(注2)。
  「人間はこの夜であり、すべてをこの夜の単純態の中に包み込んでいる空虚な無であり、無限に多くの表象と心像とに満ちた豊かさなのである。とはいえ、これら表象や心像のいかなるものも、人間の心に直ちに浮かんでくることもなければ、あるいは生々しいものとして存在することもない。ここに実在するものは夜であり、自然の内奥、純粋な自己である。幻影に満ちた表象の内にはあたり一面の夜が存在しており、こなたに血まみれの頭が疾駆するかと思えば、かしこには別の白い姿が不意に現れてはまた消える。闇に浮かぶ姿に目を凝らしても、見えるは闇ばかり。人の姿は深く闇に紛れて、闇そのものが恐るべきものとなる。げに、世の闇は深く垂れこめるものなれば」。
 
  ジジェクは少なくとも8冊の著書でこの文言を引用する。例えば、この文言を引用する際のジジェクの評は以下の通りである。
  まず博士論文を基にして出版した『ヒステリー』において、ジジェクは次のように描く(注3)。「ヘーゲルは主体性の位置をひとつの空なる場として、・・・同時にそれは「世界の闇夜」であり、「無から無」である「空」として、描くことができたのである」(p.343)。
  また『斜めから』では、同じ箇所が引用され、それに対して、これは「他者の欠如の深淵」だと言われる(p.165)。『症候』では、「この奈落の経験を背景にしてはじめて象徴的世界が出現する」と言われ(p.87)、『転移』では、「この憂鬱を表す哲学的表現が絶対的否定性である」(p.202)とされ、さらに、「主体の概念を定義する否定性」であると言われる(p.234)。
  『感染』では、ヘーゲルが「世界の闇夜」という言葉で説明しているのは、「抽象的否定性」、または「主体の自己への収縮たる純粋な自己の体験」だとジジェクは言う(p.290)。それが『厄介な』では、「暴力性を極めた想像力、空虚な自由」だと説明される(p.54)。
  さらに『脆弱な』では、これは「存在論的狂気、主体が世界から完全に撤退すること、徹底した主体の自己-収縮」だと言われる(p.117)。また『全体主義』では、「自己に対する純粋な否定性という意味での人間性の<零度>」なのだとジジェクは言う(p.96)。
  要するに、ヘーゲルがここで「闇夜」という言葉で言い表しているのは、否定性と言っても良いし、無と言っても良いものであり、それこそがヘーゲルの体系の根本にある。従って、ジジェクの引用は実に適切に、ヘーゲル哲学の核心部分を突き止めているということになる。ただしかし、何冊もの著書において、いつも同じ箇所を引用するのはあまりに芸がないとは思う。実はヘーゲルはこの「闇」とか「夜」という比喩については、ほかにも随所で使っている。
  それは次の著作においてである。世に出た年度を書いておく(注4)。すなわち、『差異論文』(1801)、『信と知』(1802)、『自然法論文』(1802)、といった著作があり、先の『イェーナ実在哲学』=『イェーナ体系構想』はI(1803-04), II(1804-05), III(1805-06)からなる。そしてその後に『精神現象学』(1807)が来る。
  例えば『差異論文』(1801)には次のような文言がある(p.24f.=p.18)。
  「絶対者は闇夜であり、また闇夜よりも若い光である。そして闇夜と光の区別が、また光が夜から歩み出ることが絶対的差異であり、無が最初のものであって、あらゆる存在、有限なものの多様性のすべてが無から生じて来る」。
  無がすべてを生む。これがヘーゲルの言いたいことだ。しかし彼はまた次のようにも言っている。
  「思弁は意識的なものと無意識的なものとを最高の立場で総合するとき、実は、意識そのものの廃棄を要求している。理性はそれによって、自分の絶対的同一性の反省と自分の知と自己自身とを自らの深淵に沈めるのだが、それは単なる反省と理由付けをこととする悟性にとっては闇夜であるのだが、理性にとってはそれは生命の真昼であって、ここで理性と絶対的同一性が出会う」(同p.35=p.31)。
  さらに『信と知』(1802)の結論部分でヘーゲルは次のように言う。
  「絶対者の否定的側面としての無限性は、・・・永遠の運動の源泉であり、・・・この源泉の無と無限性の純粋な夜は、真理の誕生地の秘められた深淵であり、そこから真理は立ち昇るのである」(p.431=p.168)。
  また『精神現象学』(1807) の後半部「自然的宗教」の「光」の節では、精神はまだ概念に過ぎない時は、それは「自分に本質的な闇」であると言われる。それは「誕生の創造の秘密」であり、そこからすべての存在が誕生するという意味で、ここでは使われている(p.505=p.1017f.)。
  そしてこの『精神現象学』の最終部においては、「精神は自己意識の暗闇に内へ沈み込んでいて」、しかしその精神は、「精神の深底を止揚し」、精神に拡がりを与えるものなのである。『精神現象学』は次の言葉で締め括られる。「もろもろの精神のかかる国という盃よりのみ / 絶対精神に泡立つは / その無限」。闇夜は泡立って、発酵し、そこからすべては始まる(p.590f.=p.1164ff.)
  さらに次のような記述もある。『大論理学』では、必ずしも闇が否定という訳ではなく、光が否定で、闇が肯定とも言われる( p.72=p.74)。光は無限に放散する、絶対的否定性で、闇は産出の胎として積極者だというのである。ここで闇と光が反転しているが、しかし闇と光は固定したものではなく、相即的な関係にあり、そのことによって、万物を生み出すのである(注5)。
 
  以上、「世界の闇夜」のヴァリエーションはヘーゲルにおいていくつも見出される。ジジェクの言いたいことを、ヘーゲルの中から探し出して、拡げることが可能である。
 
  この「闇」や「夜」は否定性であり、無であるのだが、この否定性や無は、ヘーゲルの体系においては無限の概念に繋がり、それゆえ、これが万物を生み出す。このことについて、例えば、山口祐弘は、ヘーゲルの『自然法論文』を引用しつつ論じている(山口2007 第一部第三章)。ここで否定性が無限に繋がることが示される。引用されているのは次の文言である。
  「蓋し無限性が運動及び変改の原理であるように、無限性の本質自身は、この本質自身の無媒介的な反対であるということ以外の何ものでもないからである。あるいは無限性は否定的に絶対的なもの、形式の抽象であり、言うところの抽象は、無限性が純粋な同一性であるがゆえに、同様に実在であり、無限なものであるがゆえに、絶対的に有限なものであり、不限定的なものであるがゆえに、絶対的限定なのである」(p.454= p.118f.)。
 
  この中の「無媒介な反対」が重要である。それが無限性の本質だと言われている。ヘーゲルの体系の根本に否定性がある。あるものはそれを否定する対立者によって規定されていて、しかしその有限性の中で、対立者と一体化し、無限となる。そういう機構が早くもここに描かれている。
  そしてそこから体系が作られる。「論理学」(『大論理学』と『小論理学』の総称)においては、存在論の定在で、自他の否定的な関係を論じ、本質論の反省でそれが主題的に繰り返されて、肯定的なものと否定的なものとの反転関係が論じられる。そこから概念論に進むと、ある規定がその規定の反対物に転化するという無限判断が論じられ、そこからさらに推理論に進む。ここは次節で扱う予定である。
 
  その議論の原型が1801年には出来上がっていたということになる。この間の事情について、『ヒステリー』では、ヘーゲル自らが先の「世界の闇夜」すなわち、「他者における欠如の経験」を経ることによって、「ヘーゲルになる」ことができたとされている(p.342f.)。
  ここから話はさらに鬱に移行する。つまりジジェクは、ヘーゲル自身がこの1801年よりも前に鬱の経験があり、それを克服してヘーゲルが自らの体系を創り上げたのだとしている。ヘーゲルは1770年生まれだから、1801年の直前の数年間、具体的にはヘーゲルが25歳から30歳まで鬱だったということだ。
  ジジェクの言い分は次の通りである。それまで、つまり30歳になる前のヘーゲルは、「絶対知の代価を払う覚悟が、つまり犠牲そのものの犠牲にまで至ることで、根源的な犠牲を払う覚悟ができていなかったのである」(同)。『信仰と知』において、ヘーゲルは次のように書く。「主観という一切の蚊は、この燃え尽す火の中で焼滅する。そしてこの犠牲と否定の意識すらも否定される」(p.303=p.111)。否定は徹底される。ジジェクはさらに、これを「無からの無」とし、先の「世界の闇夜」の引用文に描かれた「無」をここでヘーゲルは経験したというのである。
  このジジェクの主張の根拠はコジェーヴにある。ヘーゲルが25歳から30歳まで鬱状態にいたというのは、コジェーヴの唱えているところである。この間、へーゲルは「自己の力をすべて麻痺させる」鬱状態にあった(コジェーヴ p.242)。コジェーヴの言い分では、問題は、絶対知の観念が個体性を必然的に放棄することを要請するのに、当時のヘーゲルはこれを受け入れることができなかったとしている。しかしついにヘーゲルは個の憂鬱に打ち勝つ。つまり死を最終的には受け入れて、賢者となったヘーゲルは、やがて『精神現象学』を公刊するのである。
 
  ヘーゲルの伝記的な事実はあとで確認する。先に鬱ということでどういう状態をジジェクが考えているかということから説明したい。
  『ヒステリー』において、ジジェクは、神は世界を創造する以前は躁鬱病者であったと言う。神は当初、無の中にいる躁鬱病者であった。「距離のない閉じた世界」、「恐るべき孤独の中」にいて、窒息しそうになっている。そこは「本来的な意味で精神病的な世界である」とジジェクは書く。その無を引き受けて、そこから宇宙を創造する。「神は想像的治療によって自身の狂気から逃れるために、世界を創造した」のである(p.259f.)。
  私にはこの神の世界創造の説明と先のヘーゲルが鬱を克服する過程とが重なっているように思われる。
  ヘーゲルが実際に鬱であったかどうかについては、分からない。しかしヘーゲルが「ヘーゲルになる」前に、鬱病者の持っているものと同じ危機的状況の中にいたとジジェクは考える。そして自らを治療するために、神は創造者となり、ヘーゲルは哲学者となったのである。
 
  さてここで伝記的な事実について見て行こう。ジジェクが依拠するコジェーヴはどう言っているのか。これについては、コジェーヴは1810年の手紙を参照する。つまり40歳になろうというヘーゲルが若き日を振り返って、「私はこの時の二、三年、この憂鬱症に心身虚脱するまで苦しみました」と書いている。これは、1810年5月27日、ヴィンディッシュマン宛の手紙にある(コジェーヴ p.242、及びp.468の注75)。コジェーヴは伝記的事実については、あっさりとこの手紙の一行を引用するだけである。つまりヘーゲルが鬱だったという、コジェーヴの伝記的な根拠はこれだけであって、そしてまたジジェクの依拠するのもこのコジェーヴだけだとすると、いささか心許ない。
 
  ヘーゲルの他の著者による伝記や書簡集を見ながら、これを補強してみよう。先にも書いたように、ヘーゲルは1770年に生まれている。シェリングやヘルダーリンたちと過ごした楽しい大学生活を終え、ヘーゲルが家庭教師としてベルンに行くのが、1793年。1797年には、今度はヘルダーリンの紹介で新しい家庭教師先が見つかって、フランクフルトに行く。1799年に父親が亡くなり、その後家庭教師を辞めて、1801年、イェーナに行く。先に挙げたヘーゲルの著作はすべて、このイェーナ期以後のものである。
  まずフィッシャーを読む。ベルンから帰って来て、フランクフルトに行く前に、ヘーゲルは「陰鬱に自己に閉じこもっていた」(フィッシャー p.55)と書かれている。ただしこの典拠は書かれていない。
  ヘルダーリンが統合失調症を発症するのが1801年頃と言われている。ヘーゲルがフランクフルトに滞在していた1797年から1801年まで、ヘルダーリンはすぐ近くに住んでいて、その間にヘルダーリンを襲った悲劇とそのために生じた狂気を、ヘーゲルはつぶさに見ていたはずである。これがヘーゲルに影響したのだろうか。ヘーゲルはのちになって、その当時を思い出して、その地を「薄幸なフランクフルト」と記している(同)。この言葉は、1810年8月16日のヘルダーリンとの共通の友人ジンクレールから来た手紙に対する返事の中にある。ローゼンクランツによると、この手紙は紛失して存在しないが、ヘーゲルは手紙の下書きを残していた。それで私たちはこの手紙の内容を知り得るのである。同年10月中旬に出したと思われる。そこにこの「薄幸なフランクフルト」という表現が使われている(ローゼンクランツ p.238)。ただし、これは自らの鬱のことを指しているのではなく、ヘルダーリンの話だろうと思われる。
  そのヘルダーリンは、ヘーゲルと同じ1770年生まれで、これもヘーゲルと同じく1788年にチュービンゲン神学院に入学する。1993年に大学卒業後、家庭教師を始め、イェーナなどに滞在したのち、1796年にフランクフルトの豪商の家に家庭教師として入る。そこでその夫人と熱烈な恋に陥り、間もなく破局を迎える。1798年には家庭教師の職を解かれ、1802年には夫人が亡くなる。1806年に彼はチュービンゲン大学医学部精神科で診察を受け、その後「チュービンゲンの塔」で1843年に亡くなるまで過ごす。
  ヘーゲルはヘルダーリンと18歳から一緒に大学生活をし、思想的に影響を受け、その後フランクフルトで近くに住んでいたのである。ヘルダーリンの悲劇はその間のことであって、そのことを考えれば、ヘーゲルがフランクフルト時代を「薄幸」と表現するのは、自らのことではなく、ヘルダーリンのことを指しているということになる。
  続けてディルタイを読む。家庭教師を未来の聖職者や教師が「等しく嘗めねばならなかったひとつの悲惨な運命」とディルタイは書く(ディルタイ p.31)。ヘーゲルは1793年からベルンに3年、フランクフルトに4年いたのである。「ヘーゲルはベルンで幸福ではなかった」とあり、ディルタイは、シェリングがヘーゲルに手紙で、「優柔不断と意気消沈」から脱するようにアドバイスしたと書いている(同 p.75)。ディルタイは注を作っていないのだが、ヘーゲルの書簡集から探し出すと、1796年6月20日の手紙が見つかる(注6)。多分ディルタイはここを典拠にしていると思う。
  同年、ヘルダーリンの世話でフランクフルトに行く直前、一時帰郷したヘーゲルを「家族は深く自分の想いに沈みかつての快活さはどうかした拍子に微かに見られるに過ぎない彼を見出した」とディルタイは表現している。そしてその後フランクフルトに来ても、「ヘーゲルの憂鬱はここでも晴れなかった」のである。「驚くべき精神の緊張状態の中に彼が生活していた」のである(同 p.75f.)。ディルタイは、これを神学、宗教、哲学の研究のため、つまり内面の発展の時期だったからだとしている。つまり外面的事情と内面的な事情とが合わさって、ヘーゲルを苦しめたのである。
 
  以上、ここで参照した伝記では、ヘーゲルの鬱は強調されていない。しかし伝記的事実が問題ではないのだろう。恐らくヘーゲルが経験したのは軽度な鬱、それも精神病的なものではなく、神経症的なものだと思う。反復性もない。辛い家庭教師の仕事、身近で破綻して行く友を見届けたこと、あるいは父親の死の経験といったことが重なったのだろう。それらがヘーゲルを落ち込ませたのは事実だろう。しかし問題はそういった伝記的事実にはなく、ジジェクが強調するのは、ヘーゲルがヘーゲルになる、そのヘーゲル哲学の誕生として説明する内面の理解である。そしてそれはコジェーヴ経由のヘーゲル解釈なのである。
  ジジェクがどのようにヘーゲルを読んだのか。最初はどういう経路でヘーゲル読解に入って行ったのか。スロヴェニアのマルクス主義者として、マルクス経由か。それとも早い内からフランス現代思想を知っていたとするならば、コジェーヴを経由してヘーゲルに親しんだのではないか。
  コジェーヴは、へーゲルの使う「否定する否定性」(コジェーヴ p.13)だとか、「自ら無化する無」(同 p.422)といった表現を重視していて、そういうところはジジェクに引き継がれている。つまり今回の「闇」と「鬱」というテーマはコジェーヴ由来のヘーゲル像なのである。
  次回は、この否定性についてさらに考察する。そしてその徹底としての無限判断論を扱う。とりわけ、「論理学」と『精神現象学』の無限判断論の違いについて考えたい。
 

1 参考までに言うと、例えばドゥルーズの著書の翻訳は20冊以上あり、同時にドゥルーズ論、つまり表題か副題にドゥルーズという名前の入った本は、日本人によるものだけでも20冊以上ある。しかしここに40冊も翻訳されているジジェクについて、彼を論じた日本人による本は一冊も出ていない。ただし、ジジェクを論じた本は出ていないのだが、ネット上にはいくつかジジェク論は出ている。その中のひとつ、「こんこん」というペンネームの著者による「概念を孕むこと。」を挙げておく。ここには以下で論じる「世界の闇夜」についても、説明がある( https://conception-of-concepts.com/ )。
 
2 「実在哲学」という名称が不適切であることは、『イェーナ体系構想』に収められた「ヘーゲル実在哲学解説」(加藤尚武)で説明されている。また引用した文言は、同書p.186f. = p.118f. にある。
 
3 ジジェクの著作はすべて略称で紹介する。
 
4 『ヘーゲル事典』(弘文堂1992)の「闇」と「夜」の項を参照した。
 
5 この箇所は、のちにジジェクが言う「無以下の無」(less than nothing) という概念を思い起こさせる。宇宙が誕生し、その何もまだないところに光が走り、その光から生まれた素粒子はまだ質量を持たないが、ジジェクの言う「無以下の無」、または現代物理学が言うところのヒッグズ場で、その質量のない素粒子に質量が与えられ、そこから物質が生成する。まさしく無から物質が生成するのである。このことはジジェクの『無以下の無』と訳すべき題名の未邦訳の著書の中で説明されているが、『操り人形』(p.140)と『身体なき』(p.55ff.)でも扱われている。
 
6 書簡集は、Briefe von und an Hegel, Bd.1 -4 (hrsg. von Johannes Hoffmeister, Meiner, 1952-1960) を使った。
 
参考文献
ヘーゲルは、原文と邦訳のページ数を両方明記した。
『差異論文』(1801) G.W.F.Hegel Werke 2(Suhrkamp) = 『フィヒテとシェリングの差異』戸田洋樹訳、公論社1980
『信と知』(1802) Werke 2 = 『信仰と知』上妻精訳、岩波書店1993
『自然法論文』(1802) Werke 2 = 『ヘーゲル 自然法学』平野秩夫訳、勁草書房1963
『イェーナ実在哲学』=『イェーナ体系構想』I(1803-04), II(1804-05), III(1805-06) Gesammelte Werke 8 (Felix Meiner) = 『イェーナ体系構想』座小田豊他訳、法政大学出版局1999
『精神現象学』(1807) Werke 3 = 『精神の現象学・下』金子武蔵訳、岩波書店2002
『大論理学』(1812) Werke 6 = 『大論理学・中巻』武市健人訳、岩波書店1960
 
ジジェクは、今回すべて邦訳を使って、邦訳のページ数を明記した。またいずれも、原文の出た年 = 邦訳の出た年を記した。
『ヒステリー』『もっとも崇高なヒステリー者』初出1988(決定稿2011)=2016、鈴木國文他訳、みすず書房
『斜めから』『斜めから見る – 大衆文化を通してラカン理論へ -』1991=1995、鈴木晶訳、青土社
『症候』『汝の症候を楽しめ』1992(2001)=2001、鈴木晶訳、筑摩書房
『転移』『快楽の転移』1994=1996、松浦俊輔他訳、青土社
『感染』『幻想の感染』1997=1999、松浦俊輔訳、青土社
『厄介な』『厄介なる主体1.2』1999=2005, 2007、鈴木俊弘他訳、青土社
『脆弱な』『脆弱なる絶対』2000=2001、中山徹訳、青土社
『全体主義』『全体主義 観念の(誤)使用について』2001=2002、中山徹他訳、青土社
『操り人形』『操り人形と小人』2003=2004、中山徹訳、青土社
『身体なき』『身体なき器官』2004=2004、長原豊訳、河出書房新社
 
その他
ディルタイ,W., 『青年時代のヘーゲル』甘粕石介訳、名著刊行会1976
フィッシャー, K., 『ヘーゲルの生涯』玉井茂他訳、勁草書房1971
コジェーヴ, A., 『ヘーゲル読解入門 – 『精神現象学』を読む -』上妻精他訳、国文社1987
ローゼンクランツ, K., 『ヘーゲル伝』中埜肇訳、みすず書房1983
山口祐弘『ヘーゲル哲学の思惟方法 – 弁証法の根源と課題 -』学術出版会2007
 
(たかはしかずゆき 哲学者)
 
(pubspace-x7677,2020.03.07)