蒲地きよ子
(2)より続く
アンドレ・ジッドは1921年5月14日の日記に、プルーストについて次のように書いている。「――私が自分の『回想録』について少し話すと、<そいつはみんな書けますね。ただし、≪私≫とだけは決して言わないことですね。>と彼が叫ぶように言った。その<ただし>が、私にはできそうもない。」(7)
マルタン=ショフィエは『プルーストと四人の人物の二重の≪私≫』という論文のなかで、そのジッドの文をとりあげて書いている。「――『日記』の著者は、この忠告をもたらした作家の厖大な作品が一人称で書かれているのだから、何とも不思議な忠告だ、などとはつけ加えていない。彼はよく知っていたのだ。プルーストが一人称の証言は束縛が多いから排除するその≪私≫、すべてを語るのを許さない≪私≫、それはルソーや『一粒の麦』の≪私≫であることを――」(8)
プルーストは『失われた時を求めて』を書く前に、その試作ともみるべき『ジャン・サントゥイユ』を書いている。1896年から1899年頃までの執筆らしいその大ロマンは、未完のまま作家の手で放置されていたのが、彼の死後三十二年経った1954年にはじめて公にされた。さらに、作家の自筆原稿や、書簡、覚書などから、作家の姪であるマント・プルースト夫人に委託されて、ピエール・クララックと、アンドレ・フェレの手によって1971年、漸くその最終決定版がプレヤード版によって出版されたばかりである。
残念ながらその全訳はまだ日本で出ていないので、二・三の批評家の評論から『ジャン・サントゥイユ』をわたくしはプルーストの自叙伝的要素をもつ三人称形式の小説と思いこんでいたが、たまたまクロード・モーリヤックの『プルースト論』のなかにある記述からそれが誤りであることがわかった。ただ一つの作品を書くためにのみ生れて、己れの生涯を仮象のものとして生きたと言われ、事実そのとおりとなったプルーストが、『失われた時を求めて』の大作にとりかかる前に、一つだけ試作したロマンがもし三人称小説であったというなら、その試作の三人称から≪私≫という後年の名作に用いられた一人称に移行した動機を何かその間に見出すことはできないだろうか、と考えていたわたくしは大いにあわてて『ジャン・サントゥイユ』の序章と、それにつづく章のはじめの部分だけを原文でよみ、自分で翻訳した。
『ジャン・サントゥイユ』の序章では、或る避暑地で≪私≫という青年が、友人とともにCという著名な作家に出遇う。≪私≫たちはともに文学青年で、このCを崇拝していた。青年たちはやがて、Cの作品のなかではたしてどの程度までが作家自身の姿なのだろう、という疑問にとりつかれるようになる。「――私たちはそうした問題の解決に私たちの全人生をささげても決して誤ってはいないと考えるのだった。なぜなら、人生とは私たちが何にもまさって愛していたものをくわしく知ることであろうし、またやがて、作家の生活とその作品とのあいだの、現実と芸術とのあいだの、或はこの当時私たちが考えていたように、生活の外観と、生活の持続的な基盤をなし芸術によって解放された現実自体とのあいだの、ひそかな関係や必要な変形が何であるかを理解するときがくるであろう、と思われたからである。」(9)(傍線筆者)
≪私≫たちはCのあとをかくれてつけては、彼がどんな風に一人で海辺を散歩するか、どんなところで、どんな時に仕事をするのか、まだ親交ができないあいだ、よそながら熱心に観察するが、そのうちに避暑客も少くなり、≪私≫たちはCと接触する機会が多くなって、ついにはCの毎日の原稿を夜毎朗読して貰うようになる。再会をかたく約束して、≪私≫たちはパリに帰ったが、約束を果しそびれて月日が経つうちに、或る新聞でCの死を知る。Cの作品について報じられているものの中に、≪私≫たちが避暑地で毎夜朗読をきいた、≪私≫たちがそのコピーを一部持っている作品のことが何ら触れられていないので、≪私≫は、友人の方は他に仕事をもっているので、自分がCのこの作品を公にする決心をするのである。そして、Cのその作品が所謂『ジャン・サントゥイユ』の本文であろうと思われるので、ジャンと≪私≫とは同一人物ではなく、むしろ無関係であろうと思われる。
わたくしはプルーストの作品中に、しばしば出てくる『千一夜物語』が気になっていたが、『ジャン・サントゥイユ』をここまで読んだとき、二つの点で類似した手法を見たと思った。すなわち、『千一夜物語』もまた、その序章に本文へ誘導する独立した挿話をもち、その挿話中に出てくる一人物によって本文が展開してゆく仕組であること。夜毎に、まとめ上げられたものをその同じ人物によって二人の人を相手に語られること。そうしてこのような展開の仕方から、いく層にも多種多様な物語がふくれ上ってゆく方法がとられているのである。
ところで、これを『失われた時を求めて』の構成のなかで考えてみると、いささかその趣向はちがっているが、夜毎に人に語られるという部分の方は、よく注意すればするほどその終章にゆくに従ってますます『千一夜物語』のそれに通うものが出てきて、背筋の寒くなる思いがするのである。つまり、≪死≫のかげが、背後に迫っている点なのだ。『千一夜物語』を王の臥床で、王と自分の妹に語りつづけた若い王妃は、(今夜かぎりで殺されるかもしれない)、(今日かぎりのいのちかもしれない)と、日毎、夜毎、明日の己れのいのちの存否を知ることなく、自分がそうしなければ毎日一人ずつ、首都の若い娘たちが王の手によって殺されてゆく現実から、何とかして彼女たちを救うことに役立ち、できることなら己れのいのちもつなぎとめるよう必死の努力をして、千と一夜におよぶ物語となったのであった。これを『失われた時を求めて』の≪私≫におきかえてみると、≪私≫は幼少からの病身がさらに悪化して、これから書く長い作品の完成まで自分のいのちが持つかどうか、もう今夜かぎりかもしれない、もう明日書けるかどうかわからない、という死の観念を、自我の観念と同じように絶えず持ちながら作品を書くことになるのである。これはまさに≪私≫という作品中の話者と、作家プルーストとの像が完全に一つになったところであるが、実際は作家が死んだところで話者の≪私≫が物語をはじめることになり、時間のずれがあることになる。
≪私≫はあえぎながら、作品中で言うのだ。「この私の書かねばならないものは、臨終の人が妻に与える永別の言葉とはちがい、多くの人びとにあてた、もっと長いものだった。(中略)昼間、私はせいぜい眠るよう努力しよう。仕事をするのは夜だけのことだろう。しかし多くの夜が、おそらくは百夜が、おそらくは千夜が必要だろう。朝、私が話を一時切るとき、教王シャーリアールほど寛大でない私の運命の神は果して私の死刑の判決を延期し、その夜つづきを話すことを許そうとするかどうか知るよしもない不安のうちに私は暮すことであろう。『千一夜物語』、これもまた夜のあいだに書かれたサン・シモンの『回想録』、子供心の無邪気さから、恋する女に執著するようにひたむきに愛し、それとはちがった本など恐ろしくて想像もできないほど熱愛した本、――私はそうした書物を、とにもかくにも新しく作るつもりでいたのではない。だが、エルスチールやシャルダンのように、われわれはまず愛するものを棄てなければ、愛するものを再び生み出すことはできない。もちろん私の書物もまた私の現身と同じように、やがては滅びるにちがいない。だが、いさぎよく諦めて死ななければならない。(中略)私の書物はおそらく『千一夜物語』と同じほど長くなるだろうが、全然ちがったものになろう。確かに、或る作品が好きだと、われわれはそっくり同じものを作ろうとするものだが、一時の愛着は犠牲にしなければならないし、自分の好みなど考えるべきではなく、ただわれわれに偏愛など要求しない真理、偏愛など考えさせない真理に思いを致さねばならないのだ。棄て去ったものに時あって遭遇するのは、真理探求の場合だけのことだ。忘れてこそ、時代を異にした『アラビヤ物語』も、サン・シモンの『回想録』の新作も書けるのだ。それにしても、私にはまだ時間があるだろうか?日暮れて道遠しではないだろうか。」(10)
ここではプルースト自身が話者の口をかりて『千一夜物語』について述べているので、これ以上私が言及する必要はあるまい。プルーストは恋人をふりきるように、好きな作品への愛着もふりきったであろうが、そこから吸収して己れの骨肉となりきってしまったものだけは棄てさることは出来なかったし、『千一夜物語』の包含する諸々の要素は、幼時の作家の夢と創意を育んだ想像力の母胎から消し去れる性質のものではなかったとわたくしは思う。『失われた時を求めて』が書かれた十五年というプルーストの晩年は、なるほどここに引用した作家自身の言葉どおりの姿勢であったであろうが、「愛するものを棄てた」ときの己れは、もはや愛するものを知らなかった以前の己れではない筈である。何故なら、愛するということはすでに己れがその対象の影響力によって犯されているということであり、己れ自身が変ることだからである。
『マルセル・プルーストの作品の構造』という論文の中で、井上究一郎氏は、「作品をいかに構成するかという決意の前に」(11)プルーストの模索がいかに長かったかを、いくつもの資料から例をひき、説明を加えたのちに、1913年春頃のジョルジュ・ド・ローリスにあてた作家の書簡から、「全く新しい一つの作品の誕生」(12)の暗示をよみとる。「それまでプルーストに最も欠けていたのは、作品をつらぬく作者の意図であり、主題の統一であった。要するに一貫した小説体系がなかった。(中略)素材はととのい、精神は高まり、思想は熟していた。」(13)と井上氏は書いている。氏はさらに、1920年1月、≪新フランス評論≫に発表されたプルーストの『フローベールの≪文体≫について』のなかにある文を引用しながら、ジェラール・ド・ネルヴァルの『シルヴィ』において扱われた記憶現象は、「偉大な天才ネルヴァルに場面転換の役をはたさせた」(14)とプルーストが書いている個所をとりあげている。そして、プルーストが其処において述べていることから読みとれる『失われた時を求めて』の作者自身の貴重な解説を引用したのちに、「それはともかくとして、そういう構成の事実を指摘することと、実際にどのように構成されて行ったかということとは、別問題であろう」(15)とし、「結果と過程とのあいだには<ずれ>があるし、結果として語られることは<要約>にすぎないが、過程は長く、そこには秘められた<現実>がある筈だ。」(16)と氏は迫る。
「テーマの生成と統一とを作者の意図に沿って実証的に跡づけながら、そこに仮定としての原理――作品の構造の隠れた原理――をいくらかでも明るみに出すことができないだろうか?つまり『サント・ブーヴ』(1905年からプルーストが当時評論家サント・ブーヴに対して高まっていた讃辞に抗議して書いた評論集である。筆者注)から『スワン』に移ったプルーストは、どのようにしてその小説に体系と統一とを与えたかを具体的に知る――秘められた<現実>の扉をひらく――ことである。プルースト研究の核心はそこにあると私は信じるし、事実各国プルースト研究家の観点は最近この問題に集中してくる傾向にある。」(17)と井上氏は書いている。さらに、プルーストのリセ時代の哲学教授アルフォンス・ダルリュや、バルザック、ワーグナー、フェルメール、ラスキン、そしてシャトーブリアン、ネルヴァル、ボードレールと、プルーストの芸術と思想に影響の大きかった人々をとりあげて、さまざまの角度から多くの研究家が事実の裏づけにもとづいてなしたプルーストの小説体系再認識は、「さらに深い研究段階への端緒として多くの示唆を含んでいる。」(18)としながらも、井上氏は言う。「だが、体系と統一とを模索していたプルーストに最も内密な親近感を与え、最も独創的な発見をさせ、最も幻想的なヴィジョンを開花させたのは、ジェラール・ド・ネルヴァルである、と私は考える。そのことは、結果としては、前記『フローベールの≪文体≫について』の引用文その他によって明らかであろう。」(19)と。
井上氏はプルーストの未刊行の『創作手帖』のなかから、「解読できない言葉の点綴」(20)のあることに触れて、「さしあたって、われわれに判読できる範囲内でのプルーストの意図を要約」(21)した。すなわち、次のとおりである。「怠惰、懐疑、無能感による理想の衰退を大作家たちのなかにおいて正当化すること。彼らの弱点であった同一テーマをめぐる主題の模索、しかしその実現に最も適した芸術形式は≪小説、哲学的研究≫ un roman, une étude philosophiqueである。」(22)「従来の批評家の誰よりもよくジェラール・ド・ネルヴァルの本質に立ちかえり、しかも≪ジェラールよりももっと遠くへ進もう!≫Allons plus loin que Gérard! そして一つの夢、一つの時に狭く限定せず、或る一つの事柄に結晶せず、すべてをそのために犠牲にしないこと、すなわち恋愛の結晶化ということよりもむしろ間歇性を見出すことである。」(23)「≪二重の愛≫というよりもむしろこの私が≪五重の人間≫Un quintupleとなった複雑な人間構造を示す作品をつくること。五重の人称をもった≪私≫の物語を生みだすことである。」(24)(傍線筆者)
「五重の人称をもった≪私≫」、――なるほどそうなのか、とわたくしは思う。『失われた時を求めて』のなかに登場する人物たちは周知のように、数人ないしそれ以上の現実のモデルから抽出されて創造されたものだという。そうして、作家は己れを同性愛者のシャルリュス男爵、ディレッタントのスワン、スノブのブロック、生活者のマルセル・プルースト、作家のプルーストと使いわけたのだろうか。なるほど彼はそのように複数の、複人称的な≪私≫から、「多くの他者の眼をもつこと」(25)を念じつつ、「他者の目・百の他者の目をもって宇宙を見ること、彼らのおのおのが見、彼らのおのおのが存在している百の宇宙を見ること」(26)を実地に試行し、模索していったのか、と思う。
「感覚の印象を精神的等価物に転換すること。記憶の形象からあたかも≪象形文字≫を解読するように或る思想を翻訳すること。頭のなかに構成される≪複雑に咲きからんだ或る難解なもの≫から真理を引き出すこと。」(27)このような作者の意図を小説において具現しようとするとき、サルトルの言う「不透明な第三人称」(28)的視点からでは、この極めて個人的な、したがって普遍的な人間精神の深奥への沈潜は不可能ではないだろうか。三人称で人が物を書くには被写体の人物と、書く行為をしている人物とがいて、二重の視点を持つことになるが、この行為者の方は同時に多くの被写体をもち、物語の全容を見下している位置に立つので、モーリヤックが言うようになるほど作品の世界では神の位置にあることになる。(29) しかし、現実には人々は一冊の書物を読むとき、「誰かが書いたもの」として、その書いた人間を頭において読んでいるので、(この作家は何とまあ事実を知っていないのだろう)とか、(この作家はこういう立場で書いているのだな)とか、読みながら、或いは読み終ってから読者は思うが、誰も作家を神のようには思っていない。神ならば何も紙の上に字だけで表現した世界を見せなくても、本当の世界を創り、本当のいのちを産み出すことができるのである。被創造体たる人間が、人間の立場から可能の限界に迫るところに芸術も生れれば、スポーツもあり、政治の理想もある筈である。すべてを創造し、「すべてを見透す創造主たる神」に対して、その作業の謎を解明せんかと人間は己れの死さえも賭けるのである。
プルーストが一貫して小説に具現しようとした世界とは、要するに己れをつくった神に対する被創造体としての大胆な回答の意志なのである。彼は眼で見たものをありのままに書き写すことをしないで、事物の背後にかくされている真理を読みとろうとし、感覚の捉えたものを精神的なものとして翻訳することが、芸術家、とくに作家の任務だと考えた。それは創造ではなくて、宇宙の真実を感知し、物の本質を把握して人間の言葉に翻訳してみせることであり、その過程のなかに創造があると見たのである。
註
(7) “Journal 1889――1939” Gide (B. P.) P.692(筆者訳)
(8)1943年雑誌”コンフリュアンス”の特別号(「小説の問題」特集)に掲載されたものによる。鈴木道彦訳(世界文学大系52『プルースト』)(筑摩)396頁
(9)『プルースト』C・モーリヤック著 井上究一郎訳(人文書院)抜萃より
“Jean Santeuil” Proust (B.P.) P. 190
(10)”失われた時”――見出された時Ⅱ――(註(3)に同じ)174-5頁 R.T.P.(註(3)に同じ)P.1043-4 (B. P. )
(11)『マルセル・プルーストの作品の構造』井上究一郎著(河出書房新社)61頁
(12) Ibid.
(13) Ibid.
(14) Ibid., 63頁 (8)に同じ333頁(筑摩)
“Contre Sainte-Beuve” ―Essais et Articles―Proust (B. P.) P.599.
(15) Ibid.(井上究一郎)
(16) Ibid.
(17) Ibid., 63-4頁
(18) Ibid., 64頁
(19) Ibid., 65頁
(20) Ibid., 128頁
(21) Ibid.
(22) Ibid., 128-9頁
(23) Ibid., 129頁 (24) Ibid.
(25) Ibid., 263頁 (1)に同じ292頁(中央)P.258 (B. P.)
(26) Ibid.
(27) Ibid., 251頁(井上究一郎) Ibid., P.878-9 (B. P.)
(28)『シチュアシオン』Ⅰ――フランソワ・モーリヤック氏と自由――サルトル著・小林正訳(人文)35頁
(29)『小説家と作中人物』F・モーリャック著・川口篤訳(ダヴィッド社)7頁
(4)に続く
(かまちきよこ)
(pubspace-x396,2014.04.15)