蒲地きよ子
(4)より続く
こうして、作家プルーストと、作品中の≪私≫との間の、像の重なり工合と、ずれ工合とを一応不充分ながら見てきたと思うので、わたくしははじめの疑問に戻って、どうして作家がその話者に名を与えなかったのか考えてみたいと思う。名とは一体何なのであろうか。人物に名がついた場合と、名がない場合とはどのような違いがあるのであろうか。何故プルーストは源氏物語にも匹敵するほどのこの厖大な作品の運行をまかせた人物に名を与えることを最後まで拒んだのであろうか。
作家は第一篇「スワン家の方」の第三部に「土地の名――名」という章をもうけている。プルースト自身が土地の名や、人名について、どのような考えをもっていたのか、まず調べてみよう。
「――町や風景や史蹟は、その名によって、それ自身だけがもつ名によって、人名と同様に固有な名によって指示されるために、さらに個性的な要素をどんなに多くふくむことであろう!語は、われわれに事実の明瞭な、見慣れた、あるささやかな映像を思いうかべさせる、たとえば仕事台、鳥、蟻塚とはどんなものかという例を児童に示すために、校舎の壁にかけられている絵のようなものであって、同一種類のすべてのものの標準と見なされるような映像である。ところが、名は、人の、そしてまた町の――町もその名で呼ばれるために人物とおなじように個性的で独自なものだと思う習慣がわれわれにはついている――ある漠とした映像を思いうかべさせるのであって、この映像は、その名から、その名の音(おん)の明朗または沈欝のひびきから、色彩をみちびきだし、この色彩によって映像は、全紙が青または赤の一色で描かれているポスターのように、それも手間をはぶくためや、装飾画家の気まぐれのために、空や海ばかりでなく、小舟も教会も通行人も、みんな青か赤の一色になっているあのポスターのように、一様に塗りつぶされるのである。」(38)
「そのとき、水盤のまえで羽をついている赤茶けたブロンドの髪の少女に、もう一人の少女が、自分のマントを肩にかけ、ラケットを袋にしまいながら、小道からぶっきらぼうな声で呼びかけた、――<さようなら、ジルベルト、私帰るわ、忘れないでね、今晩私たちは夕食をすませてからおうかがいするわよ。>このジルベルトという名は私のそばを通りすぎた、そしてその場にいない人のことが話されるときのように、単に名を挙げられただけではなくて、当人に向かってじかに呼びかけられただけに、それだけその名は、名ざされた人の存在を強く喚起した。その名は、そのようにして、いわば活動しながら、噴出のカーヴと標的への接近とによって力を増しながら、私のそばを通りすぎた、――そしてその名は、それが到着する岸に向かって、私にはそう感じられたが、呼ばれた相手について私がもっている知識や概念ではなく、呼びかけた少女がもっている知識や概念をはこぶのであった、――知識や概念ばかりではなく、その他のあらゆるもの、たとえば、相手の名を口にしながらその少女が目に思いうかべていたもの、またはすくなくとも彼女の記憶に所有していたもの、二人のあいだのふだんの親しさとか、双方から交しあっている訪問とかいったもの、さらにまた私に未知なもののすべて、相手の名を一つのさけびとして大気のなかに投げあげ、その名に私をふれさせながら私をその名のなかにはいらせなかったこの幸福な少女にとっては、きわめて親しい、きわめてたやすいものであるために、逆に私にとっては、それだけ近づきにくい、それだけ悩ましいものであったあの未知なもののすべてをはこぶのであった、――その名は、…」(39)
一つの名前が或る個人に投げかける想像力や、記憶の波紋は、こうしてその名をはじめて耳にした時とか、その名が自分に親しいものとなったときのさまざまの状況を包含してひろがってゆく。既知の土地や、人物の場合には、その名のまわりを記憶と想像とによって、未知の場合にはその名をきき知ったことからふくれ上ってゆく想像によって、その名は固有性と独自性を増してゆく。では、「私」というのは何なのだろうか。「私」とは、名に対してたしかに一つの言葉、一つの語、にすぎない。とすれば、プルーストが託した作品中における話者の使命を考えるとき、彼に対して名を与えて、そこに固有の人格、独自の人物像を浮彫りにすることは作品のマイナスになりそうである。もし彼が、仮にではなく、話者に≪マルセル≫という名を与えたとすれば、どうなるだろう。わたくしたちは『失われた時を求めて』という書物の題が発音されるのを耳にし、或は自分で口にする度に、すぐ主人公マルセルを思い浮かべ、そのマルセルが歩んだ作品中の人生や、彼の交友関係や、家族や、彼が真剣に悩みぬいた恋などが次々に想起されてゆくにちがいない。ドレフュス事件における主体性のあるプルーストの言動を、この話者に付与しなかったのと同じ理由から、プルーストは話者に名を与えなかった筈だと、わたくしは思うのである。何故なら、プルーストが描きたかったのは前にも述べたように、政治的な、社会的なイデオロギーにのっとって行動する人物や、そのような事件を取り扱うことではなかったと同様に、一人の人物に焦点をあてて、その人物と、彼を取りまく人間の群像を描くことでもなくて、むしろ人間たちの存在のなかにしめている≪時≫という、大きな流れだったと思う。無意志的記憶の問題も、愛の間歇性も、忘却も、死も、すべては≪時≫のもたらす産物だからである。
そうして、この≪時≫こそは、この作品の中心を占める主人公であって、話者のなかの生活面を受持った≪私≫とは、この主人公≪時≫の住居なのである。すなわち、この住居の入口に掲げる名札は、わたくしたち読者のひとりひとりのそれであるべきであって、名札がはじめからかかっていると不都合なのである。したがって、先に取りあげた「この本の作者と同じ名前を」仮に「語り手に与え」るのは、実は読者のわたくしなのである。
さて、プルーストは語り手の受持つ生活面の方はこうして故意に独自性をおさえて、読者に作品への参加を求めた。「必要なものは、他人の介入によってもたらされながら、われわれ自身の奥底で形成されるものである。それはまさに別な精神からきて、しかもこちらの孤独の真っただなかで受けとめられる衝動にちがいない。それこそ実に読書の定義であり、また読書のみに適した定義である。」(40)とプルーストは述べている。一方、作家は≪私≫のなかの話者の役目に、己れの芸術家としての全使命を負わせた。死の床にありながら、なおふるえる手で、あり合わせの紙に作品中の気に入らぬ個所を納得ゆくまで加筆訂正し、やがてその力もなくなると傍のセレストに口述していった作家は、病苦という現実の苦痛から超越した神がかりの道を、ただ話者を誘導することのみにとりつかれた鬼と化し、狂人となって、とどめを刺すようなその現身の最後の息吹を後の世代におくる己れの使者にふきこんだものにちがいない。
1922年11月18日、その作品の第五篇以降の出版を生存中に見ることなく、鈴木氏が言われるように、なお存命ならばあまた加筆訂正が加えられたにちがいないおびただしいタイプ原稿を、その悲壮な臨終の枕頭に積み重ねたまま、マルセル・プルーストは世を去った。手織紬のように入念に、彼が手がけた長大な作品の一頁一頁が、汲めど汲みつくせぬ泉となって、その糸の織目から除々にわたくしの心の深奥へと浸透してきた諸々の言葉の意味は、いまそれぞれの谷を経て作品全体の本流に合し、一大奔流となって、宇宙空間を支配し、万物の存在を決定する≪時≫の凱歌を、歓びとかなしみと、決意と、感激にむせびながらうたいあげ、ただひとつの作品を生み出すことに己れの一生を仮象にふりかえて惜しまなかった男のデスマスクと、その血みどろの執念の痕とを垣間見せながら、わたくしの視界のとどかぬところまで運び去ろうとする。そのはるかな空のかなたに、マルセル・プルーストという巨大な存在が、雲のように大きくふくれ、ひろがり、虚空のなかに溶解してゆく幻を見る思いがする。
五十年まえ、作家の体内を通過しおえた≪時≫は、いま、この小論を書き終えようとするわたくしの体内をも貫通しつつ、おなじ速度で、おなじ方向にむかって、おなじく透明なそのあしあとを宇宙万物のうえに休みなく刻んでいるが、その流れに生存をゆだねながら、わたくしはしかしなお己れのうちに、話者とついに一体となった作家の言葉をきき、≪時≫の凱歌の合間を縫って、無限にひろがりのびてゆく人間の可能性と、ひとりひとりの内蔵する宇宙のひろがりとを、己れをとおしてみる思いがするのである。
完
(本稿は『文化学院創作集 No.2』(1974年3月)に掲載されたものである。この度の「公共空間X」への転載にあたっては、文化学院のご了解を頂いた。)
註
(38)『プルースト』Ⅰ筑摩世界文学大系57 ”スワン家の方へ”井上究一郎訳 251頁R.T.P.(B.P.) vol.I,P. 387
(39) Ibid.(筑摩)二五五頁 Ibid. (B.P. ) P.394
(40)註(1)に同じ、(鈴木氏解説中の”読書の日々”よりの引用文)504頁“Contre Sainte-Beuve” (B. P.) Proust. P.180
使用書及び参考書
『失われた時を求めて』(以下『失われた時』と略)マルセル・プルースト
第一篇スワン家の方へ 淀野隆三・井上究一郎・鈴木道彦訳(世界文学大系52『プルースト』筑摩)
第二篇花咲く乙女たち 井上究一郎訳(現代世界文学全集『プルースト』新潮)
第三篇ゲルマント公爵夫人ⅠⅡ 伊吹武彦・生島遼一共訳(『失われた時』全訳書中の二巻 新潮)
第四篇ソドムとゴモラⅠ市原豊太・中村真一郎・井上究一郎各部分訳
Ⅱ中村真一郎・井上究一郎各部分訳(『失われた時』全訳書中の二巻 新潮)
第五篇囚われの女 鈴木道彦訳(世界の文学32『プルースト』中央公論)
第六篇消え去ったアルベルチーヌ 生島遼一訳(『失われた時』全訳書中の一巻 新潮文庫)
第七篇見出された時 Ⅰ 井上究一郎訳 Ⅱ 淀野隆三訳(『失われた時』全訳書中の二巻 新潮及び新潮文庫)
第一篇スワン家のほうへ 第二篇花咲く乙女たちのかげに 井上究一郎単独訳(筑摩世界文学大系52『プルースト』Ⅰ)
Marcel Proust
“A la recherche du Temps perdu” (3 volumes) (Bibliothèque de la pléiade)
“Jean Santeuil”, “Les Plaisirs et les jours” (1 volume) (〃)
“Contre Sainte-Beuve”, (1 volume) (〃)
“Pastiches et Mélanges”, (1 volume) (〃)
“Essais et articles”, (1 volume) (〃)
『マルセル・プルースト伝記 上・下』ジョージ・ペインター著 岩崎力訳(筑摩)
『プルースト』C・モーリヤック著 井上究一郎訳(人文書院)
『人間的時間の研究』ジョルジュ・プーレ著 井上究一郎訳(筑摩)
Gide “Journal 1889-1939” (Bibliothèque de la Pléiade).
『ジードの日記 五』新庄嘉章訳(新潮)
『ドレーフュス事件』渡辺一民著(筑摩)
『マルセル「プルーストの作品の構造』井上究一郎著(河出)
『シチュアシオン』Ⅰ『フランソワ・モーリヤック氏と自由』サルトル著小林正訳(人文)
『ごまとゆり』ラスキン著 木村正身訳(中央公論)
『プルーストと四人の人物の二重の≪私≫』マルタン=ショフィエ著 鈴木道彦訳(筑摩)
『千一夜物語』ⅠⅡ前嶋信次訳(平凡)
André Gide “Si le grain ne meurt” (Le liure de poche)
Beaudelaire “Les Fleurs du Mal” (Éditions Garssier Frères)
『小説家と作中人物』F・モーリヤック著 川口篤訳(ダヴィッド社)
『〈蜘蛛手〉の町―漱石初期の作品の一断面』ジャン・ジャック・オリガス著(季刊芸術1973年冬号)
『昭和批評大系』昭和初年代(番町書房)
(かまちきよこ)
(pubspace-x407,2014.04.15)