蒲地きよ子
(3)より続く
「ただし、≪私≫とだけは決して言わないことですね。」とジッドに忠告したプルーストは、従来の小説に用いられた一人称の、≪複眼的≫でない、一般的に使用される意味の≪私≫を言っているのである。「ボヴァリー夫人は私だ」といった有名なフローベールの言葉も、その三人称で書かれた『マダム・ボヴァリー』は、芸術作品に必要な実人生からの適当な変形が行われ、非情なまでの写実主義で対象に迫った、まさに一時代を劃した作品であるが、「ボヴァリー夫人は私だ」と言いきれるだけ作品が透明であり、居並ぶ登場人物たちもまた≪複人称的≫ではないのである。
プルーストの『失われた時を求めて』における≪私≫は、たしかに実人生における彼自身の像と重なる面を多く持っている。前述したように、この作品に出てくる登場人物たちは、ほとんどいく人かの複数のモデルから再創造されたものだということが、多くの資料にあたった研究者たちに証明されているが、そのように配分されたモデルのなかに作家自身も居て、≪五重の人称をもつ私≫ができたのであろう。ユラニストを付与されたシャルリュスや、ディレッタントを付与されたスワンの像の活き活きとした輪廓にくらべて、興味ぶかいのは≪私≫の像や、アルベルチーヌ、ジルベルトの像のぼやけていることである。
先ず、プルーストその人と、作品中の≪私≫とがはっきり違っているところを列挙してみよう。第一に書きたいのは、現実生活の場における両者の行動力の違いである。生活者としてのマルセル・プルーストはたしかに骨の髄までブルジョワであり、ブルジョワの側にも、貴族の側にもあるスノビスムを社交界の内部から捉えて戯画化したが、己れもそうした人物たちの欠陥を身につけた人間だった、というのが定評のようである。しかし、作品中の話者が、どのようなシーンにあってもほとんど己れ自身の意見を言わず、おかれている状況のなかでの己れの立場を明らかにする行動をとらず、己れの意見があるのかないのかさえもはっきりせず、傍観者としての覚めた眼だけが事件の成行きを見ていたのに比べると、現実に生きたプルーストは、どうもそれとは対照的なようである。
≪ドレフュス事件≫の場合でも、ゾラの『余は弾劾す』をよんで、ドレフュスのための署名を求めにアナトール・フランスのところに行ったり(30)、また、レンヌ判決の翌日は避暑先のレマン湖畔からパリの母にあてて次のような手紙を送っている。「――これは陸軍にとっても、フランスにとっても、また残忍にも疲れはてたドレフュスにたいしてもういちど元気をとりもどすことを要求した判士たちにとっても、まことに悲しむべきことです。しかし精神の力に訴えかける肉体的刑罰も、すでに軍部が叩かれた以上、それだけに彼も耐えればいいわけでしょう。事件はおわったのです。精神的には世界の支持をうけ、肉体的にはやがて自由が取りもどせるからには、彼にとってこれ以上のことはありますまい。判決だって法律上破棄されるにちがいありません。」(31)
プルーストはこの事件で、真実を語ったがために罰せられたピカールが逮捕される数週間まえに、ピカールその人と面談もしており、独房にいる彼の許に己れの処女作『楽しみと日々』を一冊届けるのにも成功した。「ゾラ裁判が続いているあいだ、毎朝彼はルイ・ド・ロベールといっしょにパリ高等裁判所Palais de Justiceの傍聴席にかけ登った。」(32)ドレフュス擁護の思想が社交界における生命の死を意味しないかどうか予測できない社会の動勢のただなかにあって、プルーストのとったこのような主体性のある、己れの立場を明らかにした勇気ある行動は、作品中に出てくる話者の、中間に位置することによって対象との距離を保つことに徹したかのような行動のあり方とは明白な対照をなすものである。もちろん、作家のねらいは其処にあって、彼が追いもとめたのは一つの政治的、社会的イデオロギーにのっとって行動する人物や、事件を描くことではなく、一つの歴史的事件の複雑な様相のなかから、事の真相を探り出そうとする歴史家や、事の成行きをありのままに報じようとするジャーナリストの行為ではなくて、「理智が白日の世界のなかで、直接に、透きうつしに捉えるような真理」(33)ではなく、「われわれの感覚をとおして肉体的には入った」(34)物理的印象から或る精神を、或る思想を描き出すことであった。
わたくしにもっとも驚異に思われるのは、『失われた時を求めて』に限らず、プルーストは『楽しみと日々』のなかにおさめられた『或る少女の告白』でもそうだが、作品の中心に意志薄弱のために母や、その家族を心配させている人物を取扱っており、また多くの人々がそれを作家自身の像と結びつけているようなので、ともすれば病身のために幼時から甘やかされ、母の接吻への異常なほどの執着や、幼稚症といわれるほど、成人してのちも母に甘えつづけたプルーストが印象づけられるが、この大作を読み終ると、わたくしは反対にこれをものした作家の超人的な、非凡な、強靱な意志に先ず圧倒されてしまうのである。人間の無意志的記憶から、その印象を象形文宇のように判読して翻訳しようということ、眠りつこうとする人間の休息した、安らかで快い、朦朧たる状態にあって、覚めていなければ抽き出すことの不可能な眠りの法則を探りあてようとする努力は、まさに苦行僧の行であり、その行為の結実を文学の場に移植せしめることもまた同様に厳しい修験者の作業である。
人間は日常生活の場に於て、普段その人が身を処しているそのあり方によって、その生活態度からその人物の全貌を判断しがちであるけれども、そのような日常とられているその人物の姿勢が、いかに虚勢であったかわたくしたちはいたるところで見聞しているところである。プルーストのように異常なまでに母に執着し、人に愛されたいという受動的欲求を人より強く持った人は、その反面にそれと同じだけ強靱な主体性と、行動欲求とがかくされていたのではないだろうか。人間の性格の特徴は、それだけがただそこにあるのではなくて、それと表裏一体をなすところの、その強弱の度合と同じだけの相反する特徴がかくされているのではないだろうか。この論法でゆくと、極悪人ほど神に近い人間ということになるが、わたくしはその可能性はあるように思うのだ。悪に向いて突っ走ったその執念の激しさは、本人の梶のとり方によって、利己的な欲求を反対に己れをとり囲む他者への奉仕へと向けられてゆく筈だと思うのだ。そうして、一人の人間のなかでのさまざまの相反する面の重なり合った総合体のなかから、作家プルーストは、己れのもつとも表面的な独自性を作品中の≪私≫の生活面に付与し、その同じ≪私≫の話者の面のなかに、作家としての行動指針を吹きこんだ先棒の担い手としての役割を付与したのではないだろうか。
ほとんどすべての登場人物が、数人ないしそれ以上の現実のモデルから作家によって再創造されているといわれるこの作品に於て、注目したいのは、この≪私≫という語り手だけは、他のプルーストの分身とみられているシャルリュスや、スワンや、ブロックなどに比べてみても、純粋に作家一人のもつ諸要素からだけで創造された、まじりけのない作家自身のみの一分身であるということである。
次に、≪私≫と作家とが明らかに違うところは、知られているようにユラニストとしてのプルースト、半ユダヤのプルースト、ダンディで、ディレッタントのプルースト、そういった性格がこの≪私≫から除外されていることと、弟のロベールが除外されていることなどであろう。現実と芸術とのあいだの必要な変形はこの際当然のこととして考慮に入れないでおくとして、気がかりなのはユラニスムである。
アンドレ・ジッドはプルーストと会った翌日、次のように日記に書いている。「――この夜も私たちは男色のことしか語らなかった。彼はその作品の異性愛の部分に充実感を与えようとして、己れの同性愛の思い出から優雅なもの、甘美なもの、魅惑的なもののすべてを『花咲く乙女たちのかげに』の方に移入してしまったので、『ソドム』の方にはグロテスクなものと、卑猥なものしか残っていないので、その≪不決断≫を悔いているといった。しかし私が、あなたはユラニスムを汚くいいたかったようにみえるといったとき、彼はひどく驚いた様子をした。そして異議を申し立てた。そこで私は、私たちがけがらわしいと思っているもの、嘲笑や嫌悪の対象となっているものが、彼にとってはそれほどいやなものではないらしいことが漸くわかったのである。」(35)
「プルーストは自己のユラニスムを否定したり隠したりするどころか、むしろそれをさらけ出す。それを自負するといってもいいくらいである。」(36)とジッドに日記を書かせたプルーストは、自分が男にしか本当の愛情を持たなかったことをそのジッドに打明けてもいる。(37)ヴァントゥイユ嬢が愛する亡父の写真の前で、同性愛の友達と愛撫し合う行為のなかに見出される愛の残酷さと同様に、己れ自身がそこから脱しきれないスノビスムと同様に、プルーストはまだ誰も作品のなかに取扱わない同性愛を、≪時≫とか、≪無意志的記憶≫とか、≪忘却と死≫とかいった基本的テーマを縦糸にした布地の上に、横糸として織りこみたい欲求があったのではないだろうか。そして、本当に描き上げたい人物像を三人称をつかった、少し距離をおいた人物の上に盛りあげていったのではないだろうか。そのユラニストたちの群像のなかには、シャルリュスのみでなく、多くの男色者を配したと同時に、一方では話者が熱愛したアルベルチーヌのゴモラも含まれようし、ジルベルトにもこの疑いがかけられていて、読者にはその何れも真偽を明かされぬまま終っている。それは読者のみでなく、作品中の≪私≫自身がついに知りえなかった≪真実≫であり、わたくしたちが対象にあまりに接近する場合がそうであるが、現実における生活のなかでも、やはり一人の個人が本当に摑みうることができない愛人の実像を暗示しているのではないだろうか。わたくしたちと他者との関り合いとはそのようなものであって、わたくしたちが相手に近づこうと欲すれば欲するほど、レンズの焦点はますます合わなくなってしまうように思われる。レンズの焦点を合わせて対象を正確に知るためには、程よい空間的距離と、程よい時間的距離とが必要なように思われる。
註
(30)『マルセル・プルースト伝記』上巻 ジョージ・ペインター著 岩崎力訳(筑摩)226頁
(31)『ドレーフュス事件』渡辺一民著(筑摩)202頁
(32)註(30)に同じ 227頁
(33) “R.T.P.” vol.Ⅲ (B. P.) P. 878.
(34) Ibid.
(35) (7)に同じ P. 694.
(36) Ibid., P. 992.
(37) Ibid.
(5)へ続く
(かまちきよこ)
(pubspace-x403,2014.04.15)