私のマルセル・プルースト研究/『失われた時を求めて』における一人称についての私見(1)

蒲地きよ子

 
 1971年7月、ちょうどマルセル・プルーストが生れて百年経った夏休みを、わたくしは二月ばかり家に閉じこもって『失われた時を求めて』の第一篇、第二篇を読んだ。日中、数頁よんでは家事をしながら考え、深夜目覚めてはまた数頁よんで意味をふりかえりながら、昼となく、夜となく、この作品を読むことにのみ明け暮した。雨戸を開け放った窓から、しらじらと朝が訪れ、やがて小鳥たちが庭の木の梢でさえずりはじめ、夏の太陽が隣家の屋根の上から顔を出す時刻を、いく朝コンブレの≪私≫の部屋から眺めたことだろう。その長い、読みにくい文章から、一つ一つ形成されてゆくイマージュの美しさを、わたくしは孤独な魂のすみずみまで吸収する思いがした。
 その夏の暑さはまるで憶えていない。わたくしの記憶に残っているのは、いくら充足した睡眠をとっていても、なお屢々おそってくる眠気に抗しきれない自分の肉体や、たえず雑念の去来する己れに対する侮蔑と、憤りと、情無さであったと思うし、また、そのような状態に己れを陥れる精神構造の奥にひそむ怠惰なものへの、絶望的自己発見であった気がする。
 その執筆態度と、晩年の風貌から、苦行僧の趣があったと伝えられる作家の、その五十一年の生涯にかえられる大作を、わたくしもまた僧院にこもる尼僧のような心境で読んでいったのだが、わたくしの遅々とした読書は、邦文の全訳が絶版という事情もあって、その全七篇をあちこちから借りてきてよみ終えるまでには、たっぷり一年と少しかかった。学院の仏語のクラスで、同じ作家の小品、『或る少女の告白』、および『楽しみと日々』の抜萃を勉強中ということもあって、凝り性のわたくしはいつの間にか原書と照合して読み進むようになり、やがては原文、訳文ともにそっくりノートする個所が続出し、こうしてプルースト文学は未消化なままにも、わたくしの全精神生活の中心に、動かぬ存在として位置することとなったのである。
 しかし、当然のことながら、はじめのいく月かは、『失われた時を求めて』という大きな流れの上を、あちこちとその筆の運びに揺られながら、小さな島の入江や、景色の美しい波打際でながいこと道草を喰っていて、まだこの大海の全容を思い描くいとまを持たなかった。プルーストがその晩年の十五年間を、あげてこの一作の完成に没入したというその驚異的熱情が、一つには嵐のような怒濤となってわたくしの全身を叩き、この、筋があるのかないのかはかり知ることのできない洋々とした大ロマンのはるかな沖をのぞみつつ、わたくしはただ目前に現われては過ぎ去ってゆく未知の島々に心を奪われていたというべきであろう。
 第三篇の「ゲルマントの方」を読んでいるあたりであったろうか、ふと或日、わたくしは奇妙なことを考えた。物語の冒頭の眠りの部分から、≪私≫という人物が話をすすめているが、(この≪私≫は、何故≪彼≫ではないのだろう?)という疑問が突如わたくしのなかに台頭しはじめた。若しわたくしが、この作品を読む前にその解説や批評を読んでいたなら、恐らくこの疑問がこんなかたちで真直ぐわたくしの心に生れはしなかったであろうし、また、卒業論文というご大そうなもののテーマをこの大作の周辺に探していたなら、そのときの素朴で、純粋なこの疑問はむしろゆがめられていはしなかっただろうかという気がする。何故なら、何に対してであれ、可能な限度で白紙の状態のまま対象にのぞむ方が、好悪何れかの予備知識に幻惑されやすいわたくしには安全だと思われる上に、また一方では、事前に予定した目的をもっていると、その目的に忠実であることによって、その対象自体の全印象を自由な、解放された立場でうけとめることがわたくしには困難になりそうに思われるからである。
 (どうしてプルーストは、≪彼≫という三人称を作品の主人公に使わないで、≪私≫という一人称の語り手を設定したのだろうか?ここに出てくる≪私≫は、まるでほかの小説でいう≪彼≫に大そうよく似ているのに。)――だが、わたくしはその自問をそのまま留保して読みつづけた。やがて、第五篇「囚われの女」に移った頃、わたくしはいつの間にかこの一人称の≪私≫がそっくり読んでいるわたくし自身にとって代わっていることに気づいた。わたくしはこの頃になって、≪私≫というこの人物が名を持たないことに気づいた。そういえば年令も曖昧であった。さらに、この篇のなかには次のような作者自身とも、話者の言葉とも言いがたい一文があった。話者は≪アルベルチーヌ≫という恋人を自宅に住まわせているのであるが、その恋人が眠りから覚めるところを描写しているくだりの一文である。「――口がきけるようになると彼女は≪あたしの≫とか、≪あたしの大事な≫とか言ってその後に私の洗礼名のどれかをつけるのだったが、もしこの本の作者と同じ名前を語り手に与えたとしたら、それはこうなっただろう。≪あたしのマルセル≫≪あたしの大事なマルセル≫――」(1) (傍線筆者)
 この第五篇「囚われの女」ではさらにもう一度、この引用したところから訳書で九十頁ばかりはなれたところに、やはり同じく恋人のアルベルチーヌが話者に宛てた手紙の文中に、「あたしの大事なマルセル、……ひどいマルセル!なんてひどい人!……」(2)という言葉がある。後になってしらべたことだが、翻訳者の鈴木道彦氏は同書の巻末の解説のところで、「フランス文学における小説の二十世紀は、『失われた時を求めて』とともに始った。」と述べたのちに、「では、プルーストの最大の発見とは何であったか。私はそれを独自の主人公≪私≫を作り上げたことに見る。」と書いている。氏はプルーストの自筆原稿を検討してゆくうちに≪マルセル≫という名が別なところで次々と削除されていった過程がわかるとし、もし作家が「もう少し生き長らえて『囚われの女』を十分に加筆訂正する機会があったなら、この二度のマルセル(少なくも179頁の例)は消滅する運命にあったかと思われる。」と言っている。作家の自筆原稿は見ていないけれども、わたくしも氏と全く同感である。というのは、もうすでにこの第五篇に至るまでの過程で、当然そこに語り手の呼び名が出なければ不自然なように思われるところに、わざわざそれを避けているらしいところをいく個所か通りすぎてきているのを、わたくしはここにたどりつくまでに気づいていた。そうしてその度にわたくしはそれを無意識ともいえる共感で、作者のその意図に納得してきていた。もしかしたら其処にわたくしという読者の入りこむ座席を、まだそれとは意識せずに、坐ることを許されたもののような受取り方をしていたのではあるまいか。わたくしはここでは当時の無防禦な一読者の素朴な受取り方を披瀝するのみにとどめ、この点についてじっくり考察するのは先にのばすことにしたい。
 ところで、「この本の作者と同じ名前を」仮に「語り手に与えて」いる人物は一体だれなのだろうか。さらにまた、何のためにプルーストはこのようにややこしい言い方までして、この本の話者に世間並の呼び名を与えるのを拒んだのであろうか。先に述べたように、わたくしのような読者をその魔の罠に陥れるためにか。この疑問を推しすすめて何とか答を探索する前に、わたくしはこれを全篇よみ終るまでの無防禦な一読者としての立場から、自分がどのようにしてこの作品のなかに関りあっていったかを、一年余り以前の記憶をたどりながら、もう少し回顧してみたいと思う。
 わたくしは作者の特別な意図を漠然と感じ、しかもそれに共感を覚えながら素直にそれに便乗した。わたくしは導かれるままに劇場の客席に坐り、そこで演じられる舞台を見ていたが、すべての登場人物が退場してしまうと、どこからともなく≪私≫なる人物がわたくしの内部に戻ってきてそっくりそこにおさまってしまうのであった。わたくしがこれまで自分の感覚をとおして捉えてきた生活の場のあらゆる現象が、『失われた時を求めて』という海上を漂っているあいだ、≪私≫という人物の感覚をとおして感知されるのをわたくしは夢見心地で覚えつつ、自分が従来よりもはるかに高度な知性をもち、はるかに鋭敏で、繊細な感覚をもつようになったかと錯覚した。それはちょうど目に見えない人物がわたくしにのりうつったかのようであり、眼や、耳や、鼻や、舌や、皮膚の感知するあらゆるものが、内部から、外部から、遠くから、至近距離から、高所から、レンズの焦点を自在にあてられると、その視野に捉えられた対象は分析により、凝縮により、拡大により、単純化により、結晶化により、変形により、透明化によって映し出されるので、わたくしがいままで現実の場で見失っていた、或いは見落していたその物の本質的イマージュが活き活きとした状態で、わたくしの心に訴えかけてくるのである。
 しかし、この精巧なレンズは一つだけ盲点をもっていて、≪私≫なる人物の心をよぎるどのようなかすかな影をもキャッチするのだが、その≪私≫なる人物の外面的姿態だけは絶対に映さない。写真にも、鏡にも映らないと言われる幽霊のように≪私≫の登場しているシーンで、たしかに≪私≫は他の登場人物たちと同席し、談笑しているのだが、撮影されたフィルムには≪私≫のところだけが空白となっているのであった。よく注意してみると、≪私≫がその舞台で演じたものは、他の登場人物の会話や、行動をさらに促進させるための潤滑油的なものであって、≪私≫自身のとった行動、≪私≫がそのシーンで話した言葉にはほとんど能動的なものがなく、あってもそれは事後のこととして語られるのみであり、また、≪私≫の服装や、表情はおろか、読者はかつて一度も≪私≫という人物を外側から見たり、知ったりする機会はもたない。これに反して、≪私≫が捉えた受動感覚からなるレンズの視野には、外界からうけた刺戟をもれなくキャッチする生体の反応を検するモルモットのように、解剖台に載せられた≪私≫のぴくぴく動く内臓がまるで一個の生贄のように曝されているのであった。しかし、さらにわたくしがその解剖台に近づいてよく見ると、其処でえぐられている≪私≫の≪欲望≫の本態や、切り刻まれている≪嫉妬≫とは、実はまぎれもなく観察しているわたくし自身のものなのであった。わたくしたちが、鏡に映る己れの虚像を見て自分だと思い、写真に撮られた己れの姿から、反対に自分の実像を知った気になっているように、この作品中の話者なる≪私≫は、時たま鏡の前をちらと通りすぎる気配は読者に見せるのだが、ふりかえってみるとそれはまさしく読んでいるわたくしの姿なのであった。

 

(1)世界の文学32『プルースト』”失われた時を求めて”(以下”失われた時”と略)――「囚われの女」――鈴木道彦訳(中央公論)90頁
“A la recherche du Temps Perdu”(以下R.T.P.と略) vol.Ⅲ. (Bibliothèque de la Pléiade(以下B.P.と略))P.75.
(2) Ibid., 179頁(中央公論)Ibid., P.157(B.P.)

(2)へ続く

(かまちきよこ)
(pubspace-x12,2014.4.08)