主体の論理(15) 脱所有の論理

高橋一行

 
   大澤真幸の新しい本『経済の起源』を読む。贈与がテーマである。
   大澤は前著で脱資本主義を論じている(注1)。それに対して今回は、経済の起源が問われており、それを贈与に求めているのだが、その問題意識としては、前著と同じく脱所有があるのではないか。
   貨幣を用いての商品交換の起源は物々交換であると考えるのが経済学の常であるが、それは歴史的にも論理的にも間違っている。贈与こそが先行する。そのように大澤は論じる。
   贈与は与える義務、受け取る義務、お返しの義務から成る。この考えはM. モースに由来する。贈与は双方向的、互酬的である(注2)。
   相手から贈与されたときに、そのお返しができないと、負債の感覚が残り、そこに支配-従属の感覚ができる(以上、大澤 第1章)。
   さて貨幣の本質は借用証書である。これはD. グレーバーを参考にしている(注3)。このことと、先の贈与に負債の感覚が付いて回るということとを併せて、大澤は、貨幣とは互酬化されなかった贈与ではないかという。互酬性へと回収されなかった贈与が負債として残り、貨幣として流通する(同 第2章)。
   ここで所有と贈与の関係が考察される。両者は対立概念だとされる。先に大澤の問題意識を推測すると、脱所有を論じるのに、所有と正反対の贈与を活用したいということではないか。そういう意図があって、両者の比較がなされる。
   まず所有は能動的なものだが、贈与はそうではない。また上に述べたように、歴史的な事実としても、論理的にも所有に先立って、贈与がある。貨幣もこの贈与の感覚から出て来る。
   ここで考慮すべきもうひとつの論点は他者である。所有に基づく商品交換は人間関係を形成しないと大澤は言う。この点は本稿のこのあとで批判されるが、とりあえず、大澤の言うところを追ってみよう。この場合、人間関係は商品を交換するときだけに限られるからだ。それに対して贈与は、与える側と受け取る側に負債の影が永続的に残る。
   所有の概念が出て来るのはローマ時代で、それは奴隷所有から始まる。所有とは能動的な人間と物との間の関係ではなく、主人と奴隷の関係、つまり一方に能動性が独占された状態である。所有の本質は奴隷であると言って良い。
   大澤はまず、歴史的に所有の本質を求めた上で、今度はそれを論理的に考え直そうとする。そこで出て来るのが、ヘーゲルの、有名な主人-奴隷論である。『精神現象学』は、意識と対象の関係を論じた後、自己意識にテーマが移る。そこではふたつの自己意識の関係が論じられる(注4)。そこからさらにヘーゲルは、主人と奴隷の関係を論じる。大澤はここから、主人の自己意識だけが残り、奴隷の自己意識が完全に否定されたときに、つまり一方に能動性が独占されたときに、所有の観念ができると言う。
   すると所有は、歴史的にも論理的にも能動的なものであり、そこで他者の側の能動性は完全に否定されている。所有は、奴隷の感覚にその本質がある。
   それに対して、贈与は他者とともにあり、本来的には人間関係を対等化するはずだ。この発想が大澤の論稿の根本にある。先に書いたように、お返しの義務が履行されないと、そこに支配-従属の関係が出て来てしまうのだが、所有が本来的に主人と奴隷の関係に基づくのに対し、贈与は本来は支配-従属の関係にない。なぜならそれは能動性に基づかないからだ。そのように大澤は考えている。
   では贈与が能動性に基づかないとすると、何に基づくのか。ここから中動態という概念を大澤は紹介する(同 4章)。
   もう一度言うが、能動態が所有の論理であり、かつそこにおいて他者性は本質的でないということであった。これはいささか戦略的な話である。というのは、ここから大澤は、能動と受動の対立の根底に遡って、その起源を問うからである。
   インド=ヨーロッパ語の動詞のシステムに、もともと能動態と受動態の対立はない。受動態がずっとのちになってから、中動態と呼ばれる概念から派生する。つまり元々あった対立は能動態と中動態であり、のちに中動態が廃れて、能動態と受動態の対立が残ったのである。
   この中動態については、言語学者のÉ. バンヴェニストが着目し、最近ではそれを國分巧一郎が展開している(バンヴェニスト 12章「動詞の能動態と中動態」、國分)。大澤はこの國分の研究を使って議論を進めている。
   中動態について、人間の行為は他者に対して開かれているとされる。それは他者に本源的に依存する。
   ここからさらに中動態が能動態よりも根源的で、その中動態は自らの対立物として能動態を生んだのではないかと、國分の示唆を受けて大澤は問う。そしてその能動態の対として受動態が出て来るのではないか(注5)。のちになって中動態はその受動態によってその地位を奪われる。
   能動と受動の根源としての中動態、他者に本源的に依存する中動態が、まさしく贈与の論理である。するとここからも能動態に基づく所有よりも中動態に基づく贈与の方が根源だということが言えるのである。
   大澤は所有の論理を批判し、贈与の論理を確立したいと思っている。主体が能動的な意志を持ち、そこで他者性が本質的でないというものが所有の論理で、それに対して贈与の論理が中動態である。この話をさらに進める前に、この中動態の論理がどのようなもので、どのように応用できるか3つほど例を挙げてみたい。
   ひとつは國分が挙げているものである。それは責任を巡る問題である。意志を持った主体が行動すれば、当然そこに責任が付いて回る。しかし國分は次のように言う。人は能動的であったから責任を負わされるのではない。話は逆である。人は責任あるものと見なして良いと判断されたときに、能動的であったと解釈されるのである。意志があったから責任を負わせられるのではない。責任を負わせて良いと判断された瞬間に、意志の概念が突如出現する(國分 p.26)。ここでこの能動的な主体が出て来る前の事態を考えるのに、中動態という概念が必要になるのである。
   要するに意志も能動性も主体も事後に成立するのである。もちろん、だからと言って、中動態の理論を責任逃れに使って良いということではない。むしろ中動的なものがなければとても責任を引き受けることなどできないと國分は言う(國分・熊谷 p.401f.)。ここから責任は中動態の先にあるのだという結論が出て来る(注6)。
   ふたつ目の事例は言語に関するものである。金谷武洋は、『日本語に主語はいらない』という本の第5章「日本の自動詞/他動詞をめぐる誤解」の中で中動態に触れる。書名と章題をここに示すことによって、金谷の主張が明らかになるはずである。彼は言う。「中動相とは古典ギリシャ語やサンスクリット語に見られる、形は受動態だが、意味は能動態の形態素を持つ動詞グルーブのことを言う。これは実は日本語で言うところの自動詞なのだ」(金谷 p.234)。さらにまた、かつてあった中動相と能動相の対立は、現代では中動相が失われてしまったために、誤解されたままであるが、その対立を今でも残す日本語に立脚すれば、中動相は解明できると言う(同 p.229f.)。
   もうひとつ挙げておく。木村敏は、統合失調症患者の「中動的自己」について書いている。ここで木村は、バンヴェニストの言う能動態と中動態の対立を次のように考える。つまり主体が外部対象に向かう能動性(私は何々を見る、または聞く)と、行動過程は主体の内部に生起し、主体をこの過程の座として考える中動態(私に何々が見える、または聞こえる)との対立である。受動態(何々が見られる、または聞かれる)は、この中動態から発生する。中動態においては、主体は外部の対象を持たず、また能動的でも受動的でもない。こういう非対象的で中動態的な主体が、統合失調症者の自己意識に生じているのではないかというのである(木村 p.119ff.)。
   中動態の考え方をここまで広げて確認すると、再度贈与がこの中動態であるということが良く分かる。
   なぜ人は贈与をし、また贈与されるのか。中動態は、私が何かをすることと、私が何かをされることが矛盾なく両立する。人間の行為は他者に本源的に依存するから、人が何かをすることは、他者にそれをしてもらうことと同じである。この他者への依存が贈与である。
   また私が何かをするとき、同時にそれは誰かしら他者に助けられているという感覚を私たちは持っているはずだ。つまり私は他者に本源的に負債がある。そして人はその本源的な負債に返済しなければならないのである。
   先に贈与は与える義務、受け取る義務、お返しの義務から成ると書いた。この最初の贈る義務は、本源的な負債に対する返済である。贈与はすでに負債に先取りされている(大澤 4章)。
   中動態の論理を一般化しようと大澤はここでもヘーゲルの理論を援用する。「論理学」本質論の論理が参照される。それは関係性の論理であり、そこでは自己と他者が反照し合う。その関係性の上に自己が成立する。自己は根源的に他者によって媒介されているという論理である(注7)。
   そして贈与がこの中動態の理論で根拠付けられるのであれば、贈与もまた根源的に他者との関係性に基礎付けられる。ここから贈与を歴史的な話としてではなく、共時的な話にしたいと大澤は話を展開する。外部の他者の存在を前提に、自己は形成される。外部の他者を内化することで自己となる。それは他者からの贈与を受け入れることである。しかしそれは同時に外部の他者に到底返すことのできない負債の感じを持つことでもある(同 4章)。
   贈与は他者とともにあり、関係を対等化する。この発想がこの論稿の根本にあると先に書いた。しかし同時に贈与には、垂直的な不平等も生じる。贈与は与え手が受け手を支配するからだ。お返しのできない受け手は与え手によって支配されてしまうのである。つまり贈与が牧歌的で理想的な人間関係であるかのような楽天を大澤は語らない。
   贈与は他者を支配する。たとえ相手にお返しを期待していないとしても、相手に負債の感覚を与えてしまう。無償の贈与は不可能なのである。贈与は贈る側と贈られる側のアイデンティティをそれぞれ確認するものだ。
   しかしこのアイデンティティを消滅させられれば、贈与の互酬的な論理は消えるのではないか。こう大澤は問い掛ける。人が贈与し、相手のお返しを求めるときに、自らのアイデンティティを他者からの応答において確かめたいのだが、それぞれのアイデンティティを自ら進んで消滅させることはできないだろうか。
   大澤は、キリスト教の贖罪論を独自に解釈して、この互酬性を超える論理を導く。キリストの十字架の上での死とは、一般的に人間が持っている原罪を贖うためのものなのだが、大澤は、キリストが自己消滅をし、超越的な神を消し去り、そのことによって神とコミュニケートしてきたすべての信者たちが、普遍的に参加し得る共同体を実現するという意味だと考える。
   このようにキリストの贖罪を互酬的な贈与という枠組みで解釈せず、その互酬性を超えるものと考えたときにこの神学論を一般化することが可能になるのではないか。そこにおいて、自己と他者との二項分立を否定し、自己の自己への関係という自己準拠に自己を追い込めば、相手を屈服させるという力の論理ではなく、普遍的な連帯に基づくコミュニズムが求められる。
   互酬的な贈与を脱構築したとき、コミュニズムが回帰して来ると大澤は言う。自己と他者の複数性を、個々の主体に内在している差異性と見ることで、アイデンティティが消えるということだ。つまり主体の脱構築も求められている。そこから彼は連帯という言葉を出す。それが論理的に可能だと言う。
   まず大澤の言うところを確認する。それは間違っていないし、本人が言うように、「純粋に論理的に可能」であろう(同 p.244)。しかも大澤のヘーゲル理解は正しい。他者との関係に基づいて、そこから自由概念を導出する。さらに脱構築をする。それは紛れもなくヘーゲルのものだ(同 最終章)。
   しかし確認すべきことのひとつは、これはジジェク、ないしはジジェクの解釈するヘーゲルなのではないか。これは本シリーズで一貫して書いて来たことだ。つまりジジェク張りの主体の脱構築をしてやっと贈与理論が使えるということなのである。
   もうひとつは、私はしかしそれとは異なった理論を提示したいと思うのである。このことが以下の課題である。
   大澤は他にも随所でヘーゲルを活用している。しかしヘーゲルの所有論は使わない。私は以下、このヘーゲルの所有論を取り挙げてみたいと思う。ヘーゲルの所有論に、ヘーゲルの論理の特徴が良く現れているはずだからだ。
   大澤の理論は間違っているとは思えないし、十分魅力的だが、しかし贈与を称揚する余り、その対立物とされる所有の論理が平板で、その可能性をまったく見ていない。現実に所有に基づく人間関係が、支配 – 被支配の関係を容易に導くというのは事実だが、しかしそれは贈与もまたそうである。後者については、大澤はていねいに論じて、それを克服する道を探っているのに、なぜ所有に対してはそういう手続きを取ろうとしないのか。
 
   私はここのところずっと、このヘーゲルの所有論を展開し、それを情報化社会に使える理論に仕上げて来ている(高橋2010、2013、2014)。
   まず私の理論では所有は他者性を前提とする。また情報化社会において、所有はコモンになり、脱所有の萌芽がそこに見られる。このことを示すのが、本稿における以下の課題である。
   また資本主義社会は所有に基づく。そして現在の資本主義の肯定的理解の内にしか、それを乗り越える内在的な手立てはない。所有の論理を内在的に乗り越えることが必要なのではないか。
   以下、ヘーゲル所有論を展開したいのだが、その前に、ヘーゲルの主体論と自由論を確認する。
   ヘーゲル『法哲学』は意志論から始まるのだが、先に書いたように、國分は意志は事後的に出現すると言う。議論は自己の意志から始まるのではなく、自己と他者の関係性から責任が出て来て、それから意志が出て来る。
   私は別にこのように考えても良いと思う。ヘーゲルも物事を論じるのに、常に自己から始めている訳ではない。確固とした自己がまず存在しているという前提から話を始めるのではない。『法哲学』の議論は、ヘーゲルの理論においては『エンチュクロペディー』の中に位置付けられており、『精神哲学』の主観的精神の発展史が先行しており、さらにそれは死の観念から類の意識が出現し、魂が発生するという話から始まるのである。個と類の弁証法から魂は生まれる。個体の死の意識から原初の精神が生まれる。つまり類という他者の総体と個体との関係から議論が始まり、その中で個体が形成されて、主体としての意識を持ち、それで『法哲学』の議論に入っていくのである。
   ヘーゲルの理論においても、確固とした自己があり、人は能動的に行為をし、その行為に対して責任を負うということではない。自分がここにいるのは偶然である。その偶然性がヘーゲル理論を強く支配している。
   例えば移民の子に生まれるのか、身体障碍者なのかということに始まり、今の仕事に就いたのもたまたまそういう状況に置かれたからであって、人生はすべて偶然の賜物であると思う。しかしその運命を自らのものとして引き受け、周りの人もその人の境遇をその人自身に帰するとき、事後的に主体が生成する。
   問題は、そういう主体の脱構築をするのか、あるいは主体とはそもそもそういうものであって、そういうものとして主体は主体化するのだと、その主体化ということの方に力点を置くかの違いである。私の本稿でやってきた仕事は後者である。主体はその都度主体化するのだけれども、常にそれを脱構築することが重要なのではなく、そういった主体として生きていかねばならないという事態を自ら引き取って、生きていくべきだということだ。
   私は贈与の理論を批判しないが、しかし余りそれらに比重を置く必要もないと思う。主体性の確立が叫ばれたのは遠い昔のことで、今度は主体の脱構築が主張される。その脱構築の上で、なお生成してしまう主体を、私は見詰めたいのである。
   次にヘーゲルの自由論を確認する(注8)。 
   ヘーゲルにとって、精神の本質は自由であり、精神は自由であることによってのみ、精神となる。精神は自由がこの世界で実現されることを見届ける。このことを最初に押さえておく。
   次に言うべきは、自由は自己と他者の関係性の内に成り立つということである。「人格の他の人格との共同は、個人の真の自由を制約するものと見なしてはならない。個人の自由の拡張とみなさなければならない。最高の共同こそ、最高の自由である」という『差異論文』の文言をここで挙げたい(『差異論文』 p.84)。真の自由は連帯の中にあると加藤尚武は書く(加藤 p.215)。
   このことは、論理的に言い直すと、自己が他者と関係しつつ、なおそこに自己の本質を見出すことが自由だということになる。例えば、このことは次のように表現される。「それらモメントの各々は、他と関係しながらも、自分自身のもとに留まり、自分自身と合致する」(『小論理学』 158節補遺)。重要なのは、他者と関係しながら、自己と一致する、他者のもとにあって、なお自己のもとにあるということなのである。
   これも本シリーズの前回分に書いたのだが、「論理学」全体が主体性の哲学であるということ、とりわけ概念論がそうである(注9)。本質論の最後のところでは、次のように言われる。「思惟するということは、他のものの内で自分自身と合致することである。この合致は自由になることを意味するが、しかしその自由は捨象による逃避ではなく、現実的なものが必然の力で結び付けられている他の現実の内で、自己を他のものとしてではなく、自分自身の存在及び定立として持つという自由である。この自由は、対自的に存在するものとしては自我と呼ばれ、総体性に発展したもののとしては自由な精神と呼ばれ、感情としては愛と呼ばれ、享受としては浄福と呼ばれる」(同 159節注)。ここで「現実的なもの」とは自己であり、「他の現実」とは他者である。そして自我、自由な精神、愛、浄福が同義とされていることにも注意してほしい。
   さらに真無限の論理も自由の論理である。他者において自己のもとにあるというのは、「論理学」の真無限の生成のところにも使われる。「真の無限は他者の内にあって、自分自身のもとにあることにあり、あるいはこれを過程として言い表せば、他者の内で自分自身へ来ることにある」(94節補遺)。ここで「真の無限」とは自由のことに他ならない。前回、真無限の生成が自我の生成であると書いた所以である。
   そこではさらに、以下のように書いた。「ヘーゲル「論理学」全般を見渡してみると、定存在-実在性-有限-必然性という系列と、対自存在-観念性-無限-自由という系列があるのにまず気付く。そしてまた、前者の系列に自然が対応し、後者に精神が対応することに気付くであろう。」
   ヘーゲル哲学は全編、精神の生成を扱い、従ってそれは自由の哲学なのである。それはまた他者との関わりからすべてが生じてくると考えるものである。
   自由は他者とともにある。そして所有は他者との関係を作るのである。
   所有には常に他者が纏わり付いている。所有論から『法哲学』は始まる。つまり所有から社会が始まるというヘーゲルの議論をここで強調しよう。
 
   所有論について、先に書いたように、私は前著で展開してきた。以下、それを参照する(注10)。
   まずは、『法哲学』に所有の定義が論じられている。すなわちヘーゲルは、占有取得、使用、譲渡の3つを所有の規定として挙げる。つまり占有取得したものが所有であり、次に使用できるのは所有しているからであり、最後に人に譲渡できるのは所有しているからであるという具合だ(『法哲学』53節)。それで以下のトリアーデができる。
 
肯定判断 物件を占有取得して所有する。
否定判断 物件を使用したので所有していない。
無限判断 物件を譲渡したので所有していない。
 
   しかしこれはミスリーディングである。否定判断と無限判断で言いたいのは、所有していないということではなく、否定し、さらに無限判断的に否定してもなお、所有しているということだ。むしろこの否定作用こそが所有だということである。すると以下のように訂正される。
 
肯定判断 物件を占有取得して所有する。
否定判断 物件を使用できるのは、それを所有しているからである。
無限判断 物件を譲渡できるのは、それを所有しているからである。
   
   使用という否定をし、譲渡というさらに徹底した否定作用が所有の中に含まれている。するとこれは肯定的な判断として言い換えられるのである。否定判断も無限判断も肯定判断になる。
   ここで論じられる所有において、ふたつの点で他者性が前提となっている。ひとつは占有取得する際に、他者に知らせ、承認してもらわないと所有は成立しないと考えられている点である。
   もうひとつは、譲渡が所有だという点である。これは良く考えねばならない。所有の本質は他者への譲渡なのである。ここには当然贈与も含まれる。つまりヘーゲルは、所有の本質は譲渡であり、そこから贈与になる場合もあり、商品交換になる場合もあると考えている。もちろん前者のことは主題にはならない。しかし贈与の論理を引き出すことは可能である。
   第二に、商品交換で要請された他者は、先に大澤は、商品交換が終われば、消えてしまうとしたが、そうではない。ここから他者との関係が始まるのである。むしろ他者関係を構築するために、所有があると考えるべきである。
   そもそも自己の成立に他者が必要であり、そうやって成立した自己が所有をし、しかし所有の本質は他者関係なのである。これがヘーゲルの論理である。
   さらに所有は占有取得から始まるが、それを使用し、譲渡することが本質的に所有の特質であるならば、所有は最初から脱所有の契機を持っていることになる。すでに脱所有の論理的な可能性は見えている。
   またモノを所有することで人は自由になるのではない。モノを媒介にして、他者と関係を作り、そのことによって自由になるのである。脱所有から自由への道がそこに示されている。
   さらに考えるべきは、つまり本稿で書くべきはコモン論である。コモン論こそ脱所有論である(注11)。
   所有論の応用として、以下のような3段階も得られる。
 
肯定判断 資本主義社会では私的所有が正当化されている。
否定判断 社会主義社会では所有形態は国有である。
無限判断 共産主義社会では所有形態はコモンである。
 
   ここでも肯定判断で肯定された私的所有が、否定判断で否定され、最後の段階は、否定の徹底で、主語の持っている領域そのものをも否定する。これが否定の否定として捉えるべきものである。そこでは所有という概念が否定されているのではないか。つまり私的所有と共有が同時に成り立っている。
   とりわけ、このことは知的所有において成り立つ。つまり情報化社会になって、知的所有が本質的になる。そこにおいて他者はますます本質的なものになる。情報のポイントは他者に伝えることだからだ。他者がいないと所有できないのである。
   つまり知的所有になれば、使用することと譲渡とすることとが同じものになり、人のために使用し、人に譲渡することが、自らの占有取得の部分を豊かにするというのであれば、そこにおいて脱所有は完成する。ただし論理的にではあるが。
   知的所有において、人に分け与えることが、自分の知識を豊かにすることであるというのは、まさしくそこに自由が成り立つはずのものである。しかし実際にはそうではない。
   コモンは実際には一部の人に独占される。コモンの偏りは、搾取よりもたちが悪い。マルクスの時代は、労働者階級が搾取されることが問題となったが、情報化社会の根本問題は、コモンの偏りである。これがかつてないほどの格差を生む。そこに情報化社会の問題が集中的に表れている。これをどう解決するか。
   ジジェクが随所で言っている言い方を借りれば、労働力の搾取で生じる利潤から、レント(超過利潤)の形を取った富の私有化が進行しているのである(例えば、ジジェク2010 14章)。
   しかしコモンは可能性としては、その名の通り、本来はコモンなのである。大澤が、現実的には贈与は人を支配するものであるが、論理的には連帯の論理になり得ると書いたのとまったく同じように、コモンの論理は現実にはたちが悪いものだが、論理的には万人の自由に繋がるものだと私は言いたい。
   所有から出発したら、いつまでも所有から抜け出せない。所有を超えたい。とすれば、議論の出発点を所有以外のところに求めたい。大澤はそう考え、贈与の議論を展開した。しかし上述のように、所有に基づいて議論を展開し、脱所有に至ることはできるのである。
 
   本シリーズ2回前の拙稿では、大澤の議論を批判しつつ、絶望が資本主義を超えるという結論を出した(注12)。今回は、同じく大澤の、しかし別の本を批判しつつ、所有を超える可能性について書いた。
   最後に以下のことを付け加える。
   「贈与の観念と明白な連関で結び付いているのは客人歓待の観念である」とバンヴェニストは、先の中動態概念を提唱した著書の最終章「印欧語彙における贈与と交換」で言う(バンヴェニスト 21章)。先に贈与の互酬性の機構を説明したが、それと同じことが客人歓待に見られるということを、バンヴェニストはモースを引用した上で、言語学的に示している。
   この歓待理論はカント『平和論』の訪問権に始まり、デリダが練り上げたものである。歓待は贈与である。デリダは無償の贈与を主張する。
   このことを、順を追って説明したい。『平和論』において、カントは平和のための確定条項として、3つの原理を提出する。第一原理は、各国の体制は、カントの言葉で言えば共和的でなければならないというものである。これは今日の言葉で言えば、立憲君主制を意味し、統治権と立法権が分離して、議会制が成立している体制である。第二原理は、世界共和国とは明確に区別された、自由な諸国家の連合である。私の言葉で言えば、諸国家間のネットワークが確立されていることである。そして第三原理が、すべての人が他国を自由に訪問できる権利の確立である。
   この内、第一原理と第二原理が根本だと私は考える。第三原理は第二原理の付属としてのみある。このことは以前扱った(注13)。しかしデリダは第三原理を根本と見た上で、それを純化するのである。
   カント平和論は所有論の帰結として得られるものだ。カントは、本来人は地球の表面を共同で所有していたと考えている。しかし『平和論』の第一補説で考えられているように、人々は世界中に分散して、そこで国家を創り、戦争をする。そしてその戦争が原動力となって、国家体制を充実させ、先の3原理を確立し、戦争を防ぐ。それは極めて功利主義的な平和論である。人は利己的であり、所有欲があり、国家がそれを保証する。その国家は戦争を推し進めるのだが、しかし戦争は「割に合わない賭け事」だということになれば、戦争に対して慎重になるのである(カント p.32f.)。
   しかしそこに第三原理の訪問権が出て来る。デリダはそこに着目する。そしてその訪問権を純化して、歓待の概念を作る。歓待とはいかなる代償も求めずに無条件で歓待すべしということである。しかし実際には条件を付けて、計算可能な義務や権利を設定する。両者は相互に呼び合っているとしつつも、前者こそが歓待であり、後者はその堕落態であるとしている。
   デリダはカントを批判する。それはカントの訪問権は、訪問の権利に限定されていることと、法によって守られるものであるからだ。先の堕落態としての歓待に陥ってしまう危険性があるとデリダは言う(デリダ1999 p.89ff.)。
   デリダはここにアンチノミーを見出す。一方で、無償で、無条件で、無限の歓待がある。他方で、法=権利や義務といった条件が付いている歓待があり、この条件は、まさしくカントからヘーゲルに至るもので、それは『法哲学』の家族、市民社会、国家を通過するのである(同 p.98)。これがアンチノミーだというのは、このどちらも実現不可能なものとして考えられているからである。
   今までの文脈でこのことを言い換えれば、一方で「論理的な可能性」としての純粋な贈与があり、他方で他者を支配してしまう贈与があるということである。そしてこの前者、すなわち本来の歓待、脱構築した贈与を、能動的な所有の正反対のものとして、抽出できるだろうということである(注14)。
   デリダの著作にはバンヴェニストが何度も参照されている。ここに贈与、中動態、責任、歓待と話が進んできて、どれも能動的な、意志を持った主体は事後的にしか生成しないということが論じられる。それはその通りだと私も思う。ただ事後的にであれ、主体は生成するのである。その面を私は見たい。脱構築されて、なお生成する主体、所有し、所有を超えていく主体が私のテーマである。大澤の贈与論もデリダの歓待論もどちらも魅力的な理論だが、しかし所有論で話を解決させることができるなら、それで良いのではないか。無償の贈与、純粋な歓待が未来社会の理念になるのか。それとも所有を通じての脱所有がそれを担うのか。
 

1 本サイト「主体の論理(13) 脱資本主義に向けて」(2022/01/27)を参照せよ。
2 モースは、ポトラッチと呼ばれる全体的給付が、この3つの義務を持っていることを論じている(モース)。
3 グレーバーは、彼の著書の副題にあるように、負債の歴史を辿る(グレーバー)。大澤の目的が経済の起源の解明であれば、この本の分析は不可欠である。しかし私は贈与の論理だけを追えれば良いので、ここでこの本の分析には入り込まず、紹介だけしておく。
4 注1に挙げた拙稿で論じている。
5 これはデリダが言っている。哲学は中動態を能動態と受動態に分け、中動態を抑圧したのである(國分 p.120, デリダ2007 p.44)。デリダをここに出しておくのは、このあとでこの議論に関わってくるからである。
6 この問題は当事者研究に繋がる。本サイト「主体の論理 (2) 当事者研究とは何か」( 2020/12/01)を参照せよ。
7 ヘーゲル論理学が、存在論、本質論、概念論から成り、それぞれ移行、関係、発展がその論理であるということは以下に書いた。本サイト「主体の論理(14) ヘーゲル論理学のトポロジー」( 2022/02/08)を参照せよ。
8 『ヘーゲル事典』を参照した。「自由」の項は加藤尚武が書いている。
9 注7の拙稿を参照せよ。
10 高橋2010 2-1-1を参照せよ。
11 コモン論は、高橋2013 1-3を参照せよ。
12 注1の拙稿を参照せよ。
13 カント平和論は、高橋2017 3-3を参照せよ。
14 東浩紀はここから「観光客の哲学」を展開する。本サイト「移動の時代1 – 東浩紀『観光客の哲学』論 –」( 2019/05/24)を参照せよ。
 
参考文献
バンヴェニスト, É., 『一般言語学の諸問題』川村正夫他訳、みすず書房、1983
グレーバー, D., 『負債論 – 貨幣と暴力の5000年 -』酒井隆史監訳、以文社、2016
金谷武洋『日本語に主語はいらない – 百年の誤謬を正す -』講談社、2002
デリダ, J., 『歓待について』廣瀬浩司訳、産業図書、1999
—–  『哲学の余白(上)』高橋允昭他訳、法政大学出版局、2007
ヘーゲル, G.W.F., 「法の哲学」『世界の名著44 ヘーゲル』藤野渉他訳、中央公論社、1978
—-       『フィヒテとシェリングの差異』戸田洋樹訳、公論社、1980
—-       『精神現象学(上)(下)』金子武蔵訳、岩波書店1971、2002
—-       『ヘーゲル論理の学』I・II・III(『大論理学』)山口祐弘訳、作品社、2012-3
—-       『小論理学』牧野紀之訳、未知谷、2018
加藤尚武「自由」『ヘーゲル事典』加藤尚武他編、弘文堂、1992
カント, I., 『永遠平和のために』宇都宮芳明訳、岩波書店1985
木村敏「自分が自分であるということ」『「自己」と「他者」 – 臨床哲学の諸相 -』木村敏・野家啓一編、河合文化教育研究所、2013
國分巧一郎『中動態の世界 – 意志と責任の考古学 -』医学書院、2017
國分巧一郎・熊谷晋一郎『<責任>の生成 – 中動態と当事者研究 -』2020
モース, M., 『贈与論』吉田禎吾・江川純一訳、筑摩書房、2009
大澤真幸『新世紀のコミュニズム - 資本主義の内からの脱出 -』NHK出版、2021
—-   『経済の起源』岩波書店、2022
高橋一行『所有論』御茶の水書房、2010
—-   『知的所有論』御茶の水書房、2013
—-   『他者の所有』御茶の水書房、2014
—-   『所有しないということ』御茶の水書房、2017
—-  『カントとヘーゲルは思弁的実在論にどう答えるか』ミネルヴァ書房、2021
ジジェク, S., 『ポストモダンの共産主義 - はじめは悲劇として、二度めは笑劇として -』栗原百代訳、筑摩書房、2010
—-  『性と頓挫する理性 - 弁証法的唯物論のトポロジー -』中山徹、鈴木英明訳、青土社、2021
 
(たかはしかずゆき 哲学者)
 
(pubspace-x8437,2022.02.19)