主体の論理(13) 脱資本主義に向けて

高橋一行

 
   キューブラー=ロスの死の受容に至る5段階論は、S. ジジェクがしばしば参照するものである。これは次のようなものである。人は死に直面すると、つまり助からないとされる病の最終局面を迎えたとき、どういう反応をするのか。まず人は生じた事実を否認するだろう。そんなはずはないと思うのである。そしてその事実を否認することができないと分かると、怒りが来る。そして次には、その事実を軽減しようと取引が始まる。しかしそれが無理だと分かると投げやりの段階に入る。抑鬱の段階と言い換えても良い。そして最後は事実をすべて受容するのである。
   例えばジジェクの『終焉の時代に生きる』(以下、『終焉』)という著作は、5つの章から成る長大な論稿だが、この5つの章はそれぞれこの5つの段階に対応している。つまり章立てが、1.否認、2.怒り、3.取引、4.抑鬱、5.受容から成っている。そこでまさしく終焉の時代が論じられる。私たちは今まさに資本主義が終焉を迎えているという大きな転換期にいるのである。そこで私たちとはどのような反応をするのかということがテーマである。この本はほぼキューブラー=ロスに依拠して書かれていると言って良い。
   終焉の時代が様々な観点から説明される。終焉を特徴付ける、つまり資本主義の中にある社会の発展を妨げる4つの敵対性がある。これはジジェクがしばしば挙げるものである(注1)。すなわち環境破壊、情報化社会の富の偏在、遺伝子工学などの科学技術による人間性の変化、社会に見られる様々な排除である(『終焉』p.404)。
   この4つの敵対性に共通する特徴があるとジジェクは指摘する。それは行為者を、財産を持たない純粋な存在にしてしまうことである。行為者から物質的な内容を排除するか、社会的政治的空間から一定の人物を排除するのである。
   こうして排除された人々が現代のプロレタリアートである。このプロレタリアートの概念をよりラディカルにすることが必要なのである。
   というのも、先の4つの敵対性はまさに人類を絶滅に向かわせているものである。この絶滅の脅威をラディカルな再生に繋げられるか。これがジジェクの問いである。滅びゆくものは人類そのものなのか、それとも現代社会を特徴付ける資本主義なのか。ジジェクはそのあたりが曖昧である。というより両者を重ね合わせている。しかし私たちが導き出すべき結論はもちろん、今私たちが迎えているのは資本主義の死であるということ、そしてその死を受容することである。しかしその死を受け入れて、では私たちは何をすべきか。『絶望する勇気』(以下、『絶望』)という別の本では、迫り来る危機を受け入れよとジジェクは言う。「真の勇気とは代替案を受け入れることではなく、明確に述べられる代替案など存在しないという事実から帰結することを受け入れることである」とジジェクは書く(『絶望』p.11)。
   ここでは未来社会のイメージは語られない。しかし人類の死を防ぐためには、資本主義の死を確認せよ、グローバル資本主義の危機を絶望して受け入れよと、キューブラー=ロスの最終段階が強調されているという印象を私は受けるのである。そこにしかし、危機を防げれば、未来は見えて来るはずだ。
   さらに2020年に掛かれた『パンデミック』でも、この論法は使われる。この書はまさに私たちがいま苦しんでいるコロナ禍を扱い、しかしそこでの結論は私の知る限り、ジジェクの作品の中では最も結論が明確で積極的なものである。ここでもキューブラー=ロスの5段階は中心的な役割をはたしている(第5章)。生態系崩壊の危機や、デジタル支配が私たちの生活に与える脅威において、この5段階が当てはまるとジジェクは考える。そしてもちろんこれは、私たちが今なお苦しんでいるコロナ禍に当てはまるのである。つまりコロナをまずは否認し、次いでそれに怒り、またコロナと折り合いを付けるべく取引をする。そしてそれが有効でないと分かると、私たちは落ち込み、そして最後にそれを受け入れる。
   私の感覚では、私たちは2022年度を迎えて、今第3段階か、第4段階にいるのではないか。第3段階の取引において、まだ私たちはコロナの本当の怖さを知らない。ワクチンが普及し、感染状況が良くなると、すぐに私たちは外出を始める。その間に、世界のまだワクチンの恩恵に与れない国々で、新たな変異が起き、それが再び世界に広がる。ウィルスは取引をする相手ではない。それを受け入れるしかないのに、まだそこまでの段階に私たちは至っていない。
   ジジェクは言う。ウィルスの流行は私たちの暮らしの究極の不確実性と無意味さを再認識させる。人類がどれほど素晴らしい精神的な体系を打ち立てたとしても、ウィルスや小惑星のような愚かな自然の不確実性は、それをすべて終わらせることができる(『パンデミック』p.45)。私もジジェクも進化論が好きだから、しばしば6000万年前に巨大な隕石が地球に衝突し、生態系を完全に変え、あれほど栄えていた恐竜はあっけなく絶滅したのである。今進行している事態は、それと似ていないか。
   さて話はここから始まる。恐竜が滅びた後は、それまで細々生きていた哺乳類が爆発的に増え、進化をする。そして人類を生み出すのである。人類の出現は根本的にはこの偶然性に拠っている。
   ここで私たちはウィルスがもたらした危機を受け入れるしかない。そしてこのコロナ禍が人類の死をもたらすのなら、話はここで終わる。私はその可能性は低くないと思うが、まだその時期ではない。今私たちが直面しているのは、コロナ禍に拠って、まずは医療の危機があり、次いで経済の危機が起き、また人々の心理的な危機が来ていることである(同 p.74ff.)。
   ウィルスを受け入れよということは、この危機を受け入れて、従来のシステムが崩壊することを受け入れよということなのである。まずはこれが主張のひとつになる。このままでは人類の死に繋がるかもしれないという思いを持ちつつ、まずはこの危機を受け入れ、新しいシステムに向かうべく、対策を講じること。そこに人類が生き延びる可能性が見出せるかもしれないのである。
   さらにこのことと関係するのだが、もうひとつの主張は、このまま行くと、社会は野蛮な資本主義の蔓延になり、それこそ人類の死をもたらしかねないということになる。どうするかということだ。
   ジジェクはこれを乗り切るのは共産主義しかないと言う。なぜならこれは、私たちが資本主義では対応できないからである。ここから直ちに資本主義の死を私たちが迎えているという結論にはならないのだが、以下のようにしばしばジジェクが論じる問題点が資本主義にはあり、それでは危機に対応できないのである。資本主義がこのまま続けば、確実に人類の死に繋がる。それは先に書いた敵対性のために、資本主義ではコロナ禍に対応できないのである。
 
   大澤真幸もまた先だって出版された著書において、同じように話を持っていく。ここでもキューブラー=ロスの死の受容に至る5段階が引用される。ここでも人類の死ではなく、資本主義の死が語られる。資本主義の死を受け入れよというのである。それを受け入れれば、次の社会が見えて来る。つまり最終的な破局は同時に新たに始まりであると彼は考える(大澤 第1章)。
   しかしここで大澤とジジェクと微妙に言っていることが異なるように私には思える。絶望せよとジジェクは言う。ジジェクにとって、代替案などない。人類の滅亡を防ぐしかない。しかし大澤は、死を受け入れることで、次の段階が見えて来ると、これは明確に言っている。
   さて大澤もまたコロナ禍について語る。そしてこういうときだから人々は互いに連帯すべきだと問い掛ける。ウィルスに対処するには、階級格差と国民国家を超えて、普遍的な連帯が急務である。しかし事態はむしろ逆である。大澤は、現実的に人は連帯できないと書く。コロナ禍が始まって、階級格差は益々剝き出しになり、国家間の葛藤もあまりに露骨である。このような現状認識が語られる(同 第2章)。
   ジジェクもかねてからこのあたりの考えは大澤のものに近い。ジジェクのシニシズムはすでに知られているだろう。社会を変えるには連帯が必要だという考えをジジェクは馬鹿にしている。リベラリズムは無力であるとジジェクは考える。
   さらに激しい競争に晒されているこの資本主義社会が変われば、人々は互いに連帯するといった楽観もジジェクによって、容赦なく批判される。例えば『絶望』では、資本主義ののちに来るとされる共産主義社会では、人びとの妬みと怨嗟は爆発する。社会的格差は、現時点では、それは社会がいけないからだと人々は言うことができる。しかし共産主義社会において、なお恵まれない人、失敗をする人は、それを社会の欠陥に帰すことができず、社会の不合理や偶発性のせいにできなくなって、人びとの苛立ちは押さえることのできないものとなるのである(『絶望』p.90f.)。
   ただ未来社会へのイメージは、大澤はジジェクと異なったものを持っているのかもしれない。このあたりのことは、本稿でこのあとに述べられる。つまり大澤は最終的には、ジジェクと異なって、連帯の可能性を問うからである。
   差し当たっては、まずは両者ともに、コロナ禍は破局を私たちにもたらしたということ、それに対して資本主義では立ち向かえないことを確認する。そこに真の破局の原因がありそうだということを確認する。そしてこの破局を受け止めるべきであることと、そうすることで、しかしこの破局が新たな社会の始まりを示していることが強調される。
   以下、この大事件をどう認識し、そこにどう対策を建てるのかということが問われる。
   まずジジェクは、コロナ禍の対策として災害共産主義という言葉で表現すべきいくつかの処方箋を列挙する。危機においては、人びとは皆、社会主義者なのである。具体的にはまず国家は市場から離れて、マスクなど必要なものの生産の調整をせよとジジェクは言う。そうでないと人類は破滅する。つまりここで共産主義がいよいよ出番を迎えるのである。さらにベーシック・インカムが推奨される。トランプでさえ、一時的なベーシック・インカムを検討していたとジジェクは言う(以上、『パンデミック』第9章、10章)。日本でも一時金が配られており、このあとにその財源の話をするが、しかし災害時という特殊な状況ではその制度は可能なのである。
   さらに破滅から人類を守ろうとする努力が新しい人間性を創り出すとジジェクは言う。この人間性は脅威を通してのみ思い描かれるのである(同)。ジジェクにしてはこれでもかなり肯定的な言い方だ。
   一方大澤は、惨事便乗型アンチ資本主義があるのではないかと言う。その際に、政府はいくら借金をしても大丈夫だという現代貨幣理論に乗っかる形で、国債をどんどん発行してそれを財源にベーシック・インカムを確立せよと言う(大澤 第3章)。現代貨幣理論を信じているからではない。この方法は確実に失敗するのである。失敗して、資本主義の根幹を否定することになる。だからこそ実行して資本主義を超えていくことができると考えるのである。
   資本主義ではベーシック・インカムは失敗を運命付けられており、だから資本主義を超えるために実現せよという逆説は興味深い指摘だが、しかし資本主義を超えて、なおベーシック・インカムは実現されるべきものである(注2)。
   さてこのような議論の背景にあるのは、私的所有からコモンズへと経済システムが変化していることである。
   すでに2013年の拙著で私は、ジジェクの示唆を受けて、コモンズ論を展開している(注3)。私の言い方では、情報は本来的に共有財産であり、例えば40年前に100万円だったパソコンは、今その性能がさらに上がって、10万円で手に入る。この浮いた90万円はコモンズであると考えるべきである。米や卵の値段を100年前と比べれば、劇的に値が下がっていることに気付くだろう。私たちの社会は、生産力が上がって、消費化社会を経て、すでに情報化社会に入って久しく、そこでは知的財産が共有されて、物価は下がっている。
   すでに私たちは知的共産主義社会に入り掛けている。しかしそれが疎外されている。格差は著しく大きい。それは資本家階級が労働者階級を搾取しているからではない。知的所有は偏りがあるからである。
   現代において問題は、搾取ではなく、レント(超過利潤)である。ビル・ゲイツがどうして金持ちなのかとジジェクは言う。マイクロソフト社の社員を搾取しているからではない。その会社がソフトウェアの業界でレントを独占しているからである。そしてこのレントの偏りは、マルクスの論じた搾取よりもさらにたちが悪いのである(『ポストモダン』 第14章)。
   一方で大澤は、GAFAが莫大な利益を得ているのは、またジェフ・ベゾスが富豪なのはどうしてかと問う。コモンズの私有化、コモンズの偏りも大澤が論じるところである。彼の表現では、社会的共通資本としての知識の私有化が問題であり、それを誰かが私的に囲い込めば、そこからはみ出された人々が出て来る。それが現代のプロレタリアートである。今こそプロレタリアートの革命が必要だと言うのである(大澤 第3章)。
   その際に、加速主義も批判される。拙著で論じたが、近代哲学の枠組みを抜け出せないと焦る思弁的実在論の相関項として、資本主義は抜け出せないのではないかという諦めの中に加速主義者たちはいる。しかしそこで彼らは、人工知能の技術を活用して、資本主義を加速させることで、脱資本主義に達するのではないかと考える。この考えが批判される。
   ジジェクは、加速主義者は絶望が足りないと言う。変革には先に書いたように、現状に絶望することが不可欠なのだが、加速主義者はどうも本気で変革をする気がなさそうなのである。変革が実行されそうもないという見通しの下で、変革の可能性が語られている(『絶望』p.9f.)。一方大澤は、彼ら加速主義者はキューブラー=ロスの言う5段階のうち、3番目か、4番目の段階にいて、まだ5番目の段階に至っていないのだと言う。つまり彼らは第3段階の取引の段階で、現在の社会の持つ技術、ないしは今後開発される技術を以ってして、破局へ向かう運命と取引をする。しかしどうも破局への流れは止まりそうにない。それで非現実的な技術についての夢に埋没し、躁的な楽天性に陥っているのだ。こういう分析がなされる(大澤 第4章)。
   大澤はこういう分析をして、いよいよここから自由論を展開する。人は現在のシステムの死を受け入れる。しかしこの次に訪れるべきは脱成長コミュニズムなのだが、どうもこれはまだ多くの人にとって魅力的なものではない。それはどうしてか。
   大澤は先に書いたように、資本主義の最大の魅力は自由にあり、それを失わずに、次の社会にどう移行するかということが問題だと考えている。そこでヘーゲル的な「積極的自由」といった複雑な概念に依拠せず、ごく簡単に消極的自由を基準にしようと言っておいて、「善きサマリア人の譬え」話を出す。これは困窮している隣人を救うのは、人の自然衝動であり、相手を助けることは自らの自由の行使だと言う。他者の呼び掛けに応じることがで、他者の呼び掛けを通じて、自らの自由が構成されるのである。
   しかしこれこそヘーゲル的な自由ではないだろうか。ヘーゲルの自由については、他者のもとにあってなお自己のもとにあるというのが定義である。ここで言われているのは、まさにそれである。他者との応答の中で自己の自由が作られるのである。そしてここからさらにその他者を「未来の他者」に持って行く(注3)。
   キューブラー=ロスの死の受容という考え方を使って、資本主義の死を受け入れよというところまでは、ジジェクと大澤は同じである。ジジェクはさらに絶望せよと言い、大澤はしかし、死の受容の向こうに自由を見出す。
 
   大澤が著書の中で論じる、もうひとつの問題は内在性である。ここでヘーゲルの『精神現象学』が参照される。ヘーゲルの描く精神の軌跡が資本の運動と類比的であり、精神が成長して内在的に絶対知に達することと、資本主義が内側から脱成長コミュニズムに達することとが並行的に論じられる。ここは大澤がジジェクの影響下に書いていることを明示している。Less Than Nothingのふたつの章が使われる(注4)。
   「内側からの脱出」という言葉は、この本のサブタイトルにもあり、重要な概念とされているが、しかし私の感覚では、内在性の議論は重要ではあるが、それは自明のことなのではないか。すでに『精神現象学』の内在的な超出という議論について、私は以下に詳細に論じている。絶対知は外部にある絶対的な他者であるが、そこに内部の運動を経て達し得るという議論である(注5)。
   つまりこういうことである。前述したように、キューブラー=ロスの第五段階に至らなければ、脱成長のコミュニズムは賛同を得られないというのが、この本の結論である(大澤 p.159f.)。しかし大澤はこれで話を終わらせずに、次のように展開する。
   まず資本の自己運動から始める。ここに拙稿の前回のテーマである、ヘーゲルの主体-実体論が使われる(注6)。資本主義社会は価値という実体である貨幣が主体化して、資本となって自己増殖する。これはジジェクをそのまま下敷きにしていて、それ自体は正しい指摘である。問題はこの主体-実体論が『精神現象学』の方法論であるとして、そこから意識と対象の運動を論じようとする。意識と対象の内在的な運動から絶対知を見出そうとするのである。ここでジジェクの間違いがそのまま踏襲されている。
   前回の復習と今回の話を繋げると以下のようになる。『精神現象学』は当初、意識と対象の同一性という観点から、その両者の運動を論じ、そこから存在を浮かび上がらせようとしたのである。それが自己意識が生成してからは、自己意識と他の自己意識の関係を論じることが主となり、方法論が異なってくる。それは相互承認としての精神の運動を記述するものとなり、そして最終的にそこから絶対知が導き出される。
   実体-主体論は、『精神現象学』の後半の原理であり、かつまたヘーゲル哲学全体の原理となっている。どういうことかと言えば、意識と対象の関係と、自己意識と他の自己意識の関係は別の話である。意識と対象の同一性という方法論の下で、意識と対象の関係を徹底して、絶対知に達するのではなく、自己意識と他の自己意識を論じて、自己運動という主体-実体論の原理で精神の運動を論じ、絶対知がそこから導出される。ヘーゲルはここでふたつの話を混ぜてしまったのである。
   大澤は方法論は主体-実体論だと言いながら、『精神現象学』前半の、意識と対象の同一性を論じる。その分析自体は正しい。「私たちにとっての知」と「それ自体としての知」の関係を論じて、そこから客観的実在と主観的な現われが合致し、私たちに対する現われが客観的な実在として認知する。これこそが絶対知である(大澤 p.193ff.)。
   大澤はここから結論を導く。この本の最後の2ページは感動的なものだ。少々長い引用をする。
「絶対知はわれわれの未来が時間的な水平線によって閉じられているのを見ている。その意味で破局は必然だ、と。しかし同時に、絶対知はこの時間的な水平線の内側で、すべてが尽きないことをも直観する。時間的な水平線の向こう側からやって来る者、それこそが未来の他者に他なるまい。絶対知はこのような仕方で未来の他者と出会い、未来の他者に応答する。
   絶対知は超人的な悟りのようなものとして獲得するものではない。むしろ、我々は絶対知へと運命付けられており、絶対知から逃げることはできない。我々にとって希望は、絶対知が、資本の運動と類比的な仕方で変動する精神の成長の最終段階だということである。なぜこれが希望かなのかというと、ヘーゲルの洞察は、資本主義の内側からこそ絶対知の境地に達しうるということを意味しているからだ。」(大澤 p.201f.)
   しかしこの議論はいくつもの問題点を抱えている。
   確かに『精神現象学』は内在的に絶対知を導いている。絶対知が外在的に設定されているのでもないし、最初から前提となっているのでもない。先の大澤の引用で「超人の悟りのようなもの」でもない。そこまでは良い。それはジジェクが詳細に論じているものである。それを下敷きにする限り、大澤の論法もまた正しいということになる。
   しかし内在性から本当に外部の実在が導き出せるかどうか、疑問は残る。大澤は資本主義の向こうに行くための方法論になり得ていると考えているが、そうなのか。
   つまり『精神現象学』の前半の議論は意識と対象の関係を内在的に考察するもので、それを徹底して絶対知を導出したのなら良かったのだが、そうではなくて、途中から自己意識と他の自己意識との関係を考察し、そこから絶対知に辿り着いている。それは精神の内部にあるものだが、十分外部性を担っているのか。つまり客観という外部に達しているのか。
   意識と対象が運動して、その相関の内部にあるぎりぎりの限界に達することはできる。それは『精神現象学』の前半の方法論で可能である。しかしそこから外部、つまり絶対の他的存在に達するのか。つまり絶対知は内部にあって、しかし外部の存在を示唆するものだ、しかしヘーゲルの『精神現象学』の前半の議論ではそこまで達することはできない。大澤はそこに、キューブラー=ロスの最終段階と、自由論を持ち込むことで、「すべてが終わったところで新しいものの可能性が開かれている」とか、「終末ののちに新しいものが始まる」ということができる。
   ジジェクは意識的にヘーゲルを深読みして、『精神現象学』の前半の議論に、主体-実体論を持ち込んでいる。ジジェクは、『精神現象学』の意識の章だけの分析をしているのではなく、ヘーゲル哲学全体の方法論である主体-実体論をヘーゲルの使い方を超えて強引なくらいに活用し、さらに2021年の拙著で扱ったように「論理学」の物自体論も使いこなす。かくして内在的に実在に辿り着くことできる。「論理学」を読み込むことで、主観と客観の運動を記述できるからだ。
   拙著でジジェクに依拠しつつ、私は思弁的実在論と加速主義を批判した。前者は現象の世界を超えて、物自体に迫れるかということを、後者は資本主義を超えて、ポスト資本主義社会に辿り着けるかということを議論する。その両者を批判した。両者はQ. メイヤスーの内在性の議論から始まっているのである。つまりメイヤスーは相関の向こうに物自体があると言う。その向こうに相関の内部から内在的に迫りたいと考えている。しかしそれが不十分だということを、ヘーゲルの「論理学」を使って批判している。つまり『精神現象学』よりも「論理学」の方法論が役に立つ。それが拙著の結論であった。
   拙著については、あらためて分かりやすくその要約を示すことが必要なのだけれども、ここでは「論理学」とは何かということを示して、その議論に代えたいと思う。
   加藤尚武は次のように言っている。「自然の究極の存在は、根源的流動性であり、これは磁石のような二極性とその同一性、すなわち矛盾の真理性として捉えられるとヘーゲルは考える。根源的流動性から、「存在者=一者」論にしたがって、存在者の諸相を展開するのが、ヘーゲルの『論理学』である」(注8)。
   主観と客観が未分化である一者から両者が分離し、相互に転換するという運動を叙述するのが「論理学」である。
 
   本サイトの前回の拙稿の最後に以下のように書いた。黒崎剛は、『精神現象学』においてヘーゲルは認識主義に陥ってしまい、社会認識の方法論としては失敗したと結論付けている。本当は緒論で展開された方法論に従って、対象と意識が論じられることで、対象自身の存在が展開されるはずだったのに、意識に対して現象してくる、意識に相関的な世界が議論されることになる。
   正しくヘーゲルを理解するとそうなる。ジジェクはそのヘーゲルを救う。ジジェクに言わせれば、認識主義に陥っていることこそ、実在論の証なのである。ジジェクは自らの理論、つまり物自体や絶対知が相関の内部にあるという理論それ自体が実在論なのだと言う。これが2021年の拙著の結論であった。ジジェクはそこから社会理論を創っていく。
   実在に迫るには内在的にしかなし得ない。実在は相関の内部にある。体系は閉鎖的であるという非難は当たらない。それはしかし開放的でもない。そういうレベルを超えている。それを論じているのが「論理学」なのである。
   大澤はこの点、曖昧なまま、『精神現象学』前半の議論における内在性から、存在が記述できるかのように書いている。内在を徹底して、そこから実在を論じるのは相当に厄介なのである。大澤はその厄介さを素通りしている。ないしはキューブラー=ロスと自らの自由論をここに密輸入している。もっとも密輸入というより、話を接続させて、首尾一貫性を得たというところなのかもしれない。
   私が思うに、『精神現象学』でむしろ取り挙げるべきは、「絶望」の感覚である。これは意識が真理であったと思っていたものが、そうでないと分かったときに意識が感じるとされる。この絶望こそ『精神現象学』の叙述を進展させるものである。この方法論をヘーゲルも、またヘーゲルを援用する私たちも最後まで徹すべきである(注9)。つまり内在性の議論だけでは絶対知に辿り着けないのである。
 
   これも以前書いたが、内在性はマルクスの理論の基本である。それはヘーゲルに依拠している。絶対知において歴史が完成するという、体系の総体性に力点を置くか、常に歴史的に進展していくという面を重視するか、ヘーゲルには二重性があるが、マルクスは後者の方を重視する。そしてそのどちらにせよ、内在性は根本である(注10)。
   例えば次のふたつの文言に、マルクスの内在的超出という考え方が出ているように思える。どちらも『資本論』から引用する。「現在の社会は決して固定した結晶体ではなく、変化することの可能な、そして常に変化の過程にある有機体なのだ」(第一版の序文の最後)。社会は有機体であり、それは生成発展し、そののちに死んで、また次の生が始まるというようなものなのである。生物の持つ死と生成という内在的発展の論理がそこにある。
   もうひとつは、「現状の肯定的理解のうちに同時にまたその否定,その必然的没落の理解を含み,一切の生成した形態を運動の流れのなかでとらえる」(第二版の後記の最後部)というものである。実際マルクスがやったのは、資本主義の内在的な分析である。
   マルクス主義の歴史を辿れば、いきなり理想をこの世に実現しようとすることの怖さは、もう私たちが十二分に思い知らされていることである。また小説の中のユートピアは大西洋の孤島にあったり、火星にあったりする。いずれも外部にある。それはいきなりそこに連れて行かれるものとしてある。しかしマルクス主義はユートピアではない。現状の内在的分析と、その克服が問われている。ここでもマルクスの言葉が新鮮だ。「フォイエルバッハに関するテーゼ」の最後の、あまりにも有名だが、しかし最近は耳にすることがなくなった文言である。すなわち「哲学者たちは世界をただ様々に解釈してきた。しかし重要なのはそれを変えることである」。
   つまり内在的な手法の上で、資本主義が今や最終段階を迎えているという現状分析があり、資本主義の中で培われた能力を最大限発揮して、次の社会に移るべく変革をするのが哲学の仕事である。
 
   大澤は著書の最終章で、絶対知の議論の上で、資本主義に内在するコミュニズムについて議論する。そこで未来の他者と連帯する。それは次のようになっている。未来の他者からの呼び掛けに応じ、未来の他者と連帯する。絶対知論がそれを可能にする。そこにおいては、脱成長という不可能なことが可能になる。それが新世紀のコミュニズムである。真に新しいことが実現される。
   他者からの呼び掛けを通じて私たちの自由が構成されている。この自由という概念がいきなり出て来るようだが、しかし資本主義の中にすでに自由はある。必要なのはそれを内在的に克服するという話だ。だから内在的な絶対知論が自由を保障するのではなく、内在的にすでに自由があり、絶対知論はその自由という概念を前提にし、それによって補われる必要がある。「資本主義は個人の消極的自由を最大化するシステムである」と大澤は書く(大澤 p.163)。その自由を失ってはならないのである。すでに我々は自由を享受しているのだから。内在性が自由を保障するのではなく、ものごとはすべて内在的に進展するしかなく、すでにあるものを失わないよう努力する必要があるということだ。
   自由論を根底に置く大澤の論は明るい。絶望しかないジジェクと対照的だ。しかし大澤は賢明で慎重で、その楽観は控えめなものだ。そこでは最低限のことしか言わない。それはユートピアではない。しかしそれでもなお、ジジェクのシニシズムよりは明るいのである。
   一方でジジェクは繰り返し未来の代替案などないと言う。ジジェクには絶望しかない。しかしそこから人類の滅亡を防ぐことが模索されるならば、それは自由を求めることになるのではないか。消極的な言い方でしかなく、積極的な自由は拒否されているのだが。本稿の最後に、そのジジェクの自由観を見ておく。
   歴史は徹底的に偶然に委ねられており、必然性は事後的に見いだされるものに過ぎない。世界の存在様式は否定性であり、自由もその否定性に求めることになる。歴史法則を理解して、未来を切り開くという自由観ではない。偶然を活用せよというのがまずひとつの前提になる。偶然に翻弄されつつも、しかしそこに可能性はある。それから必然性は事後的にしか認識できないにせよ、過去の必然性を理解して、何かしらの法則性を探ることはできる。もちろん未来は決定論的に決められている訳ではないということは、くどいくらいに確認しなければならない。しかも世界は決定論的に出来上がっており、私たちの認識能力の制限のために、それを理解し得ないというのでもない。認識は不完全なのだが、それはそもそも存在が不完全だからなのである。
   世界に物理法則は支配しているが、しかしそれは偶然の上にしか成り立たない。世界は偶然に出来上がっている。ただそこで、その偶然がうまく働けば、自己組織性の法則に従って、秩序化は可能である。必然性というのはその程度のものであり、しかし私たちはすでに秩序化された世界におり、事後的にそこに法則性を見出すことができるのである。すでに生じてしまった結果を私たちは受け入れるしかない。しかしそこに切り開くべき未来はある。偶然を活用して、思いがけないほどの成果を生み出すことはあり得る。そこに自由はある。
   絶望する能力は破滅を避けることを可能にする。それは人類の絶滅を防ぐという、最低限の、しかし根本的に重要な自由である。
 

1 例えば『ポストモダンの共産主義』(以下、『ポストモダン』)ではより洗練された形で、このことが提示されている(『ポストモダン』p.154ff.)。
2 2021年の拙著で、ベーシック・インカムは社会の移行期において、一時的に実現されるべきものであるという考え方を紹介している。さらに2013年の拙著では、地域通貨を利用して、月額で数万円程度の給付を検討している。
3 2013年の著書では、私は知的共産主義という言い方をしている。
4 環境倫理学では、現在の世代は未来世代の生存可能性に対して責任があると考える。例えば、加藤尚武1991を見よ。
5 前回の注3と同じく、Less Than Nothing のふたつの章Interlude 1:Marx as a Reader of Hegel, Hegel as a Reader of Marx, と第6章 ”Not Only as Substance, but Also as Subject”を参照した。
6 本サイト「主体の論理(6) 否定性から出現する主体(1) 」(2021/06/28)を参照せよ。
7 本サイト(「主体の論理(12) 実体としてだけでなく、主体としても」( 2022/01/13)を参照せよ。
8 「論理学」の構造については次回さらに論じたい。なおここで、加藤は『論理学』という表記で『大論理学』を指している。私の「論理学」という表記は、『大論理学』や『小論理学』その他の総体を指す。
9 「絶望」という文言は、『精神現象学』の意識の章の方法論を叙述した緒論の最後の方にある(『精神現象学』p.81f.)。
10 前掲注6のサイトを参照せよ。
 
参考文献
ヘーゲル, G.W.F., 『精神現象学(上)(下)』金子武蔵訳、岩波書店1971、2002
加藤尚武『環境倫理学のすすめ』丸善ライブラリー、1991
—   「ライプニッツとヘーゲル - 形而上学と自然学の行き違い -」『ヘーゲル論理学研究』第27号、2021
キューブラー=ロス『死ぬ瞬間 - 死とその過程について -』鈴木章訳、中公文庫、2001
黒崎剛『ヘーゲル・未完の弁証法 - 「意識の経験の学」としての『精神現象学』の批判的研究 -』早稲田大学出版部、2012
大澤真幸『新世紀のコミュニズム - 資本主義の内からの脱出 -』NHK出版、2021
高橋一行『知的所有論』御茶の水書房、2013
—   『カントとヘーゲルは思弁的実在論にどう答えるか』ミネルヴァ書房、2021
マルクス, K., 『資本論①』岡崎次郎訳、大月書店、1972
—   「フォイエルバッハに関するテーゼ」『ドイツ・イデオロギー』真下信一訳、大月書店、1965
ジジェク, S., 『ポストモダンの共産主義 - はじめは悲劇として、二度めは笑劇として -』栗原百代訳、筑摩書房、2010
—  『終焉の時代に生きる』山本耕一訳、国文社、2012
—  『絶望する勇気 - グローバル資本主義・原理主義・ポピュリズム -』中山徹、鈴木英明訳、青土社、2018
—  『パンデミック - 世界をゆるがした新型コロナウィルス -』中林敦子訳、ele-king book、2020
—  『性と頓挫する理性 - 弁証法的唯物論のトポロジー -』中山徹、鈴木英明訳、青土社、2021
Žižek, S., Less Than Nothing – Hegel and the Shadow of Dialectical Materialism –(Verso, 2012)
 
(たかはしかずゆき 哲学者)
 
(pubspace-x8415,2022.01.27)