移動の時代1 – 東浩紀『観光客の哲学』論 –

高橋一行

   
   東浩紀『ゲンロン0 観光客の哲学』を参照し、その批判をしつつ、拙論を述べる。3回程度連載の予定である。
   この本は題名の通り、観光客の哲学が主題である。観光客とは、特定の共同体にのみ属する村人でもなく、どの共同体にも属さない旅人でもなく、特定の共同体に属しつつ、時折別の共同体を訪れる人である。
   しかしここで直ちに疑問が生じる。世界は村人と旅人と観光客の三つから成り立っているのか。ほかにはいないのか。そうではない。すぐに思い付くのは移民である。彼らはある共同体を追われ、または自ら捨て、別の共同体に入ろうとするのだが、そこで正式な共同体の一員だとは認めてもらえない。そういう人たちがいる。いや、そういう人たちがいるという話ではなく、世界は今や移民で満ち溢れている。東は20世紀は戦争の時代であり、21世紀は観光客の時代であると言うが、私は21世紀は移民の時代であると思う。しかし東は移民を論じない。
   ほかにも留学生や海外駐在員がいる。彼らは観光客ではない。国内で単身赴任をしたり、出稼ぎに出たりする人もいる。グローバリズムについての新たな思考の枠組みを作りたいというのが、本書の狙いだと東は書いているから(p.31)、ここでは海外に出掛けて行くことを考えよう。それで上述の、観光、移民、長期短期の海外滞在を全部ひっくるめて、私は移動と言い、それを論じなければならないと思う。しかし東は観光客だけを論じる。それは周到に用意された戦略のもとでそうしているのであり、それを批判するには、こちらも入念な準備がいる。
   ひとつの戦略としてまず、不必要なこと、つまり偶然性を重視したいと東は言う(p.34)。観光はそういうもので、だから観光客に着目したいということなのだけれども、しかし私は人生はそもそも偶然に成り立つのだと思う。偶然とは別様にあり得たということで、そもそも偶然に与えられた選択肢の中で、たまたまある選択をする。そのようにしか人は生きて行かれず、私は人生そのものが旅であるという平凡な結論に至るのである。つまり移民も留学も海外駐在も偶然の結果である。ほかの可能性はいくつもあり得たのだけれども、そして必ずしも本人の意志によるのではなく、外的な要因によって、そうせざるを得なかったというところが大きい。要は政治的ないしは経済的な必要性から生じる行動をここに含めたくないと東は言っているのであり、その発想が批判されるべきである。
   東の現状認識は、次の様に示されている。現代はナショナリズムの時代でもなく、グローバリズムの時代でもなく、そのふたつの秩序原理が政治と経済のふたつの領域にそれぞれ割り当てられていると言う。それを二層構造の原理だと言う。
   ここに問題が現れている。政治と経済の二分法が問題となる。東はここでシュミット、コジェーブ、アーレントと論じるのだが、ここでは分かりやすくアーレントだけ取り挙げる。東の説明によれば、アーレントの考えは次のようにまとめられる。人間は政治的な議論をしたり、社会奉仕をする「活動」と、賃労働に典型的に表れているような、自分の欲望を満たすための「労働」をする。このふたつは、公的な活動と私的な活動と呼ぶことができ、完全に対立している。そして人間が人間として生きるには、「労働」ではなく、「活動」が重要なのだとアーレントは言う。
   この考え方が批判されなければならない。現代の大衆社会では、ナショナルなものとグローバルなものが併存するが、その際に国家=政治は思考の場、市民社会=経済は欲望の場だと言うことができると東は考える。そのふたつを一元論的に繋げて行くのではなく、そのふたつからはみ出るもの、つまり観光客を論じることによって、このふたつを繋げられないとかというのが東の問題意識である。もう少し正確に言えば、欲望に忠実に、つまり市民社会=経済に留まったまま、そこから公共的なものに繋がらないだろうかと問うのである。言い換えれば、グローバルなものが与える快楽を肯定しつつ、また経済的な、ないしは無意識の欲望を否定することなく、なお普遍に至ることができるのではないか。
   私はこの東の問題意識に一旦は同意するのである。しかし何かがおかしくないかと思う。一体、アーレントたち、東の取り挙げる現代の思想家の頭の中なら、政治と経済は対立するかもしれない。しかし何か間違っている。それはただ単に現代思想の欠点を示しているだけの話ではないか。そもそも経済を否定し、政治を称揚するのはごく限られた人たちの間でなされるに過ぎない。
   つまりこのように現代思想をまとめるのだが、そうして私はそのまとめ自体は正しいと思う。ただそれは現代思想が世界の問題を矮小化してしまっただけの話で、そのために根本的には資本主義と近代国家という、ここで対象にすべき領域が十全に把握されなくなったのである。観光客の出現は、大衆社会、消費社会、情報化社会と呼ばれる社会が象徴的に生み出したものだから、それを取り挙げて論じることは正しいし、必要な作業である。しかし観光客だけではなく、少なくとも移民の問題も、またその他の移動についても、同時に論じないとならない。東が戦略的かつ意識的に考察の対象から外したものを、私はあらためて取り挙げないとならないと言っているのである。
   さらに言えば東は、現代思想の中で、現代思想を批判することによって、観光客を正当化しようとし、それは実に観念的かつ限定された領域の問題に過ぎないのに、しかし実際には、彼は観光客の組織をし、様々な企画を打ち出している。東のその問題を取り挙げる姿勢は極めて実践的でかつ有意義なものだ。そのギャップが私には不思議に思われる。
   何度も繰り返すが、私はとりわけ移民の問題を取り挙げたい。そして東に対する批判の第一は、上述のような現代思想における政治=ナショナルなものと経済=グローバルなものの対立からは、その両方からはみ出る移民という存在を扱うことができないということだ。経済を批判して政治を重視する現代思想を批判すべく、経済を肯定して、それが政治に繋がり得る観光客に着目するというのは、現代思想批判としては十分成立するかもしれないが、現代の問題の本質がそこに集約されているのだろうか。
   例えば保守主義者においては、ナショナルなものとグローバルなものは対立しない。グローバルに活躍し、そしてその思想的基盤をナショナリズムに置く。そういうことが平然と行われる。その保守主義こそ問われるべきである。つまり保守主義をきちんと批判することによって、移民の問題が取り挙げられるのではないか。あるいは移民にとって、最も脅威となる思想は保守主義なのではないか。そういう問題意識が東にも、また東が批判する現代思想にもないのではないか。
   今ここで問われるべきは、近代国家と資本主義という枠組みなのではないか。それを問う時に、私の戦略では移民は重要な視点である。
   もうひとつ東の理論で批判されるべきは、このアーレントたち、現代思想の考えはヘーゲルに由来すると考えられていることである。ヘーゲルこそが人間は国家=政治の中で成熟するものであると考えたのだと東は言う。そこのところで大きなヘーゲルの誤読がある。そしてヘーゲルの誤読の前にカントも誤読する。正確に言えば、現代思想が皆そうするように、カントは自分に引き付けて読み込み、ヘーゲルに対してはそういうことができないものだから、ここはきちんと読解することなく、拒否する。東にもそのことが顕著に見られる。以下、まずはカントを東がどう分析しているかということから論じて行きたい。
   まず初めの内、東はカントを正確に読んでいる。『平和論』の第二章の三つの確定条項を東は次のようにまとめる。まず各国家における市民体制は共和的でなければならないということ。この場合、共和的というのは、行政権と立法権が分離している政治体制のことである(注1)。第二に、このような自由な諸国家が国際連合を作るということ。ここで注意すべきは、カントは世界共和国に対しては否定的だということである。そのような組織ではなく、「消極的な代替物」としての連合体をカントは考えている。そして第三に、世界の様々な諸民族は、自由に他国を訪問し合うことができるというものである。
   さてしかし、成熟した市民が成熟した国家を作り、それらが集まって国際連合を作って平和が訪れるという発想では、成熟していない国家を排除するということを意味して、そして現実的に世界には「ならず者国家」がたくさんあり、彼らはそもそも国際的な秩序に入って行くことを拒否しているのに、国際秩序の方が彼らを拒否したのでは、ますます悪循環に落ち込むことになる。つまりカントの理論では平和は訪れない。カントも実はそれを良く理解していて、そこで提出するのが商業精神である。人々は商業精神という利己心を通じてしか結合できず、しかしそれこそが各国家を国際連合の成立へと誘う。
   さてそこまでは東のカント理解は正確だと言える。問題はそのあとである。カントは成熟した諸国家が成熟した国際秩序を作り、平和が達成されるという道筋を付けるのだが、それとともにそこから外れる利己心と商業精神をも提示したと東は言う。そしてその外れる道こそが、東のここで論じたい観光客を正当化するものであり、利己心と商業精神を持った観光客こそが平和の条件を作るとするのである。
   ここで東は決定的にカントを読み違えていると私は思う。カントの本筋はあくまでも理性的なもので、しかしそれでは平和に至らないから、そこから外れたものを重視するという読み方を東はするのだが、しかしこの利己心と商業精神は、カント『平和論』の中心的な概念なのである。つまりカントはここで意識的に功利主義を説いているのである。戦争は損だからしてはならないと言っているのである。そのことに気付かないとならない。カントは繰り返し、「互いの利己心を通じて諸民族を結合する」とか、「普遍的で理性的な意志ではなく」、「利己的な傾向を用いて」平和に至らせると言う。さらにここで重要なのは、その主体は自然である。つまりここで読み取らなければならないのは、功利主義的な自然の目的論なのである。
   こういうことである。『平和論』の第一補説の議論は次のようになっている。自然は人類を地球の隅々にまで分散させ、そこで人が互いに集団で争うという傾向を利用して、国家を作らせ、国家は法的な関係を作って、国力を充実させる。人をそのように向かわせるのは戦争である。つまりここで論じられているのは、戦争の必然性である。国家を成熟させるのもこの戦争であって、道徳法則ではない。この戦争を好むという傾向によって、「人間は道徳的に良い人間になるよう強制されないが、良い市民になるようには強制される」のである。こうして競争の上に力の均衡が作られる。ここで商業精神が出て来る。「金力こそが最も信頼できる力である」とカントは言う。ここでも道徳ではなく、とカントは断った上で、また世界市民法の理念だけではできなかったことを、この金の力が「あたかもそのために恒久的な連合が結ばれているかのように、調停によって戦争を防止する」のである。それが自然の狡知である。
   つまりここから導き出されるのは、功利主義的なカントであるはずなのに、東はそう読み取らず、功利主義をカントの本筋から外れたものだとみなす。そしてカントの単線的な歴史に反抗しなければならないとして、観光客にその役割を担わせるのである。
   人間は利己的で戦争が好きなのだけれども、しかしそこにしか平和に至る道を見出せない。その戦争を通じて、しかし戦争は得するものではなく、経済競争によって、それを克服しようと言うのである。むしろここで感じられるのは、平和に至り得るという楽観ではなく、人間はどうしようもないほどに利己的であるという悲観論であり、強調されているのは、戦争の必然性なのである。その中でどうやって国家間、さらには国家を超えた人々のネットワークを作るのかということである。そしてこのネットワークがぎりぎり平和に向かうかもしれないと期待する。漂っているのは絶望である。しかし何とか平和に向かい得るほどの力をこのネットワークに持たせたい。
   ここで誤解されるのである。高々国家間の、及び国家を超えた人々のネットワークで良いのに、そしてそれしか望めないのに、なぜか世界共和国が求められてしまう。なぜそこまで至らないとならないのか。どうやらカントを論じるとなると、とにかくまずは世界共和国が想定されていて、しかし上述のカントの論理ではそこに達し得ないけれども、そこから外れるものに着目すれば、何とかその可能性が見えて来るという論法なのではないか。しかし文字通り読めば、商業精神は経済活動を促すものだろう。戦争という競争意識が国家を成熟させるのだけれども、さらにそこに経済競争が加わって、国際的なネットワークを作らせる。つまり経済のグローバルな関係を作らせ、それが政治的にも働いて、平和に至らせると読むべきではないのか。
   『平和論』を読み込むことなく、カントと言えば道徳論で知られる哲学者で、道徳から考えて平和を求めるべきだと考えたり、平和を統制的な理念として、つまり現実的には不可能だけれども、理想として設定すると考えたり、さらにはそこから世界市民だの、世界共和国を夢見たのだと考えると、カントの面白さを読み落とすことになる。東は必ずしもそういう読み方はしていないのかもしれないが、しかしなお同じ発想をしていると批判することはできる。
   また先の三つの確定条項の内、最初のふたつ、つまり共和制になるということと、国連を作るというのは、その主体は国家の話で、最後の人々が自由に他国を訪問できるというのは、主体が市民で、そこには大きな進展があると東は考えている。つまり国家の成熟によっては平和に至り得ず、そこから外れた市民の活動によって、平和が至るのだと考えている。しかしカントは次のように言っている。最初の確定条項において、共和制になるとなぜ戦争が避けられるかと言えば、そこでは国民が損得勘定で、戦争を損だと思うからとカントは書いているのである。共和制においては、独裁制と違って、物事を決めるには国民の賛同が必要で、国民は戦費その他あらゆる戦争の苦難を背負い込まねばならず、「この割に合わない賭け事」に慎重にならざるを得ないと言うのである。共和制において、国民が政治的ないしは道徳的に成熟すべきであるとは書かれていない。最初から『平和論』は損得感情の問題を論じている。商業精神とは文字通り商業の精神である。得するためには、戦争よりも、経済の競争をした方が良いということだ。
   もちろんカントを批判することはできる。私たちは経済競争が戦争を導くことを知っているからだ。そこは時代の制約で、まだ国家を超えたネットワークがない時代に、それができれば何とかなると考えるのは当然の話で、私たちはその上で、現代的なネットワークを作るべきである。それは本稿の以下の章で扱う課題だ。
   東の、第一の共和制の主張と第二の国連の主張は国家の問題で、そのふたつでは実は世界共和国はできないから、第三に人々が自由に訪問できる権利を加えたのだという説は、それはあまりに自分の考えにカントを惹き付け過ぎている読み方である。カントは、『法論』で、本来地球は人類が共同で所有しているものであると言っている(注2)。これがカントの出発点である。そして『平和論』第一補説において、自然が、戦争によって地球上のあらゆる場所に人々を分散させ、そこで国家を作り、国家を発展させる。何度でも書くように、カントの『平和論』は実は戦争の必然性を論じた本なのである。そしてその戦争が国家を作らせ、そののちは、戦争は損だから、戦争をやめようという意識が人々の中に生じる。これが共和制の特徴だとしている。つまり損得勘定で戦争に代わるものを見付けて行く。戦争に代わる競争として商業精神、経済競争があり、それが国家間を繋いで行く。そして国家を超えたネットワークができると、人々はそこで自由に他国を訪問できるようになる。それで、地球は本来人類の共有財産であったという最初の段階で成立していた理想が、国家の発展を通じて再び実現される。それは壮大な自然の目的論と読むべきなのである。
   カントのこの功利主義的な目的論は、カント第三批判、すなわち『判断力批判』の後半部で展開されている。ここでの記述が『平和論』に呼応している。しかしこれはカントの第一批判や第二批判の考えとは大きく異なっている。つまりここで問われているのは、カントをどう見るかという問題だ。逆に言えば、カントはいくつもの視点で読み替えが可能だということにもなる。
   ヘーゲルだとこういう読み方ができないから、ヘーゲル以降の思想家はヘーゲルをあっさりと捨て、そして精読することなく、批判することになる。さて次はそのヘーゲルを取り扱う。
   ヘーゲルを論じる際に厄介なのは、世間には通俗的なヘーゲル像が堅固に作られていて、まずはそれを批判しなければならないというところにある。それはまともなヘーゲル研究者たちが懸命にしていることであって、まずは彼らの著作を頼りにそういう作業をしてみる。次いで私は、私自身のヘーゲル像を作りたく、作業を続けて来たので、それを披瀝したいと思う。つまり二段階に分けてヘーゲル像を構築したいと思うのである。
   先に東のヘーゲル観を見て行く。ヘーゲル『法哲学』で問題とされるのは、家族、市民社会、国家という三分法である。そこで東は、家族や市民社会ではなく、国家だけが人を成熟させるとヘーゲルが考えていたと言う。しかしそれは間違いである。シュミットならそう考えていたかもしれない。つまり経済活動が主たるものとなる市民社会では人は成熟せず、国家において政治的な思考をすることで、人は成熟するという考え方はあり得る。しかしヘーゲルはそう考えていない。
   ヘーゲルは段階的に物事を考える。人はまず家族で成熟するのである。家族で出来ることは家族で済まそうとする。しかしそれでは不十分であるとなると、市民社会に進む。市民社会で人がいかに成熟するかということをヘーゲルは詳しく書いている。大部分の人にとって、もう市民社会ですべてが十分であり、この段階で満足する人も多いというほどに、ヘーゲルはこの段階を重視する。そこで仕事に付き、つまり経済活動をする。しかし最終的にはそれでは不十分な面もあり、それを克服するために人は、国家を求める。そういう話である。市民社会で満足してしまう人も出て来るのは織り込み済みだ。
   ヘーゲル『法哲学』の中で、家族、市民社会、国家という順に集団が発展するというのは確かにその通りである。ヘーゲルの言葉を使えば、普遍と個別が未分化の段階、それが分裂する特殊な段階、両者が克服される段階と三段階であるが、重要なのは、ヘーゲルにとって、特殊な段階こそ、もうほとんどそこに最後の普遍と個別が合致する段階が示唆されているということである。さらに私は、実は最後の段階というのは、二番目の段階とその内実は大きく変わらないと思っている。
   子どもは家族の中で育ち、やがて大人になって、別の家族を作る。各家族が繋がる場として、市民社会がある。市民社会では人々は欲望を持ち、それを満たすために労働をし、財産を作る。ここでは経済活動が重要な役割を果たしている。そしてそこで生じる問題に対処すべく、行政(Polizei)と呼ばれる組織が必要で、また職業団体も必要とされる。そこでさらに政治的にも訓練を受けて国家に進むというのが、粗筋である。
   ヘーゲルの市民社会論は、私はこれは良くできていると思うのだけれども、つまり個人は欲望を持ち、それを経済法則や法的諸関係の中で実現する。経済はここでひとつの重要な論点である。ヘーゲルの論理では、特殊の段階でかなりの程度満たされる。つまり市民社会=経済=特殊の段階が重要だということは強調しておく。
   次の論点は、ヘーゲルの体系は国家で終わらないということである。
   確かにヘーゲルの記述を見て行くと、国家が最高の段階で、そこで人は自由を感じるかのように書いてある。戦争がその最も顕著な場合で、そこで個人は全面的に国家に協力する、つまり国家の犠牲になるべきことが説かれる。しかしそれは国家の段階においてはそうであるということにすぎず、実は国家は人間の集団の最終段階ではない。そもそも国家が戦争をするということは、国家が実体ではないということを示している。つまり国家は他の国家と並ぶ一個別に過ぎない。それは他の国家と関係を持ちつつ、次の段階に進むべき存在である。ヘーゲルの論理に従えばそうなる。
   実際にヘーゲルの記述を拾ってみる。「国家が国家として互いに承認しあうということの内には、戦時においてさえ、・・・互いにひとつの絆が失われることなく存続するということが含まれている。…戦争のさなかにおいても、戦争は過ぎ去って行く一時的なものとして規定されている」(338節)。「国家と国家の関係は動揺している。それを仲裁する法務官はいない。諸国家の上に立つ法務官は即かつ対自的に存在する普遍的精神、すなわち世界精神だけである」(339節補遺)。すなわちヘーゲルは世界共同体を考えているのではないが、しかし国家と国家の間に相互承認する関係があるとしており、それは先の私がカントを説明する際に使った表現をここでも使えば、国家と国家の間にはネットワークがあり、そのネットワークは確固とした組織、つまり「法務官」ではないが、しかし個別の国家を何らかの形で制約するものなのである。ここで私は先のカントの世界観がより動的に規定されていると考えるのである。
   確かにヘーゲルの記述では、国家で個人の自由が完成されるかのような書き方をしている。しかし『法哲学』の目次は国家で終わらない。そのことの意味を考えるべきである。つまり現実的にはヘーゲルは国家の段階までしか考えられなかったけれども、ヘーゲルの論理は、国家を最終段階にせず、さらにその上を示唆したのである。それが短い記述となって残っている。家族、市民社会、国家と論じて、さらにその上で、国家は対外主権として他国に向かい、国際公法を経て、世界史というカテゴリーをヘーゲルは提出する。その世界史を私は、国家を超えたネットワークと読んで行く。
   ここでは個別としての国家が特殊な段階に入っている。人々はその特殊な段階での国家にナショナリズムを感じる。そしてそのナショナリズムで物足りなくなったら、その上の普遍を求める段階に進む。それが世界史という言葉でヘーゲルが言わんとしていることだ。
   実はこの二点で東のヘーゲル理解の不十分さは批判できるのである。ヘーゲルは市民社会=経済を低く見ている。国家=政治こそ重要なものである。国家=政治によって、市民社会=経済は完全に克服されねばならない。このように東はヘーゲルを解釈し、この点でアーレントとヘーゲルは同じだと考えている。しかしヘーゲルこそが、市民社会の原理を詳述し、それがマルクスに影響を与えている。マルクスの労働の哲学を基礎付けをしている。そのマルクスを、アーレントは向きになって批判する。つまりヘーゲルの論理にあって、市民社会=経済は特殊な段階なのだけれども、この特殊な段階こそ十分尊重されねばならず、その中にしか普遍に至る契機はない。私はこのようにヘーゲルを読んで来たのである。
   次に今度はその普遍である国家が個別となって、他の国家と特殊な関係を築く。そしてその上に国家間のネットワークという普遍的な段階がある。そのことはグローバリズムの時代になってやっと十分に気付かれるようになった。そして今度は、その段階においては、国家の役割こそが重視されねばならない。つまり国家は越えられるべき存在であると同時に、その役割もまた十分に尊重されねばならない。ここでも普遍に至る契機は特殊の内にしかないということが確認される。
   さてその上で私自身のヘーゲル像を提出する。まず次のことを指摘する。『法哲学』は『精神哲学』の一部として構想され、またその『精神哲学』は『エンチュクロペディー』つまり「哲学の百科事典」の中に位置付けられ、それはまた『自然哲学』の次に位置付けられる。具体的に言えば、自然が発展して、その中から精神が出現し、精神は最初は個人的なものとして生成し、やがて社会の中で展開される。それが客観的精神、つまり「法哲学」なのである。
   さて『自然哲学』において根本とされる考え方は、ひとつは自然に自己組織的な原理があり、それが生成の原動力になっているということと、しかしそもそもの根本は偶然に基づくということだ。自然は偶然に満ち溢れており、その中から偶然に精神が出て来たのである。精神の歩みもまた偶然性に根本的に規定されている。
   第二に自然の展開、つまりそれはヘーゲルは論理的な展開と考えているのだが、それを時間的なものと読み替えるとまさしく進化論になるのだが、そして進化の過程において、様々な生物が共存しているという事実を忘れてはならない。最も進化した生物だけが生存を許されているのではない。また進化も直線的でなく、様々に分岐する。その結果、自然は驚くべき程に多様である。また精神の進展において、一時的に停滞することをヘーゲルは病気と称したが、注意すべきは、病気は必然的であること、つまり進展の途中で必ず停滞があることを確認したい。またその病気からの回復は習慣の獲得によってなされるとされているが、それはかなり重要な意味を持って来る。つまり反復的に習慣を身に着けることによって、何とか精神は病を克服したと思うのだけれども、本質的には完治することなく、私はそれを寛解という専門用語を使うのだが、つまりとりあえず治ったとは思うのだけれども、容易に再発し、生涯その病を繰り返す。そういうものとして考えられている。ヘーゲルの体系は、「偶然の自然哲学」、「病の精神哲学」と呼ばれるべきものなのである。
   このようにヘーゲルを読むこと、つまりヘーゲル自身によって、ヘーゲルを批判して行くという作業は、世界の認識に貢献する。世界は流動化している。そこには大規模な移動がある。観光客は爆発的に増え、移民は既成の秩序を脅かす。留学生や海外駐在員も、短期のものであれば、それは観光客と同じ効果を持っていると考えて良いし、長期の場合、それはもはや移民と考えるべきなのである。世界をグローバルなもの=経済と、ナショナルなもの=政治という二層構造で捉えるのではなく、資本主義と近代国家が今大規模に変容している、その様をつぶさに見るべきである。資本主義も近代国家も、高度に発達したものから前近代的なものまで、様々なものがぶつかり合って、漂流している。そして重要なのは、その変化の速さは、私たちの認識を超えているかもしれないということなのである。それを論じるのが本稿の課題である。
   本当は私の東批判は、このカントとヘーゲルの誤読という一点だけになるのだと思う。東が観光客しか取り挙げず、私が移民の問題を取り挙げたいというのであれば、何もそれは東批判としてする必要はなく、私が私で勝手にすれば良いことだ。だから私の東批判はこのカントとヘーゲルの読解に限定して良いと思う。
   もうひとつ論じなければならないのは、東の観光客論は、ネグリのマルチチュード論と柄谷行人のアソシエーション論を東が読み直したものだということである。私はそこも批判したいのだが、しかしこれは東批判ではなく、ネグリ批判であり、柄谷批判になるはずだ(注3)。それが次の章の課題である。
 
注1
   ここでカントは民主主義を批判していると東は書くが、このことには注意が必要である。カントが批判しているのは、統治としての民主制、つまり古代ギリシアで見られたような、国民全員参加の直接民主制であり、しかし私たちが民主主義と言う時は、代議制民主主義を指しており、それは統治の問題としては一部のエリートが行うが、それを支えるのは国民の総意であるという建前になっていて、つまり正当性としての民主主義を指しているからである。そうすると私はここでカントの言う共和制とは、今の言葉で言えば民主主義のことであると言って構わないと考えている。
   さて共和制になると戦争が防ぐことができると言うのは、例えばラセットに受け継がれた。しかしこれは20世紀末の一時期の幸せな考え方である。私は原理的にすべての国家が民主主義を実現すれば、確かにラセットが言うように平和が訪れると思うけれども、そして世界の様々な国家は、経済水準が上がれば民主主義的になると思われていたのに、経済が発達しても一向に民主化しない国や、民主主義を達成していたのに、次第に劣化する国や、疾うに崩壊すると言われ続けて、なお独裁を維持する国や、民主主義以前の問題で、国家が崩壊してしまったりと、様々な水準の国から成り立っていて、世界のすべてが民主化するというのは不可能だと、これは21世紀に入ると誰もがそう考えざるを得なくなったと思う。
   そういう時代にカント『平和論』がなぜ重要かと言えば、結局こういうやり方でしか平和に辿り着けないと思われるからである。しかしその道は容易ではない。世界が民主化するだろうという期待は、20世紀末の短い期間にのみ感じることができたけれども、それは幻想に終わった。21世紀は民主主義が劣化する時代でもある。しかしそれにもかかわらず、長期的には民主化は進展するのではないかという期待を私は微かに持っている。世界は反動化し、振り子のように激しく揺れ、ときにまだ戦争も起こり得ると思う。しかしこれは本稿ののちの章で論じるが、女性の識字率は向上し、それが民主化を促している。そういう期待を持っている。
   また国家間のネットワークを作るのも、民主化した国同士の関係だけでなく、様々な制度の国が関係を作るということも、実際になされている。それがすぐに平和に繋がるとは思えないが、しかし先にも書いたように、そうやってネットワークを作る以外に平和に至る道がないと考えるならば、可能な限りネットワークを強めて行くしかないのである。そしてそのネットワーク作りに、観光客だけでなく、移民や留学生や海外駐在者が貢献するはずである。私はそのことを論じたいのである。道徳的に平和を求めるべきだとか、統制原理として、つまりはるか遠い世界に理念的に世界共同体が作られるという考え方ではなく、功利主義的に平和を求めて行くカントこそ、参考になるはずである。
 
注2
   『法論』とは『人倫の形而上学』の中の「法論」を指す。
 
注3
   この第1章も、東批判ではなく、デリダ批判になるはずのものだ。デリダこそ、ヘーゲルを批判する急先鋒だからだ。しかし私はデリダはかなり本格的にヘーゲルを読み込んでおり、その批判はまた別の機会にしなければならないと思う。
 
参考文献は、第二回掲載時に二回分まとめて提出する。
 
(たかはしかずゆき 哲学者)
 
(pubspace-x6596,2019.05.24)