主体の論理(9)身体は主体か、客体か

高橋一行

 
   谷崎潤一郎の「刺青」という短編をM. フーコーが論じている。小説の粗筋は以下の通りである。時は江戸、まだ「世間がのんびりして居た時分」、清吉という名の腕利きの刺青師(ほりものし)がいた。「彼の年来の宿願は、光輝ある美女の肌を得て、それへと己の魂を刷り込む事で」ある。そこに年の頃は16か7かという娘が現れる。実は清吉は以前、その娘の白い足を垣間見ている。「この足を持つ女こそは、彼が永年たずねあぐんだ、女の中の女であろうと思われ」、以来その女を探していたのである。清吉は偶然に彼を訪ねて来た、その女を口説き、さらには麻酔剤を飲ませて、女の背中に刺青を施すのである。
   谷崎は次のように描く。「若い刺青師の霊(こころ)は墨汁の中に溶けて、皮膚に滲んだ。焼酎に混ぜて刺り込む琉球朱の一滴々々は、彼の命のしたたりであった。彼は其処に我が魂の色を見た」。まさしく刺青師の魂が女の背中という対象を得て、そこに命を吹き込むのである。
   彫り物が終わる。「その刺青こそは彼の生命のすべてであった。その仕事をなし終えた後の彼の心は空虚であった」。女は湯を浴びて色上げをすると、「親方、私はもう今までのような臆病な心をさらりと捨ててしまいました。お前さんは真先に私の肥料(こやし)になったんだねえ」と言う。ここで主客が逆転する。清吉の魂はすべて女の背中に移っている。女は刺青を得て生まれ変わっている。自信が漲って、勝ち誇ったように、清吉を見下す。谷崎は、「折から朝日が刺青の面にさして、女の背中は燦爛とした」と記して小説を閉じる。
   これは主客の反転の物語であるとみなすことができる。まずは彫り物師としての清吉の魂が主体で、女の背中は格好の客体である。魂は見事に背中に移ることができ、今度は女の背中が主体となって、それを見る人を魅惑する。女はそのことを自覚し、その刺青ゆえに世にその名を轟かすことになるだろう。清吉はこうなるともう女に従うのみである。
   フーコーはこの刺青を施された身体をユートピアであると、「ユートピア的身体」という短い講演の中で言う。「身体はまた、仮面、化粧、刺青が問題であるときには、偉大なユートピア的俳優である。・・・刺青をすること、化粧をすること、仮面をかぶること、それは・・・身体を秘密の力、不可視の力との交信状態に入らせることなのである」(フーコー p.24)。「ある場合には、極限においては、まさしく身体そのものが、自らのユートピア的な力を自らの方に向け、宗教的なものと聖なるものの空間全体を、他の世界の空間全体を、反世界の空間全体を、自らに割り当てられた空間の内部そのものへと導きいれる、ということである」(同 p.26f.)。
   フーコーがこのように書くのには訳がある。まずフーコーは、身体を反ユートピアであると規定する。「私の身体、それはユートピアの反対物で」ある(同 p.16)。「私の考えでは、結局のところ、身体に抗して、そして身体を消去するためであるように、人はあらゆるユートピアを生み出したのだ。・・・ユートピア、それはすべての場所の外部にある場所であるが、それは私が身体なき身体を持つような場所、つまり美しく、澄み渡り、透明で、光に満ち、敏捷で、巨大な力能、無限の持続を」持つ(同 p.17)。ユートピアとは、「どこにもない場所」という意味であるが、それは身体を持たない場所である。それは妖精の国であったり、死の国であったりする。「魂、墓、精霊、妖精は、身体を奪い、瞬く間に身体を消し去り、その重さ、その醜さに息を吹きかけ、光り輝く永遠の身体を私に返してくれたのである」(同 p.20)。
   このように身体を反ユートピアと規定する、また反身体としてのユートピア論を展開しておいて、しかしそこから突如フーコーは前言を翻す。「しかし本当のところ、私の身体はそう簡単に縮減されるがままにはならない。結局のところ、身体は、それ自体、固有の幻想の能力を持っている」(同)。「理解不可能な身体、透過的であると同時に不透明な身体、開かれていると同時に閉じられた身体、つまり、ユートピア的身体である。ある意味では、絶対的に可視的な身体だ」(同 p.21)。「私がユートピアであるためには、私がひとつの身体でありさえすれば十分なのである。・・・私は先程、諸々のユートピアは身体に背を向け、身体を消去すべく運命付けられていると述べたが、それはまったく間違っていた。それらのユートピアは身体そのものから生まれ、恐らくそののちに、身体に背を向けたのである」(同 p.23)。
   つまり身体はユートピアそのものである。しかしここで重要なのは、身体はユートピアなのか、反ユートピアなのかということではない。身体はユートピアであり、また反ユートピアである。身体は反転する。その身体の両義性が問われている。
   そこに谷崎の小説が参照される。この小説において、女の背中という身体が如何にしてユートピアになり得るかということが語られている。ユートピアは女の身体において開花する。背中に受肉する。
   フーコーはここで単純に身体の優位を訴えてはいない。身体は魂がそこから離脱する反ユートピアであるのかもしれないが、この小説においては、身体の中に封印されていたユートピアが開眼し、飛び立つのである。つまり身体は反ユートピアでもあり、同時にユートピアでもある。
   岑村傑はA. コルバンの大著『身体の歴史』の導入のために書かれた著作の中の一節、「二十世紀の文学と身体 -ユートピア、目覚め、刺青-」という論文の中で、上述のフーコーの身体論に言及する(注1)。まず、デカルト以来の物心二元論の世界では、身体は精神に従属している。精神は理性の力によって、身体を襲う情念を制御する。19世紀の終わりまでは、主体を考慮する際に身体が考慮されことはなく、身体を考慮するにあたって主体が考慮されることはなかったのである。しかし20世紀になって、S. フロイトやM. モースやM. メルロ=ポンティが出て来て地殻変動が起きるのである。そこで初めて身体と精神の関係や、両者の不可分性が示されたのだとしている(岑村 p.273ff.)。
   私はこのことについて、以下で反論したいのだが、しかし一般的にこのように言われているのは確かであり、大勢としてはその通りであろうと思う。岑村の言うところをさらに追ってみる。
   20世紀になると、身体の復権が起き、今度は身体を絶対視して、精神を蔑ろにする動きさえ見られる。身体至上主義の登場である。しかしこういう反動は、心身二元論を克服はしない。必要なのは、身体を物質と精神の交わる場にすることではないかと岑村は言う(p.300f.)。そしてそのことをフーコーは谷崎の小説を介して主張しているのではないか。身体はユートピアであると同時に反ユートピアであり、つまり両義的であり、その両義の永遠の振動が、身体という問題の複雑さと魅力の源泉であると書く(同 p.283f.)。
   この岑村の指摘は正しいし、また文学を通じてこそ、身体の問題が浮かび上がると私も思う。私自身の積極的な文学論、つまり文学作品の中における身体論を、次号に展開したいのだが、本号では、そのための理論的な基礎をもう少し作っておこうと思う。
 
   ここでヘーゲルの身体論を見たい。それは所有論で展開されている。
   ヘーゲルの理論において、身体は客体として所有できるものである。このことは以下に詳述する。しかしもうひとつ、その反対の論理もヘーゲルは持ち合わせているということを先に言っておく。つまりヘーゲルは同時に、身体こそが主体であるとも言う。
   ヘーゲルは『法哲学』で、精神は身体を占有取得すると書いたあとですぐに、「だが他の人々にとっては、私は私が直接に持っている身体において、本質的に一個の自由な者である」と書く(48節)。また「他の人にとっては、私は私の身体において存在する」(同注)とも書く。つまり私とは私の身体そのものなのである。
   「他人にとって」というのが本質的なことである。そもそも主体とは他の人にとって存在するものである。他の人から自己へと降り返ってきたものが主体である。正確に言えば、主体とは他の人との相互承認を経て成立するものなのである。つまり他の人から見て、私の身体が私そのものなのだとしたら、私の身体が私であり、身体が主体である。
   この観点を押さえておく。しかし先の『法哲学』の箇所はヘーゲルが所有を論じているところであり、まずは身体は客体として意志に所有される。その間のことを正確に復習しておこう。
   私は2010年に『所有論』を出してから、ずっとヘーゲルの所有論にこだわっている(注2)。そこでは、ヘーゲル『法哲学』を参照して、所有の定義が三段階に分けて挙げられている。まずは労働による身体的獲得があり、物件を自分のものに仕上げ、それを自分のものであると社会に知らせる。これが占有取得である。次にこのようにして所有した物件を、人は使用する。これはその物件を使用できるのは、その物件を所有しているからだということでもあり、所有したものは正当に使用しないとならないということをも意味している。最後の段階が交換・譲渡・売買であり、ここでも所有しているものは交換・譲渡・売買できるということが意味されていると同時に、まさに交換・譲渡・売買できるからこそ、その物件を真に所有しているということになるということでもある。これが所有の定義である。
   ここで身体は所有される。つまり先の所有の定義がすべて身体に対しても当てはまるからである。つまり身体は客体として所有され得る。
   自殺がヘーゲルが挙げている例である(47節)。良いとか悪いとかという話ではなく、人が身体を所有しているからこそ、それを放棄して自殺することができるのである。とにかく人は身体を所有できるのである。私は売買春を例にしたら良いと思う。人が身体を売買できるというのは、人が身体を所有しているからである。
   しかし重要なのは、人が身体を所有しているということではない。人は身体を所有し、その所有した身体を通じて、自然に働き掛ける。これが先の身体的獲得である。つまり人は身体を所有することで、自然の物件を所有する。
   このことは、労働論として、ヘーゲルにおいては展開される。つまり身体はまず意志によって所有され、つまりまずは客体であり、しかしその意志によって所有された身体が、今度は自然に向かう。身体で以って畑を耕すのである。そうするとこの身体が自然に働き掛ける主体となる。意志と身体という主客の構造があり、次いで身体と自然という新たな主客構造が成立する。
   『小論理学』から引用しておく。これは「概念論」の「目的的関係」にある。ここでは主観的目的が、手段を通じて外的対象に働き掛けるということが説明されている。「人間の魂は、その身体を手段とするために、多くのことをしなければならない。人間はその身体を魂の道具にするために、いわばまずそれを先取しなければならないのである」(208節補遺)。魂はまずは身体という自然に属するものを自らの所有物にし、次いでその身体を通じて自然という客体に働き掛け、自然物を所有するのである。
   一方でヘーゲルはこのように論じておいて、しかし他方で、先に書いたように、人は身体を所有しているのではなく、身体が主体そのものだとも言う。
   加藤尚武はこの事態を、心身問題には心身分離と心身結合の両方の契機が必要であると説明している。所有できるということは、心身が分離されて、心が身体を所有するということである。ここに主客二元論が要請される。しかし先に書いたように、他者にとっては、私の身体こそが私の存在である。ここで他者が心身を統一する(加藤1993 第3章、加藤1986 p.266ff.)。
   このことは加藤1993では、ヘーゲル『法哲学』に即して語られ、加藤1986では、近代哲学史の文脈で語られる。
   つまり身体は主体であり、客体であり、両者は反転する。私は身体を客体として所有するが、その身体は他者にとっては、私そのものである。そして私は他者を通じて主体性を確立するのだから、身体はまさしく主体なのである。そこにおいて主客が統一されている。
   このことについて、加藤は次のように言う。デカルトからヘーゲルまで、心身二元論が支配していると言われるが、しかし心身問題でのヘーゲルの思索は、デカルトの座標から完全に自由である。そこでは他者こそが心身を統一しているからである。その際に注意すべきは、ヘーゲルがデカルトの二元論を克服したということではなく、そもそもデカルトの二元論は克服されるものとして設定されているということである。それはそもそも虚像である。デカルトの二元論が近代哲学の基本的な設定として支配的であるというドグマは何の根拠もない(加藤1986 p.267f.)。
   私の言葉で言えば、ヘーゲルが、デカルトに始まるモダンを克服したポストモダンの最初の思想家であるというのではなく、そもそもデカルトからヘーゲルまでの哲学がモダンであったということが虚構なのである。今まで人はモダンを批判するために、無理やりデカルトからヘーゲルまでをモダンに仕立て上げて、それを批判してきたのである。
 
   しかし私は身体を所有しているというのはまったく倒錯した話ではないか。私がまずは身体を所有して、しかる後にその身体が他者と交流し、その交流の中で私が作られるというのではなく、そもそも最初に身体活動があり、他者が見るのはまさしくその私の身体活動だけであり、そしてそれが私そのものなのである。それは言語活動がそもそも先にあり、それが他者との交流を通じて私を作っているというのと同じ話である。
   しかしそうすると所有とはどういうことなのかと問われるべきである。私たちはまず精神として主体性を確立し、その主体がモノを所有すると考えるけれども、しかし本当に主体が先にあるのか。またそもそもモノを所有するとはどういうことか。そのように問うと、所有と存在は分けることができないということに気付く。
   まずロックの時代、財産を「持っている」人が紳士「である」。マルクスの時代、資本を「持っている」人が資本家「である」。
   情報化社会において、つまり知的所有が主たる所有形態になると、そのことはさらに明確になる。専門的知識を「持っている」人が専門家「である」。
   所有がそもそもそういう性質を持っているのであれば、身体の所有も一層そういう性質を帯びる。だから身体の所有ができるとか、できないというだけの話ではない。この身体を所有している私を私と言うのである。身体を私が持っていると言っても良いのだが、それは同時に身体が私であるということでもある。ここで私は、人は身体を持つことができないということを主張するのではない。モノを所有し、知識を所有することができるという限りで、人は身体を持つことはできる。つまり身体をモノ化する、身体を売買するということができる限りで、人は身体を所有できる。それが望ましいものかどうかということはここでは問わない。しかし同時に私の身体は私そのものなのである。
   このモノを持っている私が、このモノの所有者としての私である。所有が主体を創る。このことが確認すべき第一点である。
   その際に、これも加藤尚武がしばしば言及するseinとhabenの問題がある(例えば、加藤2013 p.215)。「私は理性を持つ」と言うべきところを、ヘーゲルは「私は理性である」と言う。理性を所有することが私を創っている。「私は身体を持つ」という事態は、正確に言えば「私は身体である」ということが本当は先行し、その身体を持つ私がそこから創られ、それから主体としての私が身体を持つようになると考えるべきである。
   第二に、私は身体を所有するのだが、これが所有の根源である。そうしないと次の所有が始まらないのである。人は身体を所有し、次のその身体がモノを所有する。そして身体の所有が所有の根源ならば、身体の所有が主体化の根源である。
 
   加藤にはほかにも心身論があり、それも参照しよう。「ヘーゲルによる心身問題の扱い」を見る(加藤2013)。
   「ヘーゲルは心身二実体論の構図を根底から否定して、心と言われるものの発生を説明した」(同 p.195)。「ヘーゲルの描く自然から精神への発展の過程は、もっとも物質的なもののなかにも観念性の要因が存在していて、それが発展して、やがて人間の精神になる」(同 p.201)。「それは元々精神でないものが精神に変化するのではなくて、物質が精神の要素を内に持っていて、その内在的要因が発展する」(同)。このあたりのことについても、私はすでに論じている(注3)。
   するとヘーゲルの体系においては、精神は自然よりも高いということになる。ヘーゲルの体系では常にあとから出て来たものが上位の存在だからである。しかしその際にヘーゲルは興味深い単語を使う。忘恩(Undankbarkeit)である。この言葉は『精神哲学』第5節の補遺にある(注4)。精神は身体という自然から出て来て、自らを確立するのだが、それは身体のお陰なのだということを忘れて、自分の方が身体よりも偉いと思ってしまうのである。このことについて加藤は、この言葉の含みが、「精神よ、いい気になっていると身体から忘恩の復讐を受けますよ」と唯物論的訓戒を垂れているように思われると書く(加藤2013 p.208)。精神は自らを自然=身体よりも上位にあると思っているが、本当はそんなことはないのだということである。このあたりがヘーゲルの面白さである。
 
   人は身体を通じて労働をする。身体を介して社会ができる。労働と社会が人間を人間にするのだが、それはともに身体を通じての話である。さらに言語の起源が身体的な毛づくろいであるということを加えれば、身体の主体性と媒介性が明らかになる。私はここで、現在の猿が行う毛づくろいのような身体的接触を人類の祖先が行っており、それによって集団の連帯を維持してきたのだが、より大きな集団を維持するために、言語が発生したというダンバーの説を念頭に置いている(ダンバー)。毛づくろいという身体的な快感が社会の連帯の基礎にある。
 
   身体をこの時期に論じて、コロナ禍に言及しない訳にはいかないだろう。ここで人と人との触れ合い、接触がテーマになる。それを禁じるのがコロナを巡る問題の根本にある。しかしコロナ禍は、他者との肉体的近接を禁じることによって、逆説的にその重要性を教えてくれるものだとしたらどうだろうか。コロナ禍は、私たちが身体的に接することがまさしく私たちの社会を成り立たせているということを教えてくれたのである。
   さらにグローバリズムとは、身体を世界中に運んでいくことなのである。単に電子を媒体とする情報が瞬時に世界中を走り回るということだけを指すのではない。人々は移民として、または商談のため、または観光で、身体を世界の各地に運ぶ。
 
   精神と身体のどちらが主で、どちらが従かということについても、それは反転すると言うしかない。精神はしばしば身体を支配しようとする。しかし逆に身体に縛られる。
   以前論じ(注5)、かつ次回もこの続きを論じるが、精神はときに身体性を帯び、身体はまた精神的である。
   もう一度「刺青」に戻る。清吉の魂がまずは主体だが、次に清吉の指が主体となって、女の背中に刺青を掘る。そうして今度は女の背中が主体となって、女は世に打って出る。女の背中がこの小説の主役となる。
   身体は主体として世界に積極的に関わり、しかし客体として受動的な存在でもある。それは自らの存在そのものが美であると同時に、そこから魂が抜け出してしまうものでもある。つまり精神をユートピアと考えれば、身体は反ユートピアかもしれないのだが、しかし身体もまたユートピアになり得るものなのである。それは意志が働き掛ける対象であり、自ら能動的に自然に働き掛ける存在でもある。それは所有されるものであり、しかし所有されることで、今度は自然を所有すべく、乗り出していく主体でもある。この身体の両義性において、ヘーゲルとフーコーが呼応する。モダンを克服してポストモダンを主張するというのではなく、モダンの虚構性を暴く。
   フーコーはさらに愛について語る。指で相手の身体を愛撫し、互いに唇と唇を重ね合わせ、互いに視線の先にある顔を確認する。これが愛である。「愛もまた、鏡や死と同じように、あなたの身体というユートピアを宥め、沈黙させ、静め、それを箱の中にしまい込むようにしまい込み、それを閉じ、封印する。だからこそ愛は、鏡の幻想と死の脅威の極めて近い親類なのである。そして、愛を取り巻くこれらふたつの危険な形象にもかかわらず、人びとがかくも愛を交わすことを好むとすれば、それは愛において身体とはここだからなのである」(p.30)。
   一方谷崎の小説は、谷崎の被虐趣味も手伝って、男女の関係は一方的に見える。つまり男は無理やり女の身体に入れ墨を施し、そして刺青が完成すれば、今度は女が男を支配する。しかしその一方性が谷崎流の愛を作っている。このことは谷崎の他の小説を使って論じてみたい(注6)。
 
注1 コルバンは身体を論じる際に無視する訳にはいかず、いずれ論じることになる。
注2 所有論はヘーゲル『法哲学』の第1部第1章で展開される。また拙著(高橋2010)はヘーゲルの所有論を真ん中において、ヘーゲル以前とヘーゲル以後の所有論を論じている。
注3 自然から精神へというテーマは、拙著『所有しないということ』第3章で展開している。
注4 忘恩という言葉は、『小論理学』でも使われる。第12節の注にある。このことは加藤から教わった(加藤2013 p.209)。
注5 身体論は、本サイト「身体を巡る省察」(1) – (5)で扱った。
注6 自由奔放な女に振り回される男を描いた『痴人の愛』などを思い浮かべれば良い。
 
参考文献
ダンバー, R., 『ことばの起源 -猿の毛づくろい、人のゴシップ-』松浦俊輔、服部清美訳、青土社、2016
フーコー,M., 『ユートピア的身体/ヘテロトピア』佐藤嘉幸訳、水声社、2014
ヘーゲル, G.W.F., 『小論理学』(上)(下)、松村一人訳、岩波書店、1951、1952
—-    『精神哲学』(上)(下)、船山信一訳、岩波書店、1965
—-    「法哲学」『世界の名著44』藤野渉、赤沢正敏訳、中央公論社、1978
加藤尚武1986「法における心身問題」(初出1986)『加藤尚武著作集3』未来社、2016
—-   1993『ヘーゲルの「法」哲学』(初出1993)『加藤尚武著作集3』未来社、2016
—-   2013「ヘーゲルにおける心身問題の取り扱い」(初出2013)『加藤尚武著作集5』未来社、2019
岑村傑「二十世紀の文学と身体 -ユートピア、目覚め、刺青-」『身体はどう変わってきたか』A. コルバン他、藤原書店、2014
高橋一行『所有論』御茶の水書房、2010
—-   『所有しないということ』御茶の水書房、2017
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(たかはしかずゆき 哲学者)
 
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