「戦前回帰」を考える(十一)――近世の「神国」思想と民衆の「ルサンチマン」

相馬千春

 
(十)より続く。
 
十二、近世中・後期―近代初頭の「民衆」の「自己意識」とその「周縁」
 
   連載の(八)から(十)では、日本近代成立期の「民衆運動」について見てきたわけですが、ここからは、「民衆」の自己意識とその「周縁」を考察の対象にしようと思います。
 
1.近世の「神国」思想と民衆の「ルサンチマン」
   前回(十)では、<1871(明治4)年の土佐「膏取り一揆」で、「神国」という観念が、民衆の側から天皇の政府に対抗する文脈で使われていた>ことを取り上げました。「神国」という観念は、それが近世「民衆」の自己意識をどこまで規定していたかはともかく、少なくともその「周縁」には位置していたものである。そこで今回はまず「神国」という観念を検討したいと思います。
 
a. 古代的な「神国」観念の成立とその崩壊 
   「神国」観念の変遷については、佐藤弘夫『神国日本』(以下〈佐藤〉と表記)によって見ていくことにします。
   佐藤によると「それぞれの氏族が自分の祖先神を祀っていた段階では、神々のあいだに上下関係は存在」せず、「天皇家の祖先神の天照大神でさえも、なんら特別な存在」ではなかった。しかし「オホキミ」が「現御神(あきつみかみ)」としての天皇(スメラミコト)となると――今日の定説によれば、天皇号が初めて使われたのは天武・持統朝とのことですが――、状況が変わります。現実世界での天皇の権威上昇に呼応して、「天照大神の指揮のもと、有力な神々が一定の序列を保ちながら天皇とその支配下の国土・人民を守護する」という古代的な「神国」観念が構築されます。このような「天武・持統朝における神々の再編」を端的に反映するものが、『古事記』と『日本書紀』です。
   しかし、『古事記』に示されたような神々(氏族)の序列化は、律令制度の解体と荘園の成立によって崩壊し、寺社による領地をめぐる争いは、「神々の序列」をめぐる争いを不可避化させます。例えば、日吉山王社の縁起物語では「伊勢の神=天照大神は天に昇ってしまった」ことになっていて、「代わってこの世界を取り仕切っている神こそ、比叡山の仏法の威力を背景としてもつ日吉山王社だった」。また伊勢神宮においても豊受大神を祀る外宮が御師などの活躍によって力をつけると、「外宮神官の度会氏主導のもとに形成された伊勢神道では、従来天照大神の下位に置かれていた豊受大神が、立場を逆転してその上に位置づけられる」ことになった。
   こうした傾向は一般的なもので、「中世に入るとどの神々も口々に、みずからの優越を声高に主張するようになる」。まさに「神々の下克上(1)」が展開されていったわけです。
 
b. 中世的「神国」思想――「末法・辺土」であるが故の「神国」
   「下克上」が繰り広げられる「神々の世界」に秩序をもたらしたものは、仏教の論理でした。奈良時代には仏教は神々と結びつくようになりますが、このような神仏習合に基づいて中世的「神国」観が生まれます。
   それによると<時代は末法であり、日本は辺土=辺境である。だからこそ、衆生の救済のために仏はこの地に神として垂迹された。このように仏が神として垂迹した地であるから、日本は神国である>。(〈佐藤〉p.63およびp.77(2)
   仏教の論理に基づく「神々の体系」では、日本の神々が仏教の神々の下位に位置付けられるのはもちろんですが、中国由来の神々に較べても、日本=辺土の神々はその下位に位置付けられることになります。こうした日本の神々の役割は「末法・辺土」にある霊魂を彼岸=浄土に送り届けることと考えられていた(〈佐藤〉p.65)。
   このように中世的な「神国」は、その外部に彼岸=浄土を持つことで初めて成り立つものでしたから、偏狭で自尊的なものではありませんでした。
 
c. 近世「神国」思想―― 現世だけでなりたつ「神国」の登場
   ところが豊臣秀吉や徳川家康の世になると、「神国」観は別のものとなります。〈佐藤〉は、秀吉の1591(天正一九)年のポルトガル領印度総督宛書簡と、家康の1612(慶長一七)年のメキシコ総督宛書簡について次のように言います。
 

「どちらをとっても、中世的な本地垂迹・神国の理念の背後に常にあった遠い彼岸の観念はまったく姿をみせない。神が人間を他界浄土に誘うという発想も皆無である。代わって人間が日常生活を営む現世と、そこで機能する儒教倫理が浮上している。本地垂迹は他界と現世を結ぶ三次元世界での関係ではなく、現世を舞台とする二次元の平面世界での神仏関係へと変化を遂げている」(〈佐藤〉p.206)。

 
   この点については、田尻祐一郎「近世日本の「神国」論)」(角川書店『正統と異端-天皇・天・神-』所収。以下〈田尻〉と表記)の指摘も引用しておきましょう。
 

「辺土小国、劣機の日本という宗教的な自国意識は、決定的に後退した。南蛮世界図や坤輿万国全図……の影響で、天竺中心の世界像そのものが崩れたことが一つの原因である。と同時に、宗教的な中心=天竺を措くことで中国を大国とする意識から脱却するという中世日本の課題が過去のものとなり、天竺なしに自力で中国大国観を克服したということでもある(3)。」(〈田尻〉p.112)

 
   このように「神国思想」から他界(彼岸)が排除されると、現世=一国だけで「神国」が成り立つようになってしまう。そうなると中世的「神国」思想にあった「普遍的真理の実在に対する強烈な信念」=「自民族中心主義へ向かって神国思想が暴走することを阻止する歯止め」(〈佐藤〉p.207)は失われてしまい、近世の神国論は「さまざまなバリエーションをもっている」が、「共通する要素として……強烈な自尊意識」(〈佐藤〉p.210)を持つものとなると、佐藤は言います。
   もっとも神田千里によれば「[秀吉の]神国観を排他性や、謂われのない優越感の産物とみることは、少なくとも伴天連追放令に関する限り不適切と考えられる(4)」のだそうですから、近世の「神国」観が――初めからあるいは一般的に――排他的で独善的なものであったとすることには、慎重であるべきかもしれません。
   さて佐藤は、「強烈な自尊意識」の例としてまず増穂残口(1655~1742)を挙げていますが、残口をはじめとした国学系の「神国」観については、前田勉『近世神道と国学』(以下〈前田〉と表記)によって見ることにしましょう。
 
d. 「神国」・「日本人」と『穢多』――増穂残口の場合
   前田は「残口の特色は、……日本人はみな「神種」であるから、日本は神国であるという観念にある」(〈前田〉p.115)と言います。しかし、この「神種」である「日本人」なるものを成立させているのは、次のようなロジックです。
 

「残口は……金さえあれば「穢多でも皮剥でも」「人の上座」にすわるのだと、元禄・享保期の経済成長で生じた経済的な格差を「穢多」への差別意識に転化させ、「神胤」であるわれわれ「日本人」はそうした「穢多」とは異なっているのだと、「日本人」の誇りを説く。」(同上p.119)

 
   ここでは、「日本人の誇り」は「穢多」を貶めることで初めて成り立っている(5)。つまり残口の言説は<「他者」を貶めることで「自己」を尊いものとする>という構造をもっているわけです。前田はさらに、次のように言います。
 

「これは、明らかに「成揚者」にすらなれない、都市(直接には残口が神道講釈をした京都)の多くの民衆の不満・ルサンチマンをわれわれ「日本人」の「系図」の誇り……によって代償するものであったといえよう。/こうした残口の穢多への差別意識は、元禄・享保期の民衆のなかに潜んでいた差別意識だといえるだろう。」(同上)

 
   つまり残口の言説は残口個人のものではない。民衆のルサンチマンが、残口の口を借りて、次のような言葉となる。
 

「日本に生れたる者第一に知べき事は、三千世界の中に日本程尊き国はなし、人の中に日本人程うるはしきはなし、日本人程かしこき人はなし、日本程ゆたかなる所なしと知べし。」(『有像無像小社探』巻上、一八七頁)

 
   近年も「日本はスゴイ」という言説が氾濫しているようですが、残口はこうした言説の先達だった。そしてこの時代においても、こうした言説は民衆のルサンチマンの裏返しであったわけです。
  
e. 近世「神国」思想と「差別意識」
   さて前田は、残口の「差別意識に裏打ちされた民衆教化の論理」は、「本居宣長や平田篤胤らの国学につながっていく」と指摘する。 

「「我等モ神孫ジヤ」という「神胤」観念は、たんなるお題目ではなく、篤胤にとって中核的な位置を占めていた」(〈前田〉p.370-371)
   「「こよなく卑賤く見ゆる」外国人は「大名持・少彦名神」が土塊を丸めて造ったものであって、「外国もろもろの人草」は「神の御末胤ならぬ」存在であると、はっきり規定された。」(同上p.374)

 
    このような平田篤胤(1776 ~1843)の言説に「差別意識」を見て取ることは容易でしょう。ここには<「他者」を貶めることで「自己」を尊いものにする>という構造がたしかに見られる。「外国人」だけでなく、被差別民を貶めることも継承されています。篤胤の『出定笑語附録』巻二には次の文言がある。
 

「非人、穢多ナドモ、臭イモノノ身知ズ、トヤラデ己ガ身ノ穢ク、ケガラハシキコトヲ省ミズ……」(〈前田〉p.381)

 
   さて、<「他者」を貶めて「自己」を尊いものとする>ことが、前田の言うように「民衆のルサンチマン」の表現であるのなら、次のような視点も生じてくる。すなわち、<「幕藩制的身分意識」=「差別意識」は、単に幕府・藩などの体制側によって付与されたものではなく、むしろ「民衆」の側によって生産され、拡大されていったものと考えるべきではないか>。
   この点を考えるためには、私たちは、当時の民衆の自己意識そのものの考察に移らねばならないのですが、それは次回の課題とします。
 
   <被差別民を貶める>言説は、他にも見られるのでしょうか?
   前田は、森昌胤(伯家神道)の次のような言説(『神道通国弁義』巻上、宝暦十二年)を挙げています。
 

「今日に現在する人、一人も神代にもとづかさる血脈はなし。上の君が神にて坐す間は、臣下庶人も皆神なり。」(〈前田〉p.123)
「呉の泰伯が東に去ると云。……其子孫は今の穢多なるべし。……清浄国なる故に、牛馬猫犬などの家畜の死たるを、兎や角と取捌き兼たる所へ、彼泰伯東に去、日本に漂着し、当分食事の儲いとなみの業もなければ、捨たる所の牛馬を貰、皮をはぎて用物となし、肉を食したる故、繊多とは云ながら調法なる故に、幸住置たるなるべし。」(同上p.124)

 
   現代日本語にすれば、<今いる人たちは、「神代に基づく血脈」であって、「臣下庶人も皆神」である。だが、「穢多」は日本に漂着した者たちの子孫である。清浄国である日本では、死んだ家畜を取りさばきかねていたが、日本に漂着した者たちの子孫がそれを処理するので、彼らは「穢多」ではあるが、調法なので、住まわせておいたのだ>というところでしょうか。
 
   喜田貞吉「特殊部落と寺院(6)」――これは戦前の出版ですが――も、「神道家の方でエタを嫌った事はことに甚だしかった」として、玉田永教(7)『神道柱立』(1799(寛政11)年序)の「屠児は神国に住むといへども、神孫にあらず。故に神祭る事ならず、厠などへ行きても手水せず、親族の忌服をうけず、又不浄を見て唾吐く事を知らず」という言葉をその例にあげています。
   このような事例を踏まえると、前田勉の「「日本人」という民族の優越性と一体性の創出の論理が同時に、そこから排除するものを「神の罪人」として生み出していき、そこには、根深い差別意識があった」(〈前田〉p.124)という把握や、あるいは田尻祐一郎の「天照大神の後裔としての日本人という認識の通俗化は、その周辺の諸民族への蔑視を加速し……、或る場合には、国内の賤視された身分を、異民族として切り捨ててゆくことになった(8)」(〈田尻〉p.121)という把握は、適切なものと思われます。
 
f. 〈皇統の連続〉に根拠を置く「神国」観
   近世の「神国」観は、日本人=「神胤」という論理に依拠したものだけではありません。田尻は「実に多様な立場から、〈皇統の連続〉に日本の固有の価値を発見してゆく論が展開され、大勢を形作ってゆく」(〈田尻〉p.114)と言い、その例として、浅見絅斎、大我、本多利明、熊沢蕃山の思想を挙げています(9)
   田尻によれば、このような「日本の尊貴性を〈皇統の連続〉に求める見方」は「「神国」論の核心をなすエトス」なのだという。
   少し脱線となりますが、この点と関連して、田尻が「近世日本に「神国」論を浸透させるエトスの第二は、……武威=太平の意識である」としていることにも留意が必要でしょう。つまり近世「神国」論では、一般的には武家支配も重要な位置を占めていた。この点は、本稿の後の方の「金平浄瑠璃」にかんする注(12)でも触れますが、「富士講」の「神国」観などにも見られる点です(10)
 
g. 儒家と「神国」――「徳」の伝わる国としての「神国」
   次に、桂島宣弘「復古神道と民衆宗教(11)」(以下〈桂島〉と表記)によって儒家神道の「神国」観を見ておくことにしましょう。
   吉川従長(吉川神道)では「アマテラスは徳治を行なった「聖人」であると同時に、太陽としての側面では「理」とほぼ同義に位置付けられ」る。度会延佳(伊勢神道)では「アマテラスは朱子学的「明徳」と同義に扱われ」ている。また若林強斎(垂加神道)の『神道大意』では、「アマテラスが如何に上下の「礼」を尽くし、又、仁政を祭政一致の下に行なおうとしたかを強調することで、その徳の伝わる国=神国という論理構成が取られている」。
   こうして、儒家神道では「神国思想も、アマテラスの聖人化という作業を経て構成されている以上、中国の聖人と並存する形になっており、一定の相対性を孕む、従って非合理的絶対的主張にはなっていない」と桂島は言います。
 
   さらに近世日本の儒者になかには「神国」そのものを否定する論者がいました。
 

「いわゆる〈皇統の連続〉に、原理的に何の価値も見出さずに、自立した徳川国家を構想するという思想的方向は、二つあったと思う。一つは、新井白石・室鳩巣・佐藤直方らによる朱子学の或る傾向であり、他は、荻生徂徠・太宰春台と継承された思想である。これらの儒者は、いずれも「神国」論の磁場に入らない。」(〈田尻〉p.114)

 
   「神国」論に与しない儒家の存在は、近世・近代日本の政治思想を考える上で、重要でしょう。
 
h. 「神国」思想の「民衆」への浸透
   田尻によれば、「中世の民衆の中に、「神国」の語が受容されていたとは思えない」が、近世には「神国」思想は民衆に浸透していったのだそうです。
 

「例えば、「人は、正直を本とする事、是、神国のならわせなり」とは、『日本永代蔵』巻四(貞享五〈一六八八〉年刊)の一節であり、また、「日本は神国、世は呪(まじな)ひ」という俗諺のあったことを、西川如見『町人嚢底払』巻上(享保四〈一七一九〉年刊)は伝えている。こうした用例は枚挙に逞ないのであり、「神国」の語が、人々に深く浸透しはじめたことを示している。」(〈田尻〉p.114)
「近世社会は、爆発的な知識の普及=商品化の時代であり、記紀神話も幾人かの英雄神を中心にして急速に庶民世界に浸透していった」(田尻祐一郎「通俗道徳と「神国」「日本」」(思文閣『国家と宗教』所収)、p.326)

 
   近世には、寺子屋や私塾などの教育システム、講などの民衆的宗教組織があり、また出版物や講釈、演劇・芸能などの様々な媒体もありましたから、これらを通して、近世的な「神国」観――少なくともそのいくつかの潮流――が民衆に浸透することになった。例えば「金平浄瑠璃」によっても「神国思想」は波及したのだそうですし(12)、上で登場した増穂残口や玉田永教は講釈師でした。そして平田派は幕末には多くの門弟を抱えるようになっています(13)
   本来ならここで、より民衆に近いところにいた石田梅岩、あるいは民衆信仰としての「富士講」における、「神国」観にも触れておくべきでしょうが、これらについては田尻祐一郎の論文など(14)の参照をお願いすることにします。
   「神国」思想の「民衆」への浸透に関しては、<そもそも民衆は近世的「神国思想」をなぜ受け入れたのか>という疑問が生じるでしょう。この点は次回以降さらに検討しなければなりませんが、ここでは取り敢えず、その理由は「神国」が〈前田〉のいう「民衆のルサンチマン」を癒す「幻想」として機能したからだと把握しておくことにします。
 
i. 近世「神国」思想と天皇の権威
   さて、近世の「神国」思想と天皇の権威との関係については、以下の諸点については留意が必要でしょう。
   第一に留意すべきは、近世の「神国」思想一般が「天皇の権威の絶対化」をもたらすものではなかったという点です。この点は、ここまで我々が見てきたことから明らかでしょう。
   第二に、神々の秩序に関しても、「幕末国学で中心的役割を演じたのは明らかに皇祖神たるアマテラスではな」く、「中心に立つ神は、……創造神主宰神としての天之御中主神、産霊神であり、更に幽冥を宰る神たる大国主神(篤胤等)、産霊神(六人部)」(〈桂島〉)であった点があります。
   第三に、天照大神は、維新後も他の神々に対する優越的な地位を必ずしも確立しえず、「国家神道」なるものも「教義を欠いた祭祀」としてしか成立することができなかった。当然ながら、明治期の民衆的レベルでは、さまざまな神々が信仰されていて、さまざまな生き神たちも活躍していたわけです。確かに天皇も生き神であったけれど、それは「数ある生き神の中の1 人」にすぎなかった。岡本雅享は次のように言います。
 

「民衆にとって、強力な天皇霊を付着させていると信じられた天皇は、並々ならぬ生き神ではあるが、一方で、数ある生き神の中の1 人にすぎなかった……。/国造[出雲大社で祭祀をつかさどってきた出雲国造――引用者]や天皇が触れた物への信仰も、実は両者に特有のものではなく、当時は本願寺法主などに対しても同様の現象が起っていたという。……江戸時代における生き神は司祭者や、民衆から尊敬された領主、代官にも及んでいた。……幕末から明治初めは……民衆宗教上の卓越した生き神が活躍する時代でもあったのである」(岡本雅享「二人の現津神──出雲からみた天皇制(注)」p.94-95)

 
   さらに第四点として、〈皇統の連綿〉が日本の優位性として認識されるということは、かならずしも「定在(ダーザイン)としての天皇」の権威が高まることを意味しなかったのではないか、ということがあります。つまり「定在としての天皇」は「手段」として認識されていたのではないか。
   これに関しては、平田国学の場合、「天皇の権威」が実際には絶対化されなかった点を踏まえておくべきでしょう。たしかに平田国学では「顕界における倫理的有り方とは、アマテラスへの「忠誠」に他ならない」(〈桂島〉)ので、「それはやがて……天皇への絶対的服従を意味する」(同上)ことになるのですが、佐藤孝敏によれば、篤胤においては「天皇の存在も絶対でありながらそうでないところもみられる」という。
 

「「天下の人民を養育み給ふ御勤みも、麁略になり給」えば「天皇の御過失にて大御神の御心に叶はせ給はざりし故に、御護なくて」衰えることもあると説いている。宣長のいう揺るぎない天皇「絶対」の主張とは異なった考え方である。」(佐藤孝敏 「国学における「皇国」意識の展開と日常生活論」(思文閣『国家と宗教』所収)p.358)。

 
   こうした現実の天皇に対する批判的視点の保持は、必ずしも平田派だけのことではなかったでしょう。佐藤によれば、「中世の天皇は国家体制を維持するための非人格的な機関であり、手段にすぎなかった」(〈佐藤〉p.178)のであり、「神国にふさわしくない天皇は速やかにご退場いただく、というのが当時の支配層の共通認識だった」(同上p.164)。日本の古典のなかからこうした思想を見つけ出すのは比較的容易だったでしょうから、こうした思想を掌握していた者たちは、公言はしないまでも、天皇を「手段」として扱うことを肯定した(15)と考えても不思議ではないでしょう。
 
   また、これと関連して次のような推量も許されるのではないか。すなわち、〈我々〉は「神孫・神胤」であり、「臣下庶人も皆神なり」であるという思想から生じてくるのは、なによりも「臣下庶人」の「権威」だったのではないか。つまりこの観念によって、「臣下庶人」は政治的主体へと解放されることになったのではないか。
 
j. 再び土佐「膏取り一揆」について
   最後に、土佐「膏取り一揆」(明治4年)で、「神国」という観念が、「天皇の政府」に対決する文脈で使われたことの意味を考えてみます。
   信託のなかで「神国」という言葉を使った隅田教覚は、「醍醐寺の三宝院道場で得度している」(松田富夫「隅田教覚について(一)(16)」)と言われますから、その思想のベースは当山派(真言宗)修験者のものと考えてもよいでしょう。このことから直ちに教覚の「神国」観が明らかになるわけではないが(17)、その点は、ここでは、それほど重要な問題ではありません。私たちにとって肝心の点は、<一般民衆が「神国」という言葉から何をイメージしたか>なのですから。
   それでは、この「肝心の点」はどうか?近世の「神国」観の多様性からして、「神国」という言葉から民衆がイメージしたものも多様であったのかも知れないが、これまで見てきたことからして、この時代の民衆の「神国」イメージが、「定在としての天皇の権威」と結びつくものではなかったことは、容易に想像できます。だからこそ民衆は「天朝御政(18)」を拒否し、旧「藩主」に信頼を寄せた。
   注目すべきは、ここでは「神国」が民衆の側に立って語られていることです。「神国」という言葉は、昭和十年代には民衆を死に追いやるものとなったので、戦後にはそれは<国家権力が民衆を洗脳するために使った言葉>とされた。しかし本当にそうなのでしょうか。明治四年に民衆の側から発せられた「神国」という言葉は、<近世以来、実は民衆自身が「神国」観念を担ってきたのではないか>という問いを私たちに提示しているといってよいでしょう。 
 

(1)「神々の下克上」の語は、高橋美由紀による。
(2)〈佐藤〉はこうした「神国」観に立つ文献の例として「源平盛衰記」と『沙石集(しゃせきしゅう)』を挙げている。
(3)このような世界像の変容によって、「江戸の庶民は、十八世紀中葉からの富士講の流行という形で、須弥山に代えるに富士山をもってし、これを「三国のかなめ石」、天地万物創成の「本種」としている」(〈田尻〉p.112)というような事態も生じてくる。
こうした経緯を考えると、近世的「神国」観は、近代日本人の景観認識にもその影響を残しているのではないか。例えば、この連載の(五)で紹介した内村鑑三の言説「窓を排して西天に聳ゆる富獄を見よ。是れ亦天の特に我国に与へたる絶佳の風景なり」に近世的「神国」観の面影を見ることは不当だろうか。なお内村の「天壌と共に窮りなき我皇室は実に日本人民が唯一の誇とすべきものなり」という言説が近世的「神国」観の影響を受けていることは、言うまでもない。
(4)『シリーズ「日本人と宗教」――近世から近代へ 第二巻 神・儒・仏の時代』「第一章「天道」思想と「神国」観」p.41。
神田によれば、「秀吉の神国観の表明は主として、……イエズス会による日本の神仏への攻撃を非難する目的で表明されたもの」(上掲書p.43)であり、その神国観の背景には「天道思想」があるが、「天道思想の特徴の一つは、神仏信仰をすべて原則的に容認する点であり、他者の信仰対象に対する批判・攻撃を抑制する点である」(同上p.44)。
(5)残口の「日本人」観念が<日本人としての平等>を含んでおらず、反対に身分制秩序に執着するものであった点は踏まえておく必要がある。この点について前田勉(『シリーズ「日本人と宗教」――近世から近代へ 第二巻 神・儒・仏の時代』「第四章神・儒・仏の三教と日本意識」)は、次のように指摘している。
「インドの仏教と中国の儒学に対抗し、それらを頭から否定して強引に日本を前面に押し出す考え方が、一八世紀前半の日本意識の一つの特性だった」(p.124)
「インドの仏教と中国の儒学が平等主義の教えであるのにたいして、氏系図を重んじるのが日本であると説かれていた」(p.125)
「カネの世の中で、「たゞ明てもくれても利欲の沙汰のみにて一生くらし侍」ることになって、身分制秩序が乱されるという[『人鏡論』の]論説は、……増穂残口の認識と同じである……と同時に、敷衍すれば、そもそもインド・中国の平等主義を批判する一八世紀前半の日本意識が、どのような現状への憤懣から生まれたものであったのかを示唆するだろう。端的にいえば、「金の世界」にたいする憎悪である。」(同上p.132)
(6)喜田貞吉「特殊部落と寺院」はhttps://www.aozora.gr.jp/cards/001344/card54431.htmlによる。
(7)引野亨輔によると、玉田永教は徳島藩士であったが、失職して大坂天満に流れ着いて講釈師となった。玉田は寛政三年(一七九一)に吉田家に入門して神道講釈師となった。
「玉田にとって、吉田家門人という肩書きの端的な利点とは、その権威に物を言わせて神道講談の開催許可を取り付け、全国的な遊歴活動が可能となる事であった。彼の講談開催地は実に広範なものであり、北は東北諸藩から南は九州日向にまで及んでいる。」(引野亨輔「神道講釈師玉田永教の庶民教化と神祗管領長上吉田家」https://www.jstage.jst.go.jp/article/rsjars/79/4/79_KJ00004331413/_pdf/-char/ja)
(8)差別意識は国学者や神道家に限られたものではなかった。〈田尻〉(p.121)は、海保青陵の『善中談』から「唯穢多は元来外国より参りたる夷狭の種にして、我天照太神宮の御末にて無……」という言を引用している。 
(9)田尻に従って〈皇統の連続〉に根拠を置く「神国」観のいくつかの類型を確認しておく。
その第一は、君臣道徳の固定・絶対性の象徴として〈皇統の連続〉を捉えるもので、そのイデオローグとしては浅見絅斎が挙げられる。臣下からの主君への献身の道徳が、東アジア世界を通じての普遍の価値とされ、それを体現するのが〈皇統の連続〉であるとされる。田尻は「閉鎖的な性格をもつとされがちな〈皇統の連続〉賛美が、逆に普遍的な観点からなされていることが重要」であると言う。
第二は、〈皇統の連続〉を「日本の神秘的な固有性」として捉えるもので、近世仏教の中からもこうした議論が展開されていったとされる。(例としては大我『三彝訓(さんいくん)』(宝暦八〈一七五八〉年)が挙げられている。)
第三は、日本の国土の不可侵性の象徴として捉えるもので、その代表例としては本多利明『西域物語』(寛政十〈一七九八〉年)が挙げられる。これは「国土の神聖・自立は、宗教的な根拠によるのではなく、「神武の垂訓に依て武道を失はず」(同・上巻)と言われるように、武の国ぶりによる。そしてそれを象徴するものとして〈皇統の連続〉がある」という考えである。
第四は、「中国において既に亡びた古礼楽の保持」という観点から〈皇統の連続〉を意味づけるもので、その典型的な例としては、熊沢蕃山『集義和書』巻八から「もろこしよりも、日本をば君子国とほめたり。其故は、もろこしの外には、日本程礼楽の道正しく風流なる国は、東西南北になき事也。それは禁中をはします故にて候」という文言であるが挙げられている。
(10)大谷正幸は、食行身禄『一字不説お開身ろく之御世之訳お書置申候』〔成立は享保十四年〕から「(神が)天地のあらんかぎりわ源氏の御世お紀伊国御家え被下」という文言を引用している。つまり、神が「永劫に幕府を紀州徳川家の治下とし」たと認識されているわけである。(大谷正幸「富士行者・食行身禄は本当に「ミロク」だったのか」https://www.jstage.jst.go.jp/article/rsjars/83/3/83_KJ00005929511/_pdf/-char/ja )
また田尻祐一郎は、富士講第八世大行者・小谷三志(1765~1841)の思想に関して次のように言う。
「応仁以降の戦乱にあって、「大神宮」は留守をしていたのか逃亡したのか、民衆に何らの静謐をもたらさなかった。「東照大ボサツ様」とそれに続いた大名たちこそ、太平の世を実現した「いきがみ」なのである。/火ぶせ守・八町堀・町奉行様などが最もリアリティをもつ「生神」であり、それを手繰り寄せて将軍に行き着く。……こうした「生神」たちと、並置された形で「天子」は据えられているが、それは「天子」を「生神」とすることではない。」(『国家と宗教』所収、「通俗道徳と「神国」「日本」」p.324-325)。
(11)桂島宣弘「復古神道と民衆宗教」はhttp://www.ritsumei.ac.jp/~katsura/fukko.pdfによる。
(12)林久美子は「江戸の民衆の支持を得て一世を風靡した金平浄瑠璃」について「作品世界の底流にあるのは、皇室の正統性と、それを守る源家(徳川)による秩序の絶対性であり、日本は仏法王法がともに備わった神国であるという認識である」(笠間書院『日本人は日本をどうみてきたか』所収「浄瑠璃にみる神道思想」p.193-194)としている。
(13)奈良真由子は、「篤胤没年までの門人の数は553 名、没後は慶応期までに1330 人、明治9 年までには3700 人に達していた」としている。(奈良真由子『幕末維新期における平田国学思想の潮流』p.26、https://hirosaki.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=3298&item_no=1&attribute_id=20&file_no=1)
(14)〈田尻〉の他、田尻祐一郎「通俗道徳と「神国」「日本」――石門心学と富士講をめぐって――」(思文閣『国家と宗教』所収)、ならびに注8で紹介した大谷正幸「富士行者・食行身禄は本当に「ミロク」だったのか」を参照願いたい。
(15)「英将秘訣」には次の文言がある。
「家康は、最早天下は天下に還るフリあり、天子 を以てタヽキて是を矢玉にさへ使はゞ、公の如く吾 天下を自在にすべしといふ事を知りて、行ひたる也。 故に口には忠を云て身には自在を行ひたり。」
これは『坂本龍馬全集』(p.898)からの引用であるが、「英将秘訣」の著者には諸説がある。なお「英将秘訣」はhttp://adat.blog3.fc2.com/blog-entry-931.htmlにも掲載されている。
(16)松田富夫「隅田教覚について(一)」は隅田教覚について次のように記している。
「膏取り一揆の参謀格の隅田教覚について記してみたい。天保十四年、吾川郡名野川郷宗津の中谷に、修験の教法院円了(山了とも)の長男として生まれる。従って、膏取り一揆の明治四年には三十歳である。若い頃、出城国宇治郡醍醐寺の三宝院道場で得度している。土佐に帰り、父の跡を継いで、修験(俗にいう山伏・陰陽師)となる。当山派(真言宗)に属するが、明治二年、陰陽師が廃せられた後は、還俗、名を教学と改め、加持・祈禱により生計を立てている。」(『土佐史談』175号p.70)
(17) 念のため、真言宗に属する諦忍の「神国」観を田尻によって紹介しておくと、諦忍のそれは「日本の領土的不可侵=独立にこそ、「神国」の本質をみる」(〈田尻〉p.119)ものとされている。
(18)明治三年、柏崎県(当時)での大道芸「ちょぼくれ」は「やれやれ皆さん 聞へてもくんない 天朝御政は恐しものだよ」という文句から始まっている(『日本近代思想体系21民衆運動』p.87)。
 
(そうまちはる:公共空間X同人)
 
(pubspace-6488,2019.04.06)