身体を巡る省察5  病理が教えること

高橋一行

 
   メルロ=ポンティの初期の大作『行動の構造』(1942年)と『知覚の現象学』(1945年)にシュナイダーという男の症例が出て来る。それもひとつのエピソードとして取り挙げられるというのではなく、この症例は少なくともこの分厚い2冊の書物の中心的な役割を果たしている。すなわち前者の前半部の大部分、後者の第一部のほとんどの章で、メルロ=ポンティはこの症例に言及している。
   シュナイダーは1915年、第一次大戦で地雷の破片を後頭部に受けた軍人である。頭部の傷が癒合したのち、様々な行動障害を示すようになる。以下、具体的に『知覚の現象学』に即して説明したい。
   まず彼は眼を閉じている場合、運動をすることができない。言葉による命令に従って、手足を動かすことはできない。普通に身体を動かすのには何の不自由も感じないのに、抽象的な運動ができないのである。また自分の鼻がどこにあるか、指し示すこともできない。自分の鼻を指し示せという命令は聞くことができ、その意味は了解し、しかし実際に鼻を指し示すという象徴的な行為はすることができない。具体的な運動をするのであれば何の問題もなく、例えば鼻の頭を蚊に刺された場合、素早く手をそこに持って行って、掻くことはできる(p.179ff.)。
   メルロ=ポンティの言い方では、蚊に刺されて主体的な身体の痒みを感じた場合にその箇所を掻くのは、自分の「現象的な手」で以ってすれば良いだけのことで、鼻と手との間には、「自己の身体の自然的体系の中でひとつの生きられた関係が与えられている」(p.183f.)。
   ところが命令に従って身体を動かそうとする場合、シュナイダーは、思惟の能力も運動の能力も欠いている訳ではないのに、その命令の「運動的な意味を持っていない」ために、それが運動主体としての彼に働き掛けて来ないのである。「健常者には一切の運動が背景(地)を持ち、運動とその背景は単一な全体性の中の諸契機である」。また「知覚と運動とはひとつの体系を形成し、それがひとつの全体として変容していく」のだが、シュナイダーにはその全体性が失われているのである(p.191f.)。
   私の言葉では、次のように言うことができる。まず彼は身体システムの中では生きられるのだが、また言語のシステムもそれはそれとして了解して、命令されることの意味は理解できるのだが、両者を結び付けることができない。そう考えてみる。しかしさらに踏み込んで考える必要がある。つまり健常者においても、身体的な動作は必ずしも言語による命令に従ってなされるものではないということである。精神が常に身体を制御している訳でもないということである。そうではなく、身体がすでに象徴作用をする能力を持っていて、他者に対して働き掛けることができる。つまり身体は意味を担った行動をする。シュナイダーはその機能が壊れているのである。身体は単に蚊に刺されて痒いから、鼻の頭を掻くという動作をすることができるだけでなく、身体は他者に開かれていて、他者に対して身振りで以って鼻がどこにあるのか指差しをする機能がある。身体は直接他者の身体に触れ、つまり握手をし、抱擁をして他者を受け入れたり、または拒否したりすることができるし、微笑んだり、怒ったりして、感情を伝えることもできる。何かしらの身振りで、もっと複雑な感情を示すこともできる。
   ところがシュナイダーの症例が示しているように、脳に何かしらの損傷を受けると、そういう行動が取れない場合がある。身体で象徴行為をすることができない患者がいるということから、私たちは身体にそういう機能があるということが分かるのである。さらにそこからまた、身体の運動が先にあり、それが根源で、それはすでに他者に向けられており、そういう身体的な身振りの繰り返しがあって、そこから言語が出て来るのではないか。そこまで私たちはこの症例から学ぶことができるのではないか。
   メルロ=ポンティは明らかにそう考えている。「身体こそが自ら示し、身体こそが自ら語る」(同 p.323)と彼は言う。言葉の起源を考えたとき、ひとたび言語が形成されれば言葉が意味作用を行うのだけれども、本来的には身振りがそれを行っている。私は身体を通じて物を知覚するのだけれども、それと同じく、「私は私の身体によってこそ、他者を了解する」(p.305)。それは他者の身振りを通じてなされる。他者の身振りは世界の構造を描き出し、私は私の方でその世界の構造を捉え直す。
   さらにシュナイダーには視覚の障害もあり、視野が狭く、色覚の異常も見られた。また女性の身体に対して性的な反応を示すことがなく、身体の接触からも性的な反応をすることがなかったと言われている。先の身体能力の欠損が、そういう能力の機能不全にも繋がっていることが示される。それも付け加えておこう。
 
   本稿でメルロ=ポンティの哲学の全容を解明しようなどという蛮勇を私は持ち合わせていない。しかし少なくとも『知覚の現象学』でメルロ=ポンティが最も言いたかったことはこういうことなのではないかと思えるのである。ここで熊野純彦を援用して、補強しておく。
   シュナイダーには世界との生き生きとした交流が欠けていると熊野は書く。そこでは知覚経験に広がりと厚みを与える水準が欠けている。世界に散乱した意味を主体が捉え直し、また対象の側が主体の姿勢を据え直すような相互作用がシュナイダーには失われている(熊野2005 p.78ff.)。
   私たちは感覚を通じて世界と交流をしているのである。感覚するものと感覚されるものが相互関係にある。それが世界を生きるということである。私たちは世界に物語を見出し、世界は多義的に現れる。しかしシュナイダーにとって、世界は表情を持たず、自ずと紡ぎ出される物語が欠けているのである(同)。
 
   さて私がここで疑問に思うのは、病理に関心を持つ者の多くが、なぜその方法論にメルロ=ポンティに頼るのかということだ。具体的には、野間俊一(本シリーズ第2回)、菅原和孝(同第4回)がそうであり、その理由は探りたいと思う。
   澤田哲生は『メルロ=ポンティと病理の現象学』という画期的な書の中で、その私の疑問に答えている。そこでメルロ=ポンティの哲学の全容を捉えるということまでは試みられていないが、それが本質的に病理と関わっていることが良く示されている。
   澤田は次の3点を挙げる。第一に、健常者から見れば理解不能な行動も、ある一定の形と意味が備わっているはずである。つまりそれは固有の構造を有している。第二に、狂気もまた反省と同じ思考のシステムであり、患者の行動を分析することで、健常と見なされている生活を考え直す機会を提供している。第三に、患者の行動は、健常者が注意を払わない行動の現象学的な側面、つまり志向性だとか、根源的な構造などを垣間見せてくれる。そこで現象学の諸概念の存在と機能が経験的に証明される。以上である(澤田 序論)。
   すでに私たちは、メルロ=ポンティがシュナイダー症例からその身体と世界の関係についての考察を見事に引き出したことを知っている。そこにおいて、身体とは主体でもあり、客体でもある。メルロ=ポンティは言う。私たちは二元論に慣れていて、一方では身体を内面を持たないものとして考え、他方で精神を自己自身そのものと考えて来た(同 p.324)。精神が思惟するのだから、精神だけが思惟する能力を持ち、かつ精神こそが主体なのだと考えるのは、精神にとっては当然の話であるが、しかしメルロ=ポンティはそういう考えを否定する。「身体はひとつの対象ではない。また同じ理由で、私が身体について持つ意識の方もひとつの思惟ではない」(p.325)。つまり私が身体を認識する唯一の手段は私がそれを生きることであり、私とは私の身体なのである(同)。そういう哲学を病理の観察が可能にしたのである。
   
   補足的に次のふたつの点を指摘しておく。
   ひとつは、シュナイダー症例は当時よく知られていて、メルロ=ポンティだけでなく、例えば新カント派の哲学者カッシーラも取り挙げている。メルロ=ポンティはカッシーラから大きな影響を受けているから(注1)、ここでもどのようにカッシーラからメルロ=ポンティへの影響の中で、この問題、つまりシュナイダー症例が位置付けられるのか、検討しないとならないのだが、それもまた私の手に余るので、ここではカッシーラが『シンボル形式の哲学』(1929年)の中の「シンボル意識の病理学に寄せて」という題を持つ第2部第6章でシュナイダー症例を論じているという事実だけを確認しておく。そこではさらにいくつかの病理が取り挙げられ、失語症や知覚の病理、行動の障害という順に論じられている。
   第二に、メルロ=ポンティは直接シュナイダーに接したのではなく、これはゴールドシュタインたちがすでに1918年に取り挙げていて、メルロ=ポンティはその論文を活用している。ここでこんなことを書くのは、私自身のこの試みを正当化するという目論見があるからである。つまりメルロ=ポンティは臨床医ではないが、深く文献から症例を学んでいる。
   そのゴールドシュタインは精神と身体について、そのどちらかが主で、残りが従であるというような関係ではなく、双方が「全体的関連性を以って理解されなくてはならず」、「精神的なものは生命的なもののひとつの面と認むべき」(ゴールドシュタイン p.165)と言っており、その思想はメルロ=ポンティまであと一歩というところまで来ているのである(注2)。
 
   今回はこのシリーズの5回目だが、ここでまとめをしておきたい。
   今まで様々な病理から心身を見て来た。まず健常者は精神が身体を完全に制御できると考えているから、知覚や身体が精神から自律していて、それでいて両者は密接な相互作用の関係にあるということに多くの場合、気付かない。しかし精神が身体を完全に制御している状態というのは極めて特殊な、例外的な場合に過ぎない。今まで述べて来た病理はそのことを教えてくれる。
   さらには何度も書いたように、言語は元々は猿が行う毛繕いのような身体のリズムから出て来る。身体は他者に向けられていて、そこが根源である。しかしそのようにして作られた言語活動であるところの精神がいつの間にか逆転して、そちらが身体を制御すると考えてしまう。
   具体的に、このシリーズの今までの4回分を振り返りたい。ここでは身体の能力が問われている。まず言語の暴走を身体が抑えるということが論じられる(第1回)。身体こそがバランスを取る。また他者との関わりで生じた矛盾が身体のレベルに現れる。他者に過剰に適合しようとしたり、他者に強く訴えかけようとし、それが身体に現れるのである(第2回)。身体の他者性がここに現れている。さらに身体から言語へ、また言語から身体へと、その密接な関係を問う(第3回)。そして自閉症においては、身体の硬さが言語の硬さになり、言語の硬さは身体の硬さとなって現れる(第4回)。両者が同じ構造をしていて、同じ役割を担っているということがここから分かる。
   身体が象徴能力を持つこと。他者に開かれていること。それを確認しよう。
 
   ここでとりわけ自閉症を病理として扱うことには批判があるだろう。つまり自閉症は病ではなく、知的障害を伴わない場合は、それは障害でもなく、人の個性とか、行動様式、思考様式の偏りと言うべきものに過ぎないかもしれない。しかし私がここで言いたいのは、話はむしろ逆で、病というのはそもそもそういうものだということである。
   「病の精神哲学」を振り返って、そこでとりわけヘーゲルの病論を見直してみたい。そうするとヘーゲルにおいて、病とは人が経験する様々な心的態度のどこかに固執することである。そこで自足してしまう、そういう態度のことである。多くの場合は、習慣によって、それを克服する。しかしまた次の段階で人は容易に病に陥る。
   つまり自閉症的な、拘り、傾向は、ヘーゲルの言い方では病と言っても良いだろうし、人は皆、何かしら病にある。そのように言うことができる。そして障害や何かしらの傾向が、それまで自然だと思われていたものの滑らかさを奪い、ぎくしゃくとした関係にさせ、つまりそこでは物事が不自然に感じられるようになる。しかしそれは話が逆であって、それまで自然だと考えられていたものが、実は特殊な条件の下でしか成り立たないものであって、むしろ何度も書くように病は誰にでもあるもので、そこにおいては自然なものが自然ではないのである。そのことに気付かせられる。
   また私たちが精神活動をしている以上、精神を離れた身体は存在しないのだけれども、しかし病理を通じて身体の根源性に気付くことはできる。身体の根源性から言語の生成へと上昇し、またその言語を通じて身体の根源性に辿り着くことができるだろう。そこに飛躍と断絶を見出すだろう。
 
最後に言っておきたいのは、上述の論者たちは、近代哲学は健常者たちが作り上げて来たもので、それを病理や狂気の観点から考え直そうという発想を持っていると思われるし、私もまたそういうつもりでここまで論を展開して来た。しかしむしろこれも話は逆で、カントの論述はかなりの程度自閉症的だし(注3)、ヘーゲルはジジェクによれば、「最も崇高なヒステリー者」だし、だからこそ私は彼らの哲学に親しく近しいという感情も持つのである。
 
   補足すれば、誰もが容易に病に陥るということであれば、自分がそうであるかもしれず、このあとそうなるかもしれず、また近しい人が病に臥せるかもしれず、とすれば政治学的には、そういう人でもやって行かれる環境、それは一時仕事を休んでも容易に復職できるとか、労働時間を短くするというような環境を制度的に保障して行くことが必要だ(注4)。
 
   さて今まで身体論を展開して来たが、しかしこれまでは病理から見た身体論を展開して来ており、それは「病の精神哲学」の続編としての役割を持たせられて来た。これで第一部を終える。次回からは身体に即して、別の観点から論じて行きたい。
 

1 <熊野・忽那1982>がカッシーラ哲学を論じており、またその中で、ごく数行に過ぎないのだが、そのメルロ=ポンティへの影響を論じている。
2 ヴァルデンフェルスもまた、ゴールドシュタインとメルロ=ポンティとを結び付け、知覚系と運動系が全体として作動する点を強調する(ヴァルデンフェルス p.141f.)。
3 このことは拙稿「病の精神哲学」で論じている。
4 先の『<自閉症学>のすすめ』の中の短いコラムで、そのことを具体的に書いた。
 
参考文献
ゴールドシュタイン, K., 『生体の機能』村上仁他訳、みすず書房1957
カッシーラー, E., 『シンボル形式の哲学』(1-4) 池松敬三他訳、岩波書店1989-1997
熊野純彦『メルロ=ポンティ - 哲学者は詩人でありうるか? -』NHK出版2005
熊野純彦・忽那敬三「他我問題の問題構制と<象徴形式の哲学>」『思想』1982-8、
メルロ=ポンティ, M.,『行動の構造』滝浦静雄他訳1964
—–                            『知覚の現象学』(1.2)竹内芳郎他訳、みすず書房1967-1974
野尻英一他編『<自閉症学>のすすめ - オーティズム・スタディーズの時代- 』ミネルヴァ書房2019
澤田哲生『メルロ=ポンティと病理の現象学』人文書院2012
ヴァルデンフェルス, B., 『講義・身体の現象学 - 身体という自己 -』鷲田清一他監訳、知泉書館2004
ジジェク, S., 『もっとも崇高なヒステリー者 - ラカンと読むヘーゲル- 』みすず書房2016
 
(たかはしかずゆき 哲学者)
 
(pubspace-x6506,2019.04.16)