病の精神哲学10 カントの無限判断を問う

高橋一行

 
9より続く
 
 石川求『カントと無限判断の世界』(法政大学出版局、2018) を読む。これは面白い本である。
 まず、無限判断は、「プラトンからゆうに2000年を超えてヘーゲルまでを貫いている一条の光線」(p.vii)だと言われる。あるいはパルメニデスから始まり、カントが重視し、その問題意識は20世紀にも様々に論じられて来たのである。つまり無限判断は西洋哲学の中心的な問題であることが確認される。
 ヘーゲル論理学を読解することで、この概念の重要性に気付き、もしかしたらこれはヘーゲルにとって最も重要な概念ではないか、ヘーゲルの特徴を最も簡潔に表している判断なのではないかということを恐る恐る言い出した私にとって、このように明確にその意義を断じてもらえると、これは本当に力強い援軍に思える。うれしい。
 第二に、この本はカントの無限判断論をその書名の通り主として扱うものである。私はヘーゲルの発想は良く分かると自分では思っているが、カントになるとこれが良く分からない。カントの無限判断論のどの部分をヘーゲルが受け継ぎ、どの部分がヘーゲル独自のものなのか、今ひとつ分からないという思いがある。本書はこの点についても極めて明快である。「多くの哲学者たちがはるか古代から暗黙の裡に連綿と受け渡し続けてきた洞察」をカントが確実に受け継ぎ、しかし「カントが論証もそこそこに言い放っただけの文章の前提条件を、ヘーゲルの省察は根底から解き明かす」(p.13)のである。ヘーゲルの無限判断論を評価することこそが、カント研究に資する。著者は、「カントとヘーゲルに共通する深層次元の了解を確認しておかなければならない」(同)と言う。
 一体に、ヘーゲル研究者はカントを何とか理解しようと試みる。その結果、カントをヘーゲルに引き付けて理解してしまっているという非難を受ける。しかし一方でカント研究者はヘーゲルを無視するのである。これは不幸な話である。カントとヘーゲルの無限判断論研究にまさにそのことが典型的に現れている。そういう現状にあって、カント研究者がここまでヘーゲルを頼りにしてくれるのはうれしい。
 著者はそこにヘルマン・コーエンの無限判断論を対置する。コーエンは新カント派の学者として知られ、その無限判断論は1902年に出ている。その主張が取り挙げられるのだが、これがヘーゲルの理解と好対照になっている。カントがあいまいに論じた問題をヘーゲルが極めて明快に整理したのだが、コーエンはそのヘーゲルに真っ向から立ち向かう。以下に詳細に述べるが、両者は正反対の主張をするのである。このコーエンを取り挙げることによって、ヘーゲルまでの無限判断論が浮き彫りになる。
 ここでさらに興味深いのは、著者は、「ヘーゲルが読めないという事態にコーエンがうろたえて」いて、その結果、「コーエンは哲学史上の無限判断を意図的に曲解している」(p.12)と言うのである。そして日本のカント研究は皆このコーエンの解釈に縛られていて、そのためにヘーゲルを理解できないでいる。これを著者は「コーエンの呪縛」と言う。さらに著者は、「コーエンの呪縛は、難解この上ないヘーゲルに対するアレルギーと言い換えられるかもしれない」(p.21)とまで言うのである。
 これが例えば、同じくカント研究者の石川文康だと、無限判断論はヘーゲルによって歪められていて、「それに対して、この判断契機がカント以降最も積極化されるのは、新カント派のヘルマン・コーエンにおいてである」(石川文康『カント第三の思考 –法廷モデルと無限判断-』(名古屋大学出版会1996), p.251)とされる。この石川の著書の第5章は、「コーエンの非存在論 -無限判断のゆくえ-」と題され、そこでは、繰り返しヘーゲルが批判され、コーエンが称揚される。「ヘーゲル自身による無限判断理解そのものの不合理性、つまりはこの判断に対する彼の無理解あるいは誤解」(p.259)と言い、一方で、コーエンは「無限判断の復権と積極化に努めたカント以来最大の功労者」(p.264)となる。私は石川求よりも先に石川文康を読んでいたから、このヘーゲル批判に対して、深く悲しんでいたのである。
 
 以下石川求の主張の具体的な内容の検討に移る。
 カントの無限判断とは次のようなものである。まず肯定判断「SはPである」があり、続いて「SはPではない」という否定判断がある。無限判断はそれらに続けて、それらのどちらでもない判断として出て来る。それは「Sは非Pである」というものである。
 これはまず、①「形式的には肯定だが、内容上は否定」だと言うことができる。つまり述語を肯定しているが、その述語が否定的なものだからである。しかしさらにそこから、②「否定されたものの反対物を積極的に措定する」という意味も出て来る。カントにおいては、「魂は不死である」というのが無限判断の例になるが、「不死」ということで「死」という概念の反対を魂に積極的に帰すのである。
 一般的には、カントの無限判断はこの二面を持っている、ないしはあいまいなものであるということになる。①と②と両方を混在させていると見ることもできる。
 その上で、コーエンとヘーゲルの無限判断論に進もう。すると結論を先に言うと、コーエンはカントの無限判断論のふたつの側面の内、②だけを採り、それに対してヘーゲルは①だけを無限判断の要だと考えたのである。すなわちコーエンは、「非P」、すなわち無限だとか、不滅だとか、非凡といった表現は、否定の見かけを持つが、実は真の肯定を表していると考える。それに対してヘーゲルは、「月は非スッポンである」という判断においては、主語と述語は徹底的に乖離していて、月とスッポンの間にある無限の差異を肯定的に表したものなのである。つまり形式的には肯定だが、実質は否定である。
 石川求は、カントにおいても、本当は①の意味だけが重要で、②の意味をそこに付け加えるのはカントの核心的思想を覆い隠してしまうと言う。そしてそれはヘーゲルがそれを明るみに出したのである。
 コーエンにとって、無限判断は主語を真に肯定的に規定するものである。しかしヘーゲルにとって、主語と述語は全く結び付けられることはない。主語と述語は媒介や架け橋を拒絶する。
 カントが理解し、ヘーゲルに伝えた無限判断論の要点は、主語が何でないかを果てしなく、かつ虚しく語る似非判断だということである(p.112f.)。無限判断の述語は述語の形式を採ってはいても、何も述定しない。以上がここまでの結論である。
 その上でカントとヘーゲルはなぜこの無限判断を重視したのかということが、今度は両者の差異の問題として論じられねばならない。ヘーゲルから考えて行く。
 著者はここは通説に従って、ヘーゲルは無限判断論において主語と述語の分裂を論じておいて、しかしその後結局は同一へ、つまり主語と述語の結合に向かうとまとめている。
 ここのところは少しく説明が必要だろう。というのも、私は前著『知的所有論』(2013)において無限判断論を扱い、『他者の所有』(2014)でも中心的なテーマにしており、しかしそこでヘーゲルにおいては、無限判断論の発想がその哲学の基本となっていて、つまり結び付けられそうもないものが強引に結び付けられ、その結び付きは不安定なまま、事態は進行するのがヘーゲルの論理であると結論付けているからである。
 具体的には次のようになる。まず『精神現象学』において、そこでは精神の遍歴が語られるのだが、その精神が高処に至った際に必ず無限判断が現れる。まず「精神はひとつの骨のようなものである」という判断が現れ、それが「自我はひとつの物である」という判断になり、さらにそれは「物は自我である」と変化し、「自我は自我である」という判断になる。そして一般的には、主語と述語の対立の絶対的な断絶を経たのちに、この対立が止揚され、無限性の次元が現れるとされる。しかし私はここで、この対立そのものを先鋭化させることで、有限な対立がその有限性を保ったままで、無限性であるとヘーゲルによって主張されることになると考える。実際にはその有限性は止揚されていないのではないかと私は書いた。このことは「論理学」(『大論理学』と「小論理学」)においても同じである。一般的には無限判断の対立は悪無限の運動とされ、その対立は止揚されて真無限に至るのだが、私はその真無限とは、やはりここでも対立の徹底であるとした(高橋2013、第1章、3章)。
 
 しかし今回考えたいのはカントの無限判断論である。著者はヘーゲルと異なって、カントは区別することを重視したと言う。もちろん本書の意義はこのカントの無限判断論の分析にある。
 著者は、カントの論理ではヘーゲルのそれと違って、悪無限から真無限に移行せず、その無限判断は悪無限的なままである。すなわち「Sは非Pである」のだが、さらにそれは「非Q」でもあり、「非R」でもある。それは真無限に回収されず、主語と述語の対立は区別の関係を続ける。
 この区別ということについては、カントほどこれを徹底した思想家はいないと言われる(石川、p.vii)。感性と悟性、現象と物自体という区別がカント哲学の根本にあるが、これら、すなわち悟性と感性の間にも、また現象と物自体の間にも、両者を媒介するようないかなる同一性も連続性もないのである。これらは全く別のものである。そして無限判断はこの区別の象徴である。
 カントがこのふたつの世界の間に何も架け橋はなく、両者は異次元であり、別世界であることを強調する際に、そこではこの否定の強調によって、一元的全体論になることが徹底して拒否されている。両者は互いに類を共有しない非連続性である。
 「病の精神哲学3 カントの構想力」で私は論じたのだが、感性と悟性、または直観と概念は、その両者に共通なものが存在するかのような示唆がカントによってなされるのだけれども、『純粋理性批判』の最終的な結論としては、両者は根本的に異なるということになる。石川は、「悟性の概念は感性の直観を包括することはできないし、逆に直観も概念を表現できない」とし、「なんであるかを悟性で考えることと、如何にあるかを感性で直観することとは異なる」(p.131)と、両者の区別を強調する。区別することこそがカント理論の本質であり、それを理解することがカント読解の醍醐味である。
 さらに、現象と物自体の区別については、カントによって、フェノメノンとヌーメノンの区別として論じられることになる。その際に、フェノメノンは領域と言って良いのだが、ヌーメノンは、フェノメノンが領域と呼ばれるのと同じ意味において、そう呼ばれることはできない。ヌーメノンとは何かと言うと、それは「フェノメノンでないもの」としか定義できない。つまりそれは無限判断においてしか扱うことができない。現象の外の広がりは空虚でしかない。
 このヌーメノンとは何かということが、カントの『純粋理性批判』の最もデリケートでかつ重要な問題なのだが、無限判断はここで本領発揮するのである(p.140ff.)。
 この現象と物自体の関係、つまりフェノメノンとヌーメノンの区別という「非関係」は、自己と非自己の間にも見られると著者は言う。カントは他者という言葉を使わなかったが、ここでは私にではなく、他者の基づくカント的世界が立ち上がって来ると、石川は結論付ける(同p.156f.)。
 
 私はカントをヘーゲルに近付けて読もうとしてうまく行かなかったのだが、逆にヘーゲルをカントに近付けて読んでしまっているという非難を受けるかもしれない。しかし石川求のカント論を読んで、カントがやりたかったことをヘーゲルがうまく取り挙げることに成功したのだと言われると、まさしくその通りだと思う。カントとヘーゲルは、その哲学の根本において、大分発想が異なるが、しかしどちらもその論理は同一性には収斂しないのである。そもそも同一性に収斂させようなどと考えもしないカントと、同一性に収斂させなければならないと考えつつも、それが無理なことを感じて居直っているヘーゲルと、両者はその主張が異なりつつ、しかし両者は重なる。それが両者が無限判断論にこだわった理由になるだろう。
 
 まだ論じるべきことがいくつかある。ひとつは、以上のカントは第一批判、つまり『純粋理性批判』のものだが、第三批判『判断力批判』の後半でそれがどうなっているのかということである。
 第二に、ヴィトゲンシュタインとハイデガーがこの問題をどう考えていたのか、そこを整理してみたい。ヴィトゲンシュタインについては、本書では、「限界付ける」ということが問題になるとされている(石川求、第3章第6節)。また第6章ではカントとハイデガーがテーマとなっている。さらにハイデガーについては、石川文康が、「ハイデガーが、なぜ無限判断論を取り上げなかったのかは、依然として大きな謎である」と言う(石川文康、p.299)。このふたりの哲学者については、構想力の問題においても、カントと関係させて論じたいと思っていて、ここでも重要な示唆が得られると思う。
 第三に、これは実在を問うということでもある。つまりメイヤスーが論じたのはまさしく、カントの物自体を認識できるかということであった。これが前回のテーマである。
 これらの問題に少なくとももう少し解決の糸口が見つかるまで、このシリーズは続けたい。
 
以下に続く。
(たかはしかずゆき 哲学者)
 
(pubspace-5223,2018.08.09)