病の精神哲学 7  - カントの目的論 –

高橋一行

                            
  
 再度、目的論と実在論の関係について書く。まず目的論とは、自然や歴史の諸事象は目的によって規定されているという見方を指す。その最も原始的なものは、世界が人間のために創られたとするもので、私はまずそれを批判する。世界は人間が生まれる前からあり、人間が生まれて来たのは、かなりの程度偶然であった。また今後、人間が滅びる可能性は、私はかなり高いと思っている。そうすると、そのあとは人間のいない世界が長く展開されるのである。決して人間を産み出すために自然が存在したと考える必要はない。
 哲学史上の議論はここで省く。これは別のところで試みる。先に、積極的な拙論を展開する必要がある。まず自然は物理法則に従いつつ、しかし個々の動きは偶然による。そこに確率論的な必然性は成り立ち、さらにそこから自己組織的な法則性も出て来る。しかしそこから直ちに人間の出現は必然的であるとまでは言えない。それは基本的に偶然的なものである。
 さてところが、私たち人間は現実に存在している。自然界にすでに出現している訳で、存在するものにはすべて必然的に存在する理由を後付け的に見出すことができる。私たちは事後的にそこに必然性を見出すことができる。自然がまったく秩序化されておらず、人間の主観の作用だけで必然性をでっち上げるとするのではなく、自然の中に数学的な法則性はあり、それに基づきつつ、自己組織的必然性を見出すことはできる。しかしそれだけでは、自然が人間を産み出す必然性を有しているのだと言うことはできず、私たちは現実にすでに人間は存在しているのだからと、事後的にのみ、そこに必然性を見出すことができる。私が目的論と言うとき、それはこの事後的な必然性の後付けということを意味している。
 要するに、あたかも自然が人間を産み出す目的を持っていたかのように、あとから考えることができるのである。
 さらにジジェクの表現を借りれば、その際に、無以下の無、また徹底的に否定的なものから、存在や肯定的なものが生まれるのである。つまりまず物質がそのようにして生まれ、その運動から生物が生まれ、そして生物の進化の中から精神を持つ人間が出現する。そうして一旦精神が出現すると、それを産み出した自然は、この精神によってしか認識されることができない。認識主観を離れた自然そのもの、客観的存在はあり得ない。新実在論と呼ばれる人たちが、カント以降の哲学の成果を相関主義とまとめたが、その相関主義の考え方は基本的に正しい。しかし相関主義を認めると同時に、それを内在的に超え出て、人間が出現する以前の自然、人間がそこから出現して来た、その自然について認識して行かなければならないのである。
 この問題は様々な立場から語られ、いろいろな反論が出て来るだろう。私たちはそのひとつひとつに対して、予め批判されることに備えなければならない。
 まず哲学者たちは、自然の法則性について様々に語りつつ、しかし最後のところで神の存在を示唆して来た。しかしニーチェに先駆けて、ヘーゲルが神は死んだと語り、それ以降、私たちは神を想定しないで、自然の存在、生物の進化について語ることができる。まずこの前提を確認する。
 また新実在論の人気は、その人間中心主義批判にあるのかもしれないと思う。つまりそれは人間のいない自然を考える必要性を重視するものだからだ。しかしそれは、私は根本的に新実在論の誤解に基づくと思う。新実在論は相関主義を認めて、その上で、それを突き抜けるものだ。人間が自然を支配できると考えるのは傲慢であるが、しかし新実在論はそれを単純に批判するものではない。人間が言語を使って自然認識をする限り、相関主義は正しい。つまり人間がいなければ、自然は認識され得ない。しかしなお、人間と自然の相関の外に自然は実在すると新実在論者は考える。
 確かに人間は容易に滅び得ると考えることは重要だし、人間が自然を支配する前から自然はあり、人間が支配し尽くせるものではないという観点は大事だ。新実在論はその見方の論拠付けをする。しかし繰り返すが、相関主義の意義は認める必要がある。
 それは単に、進化論や宇宙論に取り組んで来た自然科学者たちの持っている素朴実在論そのものと同じではなく、それを哲学的に補強するものなのである。つまり相関主義を認めてなお、実在論を主張するところが、新実在論と素朴実在論の違いである。人間中心主義批判は、論点がずれている。認識という観点から言えば、私たちは人間中心主義にならざるを得ない。その傲慢を自覚しつつ、しかし人間中心主義からは完全に逃れられない。人間が生まれてはじめて自然は認識されるという、認識論の呪縛からは逃げられない。私が「事後的であるが」と断りつつ、なお目的論を主張するのはそのためだ。
 事後的であれ、精神の出現の必然性を扱うのだから、それは目的論なのである。しかし目的論は、その原初的なものは、人間を産み出すために自然が存在すると考えるので、その強い人間中心主義は批判されねばならないし、人間が滅んだあとも自然は存在するだろうと明言する必要もある。神のいない世界で人間は中心的な存在ではない。人間はたまたま進化してしまったのに過ぎず、そして進化論が教えるところでは、最も進化した生物は最も脆弱なのである。つまり容易に滅び得るのである。
 
 いろいろな立場から、同じ事象がまったく正反対の考えが出て来るということにしばしば驚く。人間と自然との関係についても、周到に様々な立場から考え直してみたい。
 近代科学は人間を周辺部に追いやり、その人間中心主義を完全に葬ったというようなことがしばしば言われる。しかし逆説的だが、人間が自然の中心から追い出されたあとに、その自然科学の議論の中に、人間中心主義の復権を唱えるものも出て来る。宇宙は人間を存在させるためにあるという、宇宙論における人間原理を説くものがある(注1)。また一方で、哲学者たちは人間の認識能力を正当に評価するあまり、過度に人間中心の世界観を作り上げて来た。そして今、人間の自然支配は行き過ぎていると、その傲慢を批判するものが出て来る。
 私の主張は、人間の自然支配の正当性を認めるものではないが、しかし認識主観を離れた客観はあり得ないとし、つまり認識の存在を成立させる際の役割は評価し、それを一旦は受け入れて、その上でそれを超えなければならないとするものである。そして相関主義の主張は、人間がいなければ自然は認識できないというものだから、その限りでは人間の精神の能力を正当に評価することを要求していて、それは弱い人間中心主義と言っても良いものなのだが、しかし人間が存在しなくても、自然は存在するのであり、そのこともまた確認する必要がある。
 素朴実在論を信奉する自然科学者たちにとって、人間が生まれる前の自然が存在することは自明である。しかし認識主観を離れて客観が実在する訳ではないと考える哲学者にとって、人間が生まれる前の自然の存在は自明ではない。問題は両者をともに止揚することである。
 
 次にカントの目的論について書く。以下の3つのカントの著作を扱う。「世界市民的見地における普遍史の理念」(1784)、「人間の歴史の憶測的始元」(1786)、「永遠平和のために」(1795)である(注2)。これらの著作の公刊された年代をここに書いたのは、それらが3批判書の公刊と時間的に重なるということを指摘するためである。すなわち3批判書の公刊年度は次の通りである。『純粋理性批判』(1781-7)、『実践理性批判』(1788)、『判断力』(1790)である。
 するとしばしば指摘されるように、目的論は、カントの晩年にカントの批判精神が衰えたために出て来たものではない。それは余技でもなく、カント哲学の中心的なところに位置するものである(注3)。
 まず「世界市民的見地における普遍史の理念」から見て行く。ここでは第一命題において、「生物の自然な素質はすべて、いつか完全にかつ目的にかなって、解きほどかれるように定められている」と自然の目的論が語られる。
 そして第二命題において、その目的は生物の個体においてなされるのではなく、類において実現されること、第三命題において、自然は無駄なく、目的を実現するということが語られる。
 さてその上で私が着目するのは、「社交的非社交性」という概念である。
 「自然のあらゆる素質の発展を実現するために自然が用いる手段は、社会における自然素質の敵対関係であり、しかもそれはこの関係が最終的に社会の合法則的秩序の原因となる限りでのことである。私がここで理解する敵対関係というのは、人間の社交的非社交性のことであり、すなわちそれは人間が社会の中に入って行こうとする性癖であるが、同時にこれは社会を絶えず分断する恐れのある一般的抵抗と結び付いている性癖のことでもある」(第4命題)。一方では人間は社会を創ろうという傾向を持つのだが、他方では孤立したいという傾向も持つということでもある。
 社交性を増すという目的を実現するために、非社交性という社交性の正反対の概念を必要とするのである。これが目的を実現するための仕掛けとなっている。
 社交性とともに、他人に対する抵抗が自らの内にあることを自覚し、また他人が私に対して抵抗を感じていることを予想する。それこそが、カントに言わせれば、人間のあらゆる力を呼び起こし、怠惰に傾く気持ちを乗り越えさせる(p.8)。その結果「人類を飾っている文化と芸術及び最も優れた社会的秩序は、すべて非社交性が実りを結んだものである」とまで言わせる。そして「この非社交性は自己を訓練し、その強制的な技を通して自然の萌芽を完全に発展させるよう、私たちに強いる」のである(p.11)。
 さらに同書では、人間は支配者を必要とする動物だとも語られる。「各人が自由で普遍的な妥当性に従うよう」(p.11)、強制が必要なのである。
 つまり、過酷な規律訓練と陶冶が必要だ。人間が動物的な段階を脱して、つまり本能に縛られなくなった時に、即座に理性的になって、自由になるというのではなく、そこには、前回までに展開した『人間学』の言い方では、人間が狂気の内にある段階があり、先のフロイトの言い方では、「死の欲動」の元にある段階がある。そこに規律訓練と陶冶が必要になる。動物をいくら訓練しても自由にはならない。狂気なり、「死の欲動」なりといった否定的な段階が、人間には人間になるための前提として存在し、そこから規律訓練と陶冶を経て、人は自由になるのである。それはすでに狂気や「死の欲動」の下に自由があり、自由とはそれらの下にしかないということを意味する。
 次に「人間の歴史の憶測的始元」を見る。人間は最初から言語を使い、思考することができたはずだが、しかし、「人間の使命の最大の目的である社交性」については、熟練が必要で、熟練を通じて道徳的なものが展開されるのを注視すべきなのであるとカントは言う。
 さてそこで堕落の必然性が語られる。「無垢の状態から外に出る一歩は、道徳的側面から見れば、堕落であった」。また「自由の歴史は悪から始まる」とも言うのである(p.104)。
 文化と人間の自然的本質とは対立している。その対立から、あらゆる悪徳が生じる。しかしこの悪徳へと人を誘うものは、それ自体は望ましいもので、つまりその悪徳への促しを通じて、道徳が実現される。目的はこのように否定的なものが媒介して、その実現に向かうのである。
 カントはここで、人間の歴史的起源を問う作業を憶測に、つまり「理性を伴う構想力に許された心の健康と気晴らしのための運動」(p.95)に委ねる。構想力こそが、自然の目的を把握することができる。それが「人間の道徳の使命の最終目標」(p.105)を把握する。
 さて最後に『永遠平和のために』を論じよう。この著作の意義については、すでに私は『所有論』と『所有しないということ』に書いて来た。
 ここで指摘したいのは、平和を論じるのに、戦争の意義から始めるということである。「第一補説」において、カントは次のように論じている。まず自然は人間を、集団を作って相互に戦争させることで、世界各地に生活できるようにさせ、そこで人々は法を作り、国家を発展させ、さらに戦争を続け、しかし最後には、その戦争を通じて十分に法の意識や経済活動や文化を高め、平和へと向かうのである。人々を平和へと向かわせる原動力は戦争であり、戦争の意義こそが確認されるべきである。
 この観点は、すでに『判断力批判』にあるものだ。その83節によれば、まず個々の集団が法的体制を整えて行くだのだが、世界にすべての国家をまとめるシステムがない以上、そのように力を付けた国家間の戦争は不可避である。戦争は、「至高の知恵による、極めて隠微な、そしておそらくは意図的な企てでもある」。戦争が、いずれは諸国家の自由を共存せしめ、諸国家間の道徳的に確立された統一に向けた準備をする。戦争こそが、「心的開発に資する一切の才能を最高度に発達させる動機を成す」のである。これが平和に至る目的論である。自然の中に、人類を平和に至らせようという目的があって、それを戦争を通じて実現させるのである。ヘーゲルならば、戦争という否定的契機を通じて、理性の狡知が働き、目的が実現されると言うであろう。
 ここからいくつものことを導き出すことができる。まず、最初に存在するのは戦争という否定的な行為である。それが人間の社会的な活動を決定する。そしてその否定的な行為は最後まで克服されず、人間のあり方を規定し続ける。しかし平和は、その現実的なあり方の向こうに、ア・プリオリにあるのではなく、つまり統制的な原理としてあるのではなく、現実的な戦争の中に見出すべきものである。つまりひとつひとつの戦争の反省の中に、平和を見出して行く。カント平和論を目的論的に読むということは、そういうことだ。
 
 人間は自然性を残しているために戦争をするという考え方は、何重にも間違っている。人間は本能では動かない。本能が壊れている存在であると言って良い。一方、本能で動く動物は、同類間で集団を作って殺戮をしたりはしない。人間だけが、自然から切り離されているために、言語を操り、法を編み出し、国家を創って、戦争をする。つまり戦争に自然的な根拠はない。間違っても闘争本能なるものが人間にあって、それに突き動かされて戦争が起きる訳ではない。
 それは同時に、平和の希求が自然性を断ち切ることでなされるということを意味しない。戦争はそもそも自然から切り離された人間だけがなし得るのであって、平和と戦争の差異は、自然性の有無ではないからだ。
 では私たちはどのようにして平和に至るのか。それを説明するのが自然の目的である。それは自然が精神を生んだということを意味している。事実の問題として、自然が進化して、精神がそこから出て来た。私たちはそのことを事後的にのみ追うことができる。つまり私たちはすでに精神性を獲得していて、そこから精神が生まれる前の自然について思考し、そこからどのように精神が生まれたのか、跡付けることができる。そして一旦精神が生まれたら、それは自然性を断ち切っていて、自然の法則に一義的に縛られるものではない。つまり、精神が自然から生まれたということは、精神が自然的であるということを意味しない。精神は自然以上のものである。自然性を断ち切ることによってのみ、精神は精神となり得る。
 そして一旦精神が生み出されれば、それは精神独自の運動をし、それが蓄積されて歴史となる。歴史は歴史の論理で進む。そこにもやはり必然性が見出されるけれども、それもまた事後的なものである。
 カントが『判断力批判』の後半部や、歴史についての諸論文で展開したのは、そういう考え方である。自然は機械論だけでは説明できない。有機体の論理は機械論を超えている。まして精神の動きは、それ以上である。そして同時に、精神は有機体よりもさらに有機体的であるという点も指摘しておきたい。それは偶然に基づき、しかし複雑系の数学で記述できる法則性を有し、結果として生物はより有機的になって、精神を生んだのである。
 自然は人類を生み、人類は法を編み出し、国家を創り、戦争をする。そこまでは事実であり、事後的にそれは必然的であったと考えるしかない。そういうことを無視して、平和を願っても意味がない。つまり必然的に生じてしまった戦争がなければ良いとか、なかったことにしようとかという風に考えることはできない。すでに存在するものは、必然的に存在するのである。その必然性を突き進むことによってしか、そこから脱却することはできない。
 そうであれば、平和もまた事後的にしか見出されないだろう。戦争が起こるたびにひとつひとつそれを反省し、次に起こるべき戦争を未然に防いだあとに、平和は実感されるはずだ。
 
 最後にフロイトの「人はなぜ戦争をするのか」を分析する(注4)。結論はカントのそれに酷似している。
 前回、フロイトの「死の欲動」は、ヘーゲルの言うところの「否定」であり、これこそが、物質の誕生、物質から生物の発生、生物から精神の発生に関わるということを書いた。カント目的論においても、同様のことが言えた。否定作用が人を自由に導き、平和に至らせる。フロイトの概念を使って、今までヘーゲルやカントを読んで来たが、ここでは、フロイトの戦争論にフロイト自らの概念がどのように使われているかということを見たい。
 フロイトは次のように言う。まず人間も動物と同じように、利害が対立した時は、暴力に訴える。その限りでは人間も動物と変わらないように見えるという話から始まる。しかし人間が動物と異なるのは、まず利害の対立は意見の対立から来るもので、これは人間が言語を使うためであるという観点があり、次に人間の暴力は武器を使うという点で、人間の思考能力が関わり、そして根本的なところで、動物は本能で動くが、人間は欲動に突き動かされるという観点が提出される。そしてさらに、この人間の暴力には、他者を支配したいという欲求が隠されているという指摘がある。ここで他者が出て来る。この点も動物にはない観点である。人間は共同体を作り、法を定める。そうして暴力を抑えるのだけれども、しかしその共同体や法が戦争を引き起こす。ここでフロイトは極めてカントと近いことを言っている。戦争は必然的であり、それは精神性の発達のためには必要なことでもあり、しかしそれを利用して、平和へと至るべきものである。
 それから具体的なこととして、国際連盟を作り、権力をその機構に譲渡することが求められているという点でも、カントの主張を思わせる。
 しかしカントとの類似はそこまでで、そのあとはカントと異なる。以下がフロイト独自の理論である。
 人には死の欲動、つまり破壊的な欲動と、生の欲動、ないしは広い意味での性的な欲動であるエロスとふたつある。これが前回取り挙げた『快原則の彼岸』(1920)以降のフロイトの考え方の基本にある。その際、この片方の欲動だけが働くことはなく、ふたつが結び付いている。死の欲動は戦争に人を導くかもしれない。しかしそれは同時に生の欲動と結び付いている。それは愛する対象との絆と言っても良く、人との一体感を求めるものだと言っても良い。
 死の欲動を廃絶することはできないし、またそのことを目指すべきでもない。しかしひとつには、人には死の欲動に対抗するエロスの欲動があり、先の絆を求めることで、戦争を防ぐことができる筈である。
 もうひとつの考え方は、文化が発達すると、欲動が制限され、また攻撃的な欲動が主体の内部に向かうようになって、そのために戦争に対する生理的な嫌悪感が働くだろうというものである。これは理性的な拒否や感情的な拒否ではなく、欲動に基づくもので、体質的に戦争を嫌だと思うようになるのである。
 文化の進展と戦争のもたらす惨禍に対する不安が、元々は否定的な作用である欲動を通じて、人に心の中に変化を引き起こすのである。カントの平和論が、フロイトの提起する欲動理論と相まって、ここに再興されたと考えることもできる。
 フロイトはここでひとつには、死の欲動に対抗する、ないしは死の欲動とセットで考えるべきエロスを重視し、もうひとつは、死の欲動そのものの主体に対する働きを評価する。それによる戦争の克服が示唆される。死の欲動が根本にあり、そこから平和が導かれるという構図になっている。これがフロイトの目的論である。
 
 平和の問題は、言語と法の問題に関わり、つまり人間が人間である根本のところに関わる。それは無意識に関わり、それはまさしく欲動の問題なのである。
 人間の行動は本能によって規定されているのでもなく、かといって、必然的法則によって定められているのでもなく、また人間の行動が理性的であるのは極めて限られた部分でしかなく、大部分は欲動や無意識によるか、または偶然による。そのことがあらためて確認される。
 

1 宇宙論において、人間がいるから宇宙を観測し得るのだが、このことから、宇宙の構造の由来を人間の存在に求めるという考え方が出て来る。いくつかの説が出ているが、それらをまとめ、かつ批判するという作業も必要だと思う。ここでは青木薫『宇宙はなぜこのような宇宙なのか – 人間原理と宇宙論 -』(講談社、2013)を参照した。
 
2 『カント全集第14巻』にこれらの論文は収められている。
 
3 カントの目的論ということで、早くに田辺元『カントの目的論』(岩波書店、1924)があり、先に引用した三木清『構想力の論理』も目的論への考察を行っている。また現代生物学を哲学的に考察した「目的論の歴史と復権」というサブタイトルを持つシュペーマン・レーヴの著作『進化論の基盤を問う』(東海大学出版、1981=1987)もあり、プラトンからニーチェまでの目的論を扱っている。
 
4 この論文は、1932年に、アインシュタインとの間で交わされた公開の往復書簡として書かれたものである。
 
参考文献
カント、I., 『カント全集第14巻』福田喜一郎他訳、岩波書店、2000
—– 『判断力批判』(上)(下) 篠田英雄訳、岩波書店、1964
フロイト、S., 『人はなぜ戦争をするのか - エロスとタナトス -』中山元訳、光文社、2008
 
(たかはしかずゆき 哲学者)
 
次号に続く
 
(pubspace-x4979,2018.04.13)