病の精神哲学8 新実在論はどこまで評価できるか

高橋一行

7より続く 
 思弁的実在論、または新実在論について、Q. メイヤスーとM. ガブリエルを取り挙げて書いて来た。メイヤスーについては、一通り彼の問題意識を整理したと思うのだが、ガブリエルについてはその説明はまったく不十分であるし、またほかにも論者はたくさんいて、もう少しこのテーマで書いておかないと彼らの主張の意義が伝わらないだろう。
 先に結論を書いておくと、このテーマはメイヤスーの問題意識で尽きているのではないかと私は考えている。あるいは私の問題意識にぴったりと合うのはメイヤスーだけということなのかもしれない。
 思弁的実在論は、2006年にメイヤスーの『有限性の後で』という本が出て、翌年にG. ハーマン、R. ブラシエ、I. H. グラントが加わって立ち上げたものである。さらにその周りに、何人かの名を挙げることができるし、S. シャヴィロをそこに加えて良いだろう。またM. フェラーリスやガブリエルが2011年に新実在論を提唱し、この両者を併せて新しい運動として知られるようになった。再度ここでは、メイヤスーとガブリエルを主として取り挙げ、ハーマンとシャヴィロも参照したい。
 まずメイヤスーの主張にもう一度こだわってみたい。結論を先に述べれば、彼の主張には私たちが反省すべき論点が多く含まれている。
 メイヤスーは、カント以来の哲学が相関をその中心に据えるようになったと言う。私たちは思考と存在の相関のみに接近できるのであり、一方の項だけに接近することはできない。あるいは関係を超えて、一方の項だけが存在すると言うこともできない。この乗り越え不可能な性格を相関主義と呼ぶ(メイヤスー p.15f.)。
 さてこの宇宙はあるときにビッグバンとともに始まり、そこに地球ができ、さらに地上に生物が生まれ、そして人類が誕生した。それはおおよそ数百万年前の話である。すると宇宙は人間を産み出す前に長い歴史を持っていたことになる。メイヤスーは、人間がこの世に出現する以前のあらゆる現実を祖先以前的と呼ぶ。そして以下のように問う。「相関主義は祖先以前的言明にどのような解釈を与える可能性があるか」と言うのである(同 p.25)。つまり自然科学者たちは、素朴実在論の立場で、様々に宇宙や地球の年齢を計算し、さらには生物の進化を論じている。しかし相関主義者の哲学者たちはそのようなことを論じることができるのか。
 そもそも相関主義では、思考と存在を切り離すことができないのだが、そうすると、まだこの世界に精神を持った人類が出現していない時期に、果たして自然は存在したと言えるのか。それは思考可能な対象ではない。それは無意味ではないかとさえ、メイヤスーは言う(同 p.34)。首尾一貫した相関主義者ならば、素朴実在論を奉じる科学者たちに対して、祖先以前的な言明は幻想であると教えるべきである(同 p.35f.)。
 それは尤もなことだと私も思う。ここに相関主義の限界がある。今必要なのは、「自己自身の外に出ること、即自を捉えること、私たちが存在しようがしまいが、そこに存在するものを知ること」(同 p.51)。このように彼は提言する。
 ただここはもう少し注意深く考察を進めなければならない。私たち人類はすでに精神を持って存在しており、その精神を使って、人間が出現する以前の自然について考察をしている。その精神は歴史的に形成されて来ており、そのような制約を持った精神が認識できる限りで、まだ精神が出現していない自然を把握するのである。相関主義の枠内で、相関主義を超えた自然を把握すると言っても良い。しかしそれは相関主義を超えることになるのだろうか。
 メイヤスーもこのあたりのことについては以下のように考えている。
 まず彼はカントにこだわる。主観が構成する現象の世界しか認識できないと言いつつ、その向こうに物自体を設定する。これが「弱い相関主義」と呼ばれるのは、思考は相関主義の限界内にあるが、しかしその向こうに絶対的なものがあるということは認められているからである。カントの相関主義にとって、物自体は強力な影響力をその相関に及ぼすものとして想定されている。ただそれは思考できないとされているのである。メイヤスーの相関主義批判はいつもカントに帰って来る。問題はカントを反復する。
 続いてハイデガーとヴィトゲンシュタインについての短いコメントがある(同 p.74f.)。この世界は思考された限りのものである。しかし思考不可能なものが存在することが不可能なのか。メイヤスーはヴィトゲンシュタインの「表現し得ないものは存在する。それは神秘である」という言葉と、ハイデガーの「存在者が存在することは驚異である」という考えとを参照し、思考不可能なものが不可能であるということは思考不可能であるというテーゼを示す(同 p.73)。そして相関主義が思考と存在の相関を根本と考えるために、思考不可能なものの存在について、それを認めつつも、そのことを思考できなくなってしまったと、相関主義の限界を示唆するのである。
 さらにその祖先以前の世界は際立って偶然的なものであり、その中で人間の出現もまた偶然的なものであるとメイヤスーは考える。世界は別様であり得たというのが、メイヤスーの結論になる。つまり世界は人間が出現しないという可能性があった。それでもこの世界に事物は存在するはずだ。しかし相関主義ではこのことは思考できない。私たちが存在しなかったかもしれないということは、相関主義では思考できないのである(同 p.99)。
 このようにメイヤスーは相関主義を批判するのだが、しかしカントからハイデガー、ないしはデカルトからフーコー、ないしは廣松渉によって、思考を鍛えられてきた私の世代にとって、相関主義は自明であり、それがすべてであり、そこから抜け出すのは困難だ。そこは根本的に押さえるべきことだ。
 同時にそこから抜け出したいという思いも、しかし私には早くからあって、思弁的実在論が出て来ると、やっとこういう関心を持つ人たちが出て来たのかとうれしくも思う。というのも以下に私の問題意識を述べて行くが、進化論を研究していると、人間の出現はかなりの程度偶然であると思わざるを得ない。つまり精神は物質が運動して、生物となり、その生物が進化してそこから出て来たのだけれども、最初から神が人間を産み出すために宇宙を創ったのだと考える必要はないし、何かしら精神的なものが物質の中に内在していたと考える必要もなく、しかし完全な偶然では精神は出て来ないから、自己組織性の原則を物質の中に見出すことはできる。その程度のものだ。
 世界は別様にあり得たというメイヤスーの言うところを、私の考えに引き付けて論じると以下のようになる。以前「進化をシステム論から考える(1)-(12)+補遺1」を連載した。そこで考えていたことを哲学的に捉え直してみたいと思う。
 宇宙には最初何もない。無が存在するだけである。それがビッグバンとともに光が生じ、光は質量を伴って物質となり、物質は有機化し、生物が生まれ、生物は進化して精神を持つ人間が出現する。その仕組みを解明しようと私は試みてきた。
 さてその際にシステム論はその進化の機構を次のように考える。個々の物質は物理法則に支配されつつも、その具体的な運動は偶然的である。つまりランダムに動く。そこにまず確率論的な法則が支配する。つまりサイコロの動きは、投げる方向やその力、床の摩擦係数など様々な要因に支配されていて、その動きは偶然的であると言うべきで、どの目が出るかは絶対に分からない。しかし6万回くらい投げればほぼ1万回程度、1の目が出る。そういう確率の法則に従う。さらに例えば個々の水蒸気の動きはランダムだが、上空でそれらは自己組織化の法則に従って、秩序形成をし、雲ができる。システム論は偶然と必然について、このように考える。
 さて物質が進化し、さらに生物が進化して人間が出現する機構も、基本的には偶然に委ねられているが、そこに秩序化の法則が貫徹して、ついには人間が出現したと考える。創造説や宇宙には何かしら精神的なもので満ち溢れていると考える汎神論(Pantheism)によれば、人間の出現は完全に必然的である。しかし私はそのような考え方を採らない。また1970年代の分子生物学者たちによれば、人間の出現はまったく偶然的なものである。しかしそれでは人間の出現可能性はあまりに小さすぎて、現実的でない。私は基本的には偶然に依拠しつつ、うまく自己組織化の法則が働いて、人間が出現したと考える。その仕組みを連載で書いて来た。しかし基本的には偶然に拠るから、例えばもし、6600万年前に隕石が地球に落下しなければ、あるいは落下位置がずれていたならば、この地球上には今でも恐竜が跋扈し、哺乳類は細々と生きるしかなく、人間は出現しなかったかもしれないと思う。
 すると根本は、精神を持った人間がこの世に出現しなかった可能性はあり、また(先の4人組のひとり、ブラシエが強調するように(Brassier)、かつ私が何度も書いているように)人間は絶滅する可能性もある。とすると精神がない宇宙が延々と続くことになる。要するに私がここで言いたいのは、精神はその場合、実体ではない。特権もない。その場合でもしかし、宇宙に物事は存在する。
 さてそこで考えるべきは、しかし人間が現に存在しているということである。存在しているものはすべて必然的な根拠を持つ。自然はあたかも人間を産み出すという目的を持っていて、それを実現したのだと考える。これを私は「事後的な目的論」と呼ぶ。また宇宙は人間のために存在するという考え方を人間中心主義と呼ぶとするならば、私の考え方は、人間の出現は実際には偶然的なのだが、しかしあたかも人間のために世界が存在しているかのように考えることは可能であり、それは「穏やかな人間中心主義」と呼ぶべきものであろうと思う。
 さらに自然は人間の精神活動によってしか捉えられない。つまり自然は自らが認識されるために、人間を必要とする。そして一旦人間が出現したら、そのあとはその人間の精神活動によってしか自然は把握できず、人間と自然の相関を超えて、自然が存在しているということを考えるのは困難である。しかしそうは言っても、人間が出現する前に自然があったこと、その中で偶然と自己組織性の法則とのふたつに基づいて人間が出現したこと、さらに進化論の教えるところでは、人間は最も環境の変化に弱い生物だから、今後、これも偶然的に、人間が滅びるということはあり得る。そうするとそういうことをも、人間は認識できると考えるべきである。
 以上が積極的な拙論であり、そちらを先に書いておいた方がより理解されやすくなると思う。
 メイヤスーは非相関主義の可能性を示唆する。しかしそれは基本的に困難で、もしかしたら不可能な話だ。彼は思考の向こうに数学化された自然があると考えている。しかし数学こそ最も相関主義的なものではないのか。数学こそ、数学者集団の共同の理解に他ならないのではないか。これは容易に出て来る批判だ。メイヤスーはその不可能な試みを、本人もその絶望的な困難さに十分気付いていながら、しかしそれ以外にすべきことはないのだということで、苦し紛れの試みを続ける。
 本稿で後述するシャヴィロは、メイヤスー批判をする。そこでの結論は、思考と存在が不可分であると考えられる限りで、存在そのものには接近できず、それを思考するのは不可能である。しかし思考不可能なものが存在すると思考することはできるというものである。シャヴィロは次のように言っている。「哲学者たちは様々な仕方で相関主義の循環を記述して来た。しかし問題はこの外に出ることである」(シャヴィロ p.101)。もうそろそろ相関主義は終わりにしたい。思弁的実在論はこの相関主義への反発から始まっている(注1)。
 
 ヒトがいつから言語を持つようになったのか、それは数万年前か数十万年前か、あるいは数百万年前の種としてのヒトの出現から数えるべきか、いずれにしても、145億年の宇宙の、または45億年の地球の、または38億年の生物の持つ歴史からすれば、ほんの一瞬の話であって、問題は精神がこの世に出現したことによって、自然の存在様式が変わったのかということだ。あるいはこのあと、人間が絶滅することで、自然はどう変化するのか。
 しかし一方で、歴史的に規定された精神によってしか、その自然は認識され得ない。顕微鏡が発明され、あるいは陽子衝突型加速器が開発されて、それでやっと自然のあり方が突き止められる。それはその時の技術や社会的な関係性によってその認識能力は制約されているということを示している。
 自然は精神によってしか認識され得ないということと、しかし自然のあり方は、精神のあるなしで変化するのかということと、併せて考えねばならない。
 
 精神のあるなしで自然は変化しないのだとすれば、実在論は当然成り立つ。精神だけを特権化する必要はない。精神がなくても、自然の中の様々な物や事柄は実在する。しかし精神によってしか、それらのものや事柄が認識され得ないのだとしたら、精神の及ぶ領域を超えて、自然が存在することはあり得ない。私たちはカントの問題に引き戻される。
 
 相関主義は超えられない。これはカントの相関主義を論じることでメイヤスーが提出しているものである。しかし何とかそれを超えたい。
 さてその超え方は三つあると私は考える。ひとつはカント自身のもの。ふたつ目はヘーゲル、もしくはより正確に言えば、ジジェク流に解釈されたヘーゲルのもの。3番目は、様々な実在を一気に認めてしまうものである。以下そのことを詳述する。
 まずカント自身の超え方については、この連載の第2回から第4回に掛けて書いて来た。すなわち、カント自身は物自体を認識できないと一旦は結論付けておきながら、『判断力批判』の後半部の議論で、構想力の概念をパワーアップさせて、何とかその正体をつかもうとしたのである。それは相関の向こうに辿り着こうとしたのだと言うことができる。だから本当は、この『判断力批判』の後半の議論において、相関主義は超えられている。しかしこの間の議論に関わっている人たちは誰もこういうことを言わない。
 続いてヘーゲルは物自体を次のように考えている。『大論理学』をごく簡単に要約すれば、物自体は認識にとって物の最初の抽象的な状態である。物は他のものと区別されるという他者への反省と、根拠という自己への反省とふたつの側面を持っている。この前者の側面、つまり他者への関わりを、後者の、自己の内へと反省させれば、それは自体存在となり、それは実在するものとなる。つまりヘーゲルによれば、私たち精神の運動こそが物そのものを措定していて、従って当然物そのものは精神によって認識されることになる。
 さてガブリエル=ジジェク(以下に引用する本の緒論はふたりで書いている)はここを次のように読んで行く(注2)。
 カントは、絶対的なものすなわち物自体と、相対的なものすなわち現象の世界との隙間を、絶対的なものの内に位置付ける。しかしヘーゲルは、絶対者への否定的な接近ではなく、否定性としての絶対者へと移行する。カントは物そのものに辿り着けないというところに限界があるのではなく、到達できない無限としての物そのものを待ち続けることがいけないのであって、というのはそんなものはないからである。物そのものは現象の中にある。ヘーゲルは物自体の脱実体化を図る(ガブリエル=ジジェクp.20f.)。それは表象の空間における「内在的な隙間」(同 p.30, 31, 32)であり、歪みだとか、裂け目だというような比喩でしか語れないものである。
 さらに今度はガブリエルがひとりで書いている同書第一章においては、「現象は自己関係的な否定性の本質であり、その残滓が存在である」(同 p.77)と、ジジェク張りに書いている。
 このヘーゲルの考えは当然観念論だと思われているが、しかしガブリエル=ジジェクによれば、これを新実在論的に読み換える。ジジェクはここから唯物論を展開する。私は連載の第6回目に書いているが、「真の唯物論は事物の消滅、ただ空だけがあるという事実を喜びとともに引き受ける」ものだからだ。するとここでもジジェクは一般には反実在論だと思われているが(例えばハーマン p.98)、しかし彼もまた新実在論者なのである。
 ここまでは前回までに書いて来たことである。このあとのことを今回書きたいと思う。つまりここまでのガブリエルはジジェクとほぼ同じ考えの持ち主として扱うことができる。しかし彼の『なぜ世界は存在しないのか』を読むと、少し今までの論調とは異なって見える(注3)。
 精神が世界を基礎付けるのではない。精神を特権化する必要はない。それはメイヤスーが言うように、存在しなかったかも知れないものである。そして精神を特権化しなければ、相関主義は崩れる。ガブリエルは易々とこの相関主義が崩れたあとの世界を構築する。そこでは「私たちの住む惑星も私の見る夢も、進化、水洗トイレ、脱毛症、様々な希望、素粒子、月面に住む一角獣さえも存在している」(p.20)のである。
 たくさんのものが実在すると言っても構わない。そしてこれが相関主義を超える第三のやり方だ。しかしそれで何になるのか。素朴実在論と変わらないではないかと言われたときにどう反論するのか。
 ガブリエルが相関主義の限界を指摘し、メイヤスーの不十分さを批判するとき、彼がやりたいことが良く分かる。また彼のシェリングへの言及には、その発想が良く出ている。ガブリエルはシェリングの有名な個所を引用する。「というのも、自己啓示の永遠の所業ののち、我々が現に目撃している世界の内では、すべては規則と秩序と形式なのだが、しかし依然として根底には無規則なものが潜んでいて、・・・この最初にあった無規則的なものが秩序へともたらされたかのように見える。この最初無規則的であったものこそ、実在性の把握しがたい基底であり、決して消え去ることのできない残余であり、・・・永遠に根底に残るものなのである。この悟性無きものの内から、本来的な意味において、悟性は生まれた(シェリング p.430)」(注4 )。
 しかしその発想は分かるのだけれども、彼の『なぜ世界は存在しないのか』を読むと、どうにも面白くない。つまりガブリエルの意義は何かということを考えざるを得ない。ジジェクと共著を書いているガブリエルと、『なぜ世界は存在しないのか』のガブリエルと、その主張の力点が異なっているように思える。
 
 ここでもう少し議論を広げて、他の論者の言うところを見たい。先の4人組のひとり、ハーマンの主張は「すべての対象は皆等しく対象である」というものである。その対象には、「物理的でない存在者や実在的でない存在者さえ含まれている」(ハーマン p.13f.)。「対象が主役である」(同 p.17)とか、「対象こそが哲学のヒーローであるべきだ」(同 p.31)という言い方もされる。
 ハーマンもメイヤスーの言うところの相関主義を批判する。そこから彼もまた出発する。その考え方では、対象は「代替可能で無益な基体」に過ぎず、対象は「埋却」されている(同 p.25f.)と批判される。相関に埋没して、対象の独自の存在感を打ち出せないというのである。ハーマンが言うには、思弁的実在論者の中でメイヤスーのみが相関主義にこだわっている(同 p.214)。しかし私たちは相関主義を捨てるべきであると彼は考える。
 さらには唯物論も批判される。そこでは対象が単に埋却されているだけでなく、解体もされている。対象はそれ自体、創発的実体を持っているのに、唯物論ではそのことが認められていないからだ。
 ハーマン自身の積極的な意見は、「対象志向存在論」と呼ぶものである。この概念を彼はハイデガーの読解から得て来ている。ハイデガーは、ハーマン自身が認めるように、相関主義的な考えをしている。つまり思考の外にある世界を思考する、つまり思考と存在の循環の外に抜け出そうという試みは矛盾に陥るしかないという考えを採っている。しかし後期ハイデガーからは、そうではない概念を導くことが可能である。
 具体的にはこういうことだ。ハイデガーの主題は、可視的なものと大地の絶え間ない退隠、現前と不在、露わになったものと覆い隠されたものの対立を打ち出すことにある。しかしこの対立軸の他にもうひとつ別の対立軸がある。それは単一のものと多数のものという対立である。この一と他という対立軸を導入すると、ここにハイデガーの四方界が説明できる。すなわち隠蔽されて単一なものとしての「大地」、可視的であり、存在者に全体として死すべきものとして出会う「死すべきもの」すなわち人間、隠蔽された複数の存在である「神々」、明かにされた多数性である「天空」。これでハイデガーの四方界が説明でき、これこそがハイデガーの存在論の構造を成すものである(同 第6章)。
 ハーマンはこの四方界を、ハイデガーの主張の中で最も不評を買っている概念であるけれども、最も重要な概念であるとしている。私はこのハーマンのハイデガー解釈の妥当性をここで論じることができないし、ハイデガーの引用と私自身の解釈もここでは試みない。しかしこれはひとつの可能性としては、つまり相関主義者のハイデガーに、相関主義を超える存在論的構造を見出すという、興味深い読解ではある。私が先に試みたカントやヘーゲルの読解と同じく、通説的な解釈と異なった読み方から、通説とまったく正反対の結論を導く、ひとつの見本として、挙げておく。
 
 シャヴィロは先の4人の思弁的実在論者たちよりはやや年上の哲学者である。彼はこの4人の学説を上手に整理して、さらに自らの考えを述べている。これは際立って分かり易いもので、思弁的実在論の概要を理解するには、彼の本が最も適切だろう。
 まず思弁的実在論は人間中心主義に疑問を投げかけている(シャヴィロ p.5)。それは精神を持つ人間の認識を特権化している相関主義を批判して出て来たものだからだ。
 次に真の実在論は思弁的でなければならないということが確認される。つまりそれは素朴実在論ではない。私たちは実在的なものに向き合ったときに、思弁するよう強いられる。しかしその思弁は思考の外でなされねばならないとメイヤスーは相関主義を批判する。私たちは私たちがいない世界を思弁しないとならない。そしてその世界は思弁を通じてしか近付き得ない。ここで先にすでに詳述したカントの意義と限界が確認される(同 第4章)。このことは本書で何度でも繰り返される。要するに思弁的実在論は、メイヤスーの、相関主義を内部から解きほぐそうという試みのことなのである。
 ここでハーマンとメイヤスーが比較される。ハーマンは事物が関係性の上に成立していることを否定し、対象の中に本質的な属性が宿っていると考える。それはメイヤスーの、さらにはカントの考えとは異なるものである。シャヴィロ自身は、このハーマンの考えに半ば同意し、半ば異議を唱える(同 第7章)。その詳細はこれ以上追わない。私にとって関心のあるのは、思弁的実在論、または新実在論と呼ばれる人たちが、かなりの程度、その考えが異なっているということである。シャヴィロはガブリエルを論じていないので、ここにさらにガブリエルを加えれば、何人もの論者が、それぞれの主張をしており、そこには相当に議論の幅がある。
 もうひとつ付け加えるべきは、シャヴィロ自身は、ホワイトヘッドの説に基づき、自説を展開する。そのためその実在論はかなりの程度汎心論(Panpsychism)的である(同 以下第5章)。まず汎心論というのは、シャヴィロ自身の説明では、「すべてのものには精神があり、精神に似た性質がある」というものである。岩にも精神があるということだ。そしてこの考え方は、スピノザ、ライプニッツを経て、ホワイトヘッドまで繋がっている思想である。物質は、人間がこの世界に出現する以前からすでに、能動的、能産的なものである。
 ここまで来ればもう理解は容易だろう。人間が出現する以前から、汎心論的な物は存在した。それがシャヴィロの主張だ。
 
 さて結論を述べねばならない。相関主義の中で、相関主義が語れないと自粛してしまった、または相関主義を批判する人たちからは相関主義にはできないとされてしまった、人間が出現する以前の自然を考察すること。
 ヘーゲル=ジジェクの言うところの、すなわち私が第二の批判として求めた考え方ですべてを語れるはずである。物自体の力を認める。それが私たちに働き掛けている力の大きさを考える。また人間が存在しなかったかもしれない世界に、または絶滅したあとの世界に想像力を巡らせる。それは相関主義の内部から相関主義を超えるものである。
 
 整理をしておこう。思弁的実在論は汎心論と同じく、人間が存在しなくても自然は存在すると考えるから、人間中心主義ではない。しかし汎心論は、自然が必然的に人間を産み出すと考える思想のことであるとすると、それは目的論的な人間中心主義になる(注5)。相関主義は多くの場合、この目的論を拒否するから、それは人間中心主義ではない。しかし新実在論からは、人間の思考に特権を与えているから、それは人間中心主義だと批判されることになる。
 私が「事後的な目的論」、「穏やかな人間中心主義」を唱えるのは、この整理を経ての話である。人間が生まれたのは偶然である。しかし一旦生まれたからには、その出現を必然だと考えるしかない。また人間が生まれる以前から自然は存在した。しかしこれも一旦人間が生まれたからには、その人間の思考を通じてしか、この自然に接近することはできない。

 相関主義の意義は素朴実在論のその素朴さを正すことにある。相関主義は、人の考えが所与の制度に囚われていること、私たちが生まれ落ちた歴史的な制約の中にあることを指摘する。しかしそれにこだわり過ぎる、つまり素朴実在論を批判することに躍起になるというマイナスがある。思弁的実在論、または新実在論の意義は、相関主義の限界を指摘することにある。それは素朴実在論が持っている素朴さを尊重することでもある。それが彼らの主張の意義である。しかしそれが素朴実在論と同じレベルだと捉えられてしまったら、その意義は失われる。結局彼らは関係性を実体化している。物象化的錯視に陥っている。存在被拘束性を捨象している。そういう批判をされてしまう。戦略が必要で、ここで取り挙げたガブリエル、ハーマン、シャヴィロは戦略的に下手だと思う。
 
注 
1. フェラーリスも同様のことを言っている(Ferraris, p.11)。なお、ガブリエルはフェラーリスと2011年の夏に昼食を共にした時から、新実在論を唱え始めたと書いている(ガブリエルp.8f.)。
2. ガブリエル = ジジェクの『神話・狂気・哄笑』は、緒論をふたりで書き、その後第1章をガブリエルが、第2章と3章をジジェクが書いている。
3. ガブリエルについて最も良くまとまっている説明がなされているのは飯泉佑介の論文である(飯泉)。
4. グラントもまたシェリングに依拠している(Grant)。
5. 汎神論 (pantheism) は、神と宇宙、神と自然とは同一であるとみなす立場である。18世紀にスピノザの「神即自然」の思想を巡って汎神論論争が起こり、この影響下でドイツ観念論において汎神論的な議論が展開された。それは広義の唯物論、すなわち物=自然の自己運動が精神を産み出したという考え方に繋がると思う。一方汎心論(Panpsychism)とは、あらゆるものが心的な性質を持つとする世界観全般を指す。それは原始信仰としてのアニミズム的世界観でもあり、基本的に観念論、ないしは唯心論に繋がる。両者の違いはあまりないと私は考える。つまり自然が先にあって、そこに精神性が宿っていると考えるか、精神が先にあって、自然の中に自らを体現して行くのかという違いがあるだけの話である。そしてそのどちらも、人間が生まれる以前の自然、人間のいない自然を認めれば人間中心主義ではないし、しかし人間の出現が必然だと考える限りで、人間中心主義である。
 
参考文献
Brassier, R., Nihil Unbound Enlightenment and Extinction, Palgrave, 2007
Ferraris, M., Introduction to New Realism, Bloomsbury, 2015
ガブリエル, M., 『なぜ世界は存在しないのか』講談社2013=2018
ガブリエル, M., = ジジェク, S., 『神話・狂気・哄笑 -ドイツ観念論における主体性-』大河内泰樹他監訳、堀之内出版2009=2015
Grant, I. H., Philosophies of Nature after Schelling, Continuum, 2006
ハーマン, G., 『四方対象 オブジェクト指向存在論入門』岡島隆佑監訳、人文書院2010=2017
飯泉裕介「世界の不在と絶対者の現在」『ヘーゲルと現代社会』寄川条路編著、晃洋書房2018
メイヤスー, Q., 『有限性の後で -偶然性の必然性についての試論-』千葉雅也他訳、2006=2016
シェリング, F. W. J., 「人間的自由の本質及びそれと関連する諸対象についての哲学的研究」『世界の名著 第43巻フィヒテ シェリング』中央公論社1980
シャヴィロ, S.,『モノたちの宇宙 -思弁的実在論とは何か-』上野俊哉訳、河出書房新社、2014=2016
 
(たかはしかずゆき 哲学者)
 
9へ続く
 
(pubspace-x5094,2018.05.15)