病の精神哲学6  実在論から目的論へ

高橋一行

                            
      
 ジジェクはドゥルーズを論じた本の中で、私が前回取り挙げたボグダーノフの主張にドゥルーズのそれが近いのではないかと言い、さらにふたりの主張が単に相関主義的であるだけでなく、唯物論と観念論の対立という問題を反復しているとしている。すなわちそれは、客観的現実から出発して、そこから主体の生成を扱うものと、先に絶対的主体を考え、そこから主体が措定する客観を展開しようとする立場と、ふたつがあって対立しているのだが、実は相補的であるということだ(『身体なき器官』p.47ff.)。
 ジジェクはそこから、前回の「新実在論」者が提起している問題をさらにジジェク自身の関心に引き付けて、次のように整理している。すなわち私たちが考えねばならないのは、次の3つの領域である。第一に、量子力学やとりわけヒッグズ場の議論が扱う、物質がどのようにして生じて来たのかという問題、ないしは、波動の振動に過ぎないものがどのように物象化するのかという問題があり、第二に、生物の細胞がその環境とどのような関係を保ちつつ、生成して来たのかという問題があり、第三に、生物がフロイトの言うところの死の欲動を持ち、それが精神の発生に如何に関わっているのかという問題である(p.55f.)。どれも人間が生まれる以前の自然がどのように存在していたのかということを問い質している。
 このごく短いまとめに、ジジェクの考えが凝縮されている。すなわち、第一に、宇宙の最初の出現時に、どのように物質が生じたのかということを考え、その物質の進展がさらに、細胞という形態を以って自己同一性を維持する生物をどのように生じさせたのかという問題に繋がり、最後に生まれては死ぬということを繰り返す生物の個体の流れの中から、どのようにしてその普遍性を認識する精神が出現したのかという問題である。
 ジジェクはそれらについて、「現実が際限なく分割可能であり、それはあるひとつの空の内部における実体を欠いた空に他ならない」と言い、「ポスト形而上学的な観念論とでも呼んでみたい気にさせられることの再出現」であり、同時に、「真の唯物論は、事物の消滅、ただ空だけがあるという事実を喜びとともに引き受ける」ものでもあると言っている(同p.56f.)。
 私は今回、このジジェクの短い言及を、ジジェクの他の著作を援用し、またヘーゲルの論理と重ねて、以下詳細に分析してみたい。
 
 まず物質の生成の問題から始める。ここでジジェクはヒッグズ場という、近年話題になっている物理学上の発見について言及する。
 ジジェクの説明は以下の通りである。『身体なき器官』ではごく簡単にしか説明されていないので、ここは『操り人形と小人』でなされた説明を使う。Less than Nothing にも同じ説明がある。少なくともこれら3か所の説明は、そこで使われている単語も含めてすべて同じである。
 
 あらゆる物理システムは、環境の中で自らのエネルギーを放出すると、やがて最低のエネルギー値、つまりゼロとなる真空状態に到達する。このエネルギーの放出は、ある物理システムから何らかの実体を取り除くことによってもなされる。ところが、エネルギーの最低値の真空の中にこのヒッグズ場が現れると、そのエネルギーはさらに減少する。つまりゼロよりもさらにエネルギーが下回る。逆の言い方をして、つまりこのヒッグズ場をあるシステムから取り除くと、そのシステムのエネルギーが上昇する(同書p.140)。
 
 実際、ヒッグズ場の説明としてこれは正しいのだろうか。概説書を読む限り(竹内薫、浅井祥仁、大栗博司の3人の本を使った)、それはほぼ正しいと思う。それらをまとめると、ヒッグズ場の説明は次のようになる。
 ヒッグズ場は素粒子に質量を与える場である。すべての物質を作っている最小単位が素粒子だが、それは本来質量を持っていない。世界は12の素粒子ででき上がっていて(物質を形作っている素粒子)、さらにそれらの間を媒介するゲージ粒子と呼ばれる粒子が4つあり(力を伝える素粒子)、これが素粒子間に働く電磁力、強い力、弱い力と呼ばれる3つの力を相互作用させる。世界はこのようにでき上がっている。そして最初の段階ではこれらの素粒子に質量はない。それらの素粒子は、次にヒッグズ場というヒッグズ粒子で満ち溢れている場の中で、ヒッグズ粒子とぶつかることで抵抗が起き、各素粒子は質量を得る。
 このヒッグズ粒子というのはヒッグズ場という場の働きのことであり、言い換えればそこに生じる波のことである。量子力学の世界においては、粒子とは波であり、かつ粒子でもあるという存在のあり方をしている。
 宇宙には最初は光があり、その光から素粒子ができるのだが、その素粒子にはさしあたって質量がない。しかしヒッグズ粒子という概念装置を使って、素粒子に質量が生まれる。そういう仕組みである。そして素粒子に質量を持たせるために理論的に必要とされたヒッグズ粒子が、2012年に、現実に実験で観測されたのである。
 ただしヒッグズ粒子によって素粒子のすべての質量が与えられるのではなく、最初の質量がこのヒッグズ粒子によって与えられたのち、あとは素粒子間に働く力によって、残りの質量が説明される。
 
 以上がヒッグズ場の説明で、しかしこれだけではまだジジェクの説明と繋がらない。以下のように考える必要がある。
 ヒッグズ粒子が存在する時空である場と、ポテンシャル、すなわちその場が持っているエネルギーの量の関係を考える。グラフを次のように書いてみる。縦軸(y軸)を宇宙のポテンシャル、横軸(x軸)をヒッグズ場の状態とする。すると、宇宙が誕生した直後には、ヒッグズ場は偏りのない状態で安定しており、そこではヒッグズ場は生じたり消えたりするけれども、平均するとまだ現れていないとみなされる。質量もエネルギーもゼロの真空状態である。U字型のグラフを描いて、その一番底で安定している状態である。ところがビッグバン以降、宇宙はどんどん冷えて行き、エネルギーが低くなって行く。するとヒッグズ場が偏った状態に陥る。W型のグラフを描いて、その右か左か、どちらかの底に場が落ちて行く。これを自発的対称性の破れと言う。そこは元の真空状態よりもさらにエネルギーの低い真空状態になる。ジジェクの言い方を用いれば、less than nothingである。そこでは真空も相転移を起こして、その新たに生じた真空状態はヒッグズ場で満たされる。ヒッグズ場が充満することで、素粒子に質量が発生する。そういうイメージを描くと、先のジジェクの説明と合致する。
 
 こうした説明をしたのちに、さらにジジェクの言いたいことを敷衍したいと思う。まず確かにヒッグズ場は質量がない素粒子に質量を与えるのだから、これは無から有を生成しているのだという言い方をしても良いだろう。ヘーゲル論理学においては、その最初の議論は次のようになっている。つまり最初にあるのは「存在」であり、しかしこの「存在」は、ただ単に存在する、ただあるとしか言えないもので、その意味でこれは「無」に過ぎないものである。何の規定もそこにはないからだ。しかしこの「存在」は「無」に成り、「無」はまた「存在」に成る。ここに「成」という段階が生じており、その「成」は次に規定を与えられて「定存在」に成る。この間のヘーゲルの神秘的な説明を、現代素粒子理論は明快に解きほぐす。最初の段階の、光から分かれたばかりで質量を持たない素粒子は、まだ存在するとも言えないし、存在しないとも言えないけれども、ヒッグズ場によって質量という規定を与えられて確固とした存在に成ると説明する。このようにジジェクの言わんとするところを、ヘーゲルの言葉を使って解釈することができる。
 ジジェクはさらにLess than Nothing という本の中で、まさしくこのless than nothing (無よりもさらに少ないもの)の説明をする。これがヘーゲル論理学の最初の段階であるとともに、宇宙の生成の説明になっている。ヒッグズ場という、真空以下の場、無以下の無、否定以下の否定と見なすべき場で、物質の生成が行われるのである。
 
 本質的なところで、ヘーゲル論理学と量子力学は似ている。光からいくつもの素粒子が生まれるが、最初の段階では、それらはまだ相互に区別されない。自己同一性を持たないし、同じ空間にふたつ以上の素粒子が存在することも可能である。それらは真空の中に存在する。ただ単に存在するとしか言えないものである。そしてその真空とは、決して何もないという状態のことではなく、そこはヒッグズ場で満たされている。ヘーゲルは、世界はエーテルで満たされていると考えているが、それは量子力学的世界観と酷似する。
 そのエーテル=ヒッグズ場が各素粒子に質量を与えるのだが、しかしこれも厳密に言えば、質量を得たような状態になるだけの話である。質量を得たように見えると表現しても良い。素粒子はヒッグズ場でその動きに対して抵抗を受け、動きが制約される。つまりそこにエネルギーが集中している状態が生まれる。それをそれぞれの素粒子がそこでエネルギー=質量を持つと表現する。さらにエネルギー=質量を持つということが、その素粒子が存在することと同義であると見なされる。
 
 次に生物の発生の説明をする。
 『身体なき器官』の先の引用箇所においては、次のように言われている。「生物のシステムにアトラクターを動態的に回避するするシステムといった特徴を与えることが最適であるという生物学的洞察、すなわち生の諸過程は移行局面において、あるいはその近傍で維持されている洞察もまた、(ヒッグズ場の論理と)同様の方向性を持ってはいないだろうか」(p.56)。
 同書にはさらに次のような記述がある。「生の基本形式である細胞は、自己関係の最小限、すなわち有機体を特徴付ける内部と外部の間の限界がそれだけを介して出現可能となる最小限によって、厳密に特徴付けられている。そしてヘーゲルが指摘したように、思考とはこうした「対自性」の更なる展開に過ぎないのである」。「有機体とその環境が如何に相互作用するかではなく、むしろあるひとつの明らかに自己同一的な有機体がその環境から出現するか、つまり細胞は自らの外部から自らの内部を分離する細胞膜を如何に形成するかが真の問題である。・・・現代生物学が全く不気味なことに、ヘーゲル的な言語と類似し始めるのである」(同書p.223f.)。
 同じ説明が、ガブリエル=ジジェク『神話・狂気・哄笑』にもある。「生命が創発するのは、環境による存在者への外的な制限が、自己制限へと転化するときである。ここで私たちは無限を巡る問題に立ち戻ることになる。ヘーゲルにとって真無限とは、他のものによって規定されているというあり方が、能動的な自己規定になることを意味する。まさしくこの意味で、生命とは生ける細胞というそのもっとも基本的なあり方において、真無限の基本形態なのである」(同書p.199ff.)。
 私は以前、「複雑系から進化を考える(8)」で次のように書いている。
 生物の特徴は以下の通り。「つまり、生命は、①分子ネットワークによって、自己複製し、②代謝ネットワークによって、自己を維持し、③膜によって、環境から区別される存在である」。
 さらに「最初は、物理的な自己集団化現象の段階」があり、「海底で、熱水が湧き出しているところ」に、「ポリペプチド様分子が集積したと考えられる。海底火山の周りには、熱エネルギーがたくさんあって、アミノ酸が、重合する反応が起きやすかったと考えられている。そこに、つまり、ポリペプチド様分子の塊の触媒作用に支えられて、RNAなどの、核酸の祖先型の形成が可能になったのである」。「このRNAが、自己複製子として誕生したのが、第二段階である。それは一本の鎖からできていて、それが開裂して、自己を複製することができる。つまり、遺伝子となり得るのである。しかし、このRNAは、ポリペプチド様分子の触媒を必要とする」。「この、RNAと、タンパク質様の相互関係が確立し、情報世界が出現したのが、第3段階である。そしてこの、第3段階の情報マクロ分子ネットワークを支えるためには、代謝ネットワーク、つまり、材料とエネルギーを支える化学反応系が必要である。すると、この、RNAと、タンパク質様の情報マクロ分子ネットワークに、代謝ネットワークの相互浸透による、ネットワークの融合的統一が完成したのが、第4段階である。ここに、自己複製と自己維持性が確立される」。「さて、この、RNA-タンパク質-代謝系が、機能し続けるためには、周辺から邪魔されないような境界を持った閉鎖空間が必要である。ここに、膜形成化学反応が要請される。この膜形成は、もっと早い段階で、上述の進展とは独立して、成立していたのかもしれない。しかし、このRNA-タンパク質-代謝系と融合して、一体化される必要がある。かくして、自己複製と代謝の融合ネットワークは、膜を持つ小胞構造の中に納まって、そこで機能し始める。ここに始原的生物が成立する。これは、生物が自己として成立したのである。つまり、主体性の成立と言って良い」。
 この議論をヘーゲル論理学に繋げたい。第一部存在論の、無限性の議論の前のところがこのあたりの議論に関わるだろう。
 すなわちヘーゲル論理学では、先に生成した定存在が、自ら限界を設けてそれを克服していく様が描かれる。あるものは、自らの内に限界を持つ。限界とは、そのあるものの規定そのもののことである。あるものは、限界によって、他のものと自らを区別する。あるものはその限界を超え、自らを超え出て行く。
 この限界が細胞膜であると言って良い。細胞膜は自己の中にあって自己を否定するものであり、それによって自己と他者とが分けられ、自己は自己として、他者と関係を持つことができるのである。さらにその膜で仕切られた自己が、他者を自己内に取り入れて、自己は自己を維持する。
 ヘーゲルの論理では、あるものはかくの如く規定されていて、その規定性がある限り、あるものは有限である。しかしその有限なものは自己を超えて行く。有限なものは他から区別されている限りで、否定性を自己の内に持つが、さらにその否定性を超えて行く。つまりその否定性を否定する。そのようにして有限なものはその有限性を超えるべく運動する。かくして真無限が生じる。この間の事情については、私は今まで何度も書いて来た。そしてこれは生物の自己複製、つまり生殖のことを言っていると見て良い。
 さて生物のこの自己維持、及び自己複製という生物の性質を表すのに、ジジェクはアトラクターという概念を使っている。アトラクターというのは、ある極限集合のことで、そこに十分近いところで運動するとき、その位置で動的な安定が得られるという集合のことである。生物はそのアトラクターの近傍で動的に秩序の形成及びその維持を行う。つまり細胞膜を持ち、自己維持及び自己再生を行えるのは、アトラクターがそれらの動的な均衡を保証しているからである。アトラクターそれ自身は言わば無であり、しかしその周囲に動的な秩序を可能にする環境を用意するのである。
 
 そして最後がフロイトの言う「死の欲動」であり、これを経て、精神が発生する。ジジェクにはいくつもの「死の欲動」への言及がある。まず先の『身体なき器官』から引用する。「それ(ヒッグズ場やアトラクター理論が持っている方向性)はまた、あらゆる生はニルヴァーナ(涅槃)へ向かう傾向性を有しているといった類の考えに根源的に対立するという意味で、フロイト的な「死の欲動」にも向かっていないだろうか。「死の欲動」は、ある生物的有機体の最も根源的な傾向性と緊張状態を保ち、完全なる恒常性という状態の獲得において達成される、究極的な緩和の回避を意味している。「快原則の彼岸」としての「死の欲動」は、緊張状態を尽きることなく繰り返す、有機体のまさに執着なのである」(p.56)。
 
 別の場所では次のように言う。問題は生のループから自己意識へどのように移行するかということである。「それはその思考において、生の有機的全体をバラバラに引き裂き、それをある苦行を強いる分析の下に置き、有機体をその分離された諸要素へと還元する能力を持っている。自己意識はこうして再び死の次元を有機的生へ導入する」。言語がその苦行を強いるメカニズムである(同書p.232ff.)。
  
 フロイトは『夢判断』で一次過程と二次過程という概念を提出している(「快原則の彼岸」原注14、『夢判断』第7章)。すなわち一次過程は無意識系の特徴であり、快原理によって支配されている。二次過程は、前意識と意識系の特徴を表しており、現実原則に従ってエネルギーの流出を拘束し、安定した方法で表象にエネルギーを備給している。
 しかし「快原則の彼岸」において、この快原則-現実原則の対立だけでは説明できない衝動があることにフロイトは気付く。神経症の患者を観察することで、彼が幼児期の出来事を転移において反復する強迫があることに気付いたのである。つまりこの快原理を超えたものがあるということに気付いたのである。それが死の衝動である。心的な生には必ず反復強迫がある。その反復衝動はそれによって脇に押しやられる快原理以上に、根源的である。それは「死の欲動」であるとフロイトは畳み込んで来る。
 「死の欲動」はフロイト自身によって次のように説明されている。「それまで生命のなかった物質の中で緊張が発生し、この緊張は自己を解消しようとした。このようにして最初の欲動が生まれた。生命のない状態に還帰しようとする欲動である」(同書p.162)。
 ヘーゲル論理学との関連で言えば、これは概念が生じるところの話になる。ヘーゲルは、本質論の最後のところ、つまり概念が生成する箇所で、その概念とは自我であり、自由な精神であると言う(『小論理学』159節注)。
 その上で概念論の最初のところでは、概念は最初は普遍的なものとしてあり、それが規定されて特殊の段階になる。規定されているというのは他から区別されているということであり、そしてこの他からの区別が「絶対的否定態」となって、そこへと自己反省する概念が個別的な概念である。ここで重要なのは、「絶対的否定態」である。これは以下のように読み換えることが可能である。すなわち単細胞の生物は、類としての普遍そのものである。それはまだ個別的な存在ではない。しかし多細胞生物に成ると、それは個体の死という否定態を持ち、つまり自らは死ぬことで個体として確立する。個体というのは死すべき存在である。そして自らは死ぬけれども、生殖行為をして、普遍=類を繋いで行く。
 ヘーゲル論理学では、この普遍から個別への進展が記述され、さらに今度はその逆の、個別から普遍への展開が説明される。個体は自ら死ぬことを意識し、それによって自らが類であることを自覚する。これこそフロイトが「死の欲動」と呼ぶものである。それこそが自我を成立させる。つまり「死の欲動」という否定態が精神性を生む。
 それは「論理学」の抽象的な表現では分かりにくいので、私は今まで、『自然哲学』の最後のところと『精神哲学』の最初のところを使って論じて来た。私は「死の欲動」を、ヘーゲルにあっては、自我の進展における否定的なもの、すなわち「病」と捉えているのである。つまり動物は病になり、やがて死ぬ。精神がそこに出現すると、この死を意識するということになるのだが、その際に、動物の魂の病についての言及があり、それが人間の魂の病に繋がり、その病が精神性の出現を促すという仕組みになっている。魂の病とは死の意識のことである。ヘーゲルが病と言い、死への自覚というものを、フロイトは「死の欲動」と呼んでいるのではないだろうか。
 フロイトの『快原則の彼岸』とヘーゲルの『エンチュクロペディー』を突き併せて読んで行く作業が必要なのである。
 
 ヒッグズ場があり、アトラクターがあり、「死の欲動」がある。いずれも無であり、否定態である。自然は人間が生まれる前から存在しているが、最初から現在のように、秩序があり、必然性を持って存在しているのではなかった。その存在は無から生まれ、秩序それ自身もカオスから生成し、その必然性は偶然から出来上がったのである。
 
 さて本稿を目的論と呼ぶのは、精神の生まれる前に、自然の進展、つまり物質の生成、生命の発生と進化があり、そこから精神が出現するということが議論されねばならないのである。それはすでに精神が生まれたあとに、その精神によって事後的になされるもので、偶然が積み重なって生まれ出て来た精神のその生成の由来を必然と見なす試みに他ならない。それが目的論と呼ばれるのである。
 
参考文献
浅井祥仁『ヒッグズ粒子の謎』祥伝社、2012
フロイト, S.『夢判断』高橋義孝訳、新潮社、1900=1969
—–    「快感原則の彼岸」『自我論集』所収、中山元訳、筑摩書房、1920=1996
ガブリエル, M.=ジジェク, S. 『神話・狂気・哄笑 -ドイツ観念論における主体性-』大河内泰樹他監訳、堀之内出版、2009=2015
大栗博司『強い力と弱い力 -ヒッグズ粒子が宇宙にかけた魔法を解く-』幻冬舎、2013
竹内薫『ヒッグズ粒子と宇宙創成』日本経済新聞社、2012
ジジェク, S. 『操り人形と小人』中山徹訳、青土社、2003=2004
—–    『身体なき器官』長原豊訳、河出書房新社、2004=2004
Žižek, S. Less than Nothing – Hegel and the Shadow of Dialectical Materialism – , Verso, 2012
 
(たかはしかずゆき 哲学者)
 
次号に続く
 
(pubspace-x4930,2018.03.17)