モーリス・ベジャールの第九

積山 諭

 
 
 20世紀バレエ団を率い現代バレエに新たな衝撃をもたらし、2007年にスイスのローザンヌで没した振付師モーリス・ベジャールは、「本作は〝踊るコンサート〟だ。バレエというより、全人類の宝と言える作品に人間が深く参加するという行為だ」と述べたという。1964年にブリュッセルで初演され世界各地でセンセーションを起こした、ベートーヴェンの最後の交響曲「第9番 ニ短調 作品125」をバレエの舞台にした作品のことである。1978年のモスクワのクレムリン公演を最後にベジャールが封印し、その後陽の目をみなかった。それが2014年に日本で公演された。公演に向けたドキュメンタリー映像が『ダンシング・ベートーヴェン』(アランチャ・アギーレ監督)である。先日、都内の試写会で観てきた。現在、公開中なので多くの人々に薦めたい作品だ。
 ローザンヌと日本で、若いダンサーたちが様々な立場で練習する姿をキャメラが克明に追う。それを見ると、バレエという肉体表現がいかに修練を経て舞台が構成されるのか、ということがよくわかる。この舞台をズビン・メータ指揮のイスラエル・フィルハーモニーが支える。監督は公演に向け関わったダンサーたちに問う。その回答を見聞きすると、彼や彼女はベートーヴェンの作品などあまり関心がないと思われる人もいる。それは公演に参加するダンサーたちも様々ということで理解できる。ダンスという芸術表現に関わる仕事も一般の人々の仕事や職業もそれは同じで、習熟、熟練した人の動きと振る舞いは共通のものとして、この映像で彼らの言葉、表情を見ればよくわかる。そこで彼らを鼓舞しているのは正しくベートーヴェンの音楽なのだ。
 作品には女性監督らしい視線も感じ取れる。特に主役の女性ダンサーが途中で妊娠し役を降りなければならなくなる。その経緯は女性ならではの視角で作品に取り入れられている。パンフレットを読むと、監督はペドロ・アルモドバル監督に師事しているらしい。それも納得することだ。ペドロ監督もダンスには大いに関心があるらしい。自作にピナ・バウシュの映像を取り入れていた事を想い出す。
 練習風景の厳しさと真剣さも門外漢には実に興味深い。リハーサルの面白さを私は音楽の世界では、フルトヴェングラーやブルーノ・ワルター、小澤征爾さんのリハーサル録音や録画で知った。それと同様に作品の解釈と表現に関する議論の積み重ねで或る均衡点が了解される。それを是とするか非とするかは演じる者、聴く者、観る者の判断である。しかし巨匠、天才はじめ権威とされる者たちの表現は時に奇異ともなる。しかし解釈によってその力技が作品の常識を超えた領域に踏み込むことがある。そこが表現の深さとして伝わったとき作品は新たな力となってダンサーや、その姿を観る者、聴く者にも伝わる。それが優れた作品の秘める豊饒な世界だろう。
 ベジャールはベートーヴェンの作品の豊饒な世界を看取し、それを自らの表現として提示した。それは新たな世界、境地に達するということだ。それをこの作品は伝えてくれる。
 
(せきやまさとし)
 
(pubspace-x4788,2018.01.04)