戦後国権論として憲法を読む(第7回) 本説 第五章  無理筋の「国民主権論」を語る

―――第10条における「主権者国民の不存在」による第三章全体の混乱―――(1)

 
第6回より続く。
 

西兼司

 
第1節 憲法原理たる「国民主権」の憲法における不在
第2節 第10条の意義とその批判の不在
第3節 国民主権に必要な具体的課題・「天皇主権規定」と多衆国民の課題
第4節 「国民主権」が齎すであろう「『法の支配』体制の法体系」
第5節 「国民の権利及び義務」の常識的読解の根本的解体
第6節 私の第10条案
 
私は、これまで、【明文正読】、【釈義】、【述義】と三つに分けて述べてきたが、日本国憲法第三章を読むということになると内容が膨大すぎて、私の力量では現時点では整理しきれないことに気が付いた。したがって、そのような問題意識は常に持ちつつも、無理をして三つに分けて述べるという方法は放棄することにした。今回は第三章の冒頭第10条であるが、此処からはまっすぐ正しいと思う読解を続ける。
 
第1節  憲法原理たる「国民主権」の憲法における不在
 
常識として語られることであるが、日本国憲法には三つの原理があるのだという。「国民主権」と「平和主義」と「基本的人権の尊重」である。「憲法」とは一体なんぞやという疑問をさしあたり留保しておけば、日本国憲法という103条に及ぶ「法秩序のイデオロギー体系」が語っている原理的理念としては、なるほどそう云えるのかもしれないと思わせる説明である。法律にせよ、その規範たる憲法にせよ、秩序を守らせる規矩であるのだから、対象が人民であるのか、権力(実態としての公務員)であるのかを留保さえすれば、イデオロギー体系の基礎にはそのような原理的理念が潜んでいるのだと謂われれば容易に同意できることである。
 
ただそれは常識=耳学問の話である。読んでみれば一目瞭然のことであるが、「平和主義」とされるものは、「前文」と「第二章第9条」で語られているだけのものであるし、「基本的人権の尊重」は、二か所で語られているだけである。「第三章 国民の権利及び義務」の中で【第11条 国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる】とまず語られており、「第十章 最高法規」の中で【第97条 この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである】と語られているだけである。いわば、「不磨の権利」として基本的人権は措定されているのであるが、基本的人権がどのようなものであるかについては明示されていない。
 
そして、「国民主権」ということになれば独自の規定は前文と本文のどこにも書かれていない。「前文」第一文で、【日本国民は、・・・ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する】と宣言され、「本文」の「第一章 天皇」・【第1条 天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く】と天皇の位置の前提とされているだけである。「平和主義」や「基本的人権」と比べても、「国民主権」には独自条文規定が全くないというだけではなく、内容を窺わせるものもないのだと謂うことである。
 
結局、憲法の原理的理念「国民主権」、「平和主義」、「基本的人権の尊重」については、全103条中のたった3条(第9条、第11条、第97条)だけが原理を叙述しているのだとしても、その3条が格別に大切な原理的規定だと謂うことは何も明確にされておらず、他の100条との価値的優劣関係も、解釈上の優先関係も全く明らかではないのである。そして国民主権はそうした独自条文も存在しないのだと謂うことから話ははじめられなければならない。「国民主権」が憲法原理だと謂うことは、「憲法解釈の話」であって、解釈で飯を食っていく学者や公務員でない限り、眉に唾をしながら聞いて行くのが、おそらくは「講釈を聞く正しい姿勢」というものなのであろう。
 
その証拠は何よりも憲法の章別構成に明らかである。私は日本国憲法よりは、帝国憲法の方がずっとよく考えられた憲法だと思うのだが、帝国憲法の章別構成はこうである。「第一章 天皇」(全17条)、「第二章 臣民権利義務」(全15条)、「第三章 帝国議会」(全22条)、「第四章 国務大臣及枢密顧問」(全2条)、「第五章 司法」(全5条)、「第六章 会計」(全11条)、「第七章 補則」(全4条)である。
 
そもそも帝国憲法は、発布勅語に「朕国家ノ隆昌ト臣民ノ慶福トヲ以テ中心ノ欣栄トシ朕カ祖宗ニ承クルノ大権ニ依リ現在及将来ノ臣民ニ対シ此ノ不磨ノ大典ヲ宣布ス」と云う通り、「祖宗に承くるの大権により」、その大権の一部を臣民に「与ニ倶ニ国家ノ進運ヲ扶持セムコトヲ望ミ」(帝国憲法前文)明示して下賜したものであった。被統治者に対して統治者が統治形態と統治思想を詳らかにし、その安定性を「不磨の大典」として明らかにしたものである。そうしたものとして第一章に「主権者天皇の権限と権能」を置き、第二章に「臣民の権利と義務」を置き、第三章に統治機構の第一として「民意を安定的に汲み上げる機関としての帝国議会」を置き、第四章に統治機構そのものとして「天皇補助機関として国務大臣・相談役として枢密顧問」を置き、第五章に統治の瑕疵始末機関として「裁判所、特別裁判所、行政裁判所」を置き、第六章に金銭収奪は明朗にという精神の下「租税法定主義と、国家予算の国会審議と、天皇大権にかかる支出は国会の容喙を許さず」という原則を明らかにしたものである。
 
全体として、主権者の主権の範囲(形)が明示されて、それとの関係で被統治者の権利及び義務が述べられていることもまた明確である。「主権」があってこその人民の「権利」や「義務」が明確になるのだと謂うことは明白である。帝国憲法は決して「平和主義」を採用していないが、戦争主義であっても平和主義であっても、それらは「政策の路線」である。主体(主権)があって、被統治者(客体)の権利(基本的人権も含む)や義務も成立し、そこで「国家」が成立すると謂うことが明確に読み取れる。
 
この帝国憲法における主権と権利と政策の関係が、日本国憲法では見えなくなっているのだ。
第1章 天皇(1条-8条・全8条)
第2章 戦争の放棄(9条・全1条)
第3章 国民の権利及び義務(10条-40条・全31条)
第4章 国会(41条-64条・全24条)
第5章 内閣(65条-75条・全11条)
第6章 司法(76条-82条・全7条)
第7章 財政(83条-91条・全9条)
第8章 地方自治(92条-95条・全4条)
第9章 改正(96条・全1条)
第10章 最高法規(97条-99条・全3条)
第11章 補則(100条-103条・全4条)
「天皇」も「国会」も「内閣」も「司法」も「地方自治」もすべて「国権機関」である。「戦争の放棄」と「財政」は「国権機関のこと」である。そして、「国民の権利及び義務」が、帝国憲法第二章「臣民権利義務」に対応させられた「被統治者の権利及び義務」として書かれていることは明白である。前文がなければ、憲法本文だけを読む限り「憲法制定主体」が「天皇」であるかのごとき体裁となっていることは否定できないのだ。章別構成を見る限り、「基本的人権の尊重」とは、主権者宣言はあっても「国民の主権的権限・権能」を書き落としてある、欠落の反対給付であることが歴然なのである。
 
三つの原理を関係的に云えば「国民主権」が最も根底に据えられなければならない原理的理念で、「基本的人権」は「国民主権」が明確にならなければ措定できない理念的権利であろう。「平和主義」は、「国民主権」が確立されれば自ずからにして国民が選択する戦略的路線的政策である。三つの原理が同じ重さを持つ課題だとは考えられないし、平衡を保つことが課題だとしても、均衡していける時間が長かろうはずはない課題ではないのか。この三つの原理の三角関係が、日本国憲法では全く書かれてもいないし、まして、「国民主権」はその形がなにも叙述されていない。これが憲法第三章を読む前提にある、瞭然たる景色である。
 

(以上で、第7回終わり。以下、第8回に続く)

 
(にしけんじ)
 
(pubspace-4192,2017.07.10)