戦後国権論として憲法を読む(第8回)本説 第五章 無理筋の「国民主権論」を語る

―――第10条における「主権者国民の不存在」による第三章全体の混乱―――(2)

 
第7回より続く。
 

西兼司

 
第2節 第10条の意義とその批判の不在
 
(一)「日本国民たる要件」の必要
日本国憲法の第三章は、第10条から第40条まで全31条で構成されている。そして、その中でおそらく一番興味をひかないのが第10条である。しかし、「国民主権」を標榜しながら第一章が「主権者国民」とされておらず、主権者国民を語る条文がなく、国権機関「天皇」が全8条にわたって展開されその天皇の粉飾としてだけ憲法【第1条 天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く】と、「主権の存する日本国民」が措定されているのを見ると、改めて第10条をしみじみと読まざるを得ない。
 
第10条は、【日本国民たる要件は、法律でこれを定める】と極めて簡潔である。文意明快、意味不明とはこのような文であろう。日本国民たる要件を問題にしている条文は憲法でここだけであるから、素直に読めば、憲法は「憲法で日本国民たる要件は決めない、関知しない」と云っているのである。そして、その前提としては「日本国民たる要件」が必要だという認識は確かに存在することが窺がえるであろう。「要件は必要だが、それは決めない」という条文である。
 
この規定は直ちにいくつかの疑問や問題点を提起する。疑問としては、これでは「国民主権」を憲法に書き込むことはできなくなるであろうと謂うことだ。国民主権の主語たる国民が規定されないで、その中身が語れるはずはないであろう。「日本国民たる要件」が必要だという事は、「国民主権」は単なる抽象的な理念だけでは済まない、「具体的な権限・権能主体」として明確にしなければ「概念」にならないという事を示唆している。
 
「国民主権」とは「君主主権」とは違う。王権神授説や、帝国憲法のような「祖宗ノ遺烈ヲ承ケ」(帝国憲法前文冒頭)たことを理由として、統合単一体であることを前提にするわけにはいかない。「国民」という多衆集合体であるからには、憲法制定権力であろうと、憲法内最高権であろうと、それは他国の存在を前提とする一国的権力であると共に、国民という集合でありながら統合単一体であることを叙述する必要がある、つまり「日本国民たる要件」が必要であることを免れることはできない。
 
この明示要件は、帝国憲法を継承しなければならない事情からだけではない。「他国の主権」との関係で自己を定立しなければならない事情は、近代世界を作った歴史的事情による。「人民主権」であるにせよ、「国民主権」であるにせよ、場合によれば「第三身分(市民)の独裁(主権)」であるにせよ、市民国家における「第三階級(プロレタリアート)の独裁(主権)」であるにせよ、外との関係で自己を措定しなければならないのだ。17世紀半ばのウエストファーレン条約による「国際法体制」の発足=「主権国家体制」の発足以降に、その主権国家理論の一類型として「国民主権」主張国家が出来たものだからである。外国との関係で「国民」を切り分けて、「主権主体」にするのか、「被統治客体・臣民」にするのかの作業は必要なのだ。「国民主権」は一般論としての「人民主権」と単純につながっているわけではない。ひとたびは、「国民」を概念規定して「国民自意識(ナショナルアイデンティテイ)」の確立の方向を明確にしなければ「主権」との接合ができない国際法的観念なのである。
 
まして、皇祖の神霊の継承を根拠として不磨の大典を謳っていた帝国憲法を革新するのだ。その主体たる主権者を「上御一人」から「多衆国民」に変更するのだ。「国民」という観念、その中心たる「国民たる要件」の検討そのものが憲法構想の中心に座るのは明々白々だ。「国民」を憲法によらずして下位規範である法律に任せるという安易さで戦後、「日本国憲法」は出発できるのか。憲法で決める必要があるのに、法律で決める「要件」とは一体どんなものなのか。これがまず初めの疑問である。
 
(二)必要要件の放擲・「大東亜解放理念」責任からの逃亡
帝国憲法を改正する以上、天皇主権が国民主権に変更される以上、「国民たる要件」を語らずして「国民主権」は語れないのだと謂うことを確認したうえで、第10条を見てみるとどうなのか。憲法で「国民たる要件」を書かないと謂うことは、暗黙の裡に「国民」を決めるのか、「法律」ではっきりと「国民」を定めると謂うことに帰結する。「法律」ではだめなのだと謂うことはすでに述べたが、それでも次善の方法としては、憲法に【日本国民たる要件は、これを法律で定める】と書いてあるのであるから実務上の処理として考えられなければならない。
 
しかし、暗黙か、法律か、形式上は別のことに見えて、実は「大東亜の解放」戦争を戦ったと云う「建前に対する明白な態度をとらない」という唯ひとつの事実に帰結する。「大日本帝国」の範囲と責任をあいまいにすることで、「国民」の範囲を定めがたくするのである。日本帝国を敗北させた連合国が云い募った「戦争責任」と言葉は被るが、逆のベクトルでの「戦争責任」である。過去に既にふれたことではあるが、昭和20年4月に予定されていた総選挙では、台湾、朝鮮は衆議院議員を選出するはずであった。大日本帝国の「外地」の主要部分が、国権論的には「内地」化することが規定事実(註1)としてあったのだ。3月26日からの沖縄上陸戦など戦況の悪化、ポツダム宣言の受諾によって、予定されていた「(台湾、朝鮮という)拡大された内地も含む総選挙」=「帝国憲法適用空間の拡大」=「立憲臣民の拡大」は実現しなかったが、天皇国家は臣民=国民の拡大を予定していたのだ。
 
戦況の悪化やポツダム宣言の受諾は樺太、台湾、朝鮮の人々の責任ではない。天皇の臣民として「大東亜の解放」戦争に出征し、帝国憲法体制のもとに統合されることを夢見ていた人々もいるであろう。ポツダム宣言受諾とは、「本土決戦」ですらも「大東亜の解放」のためには「肉を弾として」完遂する決意の外地(樺太、台湾、朝鮮)の「帝国臣民にならんと願った人々の願い」を切り捨てるということである。「大東亜の解放」戦争に立ち上がった人々は、もちろんその空間の人々だけではない。インド自由国民軍、インドネシア国民党の人々、中国汪兆銘政権下の人々、ビルマ独立義勇軍、などなどインドシナ半島、モンゴル、北シナ地域を含めて白色帝国主義打倒へ向けて連帯していた大勢の人々がいる。この人々がいたから大東亜戦争は大義の明確な「聖戦」たりえたのである。「日本国民たる要件」を定めないという事は、この「大東亜の解放戦争の同志・戦友」への責任を不明確にするということに他ならない。
 
連合国(という既成白色帝国主義国)を敵として独自の解放戦争を組織し、その戦いに連帯・連携して闘ってきた人々(同志・戦友)への責任は、連合国への敗北を大日本帝国が受け入れることで帳消しにされるというものではない。敗北を受け入れて再出発しなければならないときにこそ、「日本国民たる要件」を明確に語ることで引き受けなければならない独立国家日本を措定する基本要件であろう。この歴史を直視し、引き受けなければならない戦争責任を、「主権者天皇」をはじめ、「天皇の官僚」や「帝国議会の議員」たち天皇への輔弼責任がある者たちが、連合国による「天皇の戦争責任追及」を盾にとって、完全に回避したのだ。
 
闘った敵から追及される責任などと云うものは原理的には成立する道理がない。掲げられた大義=「建前」に対してこそ「責任」は生じるのである。敗北したときにこそ、共に戦った仲間に対する責任は、どのように工夫してそれを果たすのかという形で「回避できない責任」として原理的に発生する。敗北した仲間に対して生じる責任を回避した証が、憲法第10条における【日本国民たる要件は、法律でこれを定める】なのである。
 
(註1)昭和20年3月22日成立・衆議院議員選挙法改正「官報号外」3月23日号、http://hourei.ndl.go.jp/SearchSys/viewShingi.do;jsessionid=0E5FD9CC16285A25525DBC52570F961F?i=008612030
 
(三)「天皇の戦争責任回避」判断と一体の「国民主権の具体的内実」
実際に日本人の手でこの本源的戦争責任回避作業はどのように行われたのか。この第10条に相当する「国民規定」は、GHQ草案にはない。GHQ草案の章別構成は、
前文
第一章 天皇(全7条)
第二章 戦争放棄(全1条)
第三章 国民の権利及び義務(全31条)
第四章 国会(全20条)
第五章 内閣(全8条)
第六章 司法(全8条)
第七章 財政(全10条)
第八章 地方行政(全3条)
第九章 改正(全1条)
第十章 最高法規(全2条)
第十一章 承認(全1条)  以上全92条である。
 
そしてGHQによる第三章冒頭の条文は、【第9条 日本国民は、すべての基本的人権を、干渉を受けることなく享有する権利を有する。】である。権利と義務の章の冒頭らしくと云ってもよいが、基本的人権享有を、干渉を排して持つというのだから国民規定とは何の関係もない。正確にはGHQ草案には「国民規定」は全体に存在しない。これ自身はまっとうな話である。GHQ民生局レベルが、「敗戦国国民」の範囲を定めるということは、畢竟勝者と敗者の間の線引きをして見せるということなのだから、連合国の代表権を持っていない以上、無理筋の話になる。マッカーサーの下僚ができることではない。
 
この草案を受け取った日本政府もこれに手を加えてはいない。2月13日にGHQから松本烝治憲法改正担当国務相、吉田茂外相が受領してから日本政府は、2月22日の閣議においてGHQ草案に沿う憲法改正の方針を決め、2月27日、法制局の入江俊郎次長と佐藤達夫第一部長が中心となって日本政府案の作成に着手した。3月2日に日本政府試案をGHQに提出し、3月5日には確定案を作り、6日にはそれを「憲法改正草案要綱」、更に口語化し4月17日、「憲法改正草案」として公表した。4月10日の戦後第1回目の総選挙(12月GHQ解散による)、枢密院への諮詢、幣原内閣の総辞職(4月22日)、吉田内閣の成立(5月22日)などの停滞時期(金森徳治郎憲法改正担当国務相へ交替)を経て、6月8日、この草案が枢密院本会議で可決され、6月20日「帝国憲法改正案」として国会に提出されたものである。6月28日芦田均委員長の下での「帝国憲法改正案委員会」に付託され、この委員会の人員が多すぎるという事で、7月23日修正案作成のために「改正案小委員会」(10名。25日に4名追加)が作られ、そこで集中審議されるまでの過程に国会議員の誠実さ、真面目さは窺えても、不審なことは窺えない。
 
7月29日第4回会議(午前中)において第三章の検討に入る際冒頭で
「○芦田委員長 第三章ニ入リマス、社会党ノ草案ヲ私不勉強デ能ク見テ来ナカツタノデスガ、進歩党及ビ自由党ノ方カラ出テ居ル『國民たるの要件は法律を以てこれを定む』ト云フ案ガアリマシタガ……
○鈴木(義)委員 我ガ党ノ提案ニモソレガ入ツテ居リマス、是ハ殆ド各党ノ提案ニ入ツテ居リマス
○芦田委員長 ソレデハ文字ヲドウ書クカト云フ問題デ、此ノ点ハ各党共通ノ修正ニナツテ来ル訳デスナ、サウスルト佐藤サン、ドウ云フ風ニ書ケバ宜イノデスカ、現行法ノ通リデ宜イノデスカ
○佐藤(達)政府委員 『日本國民たる要件は法律で』……
○芦田委員長 『を以て』トシテハイケナイデスカ
○佐藤(達)政府委員 此ノ案ハ『法律で』ト云フ形デヤツテ居リマスカラ」
(「憲法審査会」の「関係会議録」(http://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_kenpou.nsf/html/kenpou/seikengikai.htm)から)
と提起されたものである。この日検討されている「政府憲法案」には該当する第10条が存在しないのであるから、進歩党、自由党、社会党(鈴木義男議員は日本社会党)以外にも「殆ど各党」からの提案があったということは、つまりは帝国憲法改正案を作った法制局の根回し(法制局長入江俊郎、法制局次長・政府委員佐藤達夫)があって、各委員は深く考えることなく同調し一晩のうちに準備したもの(第3回会議は7月27日)であろう。
 
この時、憲法第一章、第二章の検討は終わっていたから佐藤の胸中に「天皇」の位置措定との対比はよぎっていたかもしれない。「第一章天皇」の現在の形が定まってみると、天皇は「国権機関天皇」としてその位置が措定されているだけである。そして、その天皇の国籍は全く検討されていない。国権機関として、象徴職公務員として憲法的位置が与えられているだけで、生まれてから死ぬまで人間としては「皇統譜」で管理されることが「皇室典範」で定められることになっていた。法律的には、臣籍降下をしない限り、「非国民」たらざるを得ないことは見通せていたのである。GHQ草案を一読した昭和天皇が「これでいいじゃないか」と云っても、法制局幹部としては、「主権者を降りた象徴天皇は、主権者国民に対する非国民公務員」であるというリアルな想像力は当然持ったであろう。
 
天皇・皇族を非国民(無国籍者)のままに放置して、「日本国民たる要件」の中に、樺太人、台湾人、朝鮮人を受け入れること、大東亜解放戦争の同志・戦友たちを受け入れることについて、佐藤達夫の頭の中で「これは処理できない問題だ」という瞬時の判断がなされたことは考えられることである(註2)。これは口外された記録としてはないし、小委員会でも検討された形跡がない。
 
しかし、それこそが検討されなければならない日本国民の要件の前提条件、同志・戦友・天皇・臣民である。ポツダム宣言に言う「八、「カイロ」宣言ノ条項ハ履行セラルヘク又日本国ノ主権ハ本州、北海道、九州及四国並ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルヘシ」(国会図書館http://www.ndl.go.jp/constitution/etc/j06.html)は、大日本帝国から大きく縮小した空間で戦後日本国(昭和20年10月1日時点の人口調査約7200万人)は生きていかなければならないことを明示している。大戦末期の大空襲で戸籍原本は膨大な量が焼尽・喪失した。大日本帝国ではなかった満州帝国からの引揚者も含めて、一口に「引揚者」は660万人以上と云われている。それ以外に朝鮮にも、台湾にも残った日本人がいる。そして、「大東亜解放戦争」の側に立ったから連合国側政権に生きる空間を占拠され祖国を失った同志・戦友がいる。汪兆銘政権下の官僚や人民が典型である。
 
日本人である証明などはできない膨大な人々と日本国の国権に頼らなければ生きていく筋道を立てられなくなった膨大な人々を抱えて、戦後憲法体制は出発せざるを得なかったのだ。「日本国民たる要件」が、天皇の法律で決められる「臣民たる要件」と違うことは、歴史的事情からも実務的作業からも明白であろう。
 
そして佐藤達夫は、「日本国民たる要件」が「国民主権国家日本国」には必要であると判断し、自ら小委員会に提起しながら、それを憲法では決めずに法律に任せるという判断を単独(法制局長官入江俊郎と)で行ったのである。単身、戦後の出発点に当たって「大東亜の解放戦争の意義の継承論」を封印する判断を、7月27日から29日の憲法改正小員会の間に行ったのである。憲法では「国民主権」を書かない判断をしたのである。具体的には憲法で、「国民主権」のいちいちは措定されない道が開かれたのである。
 
しかし、こんなものを前提にして「憲法改正」論議をすることはできないだろう。一歩譲って占領下では、GHQ草案から外れて「国民の権利及び義務」を大きく否定し、「主権者国民」を帝国憲法第一章のように全17条程度書き込んで、「権利及び義務」についても現行の半分程度に抑えることは難しかったのだと考えたとしても、である。昭和27年の独立を以て、「自主憲法」制定(それが日本国憲法改正作業形式であっても)作業として「国民主権」の具体化がなされなければならなかったことは、事後的には明々白々な課題であったと思われる。
 
しかし云うまでもなく、それはなされなかった。いわゆる55年体制の中で今日まで存続している政党として自由民主党ができ、その自民党は「平和主義、民主主義及び基本的人権尊重の原則を堅持しつつ、現行憲法の自主的改正をはかり、また占領諸法制を再検討し、国情に即してこれが改廃を行う。」と昭和30年の「党の政綱」で謳っているが、「国民主権」は「民主主義」という言葉でオブラートに包まれて判然とさせていない。民主主義では、「君主主権」なのか、「国民主権」なのかが判らないのだが、その根本を回避した「自主的改正」の綱領なのである。
 
佐藤達夫=法制局官僚=天皇の官吏による「国民主権の解体」は、GHQ「国民主権理念」憲法草案に対するクーデターなのである。もちろん、文言は帝国憲法第二章「臣民権利義務」冒頭の条文「第18条 日本臣民タル要件ハ法律ノ定ムル所ニ依ル」をそっくり引き写しただけのものであるから出席した14名の委員には気が付かれていない。だが、理念だけは存在したGHQ草案に具体的規定の必要性を刻印してしまえば、帝国憲法の「天皇主権」の具体的規定の羅列が独自の概念となっていたことを呼び起こすことを避けられない。それを法律に丸投げすること(註3)によって、具体的主権論を封殺し、具体論はすべて人権論、権利論に移行させ、そのことによって概念としての日本型国民主権論成長展開の余地をなくしたのだ。
 
私のこうした推論が的外れだという事はありうることである。しかし問題は、私の問題ではなく、主権者国民全体のものである。第10条の「日本国民たる要件は必要だが、憲法では決めない」という事で、失われたものは何かという事である。必要だが決めないという事で出てくる帰結は、「主権者」をあいまいにするという事である。公務員は「全体の奉仕者」であるのだから、「主権者国民」は主人である。主人と僕(しもべ)の関係を転倒する隙を論理的に作る作業そのものに第10条規定はなるのだ。「国民主権は理念」であって、「権力の横暴を守るために立憲主義や基本的人権」があるのだという言い草などは、戦前の帝国憲法における「天皇主権」の具体性を見て見ぬふりをしてやり過ごす、単なる怠慢の言い訳ではないのかと謂うのが、私の云いたいことなのである。
 
(註2)佐藤達夫の衆議院憲法改正案小委員会への参加は、7月25日の第1回会議開催の芦田委員長の冒頭発言において、「尚ホココデモウ一ツ御諒承ヲ願ヒタイコトガアリマスガ、修正案ノ条文ヲ作成スル場合等ノタメニ、法制技術的ナ「アドヴァイス」ヲシテ戴カウト思ヒマシテ、政府委員佐藤達夫君ニ出席シテ戴キ、政府ノ意見ヲ代弁スルト云フノデハナク、専門的ノ立場カラ参考意見ヲ述ベテ戴カウト思ヒマス、御諒承ヲ願ヒマス」と提起され承認されている。政府委員ではあるが、政府の代弁者ではなく、専門家の立場から法制技術的なアドヴァイスをしてもらうものとして、了解されているということである。政府案を非常に細かく検討していく議員たちに対して、専門家として助言する唯一の人間なのである。
 
(註3)「日本国民たる要件」は法律には書かれていない。国籍法は、「(この法律の目的)  第一条  日本国民たる要件は、この法律の定めるところによる。」としてあるが、以下、第2条で「出生による国籍の取得」、第3条で「認知された子の国籍の取得」、第4条から第10条までで「帰化」が条件的に書かれているだけで、「日本国民たる要件」は全く定められていない。第14条から第16条にかけて、「国籍の選択」の条文には、「いずれかの国籍を選択しなければならない。」とか、「選択の宣言をした日本国民は、外国の国籍の離脱に努めなければならない。」とか、やや意志的な条件があり、「国民たる要件」に近いものを感じさせるが、それも結局は「日本の国籍の選択は、外国の国籍を離脱することによるほかは、戸籍法 の定めるところにより」と「戸籍」に収斂させるための形式になっており、国籍法は「日本国民たる要件」を定めていないことを際立させることになっている。
 
憲法第10条は、【日本国民たる要件は、法律でこれを定める】としながらも、日本国民たる要件を定めた法律は存在しないのだという事は、「国民主権要件の不存在」として、「国民主権」を掲げるからには深刻に着目されなければならない。

(以上で、第8回終わり。以下、第9回に続く)

 
(にしけんじ)
 
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