部落文化・再生文化 連載 ③ (第三章  農村とキヨメ―関係性と分断と未来)

循環型社会の基軸/地域社会の再生

 

川元祥一 作家/評論家

連載②より続く
 
第三章  農村とキヨメ―関係性と分断と未来
 
■農業にみる再生文化と牛馬
 
 江戸時代初期、 三河国[みかわのくに] での農耕やその生活を詳細に記した『百姓伝記』(岩波文庫)という本がある。作者不明であるが、稲作を中心に五穀耕作の知識、技術、生活環境が現場の視点で書かれているという定評だ。そのなかに「不浄集」という巻がある。その不浄は主に便所や生活排水、ごみ、牛馬や鳥の 糞尿[ふんにょう]などである。その特徴は、これら不浄物を稲作、畑作のためにどのように使うか、その知識・技術を具体的に書いていることだ。そのため不浄物とはいえ「忌避」してはいない。それらを積極的に利用し、土壌を肥やす肥料としている。
 農業のこうした知識・技術に私がいう「再生文化」が豊かにあり、そうした再生・循環の発想なくして農作物の豊かな実りはなかっただろうと思われる。
 このような農業の再生文化のあり方や特徴をみると、人や動物の 屎尿[しにょう]にしろ生活排水やごみにしろ、それらをそのまま田や畑に 撒まいても効果がなく、効果をもたらすためには一定時間、穴などに 溜ためて腐植させ、発酵作用などを経過した新しい物質として利用することが必要だ。つまり、そこでは屎尿や排水、ごみなどの物質がもつ自然の循環作用をうまく利用しているといえるだろう。
 近現代になって、これら自然の循環作用に対し、農作物の発育をいっそう促す化学肥料や農薬など再生不能な物質が発見・開発され、地球規模での自然破壊、環境破壊が問題になった。しかし人類はそのことに気づき、二一世紀は人と自然の共生の時代とし、世界各地で伝統的な再生文化、循環型社会を再発見し、それに学びながら、新しい人間関係や思想・哲学を構築し、それにふさわしい知識や技術を開発しようとしている。
●福島第一原発事故の克服
 こうした情況を前にし、現代日本で再生文化を考える場合にみすごすことのできない問題がある。二〇一一年三月一一日に起こった福島第一原発の事故である。大量の放射性物質放出を経験し、放出された放射性物質が何千年にもわたって人に死の危機をおよぼし、なおかつその危機を知るがゆえに、人がそこに近づき対処できない情況と、自分の家にさえ帰れない人々の辛苦を、われわれは日々、目のあたりにしているのである。つまりわれわれは、その危機を克服する知識も技術もない物質を、再生不能なのを知りながら利用し、世界に不安と危機を日々拡散しているのである。
このような情況をつくりだしたわれわれ日本人は、この危機をどのように乗り越えるのか、その人類的不安と危機を克服するため何ができるのかを考え、可能と思えることを発信する必要があり、責務があるのではないか、と考える。そうした意味で、ここでいう再生文化は、再生可能エネルギーといった具体的知識・技術とともに、人々が自らをコントロールできるかもしれない再生可能文化、循環型社会への思想・哲学につながることをめざす、われわれの足元からの伝統知の一翼、と私は考える。
●『百姓伝記』が描く牛馬の飼育
 ところで、先の『百姓伝記』であるが、豊かな再生文化が記録されていながらも、私からみるとひとつだけ欠けているもの、あるいは書かれなかったかもしれないものがある。それは家畜としての牛馬の死と、その死体の処理、あるいはその再生の知識や技術である。
 当書では牛馬の飼育についてかなり細かく書いている。主には牛馬を飼育して得られる肥料のためである。次のようだ(カッコ内川元)。
 「土民の馬屋は一疋立(一匹飼う)たり共、九尺四方・二間四方にすべし。せまきは徳すくなし。地形よりも馬の立処を三尺も四尺もふかくほりて、つねにわら・くさを多く入、ふますべし」(前掲書上162頁)とある。たとえ一匹飼うとしても馬屋を約二間四方にし、ワラや草を多く入れて踏ませ、肥やしを作るのである。小さいと肥料が少ない、というもの。また次のようにも書かれる。「牛馬を野飼にする事なかれ。こやしを野山に捨ては、諸作毛(作物)なりがたし。手間隙を入て、かや・草をかり取、馬屋に入、牛馬にふませ(略)こやしとすべし」(182頁)。牛馬を放牧するな。肥やしを捨てることになる、という意味だ。無駄をなくし、捨てるのを惜しむ文化であろう。
 とはいえ、この牛馬も生き物だ。病気もするし、けがもする。そして必ず死を迎える。大切に育て、肥料を踏ませ、力仕事もさせただろう。この牛馬が死んだらどうするのか。再生は可能なのか。もちろん死んだものが生き返るわけではない。しかし古代から現代まで、牛馬の皮革製品はよく知られる。租税として国家が徴収したのも常識だ。このときの皮革製品の元になった牛馬は多くの場合、農民たちが飼育したものといってよいだろう。しかし『百姓伝記』にその記録はまったくない。どう考えたらよいだろうか。
 
■キヨメ役の牛馬病気治療と死牛馬
 
 一方、全国的にみて、このような農村などの間に「少数点在」した江戸時代のキヨメ役(農民、漁民、商人などと同じように、その職業を前提として当時の「エタ・ヒニン」身分を私はこのように呼ぶ)の村には、次のような記録を残すところがある。播磨国[はりまのくに](兵庫県)宍粟[しそう]郡の部落の生活を書いた『かわた村は大騒ぎ』(稲田耕一著、部落問題研究所)がそのひとつ。江戸時代の古文書にもとづいた現代の聞き取りであり、そこではキヨメ役を「かわた」と呼んだ。また、農家の牛馬の病気治療や死牛馬処理を「掃除」と呼んだ。そして著者の稲田耕一は「死牛馬の出た厩[うまや]の掃除は『清目』というのが正しい呼び方である」(34頁)としている。こうした呼び方がより的確と思われる。
 そうした「掃除」「清目」について稲田は次のように書いている(カッコ内川元)。
 「私の村には死牛馬並びに獣類を解体するための解体小屋と、『掃除』をするための掃除場と二カ所あり(略)私などもこの掃除場で牛馬の『掃除』を度々見ている。又この『掃除』も二種あって、病傷牛馬のいる先方(農家)の厩へ出向いて手当をする『掃除』(外回り)と、村の掃除場へ牛馬を引いてこさせ手当をする『掃除』とあった。厩へ出向いて手当をしていた古文書が『東』(掃除役の組)に残されている(略)。牛馬が死亡した場合(飼い主の農民)は一切動かすことができず、皮多頭の差図によって処理したが、息のあるうちは、飼主に処理権があり」としている。
 三河と播磨の比較に無理があるという人がいるかもしれないが、江戸時代の身分制度は職業・身分・居住地が一体化しており、これは全国的にほとんど均質なのだ。部落差別の特徴でもある。
 引用文で、農家の牛馬が死んだ場合、その飼い主がいっさい手を出せないのがわかる。ここに制度化された「 忌穢[きえ]・触穢[しょくえ]」の観念がはっきり現れている。そして、部落差別の観念的原理もここに見いだすことができるだろう。
●病傷牛馬の治療
 病傷牛馬の治療もキヨメ役の仕事だったのがわかる。病傷もケガレの範疇[はんちゅう]にあった。しかし「死穢」ではないので飼い主の手も入ったと考えられるが、この治療にさまざまな知識・技術があった。そしてこれがキヨメ役の文化に相当する場合が多い。稲田の村はそうだった。引用文の「東」については、この地域の農村「四十部落(農村)一五〇〇頭余りの世話(牛馬の世話)をしている」とし、「一番大仕事として夜昼なしに、どこの牛が物を食わなくなったとか、どこの馬が山仕事の帰りに足を折ったとか、何村の 牝牛[めうし]が産がこじれて困っているとか、毎日のように早便が舞い込む。すると『東』では、誰それはどこへ、誰それは何村へと、外廻りの人達を走らせた」(前掲書15頁)という。
 「牛の食あたり」は「(掃除役が)粉薬のようなものを、飼主が持って来た湯のはいった 桶[おけ]にとかし(略)牛の顔を上向きにさせて頤 [おとがい]のところを下からつかみ(略)片手に持った竹筒を牛の口へ差込み(略)時間をかけて(粉薬を)流し込んだ。(略・その後)飼主に乾した大根葉を探してよく焚き出し、多めに飲ますよう教えていた」(45頁)。
 「牛の逆子の産」は「(農家の)厩には掃除(キヨメ役)の人が三人はいり、小さな灯の中で仕事をしていた。(略)あと足から出始め、どこがつかえたのか途中で止まり、半日もそのままの状態だという。一人は奥の方で鼻面をおさえ、二人は出かけた子牛の足を縄で縛り、親牛の尻に足をかけて一生懸命引っぱっていた。(略)牛馬の逆子はほとんど助からぬものらしい。(略)家の人は怖しいのか、座敷の中でひとかたまりになり、ものもいわずに成行きを見守っていた。おばさんが仏壇に灯をともし、何か念仏を唱えていた」という。
 けがや病気によって治療が違う。薬も違う。だから「薬草に関しても、秋になるとこんな草の根を掘ってこいとか、春先にはこのての草の芽を採ってこい、この木の皮を剥いでこいというように、紙に絵を書いて教えていた」(43頁)のである。
●斃牛馬処理
 また一方、斃牛馬[へいぎゅうば]処理(死牛馬処理)が歴史的にキヨメ役の仕事なのはよく知られる。そしてその仕事、〈なめし〉の知識・技術から生まれる腐らない革は、単に隣近所としての農村や町など地域社会だけでなく、社会全般に多様な使用価値、交換価値、商品価値を生んできた。
 これがなぜ差別されるか理解しがたいともいえるが、死牛馬を「死穢」とし、それに触れてもケガレとする「触穢」があり(農民が死んだ牛馬に触れないのはそのためだ)、それを「忌穢」する制度的観念が前提にある。
 キヨメ役はそのケガレを「清める」具体的知識と技術(信仰ではない)によって、それをケガレではない「日常」に戻す。しかしその行為が、ケガレに触れていることから「ケガレに触れてもケガレ」とする「触穢」によって「忌穢」された。これが部落差別だ。このようにいうと「警備役」は関係ないでしょう?という声をたまに聞くが、警備役は「罪」のケガレをキヨメるのであり、同じ差別的観念構造に入っている。
 とはいえ、私はその差別の内側にあるキヨメ役の主体を重視し、そこから生まれる多様な価値、文化を社会的価値とし、人類にとって大切な「再生文化」の担い手だったのを認識することで、「忌穢・触穢」が無意味なものなのを知らせたい。ましてや、あらゆる動物・生物の生と死が自然界の循環として認識される現在、その循環こそが大切な価値なのを主張したい。
 
■伝統知として未来へ
 
 ここまでみたら、もう多くを語る必要はないのではないか。ここに挙げた農民の生活や知識・技術とキヨメ役のそれらは、山村、漁村、町の地域社会に点在するキヨメ役の村、その共同体と農山漁村町のもろもろの共同体との関係性を示し、再生文化の循環を示している。とはいえ、それらはこれまで差別で断絶していた。しかしさらにいうと、それらはすべて潜在的につながっていた。キヨメ役の仕事によって農山漁村町など地域社会の生活と文化が成り立ち、現在にいたっているのがわかるはずだ。私は、そこにある関係性と再生・循環を二一世紀の人類的課題としての「循環型社会」の伝統知につなげようとしている。
 たしかにこれまで、その間に欠けたものがあった。しかし、結果として現実をみれば、農民もキヨメ役も、そして漁民も山の民も、商人も職人も、あるいは大名たちもさまざまなかたちで病に触れ、動植物の死に触れ、キヨメ役の具体的知識・技術を通過した生活用品、あるいは耐久・防寒製品などを活用している。こうしたことから逃れて生活できる人はいなかったはずだ。
●欧米模倣で失ったもの
 とはいえ、こうした未来を考えるうえでもうひとつ、現在のわれわれが考え克服しなくてはならないものがあると思う。それは日本近代の欧米模倣である。近代化を急ぐためであり、経済的発展の遠因でもあっただろうと思われるが、その間に大切なものを失った。それは、この日本列島の地域性にもとづく自然の循環作用の論理とでもいえるもの。ここでみた農民やキヨメ役の再生文化を現代につなげる努力と、そこに生まれるはずだった伝統と現代をつなぐ批判と創造の文化、思想的体系とでもいえるものだ。
 農民の再生文化も近代化のなかで多くを失った。典型的なのは老農といわれた船津伝次平[ふなつでんじべい]による農業の欧米化批判(船津は自然と調和した日本の農業を守り改善した)であるが、それでも農民の再生文化や伝統知が壊滅したわけではない。
 しかしキヨメ役のそれはほとんど壊滅した。前回みた「 賤民[せんみん]解放令」による失業と明治政府の「棄民政策」が大きいが、そのうえでの欧米化が部落文化をほとんど見えないものにした。皮革産業は、近代軍国主義のなかで政府が先頭になって欧米の大量生産システムを導入した。一部で旧キヨメ役がそれに対抗したが、政商として現れる大資本には勝てなかった。警備役も警察機構の近代化として欧米のそれを取り入れ、従来のキヨメ役が一方的に「首切り」された。これの詳しい経過は拙著『被差別部落の構造と形成』(三一書房)を参考にしてもらいたい。ともあれ、部落文化はこのようにして、近現代になって一部をのぞいてほとんど見えないものになったのである。
 欧米模倣を全面的に批判するつもりはない。「他者」や異文化の交流は大切だ。多文化や民主主義の概念などを失ってはならない。しかし、自然との共生が人類的課題となった二一世紀の現在、自分たちの地域にあったはずの自然の循環に調和した再生文化・伝統知を消し去ってはならない。自然との共生は欧米模倣で成功するとは考えられないのだ。
 そうした意味で、これまで無視された部落文化、その再生文化を見直すことがなければ、農民をはじめ、さまざまなかたちで潜在的に存在する地域社会の再生文化・伝統知の全体像を認識し、それらをつなげて、未来に活かすことができないのではないか。そのように思われてしかたない。
連載④へ続く
 
(かわもと よしかず)
(初出、月刊「部落解放」2013年11月号 682号)
(pubspace-x411,2014.04.21)