部落文化・再生文化 連載④(最終回)(第四章 部落の伝統芸能/門付芸の主体と論理)

循環型社会の基軸/地域社会の再生

 

川元祥一 作家/評論家

連載③より続く

第四章 部落の伝統芸能/門付芸の主体と論理

農民が稲の豊作を願って行う儀礼に「 田遊[たあそび]」がある。地方によって呼び方が違い、関東では田祭、福島では田植踊、大阪では 御田[おんだ]、広島では花田植などで、年中行事として行われ、「その始源は農耕文化・生産経済の始まり、あるいは採取経済の時代までもさかのぼる」と推測されている。江戸時代までは全国三二八カ所で行われていたが、近代には急速に消えていったとされる(『農と田遊びの研究』新井恒易、明治書院)。
その表現の特徴について『日本風俗史事典』(弘文堂)は「田植のさまをまねるごく簡単なもの(田植踊=川元)から、田打ち・代掻[しろかき]・種まき・田植・鳥追[とりおい]・刈上げというふうに、稲作の過程を順に演じる大がかりなものまであり(略)一方、(実際の)田植の際に行なうもの(花田植、御田=川元)は、ササラを 摺[す]り、鼓や太鼓などを曲打ちする」と解説している。
田遊の呼称と表現は多様であるが、その基本は種蒔[まき]から田植、刈上げなど稲作労働の全過程を表現するものなのがわかる。花田植のように現実の田植の場合は全過程でなく「田植踊」であるが、村の庭などで行う場合は一年の稲作労働を模擬的、象徴的に全部表現する。それは神事であり「予祝芸能」とも呼ばれ、これを演じることで豊作になる、とする 呪術[じゅじゅつ]的神観念をもっている。
●折口信夫の「遠来の神」と「土地の神」
日本の民俗学はこの神観念をいろいろ議論している。そのなかで広く影響をもっているのは 折口信夫[おりくちしのぶ]の「遠来の神」であろう。彼は田遊の神について「遠来の神│であったとも、其神の命令に従ふ土地の神であったとも、或は、さうした遠来の神の命令があるので、為方なしに土地の精霊が、誓約のしるしに、此(米作りの模擬的表現=川元)を行うて見せたのだとも考へられる」とする(『折口信夫全集3』中央公論社、364頁)。この引用で「土地の神」が指摘されるが、折口にとってそれは二義的であり、その神観念は常に「遠来の神」が主体である。しかもそれは日本書紀などの神話で語られる正体不明の「常世[とこよ]」から訪れる神である。
このあと詳しくみる門付芸についても折口は、門付芸人を「まれびと」と呼び、その神観念を「遠来の神」とする。定着的職業をもつ農民などからすると、門付芸は外見として「まれびと」であり、「遠来の神」のように見えるかもしれないが、その主体としてのキヨメ役からすると、決して「まれびと」とはいえないのではないか、と私は思っている。
私は長い間、ここにあるキヨメ役の主体を大切にし、その視点から日本文化を見直そうとしてきたが、そうした視点からすると、折口がいうような漠然とした神話的神観念に疑問をもたざるをえない。仮に「エビス像」ひとつとっても、「鯛を釣ってニッコリ」は、海の幸の代表、その象徴としての鯛を釣ることであり、豊漁を願う人々の願いを「このようにありたい」と象徴する姿であろう。つまり豊漁の象徴としてのエビス像そのものが神格化されている。漠然とした「常世」からの「遠来の神」というより、人々の願いと、それを可能にする「土地の神」「海の神」「山の神」、つまり自然の生命力に依拠しながら人々が古くからもつ神観念、アニミズムともいえる観念ではないか。そのように考えると、田遊での田植踊や稲作の全過程を表現する所作も、自然の生命力をもつ「土地の神」に、「このようにありたい」と労働過程を示し、その表現そのものを象徴的神観念としているのではないか。そのように思われてならない。
●フレイザーの「類似の法則」
私の思いには一定の根拠がある。二〇世紀初頭のイギリスの人類学者ジェームス・フレイザーは世界中の呪術を分析して一定の法則を見いだしている。代表的なのは「類似は類似を産む」とする「類似の法則」である。日本の諺[ことわざ]「類は友を呼ぶ」に近い。この場合の「類似」は模擬的表現でもあり、「このようにありたい」と模擬的表現をするとその結果が得られる、というものだ。フレイザーはこれを非合理な呪術といいながらも、そのなかに一部「自然の法則の体系」に沿ったものがあるのを指摘する(『金枝篇1』岩波文庫)。フレイザーが日本の田遊を見ているわけではないが、私は田遊がもつ模擬的表現は「自然の法則の体系」に沿ったものと考える。なぜといって、実際に米を生産するために行う労働の全過程を表現しているからだ。つまり、ここには自然の生命力としての「土地の神」に依拠するアニミズム的な神観念があると思うのである。そしてさらには、このようなアニミズムこそ二一世紀の人類的課題、循環型社会の伝統知として大切にし、人類がそこから何かを学ぼうとしている課題と思うのだ。

■門付芸・鳥追の論理と歌舞伎舞踊

門付芸もまた神観念をもっている。これはもう常識だろう。そしてその神観念も、「田遊」と同じに多くの場合、基本は「類似の法則」からなり、さまざまな事例の模擬的、象徴的表現からなる。正体不明の「神」ではなく、一定の論理をもつといえるだろう。

三島神社御田植祭の鳥追

三島神社御田植祭の鳥追

『日本風俗史事典』(前掲)は万歳について「鎌倉・室町時代には千秋万歳とよばれ(略)〈新猿楽記〉に、〈千秋万歳之酒寿〉とあり」とする。ここにある「酒寿[さかほかひ]」は、『日本書紀』の崇神紀に「倭の国をお造りになった大物主神[おおものぬしのかみ]が醸成された神酒です。幾世までも久しく栄よ栄よ」(講談社学術文庫、125頁)という祝歌があり、その意味と同じと考えられている。酒の生命力を人間の生命力として模擬的、象徴的に表現しているのだ。エビス像は先にいったとおりだ。輪島の漁労儀礼「エビス講」は、新年の行事としてエビス木像を漁村全戸に回し、「このようにありたい」と豊漁を祈って初漁に出る。この鯛を「お宝」「穀物」に類似させて商業や農業の神となる。猿は山の神であり、人間と自然、あるいは馬に象徴される動物の間をとりもつ「神」ではなかろうか。
●田遊から発生した門付芸・鳥追
門付芸・鳥追は田遊から発生している。稲作労働の全過程を表現する田遊から「鳥追」が近世初期に単独で非農業者の芸に移行し、諸芸能者や「賤業[せんぎょう]者」の祝福芸になる。そこにある神観念は田遊で指摘したものと同じなのだ。実際の農業でいまも鳥追いを行い、鳥を追うことで確実に米の収穫が増える。そうした実際の効果を背景に、それを模擬的、象徴的に表現する。そこにあるのは正体不明の「遠来の神」ではなく、アニミズム的発想と考えてよいはずだ。そしてそうした効果をもたらす所作に論理もある。
鳥追について『日本風俗史事典』(前掲)は「五穀豊穣を願い害鳥を追い払う、小正月の民俗行事、およびその門付芸化したもの。田遊びの演目にもある。(略)江戸時代には、非人の妻女が正月中旬に、編笠・手甲・日和下駄に唐桟[とうざん]の着物姿で、三味線を弾き、鳥追い歌を歌って門付をした。中旬以後菅笠[すげがさ]にかわったものを女太夫という。京都悲田院の部落が根拠のひとつであったが、京坂では早く絶え、江戸には明治初年まで残った」とする。

8064 7x72

農民の鳥追は竹を叩[たた]いたり振ったりするが、悲田院の鳥追は手を叩いたという(『年中行事辞典』東京堂出版)。『江戸年中行事図聚』では竹を叩く門付芸・鳥追が描かれる(三谷一馬著、立風書房、41頁)。
江戸時代初期に見られるこうした門付芸・鳥追の姿はやがて大きく変化する。その変化にも門付芸・鳥追の主体と論理があるだろう。引用文にある着物姿は、江戸では「江戸の華」といわれた。江戸では彼女たちへの投げ銭が禁じられていた。帯をしめた着物姿ではかがめないからだ。奉行の指示だったと思うが、仮に町人の取り決めとしても、差別の厳しい制度のなかにありながらも、江戸の人々は鳥追の美しさと存在を承認し、気を配っていたのがわかる。明治以後の棄民政策とはまったく違う。明治以後はこの「存在の承認」が失われ、差別観だけが突出する。
●鳥追が女太夫に変身
農民の田遊や鳥追は自分たちのために行う。文字を使わない時代は「田遊」などは共同体の記録、記憶、教育の場でもあり、そのこと自体が自然の生命力を背景とした神事的予祝だった。しかし、非農業者、非定着者の多くは土地を持たず、大地を背景に演じることはない。そのため一定の共同体の枠を超え、しかも一戸一戸を訪ね、あるいは都市に向かって、農民の神事、祝福を外へ伝えることになる。しかも土地を背景としないため鳥を追う音を出す必要もない。だからやがて竹などは音曲としての三味線に変わる。とはいえ、そのときでも門付芸は田遊の鳥追歌を歌った。「千町万町(広い田)の鳥を追うてそうろう」が決まり文句だ。田遊の鳥追と門付芸のそれは姿形が変化した。しかし歌は同じ言葉で続いた。これが「このようにありたい」とする神事との連続性を担保して、「言寿[ことほぎ]」「言霊[ことだま]」として人々が感謝し、祝福として迎えた原因だろう。

8057 10x72

すべての門付芸は一戸一戸の新年や祭事を祝った。門付芸・鳥追も同じだ。だから小正月を過ぎると祝福芸にならない。神観念もない。しかし彼女たちは三味線を弾き歌う技術を身に付けていた。だから小正月を過ぎると「神」から人間に戻り、人間の喜怒哀楽、男女の恋心を歌って「流しの女芸人」に変身する。このときの姿を「女太夫」といった。鳥追のときは編笠(鳥追笠)を被り、女太夫として小唄、 端唄[はうた]、新内[しんない]を歌うときは菅笠を被った。そしてこの変化、ことに美しく自由な女太夫が 歌舞伎[かぶき]などに関心をもたれ、歌舞伎舞踊として舞台に登場する
(『舞踊手帖』古井戸秀夫著、駸々堂出版、67頁)。これはいまでも歌舞伎のご祝儀物として観られる。
ここにある変化を私はキヨメ役の主体性とし、そこに門付芸の論理を見いだしている。これを世界的な文化史からいうと、ルネッサンス的変化としての〈神から人〉に相当すると思うのである。

■春駒の神観念と論理

門付芸のなかで、その象徴的神観念が、自然の生命力と人間の関係、つまりアニミズム的関係としてより具体的に、かつ芸能化されて伝わっているのは「春駒[はるこま]」であろう。
春駒については芸能辞典などで佐渡の春駒がよく知られる。しかし佐渡の春駒にも二種類ある。「手駒」といわれる形態と「乗馬型」といわれるものだ。よく知られるのは乗馬型で、佐渡金山の町、相川を中心に伝承された。その神観念は金山の繁栄と人の暮らしの繁栄を類似させ、象徴的に歌う形である。

♪ めでためでたや 春の始めの春駒なんぞや
夢に見てさえ良いとや申す

 これがすべての春駒で歌われる枕言葉だ。金山の春駒は続いて次のようだ。

♪ 金銀山のヨウイヨウイ 今日はおめでとうございます
結構な正月でございます
金の光で町を照らす チャントチャント

 これを類似の法則でみると、金山の繁栄を背景に「このようにありたい」と願う言寿であろう。

上越から伝承した春駒・手駒(東京向島にて)

上越から伝承した春駒・手駒(東京向島にて)

一方、手駒は、もっとはっきりと具体的に神観念の背景と人間の願望が歌われる。佐渡では乗馬型の影響が強くて手駒の歌詞があいまいであるが、もっともよく意味を伝えるのは長野県 木曽谷[きそだに]に伝わる歌だ。基本は言寿であり、そこでは踊りのなかで桑の葉を 撒[ま]く。つまり手駒は「養蚕」の歌、蚕から絹糸をとって豊かになりたいとする願いが込められ、願いを実現する養蚕の手順が歌われる。歌詞は五〇行以上の長文なので、要点を挙げておく。江戸時代にキヨメ役から伝わった。以下、「……」は略した部分。カッコ内の解説は川元(歌の全文は拙著『部落文化・文明』御茶の水書房を参照)。

 ♪ 蚕飼にとりては美濃の国や……尾張の国や……さてもよい種や、結構な種や……(蚕の種を買うならこの土地のものが良いと教える)
♪ 右のたもとに三日三夜 左のたもとに三日三夜 あたため申せばぬくめと申す……(六日間温めると五日で蚕の種が 孵化[ふか]する。これが蚕。このあと桑の葉を与える様子が数行続く)
♪ ふなの休みは……たあけの起き伏し……にはの起き伏しなんくせなくて 六日……に桑食いあげ……七日に……芯食いあがり 作りしまゆは……(桑を食べると蚕が休む。実際に「ふな」「たけ」「にわ」の休みという。桑を食べて七日目に蚕が繭を結びはじめる。このあとたくさんの繭を集め、湯釜[ゆがま]に入れて糸を取り、絹布に織って商人に売ってお金にする様子が歌われる)

 このように、非常に現実的なことを歌っている。ここにある、蚕が繭を結ぶのは自然の生命力だ。これに対して「このようにありたい」と、絹織物を織りお金にする願いを歌っている。これは言寿・言霊といわれる神観念のもっともわかりやすい事例ではなかろうか。
春駒は馬の木偶を持って踊るため、表面だけ見て朝廷の「 白馬[あおうま]の 節会[せちえ]」に間違われていた。しかしこの歌をしっかり聞き取れば、養蚕の手順を歌っているのは確かだ。そうした意味で、これも農村の養蚕事業を背景に祝福芸となり、全国の養蚕地帯に広がったといえる(ここにある論理や象徴性は拙著『脱原発・再生文化論』参照)。そしてこの「春駒」も江戸時代から歌舞伎に取り上げられ、「対面春駒」などとしていまも観ることができる(『日本音楽大事典』平凡社)。

これらを私は部落文化と呼ぶ。立教大学で部落学というテーマを立てたが、その内容はこの部落文化であった。こうした部落文化とその主体と論理が社会的な認識となり、共有されるなら、部落への偏見と差別を克服する筋道を人々が自分の思考として把握することになるだろうと確信する。そのためにも各地のキヨメ役の村にその歴史を示す文化館を創設することを勧めたい。
*この連載は「部落解放」六七六号のレポートに関連し、部落文化のうち循環型社会の基軸に視点を置いた。

(かわもと よしかず)
(初出、月刊「部落解放」2013年12月号 686号)
(pubspace-x419,2014.05.11)