(『精神現象学』読解3)
高橋一行
『精神現象学』の章立ては、ヘーゲル自身が途中で方針変更をしているために、錯綜としているが、ごく単純化すれば、まず、I「感覚的確信」、II「知覚」、III「悟性」の3つの章が、「意識」の章で、IVが「自己意識」である。そこまでを前回までに説明した。ここでは、その後の、V「理性」、VI「精神」、VII「宗教」VIII「絶対知」の各章を見て行きたい。ここは分量から言えば、圧倒的な分量を占めるのだけれども、しかしヘーゲル『精神現象学』と言えば、議論は、IV「自己意識」の章に集中し、V「理性」以降に言及されることは、ヘーゲル自身の記述の量に反比例するかのように、際立って少ない。
それもやむを得ないことだと私は思う。と言うのも、理性とは、対象が自己であるという確信を現実的にも実現しようとする自己意識のことであるし、精神とは、理性の成果のことで、理論的には、もう「自己意識」の章で終わっていることを、繰り返しているにすぎないからだ。
「自己意識」の直前のところで、無限性が生じ、一旦話は終わるのだが、さらにそこから、2-1で述べたような、主奴論が始まり、私のまとめでは、4つの原理が展開される。そうして、思考という名の、無限性が生じている。
それは今度は、2-2で述べたように、ストア主義、スケプシス主義、不幸な意識を経て、再度、思考が成立し、それが理性である。それがIV「自己意識」の章の後半だ。そしてそこから、この、2-3の議論に入る。
意識と対象が、ともに触発し合い、進展し、一旦は、両者は結び付けられるのだが、しかし、最初の結び付きは、強引なもので、真の結び付きではなく、その後、両者を結び付ける媒辞があって、推理論的に両者が結び付けられるというのが、ヘーゲルの持って行き方である。これが、繰り返される。螺旋的に繰り返されるのである。これがヘーゲルの叙述の特徴だ。短い、最初の「意識」の3章と、「自己意識」の最初のところまでで一回、話が完結し、それが、再び、「自己意識」の半ばまでで、繰り返され、さらに「自己意識」の章の後半で、再度繰り返されて、「理性」の章に入る。「理性」の長い章と、そののちの「精神」の章でも、同じことが繰り返されるのだが、ここで問題にすべきは、その統一がなされる直前に、強引な結び付きがまずあり、その結び付きを、無限判断と言うことだ。
具体的に言えば、理性は、まずは、「観察する理性」であり、しかしその理性は、対象に達し得ない。つまり、「対象は自己である」という判断を作るのだが、それは無限判断に陥ってしまい、そこでは、強引に対象に自己が結び付けられているが、しかし、実際には、対象に達し得ない。それが無限判断である。そして、そこから脱出するためには、「実践する理性」に進展しなければならない。
ここではしかし、実に分かり易く、無限判断が使われている。そしてさらに、それが、その後、繰り返されることで、『精神現象学』全体の議論が進展するという仕組みになっている。つまり、無限判断の議論が、『精神現象学』を動かす、推進力である。しかもそのことが、「論理学」と違って、分かり易い。
無限判断とは、ここ『精神現象学』では、本来結び付かないものを、強引に結び付けるということを意味している。「論理学」においては、それは、肯定判断と否定判断の次に出て来るもので、主語と述語がまったく結びつかないものであった。
実は、「論理学」の無限判断、つまり否定判断の徹底という作業と、『精神現象学』の無限判断、つまり本来結び付かないであろう、ふたつのものを強引に結び付けるという技術とは、同じことである。意識と対象は、別のものであって、そのままでは、結び付く訳がない。それを、意識の側も対象の側も、ともに自己を否定して、他者になり、そのことによって、自己を取り戻す。つまり、否定をした上で、もう一度否定し、それは当然否定の徹底であるのだが、しかし同時に、肯定でもあるという具合になって、ともに否定を通じて、自己を取り戻す。そして自他が、ともに同じ構造をしているということで、結び付く。ここに、否定の徹底が肯定であり、結び付かないものが結び付くという二重性がある。それが無限判断の魅力である。
それが、原動力と私が言う所以で、「自己意識」において、意識と対象は自己関係が成立して、一致したのだが、しかし、すぐに分裂して、その後、再び、無限判断により、結び付けられる。このことを繰り返している。
この、無限判断が、『精神現象学』で最初に詳述される、「観察する理性」の最後のところにおいて、ヘーゲルは当時流行っていたとされる「頭蓋論」に触れ、そこにおいて、精神と骨とを結び付ける。「精神は骨である」というのが、最初の無限判断である。精神と物という、互いに対立するものを、強引に結び付ける。それは、結局は、意識と対象とを結び付けることに他ならない。
但し、これでは本当には結び付かないとヘーゲルは考えている。それで、この場合だと、「観察する理性」では限界があり、「実践的な理性」になることで、自らの行為によって、自らと対象とを媒介し、推理論的に連接させようとする。推理的連結とは、黒崎剛のまとめを使えば、対立する主語と述語の直接的な同一性を唱える無限判断に対して、「それ自身が関係項であると同時に、関係項を媒介するという振る舞い」のことであり、この場合、観察者の立場で、「精神は骨である」と言明したのだが、それを超える行為で以って、主語と述語を媒介し、「観察する理性」の立場を超えて、「実践する理性」に至るのである。
そしてそれを「頂点」という言い方でヘーゲルは表現する。つまり、『精神現象学』は、何度も同じ展開が繰り返されるのだが、その都度、論理が完結する直前に、頂点に達して、それが、意識経験のメルクマールとなっている。
つまり、この「実践する理性」の直前に、無限判断が現れて、その後に頂点が出て来て、それで一旦、問題は解決するのに、それがさらに進展し、次の頂点を迎える。頂点は、全部で三つある。上述のものが、一回目の頂点であり、次いで、「理性」の成果が叙述される「精神」の章の中の「啓蒙」の項で、二回目の頂点があって、無限判断論が論じられ、さらに、「精神」の最後のところ、つまり「良心」の項で、三回目の無限判断論がある。
すなわち、これは、前著に書いたが、「精神は骨である」という判断は、次に、主語と述語が逆転して、「物は自我である」となり、最後に、「自我は自我である」という判断になるのである。
今、私は、無限判断論が、『精神現象学』(のとりわけ後半)を動かしている原理であると書いた。そう結論付ける前に、もう少し、ヘーゲルに即して論じてみる。
ヘーゲル自身に即せば、意識と対象の関係を包括するものは、無限性である。そしてこの無限性の意識が、自己意識である。意識は、感覚的確信、知覚、悟性という3つの対象意識を統一した自己構造を持っている。一方、自己意識の対象は、感覚的確信、知覚、悟性の統一されたものであるので、潜在的には、精神である。そしてその潜在性が顕在化する、つまり、対象もまた、精神的存在になり、自己意識が完成する。そのことを、ヘーゲルは、「理性」以降の章で、再度確認する。つまり、感覚的確信に対応するものは、「直接的な物」であり、知覚に対応するのは、「物の他者との相関」であり、悟性に対応するのは、「普遍的な物」である。
そして、この三つの精神的存在が、先の無限判断の三つの頂点である。つまり、「観察する理性」が、対象を「直接的な物」と捉え、自我と対象とを無媒介に結び付けた。また、「啓蒙」の精神は、「自我は物である」という「観察する理性」の無限判断を、ひっくり返して、「物は自我である」とするのだが、それは、自我が物を介して、物との相関でしか存在しないことを知っているからである。最後に、対象を「普遍的な物」と意識が捉えると、その対象は、自我の本質に他ならないということを知っているので、そこでは、「自我は自我である」という判断が得られる。これもまた、無限判断である。
この三段階を経て、無限性の意識は、「良心」となる。このあとは、スケッチのみにしたい。VI「精神」の章の結論は、この「良心」であり、これが、VII「宗教」とVIII「絶対知」と、トリアーデを成して、再度、意識の側の無限性=良心と、対象の側の無限性=宗教とを経て、真の無限性=絶対知が得られるという仕組みである1。
前著では、無限判断について、私は、主として、「論理学」に基づいて、議論を展開した。「論理学」は、存在論、本質論、概念論の三部から成り、まず、存在論で、無限の概念が扱われ、無限判断については、概念論の中の、判断論で扱われる。すると、ひとつには、無限の位置付けが、「論理学」においては、随分と低い扱いになっているということがあり2、また、もうひとつには、無限概念と無限判断の概念が、繋がっていないという印象がある。
しかし私は、無限の概念は、存在論の中心的概念であり、一方、無限判断がその中に位置付けられている判断論は、概念論の中にあるが、これは概念論の疎外態であり、その意味で、概念論の前の段階の、本質論的要素を強く持つ。そして、概念論の中心的概念は、推理論であり、すると、存在論、本質論、概念論の三部から成る「論理学」は、無限の概念、無限判断論、推理論というトリアーデで出来上がっていて、その道筋こそが、「論理学」の主たるものであると思う。だから、決して、無限の概念が低い位置付けにあるのではなく、それは、繰り返されて、「論理学」全体の中に浸透し、「論理学」そのものを作っている。
そして、以下のことも言っておかねばならない。これは、別のところで(補遺-2)、詳細に論じられなければならないのだけれども、さし当たって、結論をまとめておけば、無限の概念の説明で、悪無限から真無限がどのように導出されるかということが議論され、そして、無限判断は、一見すれば、悪無限なのだが、しかし、すでに、真無限の萌芽を持っている。それは、推理論に至って、真の無限性を獲得する。そういう構造になっている。
さて、以上の、前著での指摘を整理した上で、ヘーゲルの読解を続けたい。
『精神現象学』の後半、つまり「理性」と「精神」の章を動かす原動力が、無限判断ではないだろうかと、以前から、うすうすは気付いていた。しかし、私は、『精神現象学』の後半の、この長い叙述をきちんと読んだことがなかったのである。
実際、先にも書いたように、『精神現象学』の議論は、相互承認論と主奴論に集中しているし、哲学プロパーだと、最初の「意識」の章の議論に注目する。この大部の、『精神現象学』の後半を焦点として、議論したものに出会ったことがない。
さて、この無限判断が、原初的なものだということは、私は前著で書いた。またジジェクが、『精神現象学』から、無限判断論の重要性に辿り着いたことを、ジジェクの慧眼というような表現で褒めていた。しかしそれは正確ではなく、ジジェクは、おそらく唯一、『精神現象学』の後半を熟読した思想家なのである。
私は、ヘーゲルの所有論を追い掛け、「論理学」と『法哲学』の議論から、無限判断論に辿り着いた。そしてジジェクを読み、この重要性に気付かされた。そういうことだ。このことは、第6章で、あらためて書く。しかし、今、『精神現象学』の後半を、黒崎剛を頼りに熟読して、再び、無限判断論の重要性に気付かされた。
そしてさらに、次のような結論を得ている。『精神現象学』の前半の、ふたつの自己意識間の相互承認も、主奴間の生死を賭けた戦いも、その後の奴隷と労働対象の関係も、すべて無限判断ではないか。ふたつの自己意識は、また、主と奴は、また、奴隷と労働対象とは、強引に結び付けないと、結び付かない。
無限判断論は、明示的には、「自己意識」の章を終えて、その後に出て来る。しかし、「自己意識」の章の直前に、無限概念が検討されているということは、すでに、ここに、無限判断論が準備されていると思うべきである。とすると、先の4つの原理は、すべて無限判断論を展開するための準備だと考えることができる。
前著では、無限判断を論じることで、もうひとつの「論理学」を書くことができると考え、その様に書いた。ここでも、もうひとつの『精神現象学』を書くことができる。
ヘーゲルに対する批判として、前節で書いたのは、対象が精神であっても、容易にそこに自己を見出せる訳ではないということだ。もちろん、対象が自然ならば、尚更である。そして、ふたつの自己意識や、主と奴や、また、奴隷と労働対象の関係において、問われるのは、自己関係である。つまり自己関係が成立して、対立物が統一され、論理が先に進むのだけれども、しかし、常にそこのところが問われている。
ここでまとめて置く。私は、『精神現象学』の議論を推し進める原動力は、この無限判断であるとし、そのことを展開したいと思う。その際、これは、このシリーズの後の章で、ジジェクについて書く際に、その中心的な論題となるものである。つまり、ジジェクは、とりわけ『精神現象学』の読解から、無限判断の概念をヘーゲルの中心的な概念だと考え、それを一般化し、かつ、それをラカンに結び付けたのである。私はそれに対して、前著では、ヘーゲルの『法哲学』の所有概念に着目し、ヘーゲル自身が、その所有概念を、「論理学」の判断論と結び付け、かつ、「所有の真理は無限判断である」というヘーゲルの記述に着目して、この概念の一般化を図った。従って、ここで、もう一度、前著の議論を紹介し、ここでの議論に繋げたい。
『精神現象学』の無限判断、つまり、本来無関係だと思われるものを強引に結び付けることと、「論理学」の無限判断、つまり否定の徹底とは、同じものだと、私は言った。このことを、先の説明とは別の観点から、つまり所有論の観点から書きたい。
今、ここに書いた、「所有の真理は、無限判断である」というのは、所有において、所有の主体と所有物という客体とが結び付けられていて、かつ、所有は、それを放棄した時に、そのものを本当に所有していたということが分かるし、そのことを他者から認めてもらえる。つまり、所有の放棄において、所有主体と所有物との真の結び付きが示される。このように、所有論を入れることで、無限判断論が整理される。
以下の章で、まず、この、所有の主体と所有を巡ってなされる、他者との関係を、レヴィナス論として書く。これが、第4章である。また、ヘーゲルを積極的に取り入れている、マラブーの理論にも、彼女は、そうは言わないが、無限判断論が横たわっているのではないか。それが、第5章の課題である。その前に、もう一度、ヘーゲル『精神現象学』を、バトラーの観点から、読み直す。所有したいと思う欲望の主体と、他者との関係が、そこに明らかである。これが、第3章である。
3-1へ続く
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注
1 ここでも、2-1で使った、黒崎剛の叙述を参照している。
2 黒崎前掲書、p.289、及び、前著でも使った、山口祐弘『近代知の返照 –ヘーゲルの真理思想-』に、無限判断論の積極的な説明がある。
(たかはしかずゆき 哲学者)
(pubspace-x440,2014.04.20)