部落文化・再生文化 連載 ② (第二章 地域社会の中の部落文化)

循環型社会の基軸/地域社会の再生

 

川元祥一 作家/評論家

連載 ①より続く
 
第二章 地域社会の中の部落文化
 
■農山漁村町・部落の並立と分業
 
 部落の歴史のなかに見いだすことができる公的職業=キヨメ役とその集団としての共同体は、地域社会全体の中、たとえばそれぞれ特色をもつ職業集団としての農山漁村町などの間で、それらと同じように特色をもつ独自の職業集団=共同体として認識することができる。このことはあらためて証明するまでもないと考えるが、その内実は先に全国的類例として示した約九種の「公務」である。私はこれら「公務」を、それぞれの地域社会(本稿では部落を含めて地域社会とする。部落を外した場合は農山漁村町とする。以下同)における必要不可欠な社会的分業の一環、あるいは地域社会に必要な社会的機能と考え、大きく三つに分類してきた。①警備役、②斃牛馬[へいぎゅうば]処理、③宗教的キヨメとしての祭礼の先導、門付[かどづけ]芸など。
 これらは地域社会で孤立した職業では決してなかった。農山漁村町のすべての職業と、それらの共同体の生活や労働との間に必要不可欠な分業であり、社会的関係性をもつ機能として存在した。警備は今の警察機構だ。斃牛馬とは農民や町人の役牛馬だ。祭礼の先導や門付芸も地域社会で行われる。これを農山漁村町の職業的特色と対比し、その特色を「キヨメ役」と概観する。社会的分業・機能としての職業すべてが、ケガレに触れてそれをキヨメる作業であり、そのための知識・技術といえるからだ。つまりケガレを日常性に再生し、地域社会に回帰する社会的機能であった。
 
■関係性と差別・分断
 
 このような個性的分業・社会的機能ともいえる「公務」としての職業群から、現在も人々が必要不可欠なものとして享受する個性的な文化、「部落文化」が生まれている。その文化は、地域社会の生活、労働・生産活動を具体的に支える物品、知識・技術、システム、芸能文化であり、現在も人々が日常的に享受する米や魚や衣類などと同じように、それらを支え、より豊かなものにしている。
 そうしたキヨメ役としての社会的機能であり職業であるが、そこにはまた色濃い偏見や差別があり、そのためにその分業・社会的機能に対する価値観にさまざまな屈折や変色が現れる。そしてそうした偏見・差別を批判し克服しようと、多くの人が知恵と力をそそいできた。そうしたプロセスを大切にし、学びながら、私は、ここで示した地域社会の分業・社会的機能を、農山漁村町・部落を並列した場合に浮かび上がる関係性として把握する。この関係性がケガレの「 忌穢[きえ]・ 触穢[しょくえ]」観によって屈折・変色され、地域社会が分断されていたのを考えると、それは現在のところ「潜在的関係性」といえるかもしれない。そして、本稿の課題は、これまで偏見・差別を克服しようとした知恵や力と同じように、「潜在的」にみえるものを本来の顕在的な関係性に回復することである。
 
■共同体間分業
 
 ここまで示した部落を含めた地域社会の分業と、その共同体について、世界的視野で分析した理論がある。
 兵庫県で部落解放運動をする池田勝雄は、これらの社会的分業をインドや西欧のそれらと比較し、さらにマックス・ウェーバーや大塚久雄の論考を適用しながら、次のように言う(傍点は川元)。
 「共同体からみる社会分業には、共同体内分業と共同体間分業が存在し、『その両者が拮抗しあいつつ、共同体(およびその土台の上に築かれた階級的関係)の成立とその再編および解体の具体的な方向を規定していく』(『共同体解体の基礎的諸条件』大塚久雄)とする。その場合『共同体内分業』として現れる生産諸力の発展が、『共同体間分業』として現れる生産諸力の動向に打ち勝ったとき共同体が解体の方向に向うとしている。部落問題の場合、その逆が成立したと考えてよい。つまり『共同体間分業』が『共同体内分業』を圧倒したとき、むしろ共同体自身は様々な方向から補強され、強固にかつ粘り強く自己再生していくのである。『共同体内分業』は社会の土台を形づくる諸共同体を解体に導き古い政治体制を崩壊させる。『共同体間分業』はその逆の働きをするという論理である。部落差別の根強さを説明するのにこれほど説得力のあるアプローチはないかもしれない」(「共同体論と日本型カースト制」『3・11 から一年』御茶の水書房、195頁)というのである。
 主には西欧の分業が個人的資質、技術の蓄積として展開するのに比べて、日本ではその個人が共同体に縛られ、大きな枠としては農民共同体が農業だけに拘束されたのと同じように、あるいは寺町とか職人町が上位の共同体によって形成されたのと同じように、部落もまた、その職業=キヨメ役が個人としてではなく共同体として展開している。つまりキヨメ役としての分業共同体「エタ・ヒニン」は、農民が農業だけで「純粋培養」されたといわれるのと同じように、そして農山漁村町の共同体がほとんど同じ同業者で形成されたのと同じように、キヨメ役もまた専業的な分業共同体として地域社会に存在する。この形態を池田は、共同体の内部で分業が発展し自立する西欧型「共同体内分業」に対し、諸々の共同体が一定の職業共同体となり、諸々の共同体の間で分業関係が成立するアジア的な「共同体間分業」が存在すると言う。卓越した認識と思われる。
 
■部落文化の五つの柱
 
 このような形態としての分業の内容、農山漁村町の生産、労働を支え、生活に不可欠といえる公的職業「キヨメ役」から生まれた文化、皮革製品などの物品、捕り物道具やシステム、あるいは門付芸などを私は「部落文化」と呼び、五つの柱に分類する。いうまでもなく、それはこれまでみた歴史的な「ケガレのキヨメ」=キヨメ役から派生したものである。次に五つの柱を概観する。詳細はのちの章で述べる。
 ① 畜・肉食文化
 六七四年、天武天皇が命じた「牛・馬・犬・猿・鶏の肉を食べてはならぬ」(『日本書紀(下)』講談社学術文庫、268頁)から始まって、その後、天皇の祭さい祀しの一環として 殺生[せっしょう]禁断・肉食禁止令がたびたび出される。これは本来、国家仏教の「不殺生戒」の戒律が基になり、国分寺の普及などで全国に行き渡る。鎌倉仏教の大衆化も影響したと考えられる。
 江戸時代、一六一二年に幕府が「牛を殺す事御制禁なり、自然死するものには一切不可売事」(小林茂編『近世被差別部落関係法令集』明石書店、99頁)を出す。
 しかし将軍、大名、民衆は肉を食べた。『日本畜産史』は彦根藩のキヨメ役が作った肉製品について「将軍家をはじめとして親藩や老中へ寒中見舞として、あるいは彼らの所望によって、彦根牛の味噌漬の他に干肉、酒煎肉、粕漬肉が薬用の名の下にしばしば贈られている」(加茂儀一・法政大学出版局、201頁)としているのだ。こうした肉食文化が「屠牛」から生まれるのはいうまでもない。
 ② 革文化
 皮革製品も屠畜・斃牛馬解体から始まり、太鼓・鎧よろい ・靴・膠にかわ・肥料などになる。世界中の人類にとって必需品だった。これらの製品の原点として、鞣[なめし]といわれる〈皮から革へ〉の技術がある。これは、腐る皮から腐らない革への変化なのである。また、文字を書く墨は膠で固める。これについて「日本に墨なし、木のやにを以てねり候て、物をかく色悪し、にかわ唐より渡る、重宝物と思召、小野妹子大臣を御使いにて、唐江被渡候て、始めて穢多渡る、にかわを作り、かわ具足を作る」(「慶長見聞集」『近世被差別部落関係法令集』頁)と記した史料がある。歴史書ではなく、江戸時代初期に書かれた随筆であるが、「 穢多[えた] 」と「にかわ」の関係は実態的と考えられる。
 ③ 代医学の「母」│人体解剖技術
 日本における人体解剖技術では、一七五九年の 山脇東洋[やまわきとうよう]による『 蔵志[ぞうし]』と、一七七四年に 杉田玄白[すぎたげんぱく]たちが翻訳した『解体新書』がよく知られる。そして現在、彼らは日本近代医学の父ともいわれる。とはいえ、それらの著書を読むとすぐわかるのであるが、両者とも人体解剖(当時は 腑ふ分わけ)の技術をもっていたわけではない。つまり、ともに自分で解体、腑分けをしたのではなく、解体を〈観て〉学び、それぞれの書を著したのである。では、だれが解体したのか。このことは最近では小学生の教科書でも書かれているので、念を押すまでもない。当時のキヨメ役=「エタ・ヒニン」がその技術をもっていて解体し、彼らに人体の骨格や内臓を教えた。杉田玄白が晩年に著した『 蘭学事始[らんがくことはじめ]』では「これより各々打連れ立ちて骨ヶ原の設け置きし観臓の場へ至れり。さて、腑分けのことは、えたの虎松といへるもの、このことに巧者のよしにて」(岩波文庫、34頁)と記される。
 ④芸能文化
 民間の神事芸能として古くからある祝福芸のうちで、地域社会での諸々の共同体の境界を越え、旅をし、農山漁村町の民家を一戸ずつ訪ねて豊作や豊漁を祈り、また祝福もし、さらには家族の健康や幸を願って歩く祝福芸・門付芸を、私は「部落の伝統芸能」と呼んでいる。主には万歳[まんざい]( 三河[みかわ]万歳は別)・春駒[はるこま]・エビス 廻[まわ]し・猿廻し・ 鳥追[とりおい]などである。
 また、これらの芸は、当時の 歌か舞ぶ伎き俳優と協力して歌舞伎・能などに登場し、そこではこれらの芸が神事としてだけでなく、人情物として劇的に描かれる。つまりそこでは〈神から人へ〉の変化、ルネッサンス的な変革が示される。つまり部落の伝統芸能は、民間の神事芸能から現代日本を代表する歌舞伎や能楽にまで影響を与えていることになる。
 ⑤危機管理機構
 弾左衛門の役目にある「御尋もの御用、在邊に限らず仰せつけられ次第相勤申候」(本稿第一回参照)は、江戸時代のキヨメ役の全国的な典型であるのはよく知られている。沖縄、アイヌモシリは異なる文化であるが、他の都府県の部落史でその実例が示されている。
 『日本の警察』(警察制度調査会)という本には、江戸時代の警察である奉行機関の現場のことを次のように書いている。「領内の安寧を保持する警保の組織は(略)現代の巡査の役職を果たしているのは、主として各奉行の配下に属する同心・岡引・穢多等であって(略)この同心の指示に従って動くのは、岡引といわれるもので、あるいは、目明しともいわれ(略)犯人の捜査にこれつとめた。(略)さて、こうして捜査の結果犯人の逮捕の段階になると、これはもはや岡引の役職ではなく、当時これをとらえることは不浄なこととして極度に嫌い、捕縄をもって岡引に随行した穢多の仕事であった。(略)捕らえられた罪人は上下の牢屋へ入れられ、これが看守もまた、穢多の役であり」(28~ 29頁)とする。
 書かれているとおり、これは現代の警察機構の現場の仕事と同じなのである。私がキヨメ役の仕事を「公務」というのは、このような仕事が典型を示すだろう。また皮革製品は主に中世からは軍備品であり、大名や将軍は積極的にキヨメとしての「 皮多[かわた]」を自国に抱え込み、製品の製造にあたらせた。門付芸や祭りの先導もまた、神事として公的だったのである。
 このようにキヨメ役の仕事は公的性格をもっていた。そしてだからこそその仕事には給料にあたる給付があったし、給付がない場合でも、特定の生業や商行為が特権として認められていた。
 
■見失った関係性
 
 このような仕事と給付、あるいは特権が突然なくなったのが明治維新以降なのである。
 一八七一(明治四)年の「 賤せん民みん解放令」といわれるものは「穢多非人等の称廃され候条、自今、身分職業とも平民同様たるべき事」という太政官布告であるが、身分制度と、文字構成そのものが偏見・差別にもとづくと思われる呼称がなくなったのはいいとして、職業も同時に「解放」された。
 当時の政治家や官僚は、江戸時代までのキヨメ役が特定の職業を維持していたのは当然知っていた。とはいえ、それが「公務」ともいえる公的性格をもっていたことは認識していなかったといえるだろう。つまり、全国各地でキヨメ役が「ケガレのキヨメ」を行っていたのは視覚的に知っていただろう。しかしその仕事・職業がそれぞれの地域社会での「共同体間分業」であり、見えにくいかもしれないが社会的機能として諸々の共同体と関係性をもっていたことには気づいていなかったと思われる。それは「解放令」のあとの明治政府や官僚の姿勢でわかってくる。
 「解放令」でいう職業の「解放」は、それまで公務的であり、あるいはそのために特権的であった部落の職業を一方的に切り捨て、社会一般に開放することだった。
 その典型もまた警察機構としての警備役に現れる。それまでの夜回りや牢ろう番ばんの仕事がなくなり、何の保障もなく給与もなくなる。皮革製品の生産は高度な技術が必要なので簡単には潰れなかったが、政府が積極的に進める欧米技術の導入と、政治と結託した資本の力には勝てなかった。門付芸は、馬車や自動車の普及によって制限や禁止が起こる。祭りの先導も、キヨメ役の専門性がなくなっていくのである。
 このようにして近代の部落は専門的「役」と、そのための「特権」を失う。そのうえ明治政府は、それまでの関係性を無視し、「棄民政策」をとったと指摘されている(原田伴彦『入門部落の歴史』解放出版社、59頁)。
 「解放令」後の状況を示す資料をひとつ挙げておく。布告から一年後の一八七二年九月、東京多摩地方の部落の書状である(『近代部落史資料集成 第二巻』三一書房、92頁。〈 〉内は川元)。
 「偖而去未年九月平民ニ被成下候ニ就而者、是迄之勤ヲ難相成存候得者、活計相立不申……」〈さて、去る年九月平民になされ下され候にては、これまでの勤めを相成り難く候えば、生計あい立ち申さず……〉。ここにある「是迄之勤」とは、これまでみてきた「公務」のなかの警備役、山番、祭りのキヨメなどである。
 このようにして近代部落は経済的 破綻[はたん]を起こし、何もなかったかのような誤解をうける。
連載 ③へ続く
 
(かわもと よしかず)
(初出、月刊「部落解放」2013年10月号 683号)
(pubspace-x279,2014.04.21)