部落文化・再生文化 循環型社会の基軸/地域社会の再生 連載 ①

川元祥一 作家/評論家

 
 石川一雄さん逮捕五〇年目[2013年―編集者](五月二三日)を迎え、当時の不当な捜査、不当な逮捕への抗議が全国各地でひろがり、東京高裁の再審開始と東京高検の全証拠開示が強く求められている。こうした動きに私自身、共感をもちつづけているが、とくに関心が向くのは、狭山事件発生(五〇年前の五月一日)直後から周辺であったと見られる部落(被差別部落・以下同)への差別的予断と偏見だ。事件の初期捜査で〝あんなことをするのはあの村の者.という声が周辺からあり、警察もそうした声に疑問を挟んだようすもなく、「見込み捜査」を行っていたのが弁護側の聞き取りなどでわかっていた。そのため「予断と偏見による不当逮捕」と抗議した。
 こうした予断と偏見が歴史的背景をもつのは日本史のなかで十分認識されている。不思議なのは、なぜそれがいつまでも続くのか、ということだ。そこにある原因をつきとめ、偏見をなくすことが、石川さんの不当逮捕を証明し、関係機関が反省するひとつの手がかりになるとも思ってきた。しかしそうした思いに逆行する事象も多い。最近話題にのぼる『週刊朝日』(二〇一二年一〇月二六日号)の 佐野眞一[さのしんいち]の記事が典型だ。部落出身を暴くだけで人格や生活を否定的イメージにしてしまう、そうした価値観、あるいは下意識的な“未熟” な文化体質が見えている。それが石川さん逮捕にいたる初期捜査に通底するのを感じざるをえない。
 なぜこれほど根強いのか。なにゆえにこれほど否定的な認識が続くのか――。
 私自身は自立して社会に出るときから、部落出身を隠さないようにしてきた。ほんとうに差別があるのかどうか確かめたい気持ちが強かった。結果でいうと、差別はある。しつこい結婚差別に遭った。意味もなく部落出身者を貶[おとし]める否定的な言辞も活用される。活用する者は一生に一度かもしれないが、活用された者は生涯を左右される場合があるのを見聞きしてきた。まさに予断と偏見であり、それが差別だ。こうした情況に対して私は、一人でできることをとことん追究しようとしてきた。どんな事柄でも、いずれは一人ひとりの認識が大切なのだから。そしてまた、そうした究明のなかで部落文化・文明という概念と実質を示す必要があるのにも気づいた。
 この認識は、在日が語る「祖国」を想像することから始まった。彼らは「祖国」を地理上の「国」ではなく、そこにある豊かで奥深い文化・文明として語る。それを背景に自己の存立を主張し、他者との共存を正当な形で求めている。部落問題もそうした発想、認識が重要だと痛感するのである。それはだれが始めてもよい。どこから始めてもよい。前後の経過がどうあっても、部落の歴史をたどる以上、結果は同じところに着く。その着地点が大切と思うので、本稿はその実質を示そうとする。
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 現在、資本主義のグローバリズムが国境や自然環境を無視して過酷な競争社会を強い、格差と分断を地球規模で進めている。一方、そうした傾向を克服するため「地域社会」が見直されようとしている。しかし、その地域社会が旧態依然の世俗や階層社会、閉鎖社会であってはならない。そうした古い体質のままであるなら、一面で古い価値観を打ち破りつつ進行するグローバル資本とその社会に対抗する力にはならないと思う。そうした意味で、古い価値観を変革しながら構築すべき地域社会がどんなものか、描き出す必要があるだろう。
 過酷な競争社会が産み出すもうひとつの側面、経済の成長神話、「行き過ぎた文明」としての科学技術の過大評価などによる自然破壊、とくに人間の科学がいまだ制御できない核エネルギーの軍事利用や原子力発電への抗議が続くなか、それらへの対抗文化として「人と自然の共生」がいわれ、新しい価値観や文化を築くため、自分たちの足元からの「伝統知」の再発見が提起されている。そうしたなかで、私たちの足元にありながら、永いあいだ偏見のなかにあった部落の存在、そこにある「部落文化」「再生文化」の認識が重要な意味をもつだろうと考える。本誌六七六号の「循環社会のための伝統知レポート」でその意味を示したが、本稿はその内実にせまろうとするものである。
 とはいえ、六七六号で少し述べたように、これから示す部落文化・再生文化を現代の部落で発見するのはむずかしい。なぜなら、一八七一(明治四)年の「 賤民(せんみん)解放令」によって、それまでの身分制度が否定されるが、同時にそれまで部落が農山漁村町など地域社会で分業の一環として担っていた警察機構の現場や、皮革の生産などが一般に開放され、明治政府はそれらの技術や機構を欧米からの導入によって再構築した。そのため全国の多くの部落がいきなり失業状態になった。しかもそれまでの偏見・差別には手も着けず、経済 破綻(はたん)で困窮する部落の人々を「貧乏なのは彼らが怠けているから」と一方的に切り捨てた。
 こうした近・現代史を見直し克服するため、すべての職業、産業を元に戻せとはいわないが、その歴史と存在を正当に評価し正当に認識できるように、全国各地の部落に、地域で一定の分業関係をもち公的職業を担ったのがわかる文化資料館、あるいは再生文化館のようなものを創設すべきと提案したい。そうした認識のためにも部落文化・再生文化の実質を示したい。
 
第一回 歴史に見る部落の職業と社会的機能
 
■部落が担った公的職業=「公務」と差別の構造
 
 江戸時代の「エタ・ヒニン」身分が専業的に担った職業については、近年、各地の部落史研究で意識的に分類されることが多く、わかりやすいと思う。そうした江戸時代の公的職業がまとまった形で記されているのは、江戸にいて、主に幕府領の長吏[ちょうり]( 穢多[えた])頭だった 弾左衛門[だんざえもん]が幕府に提出した「役目」に関する書類だ。同時に提出された「由緒」は偽作的とされるが、「役目」は現実的なものと考えられている。そのうち、公的意味をもつ職業は次のようだ(〈 〉内は筆者)。
 一 、御陣太鼓〈城の太鼓〉、御用次第張上申候〈御用しだい張り上げます〉。
 一 、皮類御用の節も、何にても差上相勤申上候〈革類も無料にて勤めます〉。
 一 、御尋もの〈犯罪人〉御用、在邊に限らず仰せつけられ次第相勤申候。
 一 、御牢屋鋪焼失の節、囚人脇へ御移され候節、外側に昼夜番人加勢差出申候。
 一 、御召之斃馬埋申候人足差出申候〈将軍の馬が死んだら埋葬します〉。
 一 、御旅行の節〈将軍が城下を行く時〉、木戸々々へ杖突人足〈番人〉大勢差出相勤申候。
 一 、御仕置物〈刑場の用具など〉一件御役相勤申候。
 (『近世被差別部落関係法令集』小林茂編、明石書店、32頁・抜粋)
 これら「役目」で、当時の部落が公的に担った職業の大半が示されている。が、大きい分類でひとつ欠けているのは、神社や仏閣の宗教的「キヨメ」だ。弾の「役目」には書かれていないが、弾支配下の部落では、けっこう大きな意味をもつ公的職業だった。それは、神社や仏閣の祭礼における「聖」なる時間と空間を創出する仕事である。典型的なのは相模国[さがみのくに](現・神奈川県)鎌倉の八幡宮の「キヨメ」だ。八幡宮は鎌倉時代の首都を「鎮護」する神社だった。そこでの「宗教的キヨメ」は京都・ 祇園社[ぎおんしゃ]の「キヨメ」=「 犬神人[いぬじにん]」を模倣しており、同じ機能だった。
 石井進は次のようにいう。「長吏が鶴岡八幡宮の祭礼にあたり烏帽子素袍を着て行列の先立を勤めた〈略〉常時は八幡境内の掃除や雑用をした」(「都市鎌倉における〈地獄〉の風景」、御家人制研究会編『御家人制の研究』吉川弘文館、106頁)。ここにある「掃除や雑用」もキヨメの概念に包摂されており、「境内の興行権」は芸能に関する興行権である。宗教的キヨメが民間の神事芸能・門付芸にも関連しているのがわかる。
 私はこれら公的職業を「公務」(拙著『部落差別の謎を解く』参照)とし、全国的な類例をまとめて「水番、山番、牢番、街道守、警備役、刑場の労役、死牛馬処理、皮細工、神社・仏閣の清め」としてきた。ひとつの部落がこれらすべてを「公務」としたわけではない。都市型、農村型などによって特徴があった。
 このような地域的特徴をもっているとはいえ、農山漁村町など全国各地に点在する部落共同体(江戸時代のエタ・ヒニン共同体)は、呼称の違いや若干の例外をもちながらも、こうした職業をそれぞれの地域社会の公的「役目」としてきた。これらのほかに「生業」といえる「農業」「竹細工」「草履作り」などが指摘されているが、これらは社会一般でも行われるものであって、部落共同体の専業、特権的職業とはいえないと考える。また、ここにある「公務」と「生業」の関係は、「公務」を果たすための労働と賃金、現代の公務員の労働と賃金に相当するものと考えている(拙著前掲書参照)。
 また、これらの職業が差別される原因は、その初期としては奈良時代の国家仏教の第一義的イデオロギーが「 不殺生戒[ふせっしょうかい]」「殺生禁断」だったのが大きい。その後、天皇によって「殺生禁断」がたびたび宣告され、武士政治もそのイデオロギーを踏襲した。また、この「不殺生戒」がケガレ観に結びついて、 検非違使[けびいし]・警察機構の現場の仕事が「不浄」視され、必要な機関なのに「差別」された。また、仏教の国教化は、古代・原始社会にあって自然神的信仰の対象であった諸々の「 産土[うぶすな]・大地母神」の軽視をもたらし、国分寺などを通して仏教的「戒律」(このなかの第一義が不殺生戒)が取って代わるようになり、「産土・大地母神」の儀礼的芸能といえる 巫女[みこ]の芸能、海・山の儀礼や農耕儀礼などが価値を失い、流動的となる。一方、「天[あま]つ神」といわれた天皇祭祀[さいし]の神観念だけは頂点に残され、神事芸能の格差、差別が生まれる。
 こうした流れによって、これらの職業、神事芸能に偏見が強くなるが、それらが政治体制としての世襲的身分制度(身分・職業・居住地の一体化)で固定的な差別になるのは、江戸時代のキリシタン弾圧による民衆管理、思想・信条・職業・居住の厳しい管理、主には宗旨人別帳から始まる。
 とはいえこれらの歴史は、政治的・権力的流れの側から見た差別イデオロギーの歴史である。このイデオロギーを克服するためには、権力の側からだけ見てはならない。いまここで必要なのは、被差別者、少数者の視点であり、その生活や仕事、職業を支えていた文化、あるいはその価値観や技術などを主張することである。
 そのような意味で私は、この列島のなかの、和人社会にだけある部落問題を解決する手がかりとして、江戸時代の「エタ・ヒニン」、現代でいう部落の歴史的職業、そこから派生した文化を取り上げる。
 
■支配のイデオロギーと対抗軸―キヨメの視点
 
 先に分類した部落の歴史に見る公的職業はその時代にあって何を意味しただろうか。それはこれまで断片的に述べてきた「キヨメ」の概念から解けてくる。
 この言葉と「エタ」という言葉の関連を初めて書いたのが鎌倉時代の辞典『塵袋[ちりぶくろ]』(一二六四~八七年・作者不明)だ。「キヨメヲエタト云フハ何ナル詞バゾ」という疑問で始まっている。「根本ハ餌取ト云フベキ歟」(『近世被差別部落関係法令集』13 ~14頁)とする解釈は間違いと思われるが、当時の社会現象として「キヨメ」と呼ばれていた人々が「エタ」と呼ばれるようになったのは事実といえる。とはいえ、そのころの「キヨメ」=「エタ」の呼称は身分制度の呼び名ではなく職業にもとづいていた。「ヒニン」もまた、江戸時代以前は職業的に「キヨメ」と呼ばれた。つまりエタもヒニンも本来「キヨメ」が職業だった。
 石井進は次のように続ける(〈 〉内は筆者)。「応永二年(一三九五)五月十一日条には、〈八幡宮の〉『馬血事』について『是ハ社内禁法ノ随一ニ候、出血事者以人馬同事候〈意訳=境内での出血は厳禁。人も馬も同じである〉』」とし、もし違反があったら、境内を警護する犬神人に申し出て掃除するよう取り決めていたと述べる。そして、ここにある「犬神人」は京・祇園社と同じ「非人」であるとしながら、さらに「この時期の鶴岡八幡宮にはすでにキヨメを任務とする『犬神人』の存在が確実である」(前掲書108頁)としている。
 このような職業としてのキヨメであるが、江戸時代になって身分と職業、居住地が一体となり、偏見・差別とともに身動きできない固定的制度となる。そしてこの固定によって、キヨメは社会的機能=「公務」として世襲化される。私はこの情況を中世までのキヨメと区別して、「キヨメ役」と呼ぶ。
 江戸時代になってからの「キヨメ役」が権力者からどのように見られたか、わかる資料がある。それは、歴史的背景としては狩猟文化をもち、「殺生禁断」やケガレ意識としての「忌穢・触穢」意識のないアイヌモシリでの和人社会=松前[まつまえ]藩における「エタ・ヒニン」の必要性を示すものだ(〈 〉内は筆者)。
 享和三年(一八〇三)、松前藩は、「不浄穢等、取扱」のため、それまで存在しなかった「エタ・ヒニン」を派遣するよう幕府に申し出る。「箱館最寄え穢多非人差遺候儀」〈箱館最寄に穢多非人を差し渡し候義〉としながら「箱館市中幷村々、都て御料地之内、是迄、穢多非人之類、無之、不浄穢等、取扱之儀、毎度差支、其上、以来は、御仕置もの等も可有之哉ニ付、右取扱之ため、穢多非人之類、彼地え差遣し申度、奉存候」〈箱館市やまわりの村々の幕府の領地には、これまでエタ・ヒニンがいなかった。そのため不浄やケガレの処理に困っていた。処刑する場合もあるので、エタ・ヒニンをこの地に差し渡してください〉というものだ(『近世被差別部落関係法令集』261頁)。
 ここでも「エタ・ヒニン」の存在が「不浄穢」の処理としての「キヨメ」なのがわかる。
 これまでだと、ここにある「不浄穢」の処理に関心が向き、それを排除する「忌穢・触穢」としての偏見・差別が論じられてきた。しかし私は、そこで明確にわかる被差別者の主体を重視し、その視点から歴史や社会全体を見直したい。その視点が「キヨメ」の視点だ。民俗学でキヨメが再生・回帰を意味するのは常識的だろう。「部落文化・再生文化」は ここから見た社会観、世界観である。
連載②へ続く
 
(かわもと よしかず)
(初出、月刊「部落解放」2013年9月号 682号)
(pubspace-x54,2014.05.21)