他者の病

高橋一行

 
 身内が鬱になり、看病をしている内に、私自身、鬱を発症したのではないかと思うようになる。私は、親子や兄弟、または夫婦や恋人同士で鬱という組み合わせをいくつも知っている。鬱はうつる。あるいは、人は他者の病を病むのではないか。そう思う。それで、不安になり、何冊も鬱に関する専門書を読むことになる。
 するとすぐに分かったことがある。つまり、私は鬱親和体質ではない。このことははっきりする。とすると、多分、私は今、鬱なのではないと思う。もちろん、そのときの私の症状を鬱と名付けようが、別の名称を用いようが、そのことは本質的なことではない。私が落ち込んでいたことは事実であり、それは一時的なものなのだったけれども、しかし、思いのほか、長く続いたのである。
 間もなく身内は回復し、私も、少し遅れて、というのは、一時期、身内の症状に反比例して私が一層落ち込んだのだが、やがてそこからも回復して、何とか、元気になる。今までも私は、何かあると、深酒して,次の日一日苦しみ、しかし、その次の日には元気になるということを繰り返して来たが、今回は、その二日酔いの期間が、いつもより長かったのだと、自分では思うようにしている。
 さて、そこで、ふたつ程気付いたことがある。ひとつは、ある精神科医の本を読んで1 、鬱が、所有の病理だと気付かされる。それは、次のような事例を考えてみると良く分かる。例えば、「引っ越し鬱」というのがある。夫が出世して、一戸建てを購入し、それまで住み慣れたアパートから引っ越しをした主婦が、鬱を発症する。誰もが羨む環境なのに、しかし確実にその主婦は多くのものを失っている。鬱親和的な性格の人は、多くの場合、模範的で、人から信頼され、社交的である。今まで、アパートの近隣とうまく付き合い、時には、料理を多く作って、配ったりもした。他者に献身的に関わり、見返りは求めない。無償の愛を周りに振り撒く。
 しかし、本人は反対給付を求めていないのに、実は、しっかりと、見返りを得ていて、つまり、あの人は、親切だとか、思いやりがあるという評判は勝ち得ており、しかもそれは本人としては当然のことで、いちいち意識に上ることもない。しかし、それが、何かの原因で、得られないと、鬱を発症する。この場合は、引っ越しをして、それまでの環境を一気に失うのである。反対給付を求めないと言いつつ、実はしっかりとそれを獲得していて、しかし、それが得られないと、容易に鬱を発症してしまう。
 必ずしも、衝撃的な出来事が本人を襲うとか、傍目にも明らかに、辛い出来事があったという訳ではないし、また、本人が、なぜ鬱を発症したのか、その理由が分からない時もあることに、注意したい。ただ、上で述べたような、鬱親和的と呼ばれる性格があり、そういう人が、それまで所有していたものが所有できなくなるとか、実は所有していなかったということに気付いたりすると、鬱を発症する。
 さて、私は、『他者の所有』という題で、本を書いていて、そこにまさに、この「所有の病理」について、延々と書いて来た。現代は、まさに、所有の力が落ちている時代である。一昔前、人は、カラーテレビや車を所有すれば、それで満足できたのだが、今や、そういう時代とは異なり、情報の所有が重要になり、それは、人を容易に満足させない。そこでは、意識と無意識の欲望が食い違い、自己の欲望と他者の欲望が交錯し、そして欲望が主体を成立させつつも、同時に崩壊させる。人はモノをたくさん所有していても、容易に満足できない。所有をすることがアイデンティティ形成に繋がらない。それでいて、所有の喪失が、大きなダメージを与える。それが現代であり、つまり、鬱親和的タイプの人が鬱を発症する過程は、情報化時代を象徴している。
 とすると、私は、身内の鬱がうつることはなかったのだが、鬱について、頭の中で反芻していた。つまり観念的に、鬱を実践していたのではないか。私は、性格的には、鬱親和体質ではないのだが、論理の上で、つまり、本を書くことで、鬱親和的に、振る舞って来たのである。
 もうひとつ、『他者の所有』におけるテーマは、他者であり、そこでは、とりわけ、レヴィナスという思想家について、考えて来た。レヴィナスは、他者について考察した思想家であるからだ。しかし、そのレヴィナスに対して、デリダは、その理論においては、主体の形成時に、他者が組み込まれていない、そこでは本質的に他者性が欠如していると噛みついている。このことの意味が、長い間私には分からないでいた。しかし、これもまた、別の精神科医のエッセイによれば、これは、非鬱親和型の人(とりわけ精神科医)から見た、鬱親和的性格の人への印象に他ならないのである2
 レヴィナスは、その生涯を追い掛ければ、鬱親和的タイプではないし、鬱を発症したという事実もない。しかしその理論は、鬱親和的なものだ。私が、そうであるように。
 どういうことかと言えば、レヴィナスの理論において、他者は、常に、主体が責任を持って応対しなければならないのであるが、しかし、そもそも主体の確立の際には、他者が十分に考慮されていなく、そのために、後から他者が主体の中に侵入してきたり、主体を攻撃したり、または、その他者が不在であることが分かったときに、その他者に対して対応できず、際立ってもろい。外界を享受しているのに、実は脆弱である。デリダが言いたいのは、凡そそういうことだ。鬱親和的体質の人は、他者とうまく付き合っているように見えて、しかしその他者と離別したり、他者から批判されたり、無視されたりすると、容易に鬱を発症する。多くの精神科医が、鬱病患者に対して、そういう印象を持っている。
 しかし、実際に、鬱親和的性格の人は、他者に配慮している。人に優しく、社会の中で、彼または彼女たちの、その配慮や社交性は、むしろ高く評価すべきである。ただ、それが、非鬱親和的タイプの精神科医から見れば、そこに全然、他者性が感じられない、結局は自分のことしか考えていなく、そこに他者性が欠如していると言われて、非難めいた、言説が、鬱親和体質の患者に向けられる。実際、身内は、私が密かに読んでいた先の精神科医の著書を、私が居間に置き忘れていたところ、読んでしまい、この本の著者には悪意を感じるとまで言った。どうして、そこまで、私たちは非難されなければならないのかとも言う。
 それまで、社交的だったのに、傍目には良く分からない理由で、一気に落ち込む。しかも多くの場合、彼らは、医者を信用していない。医者に直してもらおうという気がなく、そして時期が来れば、勝手に元に戻る。そうして、昨日まで落ち込んでいたことなど、すっかり忘れてしまったかのように、快活に振る舞う。そういう鬱の患者は、医者にしても、面白くないに違いない。
 しかし私は、精神科医の言い分に同意しつつも、これはやはり、言い過ぎではないかと思う。
 様々な他者の水準がある。鬱親和者と非鬱親和者と他者の水準が異なるのである。しかし、誰もが、それぞれの水準の他者に憑き纏われている。では、どうすべきか。様々な水準の他者を持つ様々な他者との共存が問われているのではないか。
 
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1 内海健『「うつ」の構造』弘文堂2011
2 津田均「『うつ病』と『うつの時代』」『現代思想』Vol.39-2, 2011

(たかはしかずゆき 哲学者)
(pubspace-x285,2014.2.28)