高橋一行
本シリーズ前々回で取り挙げたS. ボーヴォワールの『老い』において、老人の性を論じるために、谷崎潤一郎のふたつの小説、『鍵』と『瘋癲老人日記』が取り挙げられる。今回は、このふたつの小説から話を始める。酒井順子もこれらの小説を論じたあとで、さらに川端康成の『眠れる美女』を論じる。それらはしかしいずれも男性作家によるものであって、そこからさらに酒井は、女性の目から見た老いと性を扱おうとして、松井久子の小説『疼くひと』と『最後のひと』を取り挙げている。私もまた、それらの小説を追いながら、老いと性というテーマに加えて、さらに死という観点を入れて考察をしたいと思う。結論を先に言えば、老いと性というテーマを追いつつ、しかし死の感覚が薄いものと、性を扱いながら、そこに死が色濃くにじみ出ていて、しかし老いがむしろ後景に退いているものとがあるだろう。またそれらを論じながら、三島由紀夫と村上春樹などの作品も比較対象として挙げていきたい。
まずボーヴォワールは、「老人性愛に関する最も痛烈な証言のひとつは、谷崎潤一郎が、そのかなり自伝的要素を持つふたつの小説、『鍵』と『瘋癲老人日記』の中で記していることである。日本人のエロチズムは、恥じらいと無恥とを独特な仕方で混ぜ合わせる」と書いている。そののちに、彼女は詳細にそのふたつの作品の粗筋を書き出す。
『鍵』は1956年から連載されたもので、そのときに谷崎は70歳である。小説の中の主人公は56歳で、その妻は45歳である。主人公は年齢から言えば、まだ老人であるとは言えないが、しかし小説の最後において、妻との情交の最中に卒中を起こし、やがて死を迎える。その意味では、老人として扱って差し支えないだろう。
主人公は、自分の弟子の若い男を妻にあてがい、妻のセックスの能力を高めていくことに喜びを感じている。この屈折した性的欲望が、小説の複雑な構成を通じてうまく描かれている。日記仕立てであることと、主人公のマゾヒスティックな性の欲望は、この次に論じる小説と共通する。
論じられるふたつ目は、『瘋癲老人日記』という題の小説で、これは1961年に発表される。主人公は77歳で、70代半ばの谷崎とほぼ同じ歳である。こちらの主人公はもう完全に老人で、彼はすでに性的能力を失っている。しかしそのために却って、性的欲望が凄まじいほどに漲っている。
彼は嫁の颯子にハンドバッグを与え、彼女の脚にキスをすることを許してもらい、さらに極めて高価な宝石も与えて、うなじにキスをさせてもらう。ついには、颯子の足型を彫って、それを墓石とし、自分が死んだあとは、永遠にその墓石の下で颯子に踏みにじられることを夢見るのである。
ふたつとも、老いてなお盛んな性が主題である。かなり屈折した性が描かれるが、しかし性とはそもそもそういうものではないか。老いて、その倒錯ぶりが奔放なまでに溢れてきたのである。そしてそこでは性は永遠のもので、死んでなおその快楽は続くかのようである。
さて酒井順子は、『老いを読む 老いを書く』という本の最後の章を「老人と性」とし、そこで詳しく性を取り扱う。驚くべき取り組みが、日本の小説家によってなされている。酒井はまず、この谷崎の2冊の本を分析する。酒井によれば、実際に颯子のモデルはいたそうで、小説の読者は容易にこの主人公が谷崎自身であるということに思い到るのである(注1)。
酒井はまた、川端康成の小説も「老人と性」の一例として挙げている。
『眠れる美女』は、少女に睡眠薬を飲ませて、もはや性的能力を失った老人が、裸になった少女に添い寝をして一晩過ごすことを可能にするという趣向の売春宿の話である。主人公の江口という男は、これが気に入って、何度かこの宿を訪れる。毎回、少女は入れ替わる。少女の傍らに寝て、江口は自分の女性遍歴や死について思いを巡らせる。それで気持ちが晴れれば、自分もまた睡眠薬を飲んで、朝を迎える。少女の眠りは深く、客の方が先に目覚めて、少女が目を覚まさない内に宿を出るのが決まりである。
少女を毎晩どこから連れて来るのか。またその内のひとりは16歳くらいだとされている。それはもう犯罪的な行為である。
川端はこの小説を書いたときに60歳であり、まだ老人ではない。川端は主人公を自分よりも年上の67歳に設定していて、しかし主人公の江口も、彼よりも年上の70代なら、もう男ではないのだろうが、その点、自分はまだ勃起するので、彼らとは違うと言い張っている。つまり老人という設定ではあるが、実際には性行為をする能力があるということになっている。そうすると、ここでは実は老いがテーマではないという気がする。
ある晩、江口は少女を犯そうとする。それは宿との約束で、してはいけないことになっている。しかし自分がまだ性行為のできる年齢であることを誇示したいという気持ちがあって、眠りについた少女の体内に自分の性器を入れようとする。するとその少女が処女であることに気付いて、江口は驚く。
ここでなぜその少女が処女であることが簡単に確認できるのか、またなぜ処女であったら、驚くのか。そこは良く分からない。しかしここで思い起こすのは、川端の好きな『源氏物語』は、そもそも処女強姦の物語ではないか。要するに、こういうところに、川端の趣味が出ているのである。
そしてある晩、江口は客のひとりが睡眠薬を飲み過ぎて死んだという話を聞き付ける。さらにその晩、今度は少女が死んでしまう。恐らくは睡眠薬の飲み過ぎであろう。川端の作品に死は常に付き纏っている。
実は川端自身が睡眠薬中毒であったそうである。また『眠れる美女』はかなりの程度、川端の体験に基づいているのではないか。さらに私たちは、川端の最後が睡眠薬を飲んだ上でのガス中毒死であることを知っているから、作品の中で、自らの運命を予知していたということになる。
谷崎が、老いに居直って、大胆に老人の性を描いたのとは、大分事情が異なる。谷崎は老いの性を描き、そこでは死は主題になっていない。一方川端は、老いの性を描き、常に死の感覚が強く出る。
川端はそもそも、老いを主題としてはいないのではないか。性と死という、これは川端の若いときからの主題に拘っている。
ここで川端の他の作品を見てみたい。
『雪国』は、名作かどうかはともかく、『眠れる美女』と同じく、性と死が主題で、日本情緒が強く感じられる世界に、読者を連れていく。そこでは川端の趣味が全編に現れている。まず、そこで性がどのように扱われているか、小谷野敦を参照して書く。
『雪国』の最後の方に、主人公島村と駒子の次のようなやり取りがある。「君はいい女だね」と主人公が言う。「どういいの」と駒子が聞く。それに対して島村は「いい女だよ」としか言わないのだが、駒子はいきなり怒り出す。「言って頂戴。それで(あなたは私のところに)通ってらしたの?」と駒子は言い、「真赤になって島村を睨みつけ」るのである。
これは『雪国』の最終版から引用したのだが、これだけでは一体何のことを言っているのか、良く分からない。この作品は何度も書き直しがされていて、小谷野によれば、オリジナル版では、しかしそこははっきりとしているのだそうである。要するに女が名器の持ち主で、主人公はそこが気に入って、女のもとを度々訪れるということらしい。『雪国』は、「もともとは妻があるのに温泉芸者とセックスして惹かれてしまった男とやはり男に惹かれつつ所詮は芸者という意識に辛さを感じる女のドラマ」で「実際にはさらに名器という味が添えられたエロティック文藝だった」ということである(小谷野 第1章)。ノーベル賞を取ったからということで、中学生が国語の授業で読むべきものではない。
死の気配がこの作品でも色濃く出ている。小説の最後は、温泉町に火事が起こり、島村が気にしていたもうひとりの女、葉子が焼死する。火が出た繭蔵の二階から、火に包まれた葉子が落ちてくるという話になっている。それは何だか取って付けたような粗筋で、この小説はそれほど出来の良い作品だとは思えない。永井荷風の『濹東奇譚』は、男が女とセックスをするために芸者の元に通ってくるという作品であったが(本シリーズ第8回を見よ)、それと同じ趣向の作品である。川端も荷風と同じく、見事な文体で情緒溢れる世界を描き出していて、その文章に私は惹かれるが、話のストーリーは凡庸だと思う。
主人公の島村は老人ではない。しかし老人を主人公にした『眠れる美女』と、話の展開が同じで、性がぼかしながら描かれ、最後は誰かが死ぬ。川端の作品では、いつも性と死がテーマであるということが私の言いたいことである。『雪国』の様に主人公が中年であっても、また『眠れる美女』の様に老人であっても、私が読んだ感想では、川端の作品は全然変わりがない。伝統美が描かれ、それは容易に妖美になるのだが、そこに老いは描かれてはいない。しかし言い方を変えれば、川端文学は、最初から老人の文学だったのかもしれない。
それは、彼自身が若い頃から老成していて、川端初期の作品『伊豆の踊子』の様に主人公が青年であっても、年寄り臭いのだ。私は川端の経歴を知っているので、そう思うのかもしれない。彼は早くに両親を亡くし、次いで姉と祖母も亡くし、祖父に育てられ、その祖父も川端が中学生のときに亡くなる。親族が皆死んで、彼は寮に入る。そして旧制一高時代に、その寮生活でも精神的に苦しんで、旅に出たとされている。小谷野は当時スペイン風邪が流行し、川端は、寮の狭い空間にいることに恐怖を感じて逃げ出したのではないかと言っている(小谷野 第2章)。川端は若い時からすでに老いている。そして常に死と隣り合わせで生きている。
私の読書体験ということで言えば、高校に入って、アルバイトをして稼いだお金で、文庫本を買い漁った。その時にこのふたりの小説はあらかた読んでいる。ただどうもこのふたりは私の趣味ではなく、その後読み直すこともあまりなかった。今回読み直して、谷崎については、あらためてその小説家としての力量の大きさを感じさせられた。川端については、彼のどの作品にも川端の世界が凝縮されていると思った。
先の谷崎の小説において、主人公は歳を取って、明らかに様々な身体能力が落ち、しかしなお性の欲望はあるという話が描かれていた。川端の小説の主人公も、そこは同じである。それは別段、当然の話であって、それだけのことに過ぎないのかもしれない。しかし谷崎と川端という、類稀な才能の持ち主によって、谷崎と川端のそれぞれの世界が描かれている。
先に書いたように、谷崎は老いて、しかし死を感じさせない。ここで取り挙げたふたつの小説において、主人公は死んで話が終わるのだが、しかしその死は滑稽である。老いが滑稽で、老いの行き着く先に死があるのだが、その死さえも滑稽である。死が主題で、むしろ老いが主人公によって意識されていない川端の世界と、それは対になっている。
さて話を先に進める。一体に、お爺さんの性があるならば、お婆さんの性もあるだろう。酒井順子が紹介する松井久子をここで読む(注2)。
松井の一作目『疼くひと』は、70歳の女でもセックスができるという話が中心的なテーマなのかと思う。主人公は日ごろからヴァギナに油を塗って、セックスに備えているのである。そしてSMSで知り合った55歳の男との性の営みに嵌っていく。
主人公は歳を取ってもなお元気だということがその小説の言いたいところで、しかし斬新なのはそこだけで、あとはストーリーの展開としてはかなり通俗的という気がする。もちろん、そのために安心して読めるという利点はあるが、人を不安にさせて、死の予感を垣間見せるという作風ではない。そこでは、あっけらかんとした性が描かれている。
そして第二作『最後のひと』は、一作目の続きで、今度は75歳になった女は、勃起能力を失った86歳の男と付き合い始め、ついには結婚を決意する。テーマは、高齢の相手とでもまだセックスができる、肌と肌を合わせ、手や唇を使ってのセックスもあり得るというところにあるのではないか。そしてそれに対して、そういうことは十分あって良いと私は思うが、それだけの話である。
酒井は松井の小説に対して、「七十代女性にレディースコミックのような夢をもたらし」、「性的興味を失っていない世の高齢女性たちを大いに励ましたに違いない」と言っている。そういう意義はあるのだろうとは思う(酒井 p.212)。
第一作の主人公は、最初の結婚で夫から性的満足を得ることがなく、その後の男性遍歴の中で、ある程度は性的に満足できるようになったが、その中の男と一緒になることがなく、それが70歳にして初めて性の快楽を満喫できる相手に巡り合ったが、しかしその男は不慮の死を遂げてしまう。そして第二作では、今度は75歳にして初めて結婚したい、一緒に暮らしたいと思う男が現れたということになる。主人公の成長という観点でこのふたつの小説を読み直すと、確かに進展がある。それは小説を小説として完成させる重要な要素ではあるが、それ自体は凡庸なものである。
2作目の方が、小説に深みがあるという点では優れている。しかしここでもまた、80代後半の男でもセックスができるという点に力点が置かれているかのようだ。男性器は勃起することはないが、男と女が様々に快楽を得ることは強調されている。
私がなぜこのようなことをここに書き続けているのかと言えば、ここでも描かれる老いという時間と空間に、死の影がないからである。死と隣り合わせの性が描かれていないのである。つまり性というテーマにつきもののはずの死の匂いがない。老いを論じて、なお死が感じられない。しかしこれはこの小説の欠点ではなく、読者を楽しませるという点で、むしろ長所であると言うべきかもしれない。谷崎の場合も、老いの性を強調することで、性の倒錯が克明に描かれた。性はそこで死よりも強調されている。松井の小説においても、今まで論じられることの少なかった女性の性が華やかに記述されているのである。
この小説は松井久子の実体験をもとにしているようで、松井はテレビの番組制作や映画のプロデュースですでに著名であり、2022年に76歳で89歳の子安宣邦と再婚したことは、世間で知られている。読者は当然、作家の実の人生に照らし合わせて、これらの小説を読むことになる。
彼女は私よりも12年年上で、私は研究会や読書会に参加すると、この世代の人たちが多く、長くそういう人たちとの付き合いがあったから、小説の中に出てくる話題は私にとって馴染のものである。一作目には上野千鶴子が、二作目にはボーヴォワールとJ-P. サルトルが出てくる。これはこのシリーズで取り挙げた人たちである。また小説の中で、子安を思わせる男は、M. フーコーについて語る。もっともどのくらいフーコーの思想が主人公に影響を与えたのか、思想が単にアクセサリーになっていないかという危惧はあるのだが。
さて一体に、男性はしばしば、老いてなお自分の性的能力があることを誇示したがるが、この小説はその女性版ではないかとも思う。要するに、老いてなお、性的に元気だという話なのである。もちろんそういう小説があって良いし、実際私はこのふたつの小説を読んで、結構面白いと思ったのである。
ただ、繰り返すが、性と死は一組で考えられるものだと私は考えており、老いを論じることが必ずしもこの一組の繋がりを強化するものではなく、老いてなお元気というテーマが前面に出てきてしまうと、性と死が切り離されてしまう場合もある。
この、性は本来死と隣り合わせのものであるということは、むしろ老いを語る文脈においてではなく、若い人の性について語るときに、より一層鮮明に出てくるものなのではないだろうか。そう思って、ここでは以下、三島由紀夫と村上春樹の小説を取り挙げる。どちらも青年が主人公である。
「憂国」の主人公は新婚の中尉で、彼は二・二六事件を思わせる蹶起の際に、仲間から誘われなかったが、叛乱軍とされた仲間を逆に討伐せねばならなくなる。その立場に懊悩し、妻とともに心中するのである。
これは自刃を決意した男と、夫の覚悟に添う女の、最後の性行為を描いた作品であると私は思っている。この人生最後の性行為が、ふたりの人生の頂点であり、そしてその興奮は読む者にも伝わってくる。まもなく自分たちは死ぬのだという感覚が、性の喜びを強めるのである。
性と死というテーマを考えると、私はいつもこの作品を思い出す。もちろんここでも、三島自身が自刃したという事実を私たちが知っているということが前提になっている。
村上春樹の小説『ノルウェイの森』でも、性と死が扱われる。このふたつは対になって、ストーリーが展開される。村上本人を思い起こさせる、主人公の大学生ワタナベは、高校の時に知り合った直子と偶然再会し、彼女と付き合い、性的関係を持つ。しかし直子はその後すぐに、精神の病のために療養所に入り、間もなく自殺をする。直子には最初から死の匂いが付き纏う。そもそも直子は、高校のときに付き合っていた男キズキが自殺するという体験を持っていて、ワタナベにしてみれば、直子の背後には常にキズキがいる。ここには夥しいまでの死と性がある。若者の生に性があるのは当然として、死もまた生の一部としてあり、それは性と結び付いているのである。それは先に取り挙げた老人文学よりも一層際立っている。
特に谷崎と松井の小説に、死の匂いがないと私は言った。それはそれで、作品の長所であるのかもしれず、そのことを私は咎めているのではない。しかし若者の性を扱った、村上春樹の「ノルウェイの森」の方が、登場人物はすべて若者であるにも拘らず、死の影が付き纏う。性の描写の中に、読者は嫌でも死の匂いを嗅ぎ取るのである。
老いと性と死と、3つが描かれている作品を探したのだが、結局は、老いと性というふたつのテーマが前面に出て、死が後景に退いてしまうものと、性と死が描かれているものの、老いの感覚が少ないものと、どちらかしかない。後者については、老人が主人公であるよりも、むしろ若者が主役のものの方が、性と死という主題が明確になるということもあり、それらの作品を、老いを論じる本稿に入れた次第である。
注
1 私は前著でも、性については、自分の体験は書かず、小説を使った。その方針はここでも変わらない。
2 本稿を脱稿した日(2025.4.26)の朝日新聞に、上野千鶴子の『アンチ・アンチエイジングの思想 ボーヴォワール『老い』を読む』の宣伝が出ていた。またその前日には、同紙に、松井久子のふたつの小説が、これは結構大きく宣伝されていた。この2冊は、売り上げが累計15万部を突破したとされている。
参考文献 (著者については、アルファベット順で並べる。なお文中、長編小説の題については二重括弧(『』)を使い、短編や中編は一重括弧(「」)でその題名を表記している)
ボーヴォワール, S.,『老い(上)(下)』朝吹三吉訳、人文書院、2013
川端康成 『雪国』新潮社、2010
――― 「眠れる美女」『眠れる美女』新潮社、2012
小谷野敦『川端康成と女たち』幻冬舎、2022
松井久子 『疼くひと』中央公論社、2021
――― 『最後のひと』中央公論社、2022
三島由紀夫 「憂国」『花ざかりの森・憂国』新潮社、1968
村上春樹 『ノルウェイの森(上)(下)』講談社、1991
酒井順子『老いを読む 老いを書く』講談社、2024
高橋一行『身体の変容 メタバース、ロボット、ヒトの身体』社会評論社、2024
谷崎潤一郎 「鍵」『鍵・瘋癲老人』新潮社、1968
――― 「瘋癲老人日記」『鍵・瘋癲老人』新潮社、1968
(たかはしかずゆき 哲学者)
(pubspace-x13075,2025.04.29)