老いの解釈学 第16回 生物学の教える老い 政治学から考える老い

高橋一行

 
   生物学の教えるところでは、本来人間の寿命は、55歳くらいである。生物学者の小林武彦はそう言う(小林2021、2023)。その根拠はいくつかある。まず人間と同じ大型霊長類のゴリラやチンパンジーの寿命は50歳くらいである。本来人もそれくらいの寿命であったと考えられる。また心臓は臓器の中で細胞が再生されずに、消耗するだけであり、その総心拍数から、その動物のおおよその寿命を測定できるが、そこから考えてもやはり50歳くらいと考えられている。また私たちは55歳を過ぎると、癌になる確率が急激に上がるが、それはそもそも人間が生物学的には55歳以上長生きすることが想定されていないことから来るのである。つまりそのくらいが人間の寿命である。著者はこのように言う。
   さて議論をさらに進めるために、ここでまず大前提として、生物は必ずいつかは死を迎えることになるのだが、それはなぜかという話から始めたい。これは加齢とともに、DNAが壊れていき、DNAの総体であるゲノムがおかしくなり、その結果、細胞の機能が低下し、臓器や組織の機能が低下するからである。また脳や心臓のように、細胞が入れ替わらない臓器の細胞も、一定の時間が経つと、その機能は衰える。その結果、動物は老化し、死ぬ。
   さて多くの動物は、老化したら、被食動物は捕食動物に容易に捕まって、食べられてしまうし、捕食動物であれば、体力が低下して、餌が捕まえられなくなる。つまり多くの動物は、このような理由で老いが極めて短い。老いたらすぐに死んでしまうのである。
   また象のように、被食動物でもなく、他の動物を捕食することもない場合は、他の動物と比べると長生きをするのだが、しかし象の傷付いたDNAは修復されずに、つまり人のようにゆっくりとDNAが壊れていくのではなく、ある時が来ると、一気に細胞が悪化し、心筋梗塞などの病気で死ぬことになる。つまり象にも老いはない。
   すると動物は老い始めると直ちに死ぬ。人間だけが、生物学的に想定された寿命を超えてなお生きることになり、そこが老いと呼ばれる期間になる。では人間だけが、なぜ生物学的な寿命を超えて、長生きができるのか。
   ここで小林は、人間は知能が発達して、社会を営んでいるが、そのことが長生きの理由であると言う。生物学的に説明するとそうなると言うのである。人間が火を使い、服を着て、家に住み、栄養価の高いものを食べることが長生きの原因であることは容易に分かる。そのために免疫機構が強化されたからというのが、生物学的に説明できる、第一の理由である。
   小林はさらに、社会を創り、その社会で55歳以上の人が重宝されたことを理由に挙げる。つまり老いた人が社会にいた方が、その社会は進化論的に考えて優位なのである。
   著者は次のような具体例を挙げる。例えば人間は赤ん坊を育てるのに、大人の力を要し、母親ひとりではそれは困難で、複数の人の手助けを必要とする。動物なら生まれてすぐに自力で歩けるようになるが、人の場合、数か月は寝たままで、世話をする人の手を借りないと生きていけない。著者はここで、「おばあちゃん仮説」なるものを提案する。つまり子育てにおいて、おばあちゃんの役割は重大である。もちろん実際におばあちゃんである必要はなく、要するに経験豊富な大人の力が人間社会では重宝されるのである。おばあちゃんに相当する人が元気であれば、子どもがたくさん育つのである。
   さらには、社会をまとめていくには、ここでも経験豊かな大人が必要とされる。老いた人がいた社会の方が生存に有利なのである。これは「おじいちゃん仮説」とでも言うべきもので、年長者がまとめる社会の方が、そうでない社会に比べて進化の上で有利だったという話である。
   かくして老いた人が社会で要請され、老いた人の多い社会がそうでない社会よりも、より環境に適応し、その中で人々はますます長生きをするようになる。
   さてそういう訳でまず生物学的には、老いは55歳から始まるということになる。実はそう言われると、私は気持ちがすっきりとする。というのも、今の社会では65歳からが老人であり、私も昨年、その年になってから、このシリーズを書き始めたのだが、それでも私より年長の人たちから、お前が老いを語るのは早過ぎると言われ、このシリーズの評価は散々なものがあるからである。あくまで生物学的にはという話だが、私はもう老いを10年経験しており、老いを語る立派な資格があるように思うのである。
   実際55歳を過ぎたころから、私は老眼になり、また血圧も上がり、周囲に病気になる人が増え、中には急死する人が出始めたのである。老いを感ぜずにはいられなくなったのである。
   しかし同時に私は、10年以上も前に老いが始まってはいるが、現時点でまだそれが深刻であるとは思っていない。つまり生物学的にはもう10年前から老人になっているのだが、しかし日本の社会の中では、まだまだ老いたと言うには早い。周りを見る限り、私はまだ相対的に年長者ではない。身体の劣化も、私より年上の人の苦難に比べれば、それほど大きなものではない。
   そういうことを確認した上で、もう少し生物学的な議論をしよう。
   今、生物としての人間は55歳が寿命であるという話であった。しかし今の日本では、さらにそののちに数十年は生きられそうである。するとここで出てくる疑問は、今後さらに医学が進歩するとして、その場合、人間はいくつまで生きられるのかということである。引き続き、小林武彦の議論を参照する。
   まず老化の原因は、DNAの傷であり、それが不可逆的に蓄積されていくというところに求められた。そしてすでに人間は、その修復能力がかなりレベルアップされていて、そのために本来考えられている寿命を超えて生きている。しかしひとつには、特にDNAの壊れ易い部位を何とか壊れにくくしたり、ふたつ目には、老化した細胞を除去したりして、さらに長生きを可能にする技術が模索されている。
   現時点で、非常に稀ではあるが、100歳を超え、115歳まで生きる人がいるという事実は、人がそのくらいまでは原理的に生きられるということを示している。そこまでなら、医学の進歩によって、人はこの世に留まれるのである。
   つまりもうすでに人間は十分長寿であり、今後医学が発達したからと言って、不老不死が実現されると考えてはならないのだが、しかしもう少しだけ多くの人が長生きできる社会は来るだろうと思われるのである。
   そして多くの人が、例えば115歳近くまで生きられる社会が来たとしたら、人間は老いてからの人生の方が長いという話なのである。するとそこで、そもそも老いが人間を人間らしくしたのではないかと言えないか。
   仮に、まだ社会が創られておらず、諸個人が狩猟をし、常に猛禽類に命を狙われている時代があったとしたら、そこでは人は55歳を超えて生きることはできなかったのである。しかし社会が発達して、人は長生きをするようになった。それこそが生物学の教えるところである。
   人間だけが老いるというのが、小林の主張である。私はここから、老いることができるという点に、人間の特徴があるとし(ここまでは同義)、その人間の特徴を最大限活用することこそが、人間が人間らしく生きることに繋がると考えるのである。老いをいかに生きるかということは、人間が追究すべき課題なのである。
   もちろん、老いは人間だけに許されたものであるということから、人間の本質は老いにあると話を持っていくのは、論理が飛躍している。しかし本シリーズの第2回に、ヘーゲルを引用しつつ書いたように、病が死を自覚させ、そのことが人間の精神を生み出したのだとしたら、病よりも老いの方が、もっと死を自覚させる要因になるし、そこに人間の本質があるという議論は十分説得力がある。またそもそもこのシリーズ全体が、老いこそが人間の本質であるということを示すために書かれている。とすると、私たちは55歳を過ぎてから、長い長い老いの時代に入り、そこで人間の本質を自覚するのである。
   そのことの帰結のひとつとして、性の問題を考えることができる。つまり動物は生殖の機能がなくなると、そこで生を終えるのだが、人間はむしろそこから、新たな性の営みが始まる。生殖を終えてから、生物学的な性を離れて、性の楽しみを享受することができる。これこそが人間の本質に適っているのではないか。
   かつてトーマス・マンは70歳になったとき、彼に残された人生は「余分のもの」、「恩寵」であると言っている(マン)。まさしく生物学的には余分のもので、しかし恩寵としてありがたく受け止めるべきものにこそ人間の本質がある。
 
   さてこのあたりで生物学の議論は終わりにしたい(注1)。ここからは社会科学、とりわけ政治学のテーマになる。社会の話をするのに、自然科学者の言い分はしばしばナイーブ過ぎて、そのまま参照するには訳にはいかず、十二分に慎重にならざるを得ない。
   今まで何度も書いてきたが、老いは個人の問題ではなく、社会の問題であり、私はこのシリーズを、私個人の話をきっかけに語り始めてはいるが、書きたいのは社会設計の話である。そのことを確認するために、最初に、生物の話をし、それから社会を考察したいと思うのである。
   まず今までの話として、生物学的には人間は55歳からが高齢者になり、しかし今の社会にはもっと高齢の人が多くいて、さらに将来はさらに長生きが可能とされ、高齢者は増え続けるということになる。
   その高齢者は社会で必要とされているという生物学者のナイーブな指摘とは異なり、日本では、老人は腹を切って、集団で死ぬべきだとかと言うようなことさえ、若者の口から飛び出す昨今である。若者は、今の老人は優遇され過ぎており、そのために若者は将来に不安を覚える。被害者意識を持っているのである。生物学的には、老人が尊重されるのが、人間の社会の望ましい特徴であったのだが、現代社会では必ずしもそうではない。
   議論を進めるために、言葉の整理をしておく。高齢化社会、高齢社会、超高齢化社会と3つの言葉が使われる。
   高齢化社会とは、65歳以上の高齢者の割合が人口の7%を超えた社会のことで、そもそも、この言葉は、社会の7%以上を「高齢化した」(aged)人口と呼んでいたことに由来する。日本では、1970年に高齢化率7.1%を超え、高齢化社会へと突入した。
   その後、65歳以上の高齢者の割合が人口の14%を超えた社会を高齢社会と呼び、日本では1995年の時点に高齢化率14.6%を超えて、そこに突入した。さらに、高齢社会が進行し、65歳以上の高齢者の割合が人口の21%を超えた社会を超高齢社会と呼ぶのだが、日本ではついに、2010年には高齢化率23%を超え、超高齢社会を迎えた。
   また、2023年10月1日現在、日本全体の高齢化率は29.1%で、先の3段階、つまり高齢化社会、高齢社会、超高齢社会という定義から考えれば、今はもうすでに第4段階の超々高齢化社会に入っている。こうなると、単に65歳以上の年齢の人のパーセントだけで定義するのでは意味がなくなってくる。本来人口の7%の人を高齢者というのであれば、年々高齢者に該当する年齢は上がっていくべきである。私の提案は、差し当って、現在後期高齢者と言われる75歳から、高齢者と呼ぶべきで、その人数は、2023年の時点で1,849万人(男性729万人、女性1,120万人)であり、総人口に占める割合は14.7%である。つまり1995年の社会において、65歳以上の人が14%を超えて高齢社会になったのだが、2023年の時点で、14%を超えるのは75歳以上の人であって、今やそのあたりから高齢者と呼べるのではないかと思うからだ(注2)。さらにはいずれ、85歳以上の人が増えていけば、そこからが高齢者と呼ばれるべきかもしれない(注3)。
   さて、現代の日本における大きな問題のひとつは世代間格差であり、つまり就職氷河期と呼ばれる世代(40代半ばから50代前半)の前とあとではものの見方がまったく異なる。とりわけそれは、2024年の衆議院選挙から、明確に世代間の支持政党が分かれていることに現れている。つまり生物学的に老いた人とそれ以前の人とで、社会に対する考え方が違っている。これをどう考えるか。
   ひとつは年金の問題があり、若者は、現在の65歳以上の年金受給世代を特権的だと思っている。現役世代が高齢者を支えるという今の年金システムでは成り立たないことは明らかで、基礎部分を税金で賄い、あとは個人が支払った分だけを受け取るというシステムに変えるといったことが早急に必要である(注4)。そうなると当然、老人が受け取る年金の額は下がり、かつ受給を始める年齢は上がることになる。しかしこれが正常なのだと思う必要がある。
   ふたつ目は現役世代の賃金を挙げるべきである。これは物価上昇を年2%と見込んで、それを1%上回るという目標が政府から出されていて、大手企業ではすでに達成されている。これは歓迎すべきことだとし、あとは中小企業の従業員にもどう賃上げを普及させていくかということが考えられねばならない。その際に、簡単に言えば、従業員の給料を上げられない会社は、整理される必要がある。若者はここでも、会社の中で無能な中高年が、生産性を上げておらず、若者の意欲を削いでいて、それが日本を駄目にしていると思っている。解決策は、若くて働ける人の給与をどんどん上げていくか、若者の方で、給与の高い会社に移っていくということしかない。さらにここから帰結されることのひとつは、産業の再編成に付いて行かれない中高年の今後の生活は苦しくなるし、物価は当然上がるから、年金受給額の決まっている世帯は、負担が増えるということになる。
   三番目には、例えば住民税は、年金受給者は非課税になることが多いのだが、しかし困窮していない世帯に対してまで、政府の再分配政策の恩恵に与るのはどうか。収入は年金だけしかなくとも、十分な資産を持っている世帯に対しては、再分配を抑止しなければならない。
   こういった政策が必要なのは、若者と老人の間の断絶は解消しなければならず、そうしないと双方が快適に生きていくことができないからである。その際に根本的に考えねばならないのは、今の若者もそのうち老人になり、そのときに、彼らの生活が今の老人のそれよりもはるかに厳しいものになるということが予測されているということであり、それは避けねばならないのである。
   さて、こういったことから、世代間格差を少しだけ是正できたとして、しかし問題はたくさんある。ひとつは、高齢者の生活はますます苦しくなるから、働ける人に雇用を用意することがまず必要になる。それと同時に、例えばボランティアの活用によって、制度的に人々が出費を抑えた生活を送れるようにしなければならない。また個人のレベルで言えば、金を掛けない生活の工夫が必要だということになる。
   より根本的な事態は、つまり日本を超えて、世界的な話として進行している事態は、世代間格差に留まらず、社会全体の格差が進行していることである。つまりひとつには、産業構造が変化して、情報化社会になり、製造業が衰退する。そこでは社会の中流が減り、情報化社会を生き抜ける人とそうでない人に二極化する。これは世界史の中で必然的な傾向で、産業が金融とIT関連に移行していくこと自体は、防ぎようがなく、受け入れるしかない。
   現在、世界に最も深刻な影響を与えているのはトランプの関税政策であるが、アメリカの場合は、さらに上記の趨勢に加えて、ドルが基軸通貨だから、自国でものを生産するより外国から輸入した方が安く、産業の空洞化が起きる。これもどうしようもないことで、関税を掛けたところで、アメリカの製造業が復活することはあり得ないのに、蓄積された鬱憤を晴らすことができるという理由で、今なおアメリカ国民の40%前後はトランプを支持している。
   そこに加えて、移民が雇用を奪い、社会保障にただ乗りすると言われる。移民の問題は、日本においても今後ますますその対応を巡って、擁護する側と排斥する人たちとの間の断絶が一層激化するだろうことが予測される。つい最近フランスに滞在した経験では、そこではアフリカ系移民が、住む家がないどころか、テントすらなく、公園で多数昼の間は雑魚寝をし、夜は寒いので、一晩中街中を歩き回っているという現場を目撃しており、これが世界的な話になっていくだろうということは容易に推測される。
   さらにアメリカの場合は、今まで世界秩序の守護神として振舞ってきたことに疲れており、簡単に言えば、アメリカの税金を使って、ウクライナを援護すべき理由は何もないということになる。本来、アメリカが世界秩序を守り、知的エリートを育てることはアメリカの利益に繋がるのだが、そこが見えなくなって、アメリカ国民の被害者意識だけが強まることになる。
   すると根本的な対策はなされることなく、今しばらく、トランプの、世界を掻き回す政策が続くことになる。トランプ政権が終わっても、トランプ的なものを引き継ぐ人物が次の大統領になる可能性は高い。
   そもそもアメリカだけでなく、世界のどこの国であっても、再分配という観点で、今の大き過ぎる格差から生じる問題を解消しようとするなら、中流階層が減った今、消費税に頼るのは効率的でなく、所得の多いところから税を徴収するしかない。つまり金融業とIT関連は儲かっているのだから、そこから徴税するしかない。また格差は、所得のそれよりも、資産のそれの方が圧倒的に多いということから考えれば、資産に対しても課税されねばならない。
   しかし最も効果的な政策が選ばれる訳ではなく、自分が損をすることが分かっていても、妬みや劣等感に基づいて、他者を攻撃し、あえて不合理な政策が選ばれることになるだろう。
   つまり、上述の私の提案が実施されるのは困難であり、逆に、今後ますますナショナリズムが強まり、グローバリズムは忌避され、リベラリズムは嫌われて、権威主義体制が世界中に出てきて、国際関係においては、大国が小国を支配するということになる。そこは覚悟しなければならない。そういう世界の中で、私たちは老いを生きていくことになる。
   要するに、世界の情勢は悪化するだろうという結論になり、その中で日本だけが良くなるということは考えられないのだが、しかしせめて正論を吐き、できるところから着手していくしかない。それは根本的な格差対策について、つまり情報化社会の進展に対しての対策案は出しつつ、それが実現されるのは困難だという認識の下で、日本の世代間の格差対策という、可能なところから解決の糸口を見つけたいと思うのである。
   その正論としては、儲ける人はたくさん儲けて、たくさん税を払い、それを元手に再分配をする。あとは情報化社会では雇用は減るので、多くの人は仕事量を減らして、仕事を分け合うことが必要である。また福祉の仕事は老人が増えれば、当然増えるのだが、市場に任せていては、採算の取れるものではなく、ここには税金を投入する。これは再分配のひとつになるが、同時に雇用も増やすことになる。こういったことしか対策はない。しかし大きな改革については、議論はしておき、あとは小さな改革を積み上げていくべきである(注5)。
   また仮に多くの人が25歳くらいから、75歳まで50年間働くとなると、働き方そのものを変えていかないと、長続きしないのではないか。週当たりの労働時間の短縮だけでなく、例えばフランスなら当たり前なのだけれども、夏は一か月くらい休みを取るとか、大学教員に認められている、半年か一年間のサバティカルとといったシステムの導入も必要に思う。少しずつ働く時間は減らしていく。その際に、つまりそれにも関わらす、若い人の給与は少しずつ上げていく。これが結論である。
 

1 小林は、その著書の中で、メタバースやAIの話もする。これらの考察は重要な視点を与えてくれる。というのも、それらは原理的に不死であり、少なくとも人の寿命を超えて生き延びる存在である。生物として有限な寿命を持つ私たちは、これらの人工物とどう共存していくべきか、ということが問われるからである。またこれは次回のテーマだが、人は不死を望み、人工知能に、その願いを託す。自らの身体に人工知能と人工臓器を入れ込めば、不死になれると考える。そういう世界を描くSFは結構たくさんある。
2 2024年の内閣府の調査による。
https://www8.cao.go.jp/kourei/whitepaper/w-2024/zenbun/pdf/1s1s_01.pdf
3 2023年の厚生労働省のデータによれば、日本人の平均寿命は、2023年の厚生労働省のデータで、男は81.09年、女は87.14年である。これは0歳の平均余命のことで、すでに70歳になった男性なら、平均余命は、15.65年、つまり四捨五入して86歳まで生きられるという話になる。大雑把に男性なら今や85歳くらいまでは生きられる。女性はもう少し長く生きるという言い方をしておく。
https://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/life/life23/dl/life23-02.pdf
4 現在の年金システムは、賦課方式と呼ばれる、年金支給のために必要な財源を、その時々の保険料収入から用意する方式である。簡単に言えば、現役世代から年金受給世代への仕送りのようなものである。これが少子高齢化によって、現役世代が減り、高齢者が増えると、前者に著しく不利であり、これが世代間格差のひとつになっている。
   これを積立方式に、つまり将来自分が年金を受給するときに必要となる財源を、現役時代の間に積み立てておく方式に変えるべきだという議論は、当然出てくる。そうすれば世代間の不公平感はなくなる。しかし積み立てた資金をどう運用するかといったときに、この方式は市場の影響を強く受け易いし、また制度の移行期には、ふたつの制度の両方を負担しなければならない世代が出てくるという問題もある。
   それで賦課方式を維持しつつ、部分的に積み立てていく方式が模索されている。また積み立ては、個人単位でなされるのではなく、世代単位ですべきであり、そうすると、その世代の中で、高所得者から多く取って、給付を少なくすると言った、世代内の格差是正も必要になる(加藤2011、2016)。以上の議論のために私は、2011年と2016年の本を使ったが、基本的には現在も賦課方式は続いていて、ただ被保険者が納めた保険料のうち、そのときの年金給付に使われなかった分を積み立てて、将来の年金給付に使われる年金積立金が活用されている。
5 この辺りは、ポスト資本主義の議論が参考になる(高橋2021 第2章、同2022 第3章)。
 
参考文献
加藤久和『世代間格差 人口減少社会を問いなおす』筑摩書房、2011
—-   『8000万人社会の衝撃 地方消滅から日本消滅へ』祥伝社、2016
小林武彦『生物はなぜ死ぬのか』講談社、2021
—-   『なぜヒトだけが老いるのか』講談社、2023
マン、T., 「ドイツとドイツ人」『ドイツとドイツ人』青木順三訳、岩波書店、1990
高橋一行『カントとヘーゲルは思弁的実在論にどう答えるか』ミネルヴァ書房、2021
—-   『脱資本主義 S.ジジェクのヘーゲル解釈を手掛かりに』社会評論社、2022
 
(たかはしかずゆき 哲学者)
 
(pubspace-x13285,2025.05.25)