ヘーゲルを読む 3-1 隷属化という原理(バトラー論1)

高橋一行

2-3より続く

バトラーは、自らの哲学を確立する際に、ヘーゲル『精神現象学』の精密な分析から始めている。1987年の、Subjects of Desireの第1章において、彼女は、『精神現象学』の、最初の「意識」の3つの章と、「自己意識」の前半部、「主奴論」までを、ていねいに分析している1
そこで得られた知見は、以下の通りである。
まず、ヘーゲルは、「自己意識」の章で、自覚的に、欲望という言葉を使っているが、バトラーはそこに着目する。そして、自己意識以前の、「意識」の3つの章において、すでに潜在的に、欲望の概念があることを指摘する。つまり、私が、2-1及び2-2で、意識と対象は、ともに歩み、一歩ずつ進展して行くと記した事態を、バトラーは、意識が欲望を持って、対象に近付き、一方、対象は、意識を触発すると読んで行く。そしてその意識と対象がともに自己意識となったときに、明確に、主体としての対象は、他の自己意識に対して欲望を持ち、他者としての他の自己意識は、主体としての自己意識を触発する。またそのことによって、意識の主体化が成立する。
さらにそれは、主奴論において、一層明確になり、これは、私が、第2の原理としてまとめたものだが、そこに着目して、主体が欲望を持つこと、そしてそれは他者に触発されること、このふたつの原理を、ヘーゲルの原理として、まとめている。
この時点で、まだバトラーは、私が第4の原理と呼ぶものを取り出してはいない。これは、以下に述べるように、後のバトラーの得た観点だ。しかし、この書の中で、すでに、主奴論に着目しつつ、ヘーゲルの叙述においては、奴隷は労働することで、自立するのだが、バトラーはそうは解釈せず、労働を、また、その対象である自然を、また、その道具である身体を、極力排除し、徹底的に、欲望を、非自然的、非身体的なものとして捉えようとしている。
上掲書の第2章以降で、バトラーは、コジェーブ、フーコーらが、如何にヘーゲルの圏内にいるかを示しており、それはそれで成功しているように、私には思える。相互承認論と主奴論とを同じものとみなし、それ以前の意識の経験の章を、自己意識を説明するための、前の段階に過ぎないものと見ているという点で、ヘーゲルの読み方としては、ひとつの典型なのだが、そこから、先に私が、逆転の思考と回帰の思考とまとめたものに行くのではなく、相互承認と主奴論とのポイントを、主体が欲望を持つということと、他者が根源的であるということのふたつにまとめ上げた力量は、十分評価できる2
しかし、ヘーゲルの読み方としては、まだ物足りず、それは、1997年『権力の心的な生』を待たねばならなかった3
そこにおいて、主奴論から、先に私が、第4の原理と呼んだものを導き、そこからさらに、その原理が良く出ているのは、「自己意識」の章の後半の、「不幸な意識」のところであることに着目して、彼女は自分の理論を展開する。それを追ってみよう。
先にまとめたように、しかし、相互承認し合うべき二つの自己意識は、直ちに主と奴の関係になる。そして奴だけが、主から命令されて、労働し、自立する。ここで、労働することに重きを置くのが、私の言う、第3の原理で、また、主の命令の方を重視するのが、第4の原理であった。ここでは、主人が他者である。奴は、主の命令を通じて、主体化する。バトラーは、まず、ここに着目する。
しかし、何度も繰り返すが、奴隷は労働することで、自立するのだが、バトラーは、すでに、上述の1987年の本で、徹底して、労働や自然や身体の概念を否定している。だから、第4の原理は、この、「自己意識」の前半の限りでは、うまく機能し得ない。つまり、労働を否定したら、どうして主体化ができるのか、うまく説明ができない。
ヘーゲルは、そこで、思考を打ち出し、労働、自然、身体を否定し、ストア主義、スケプシス主義を経て、再び、主奴論を出して、それを「不幸な意識」まで、思考の展開としてまとめる。バトラーは、この労働が、思考になってからの叙述に定位する。
再度、主奴論と「不幸な意識」の論理展開の違いを書いておく。前者では、二つの自己意識が、主と奴に分かれたが、後者では、自己意識が二重化し、それが主と奴になる。なぜ「不幸な意識」というかと言えば、ひとつの意識の中に、分裂した意識があるからで、それが次の段階で統一されるという順番である。そして統一される前の段階で、再び、欲望と労働の概念が出て来る。しかしここで、労働の対象は、自己意識的構造を持っていて、対象自らが自己否定をする。ここで、前者のときのように、奴にとって、主という他者と、労働対象としての他者と、他者がふたつのカテゴリーに分かれることはなく、主が奴にとっての労働対象である。つまり、奴が個別的な意識で、主が普遍で、奴が主に働き掛ける。ここで、労働は、すでに思考になっている。労働の対象が精神だからである。そして、それら、働きかける主体と、働きかけられる客体は、相互承認をする。ここで、相互承認と労働の原理は同じものとなり、思考の原理が確立する。
だから、この「自己意識」の章の後半部に定位するバトラーにとって、他者のカテゴリーがふたつあるとか、労働の原理と相互承認の原理が混在しているといった問題は生じない。この部分だけに依拠すれば、欲望を持つ主体と、主体の形成に当たっての他者の根源性という問題意識だけを、純粋に取り出すことができる。
さて、バトラーの戦略があって、上述の問題意識を取り出すことができた。つまり、ジェンダー論を展開するのに、労働に定位する必要はない。むしろ身体性や自然性を極力排除して、構築主義としてのジェンダー論を打ち出したい。ジェンダーは徹底して、社会の中で作られたのだという考えを提出したいと思っている。その戦略は成功している。ヘーゲルのここでの、精神一元論とうまく合致したのである。
もうすこし、今度は、バトラーが1997年に書いた、『権力の心的な生』第1章の叙述に即して、このことを見て行きたい。
奴隷は、主人の命令で労働することで、自立するのだが、バトラーは、この労働をするという点ではなく、私が第4の原理と呼ぶ、主人の命令で、という観点を重視する。ここで、隷属化という概念が出て来る。ここでバトラーが言いたいのは、このあとで、フーコーの言葉で説明するのだが、先に、一言だけ出しておけば、それは、主体化は隷属化(assujettissement)である、つまり、それは、主体の形成であると同時に、主体の統制に関わる議論であるということだ。主奴論で、自立に向かう奴隷を、まず襲うのは、主人から感じる恐怖であり、それは主人への畏怖である。そしてそれと同時に、奴隷の内面に、倫理的規範が形成され、そしてその意識は、ヘーゲル『精神現象学』では、「不幸な意識」となるのだが、そこにおいて、自己の服従化が、さらには、隷属化が生じる。そしてそれこそが、主体化なのだと言うのである。
以下、詳述する。まず、主人に対して畏怖を覚えるということから始まる。ここでは、労働の原理を素通りして、第2の原理から、第4の原理を導こうとしていると言っても良い。要するに、労働すること自体が重要なのではなく、主人を畏怖し、そのために、いやいや労働する、つまり主人の命令に従うことが重要だというのである。ここでは、労働対象としての他者ではなく、主人という他者を契機に自立することが論じられている。
そして、その次に、第4の原理から、「自己意識」の章の後半の、「不幸な意識」に繋がる。そこでは労働ではなく、思考が原理である。繰り返すが、バトラーは、労働を拒否し、身体をも拒否する。
奴隷は主人の身体であると、バトラーは言う。奴隷が労働し、労働生産物の中に自己を見出し、そのことで奴隷が自立化するというのが、ヘーゲルの論理であるが、そうではなく、奴隷が、主人の代わりに、主人の身体として労働するという点を重視する。奴隷の生み出す労働生産物は、最初から、放棄させられることが決まっている。しかしそのことが、奴隷を自立させる。ここでは、所有の放棄が、自立の原理である。つまり、労働の成果としての所有物は、主人との関係の下にあり、主人のものである。所有の放棄は、これも後に詳述するが、所有の真理、つまり、これこそが、所有を所有たらしめているものである。主人のものになるということにおいて、所有物が、奴隷を自立させる。
さらに、ここで死という概念も出て来る。奴隷は主人に完全に支配されている。支配とは、死を強制する方法だと、バトラーは言う。この死は、第2原理において、主人が自立するための原理であった。ここでは、奴隷の方が、死を感じて、これが、奴隷が自立する原理となるということが説明されている。死が、主人であれ、奴隷であれ、人を自立させる原理であることについては、後の章(第5章)で説明する。ここでは、第4の原理が、第2の原理から来ていることがこれで説明できる。つまり、第2原理において、主人は、死を感じて、それを克服することで自立し、ここでは、奴隷が、死を強制させられることで、自立する。
ここで、バトラーは、第4の原理から、「自己意識」の章の後半の「不幸な意識」に、拠点を移す。奴隷は自立し、奴隷であることを止め、不幸な意識になる。これは、ひとつの自己意識の中に、主人と奴隷とを併せ持つことを意味する。そこでは、服従は、自己服従である。自己が二重化して、服従させるものとさせられるものとに分裂しているからである。ここでは、奴隷にとっての他者は、主人のみであるが、この他者は、思考の対象であり、ここで思考する側(奴隷)と思考の対象の側(主人)がともに、自己構造を見出し、そのことで、奴隷と主人は、自他の区別を克服して、一体化する。
まとめておく。ヘーゲル『精神現象学』において、相互承認論と労働論とを融合させるために、主奴論が導入された。しかし、ここでバトラーは、労働論をまったく見ずに、相互承認論だけを取り出す。それが、最初の手続きである。しかし、相互承認論は、ヘーゲルにおいて、成功していないのではないかと、2-1及び2-2で書いた。成功したのは、このバトラーが、第4の原理を導き、それを、思考の原理を経て、他者としての主人の命令を、自己内に取り込み、自己内で主人と奴隷に分裂して、その統一を図るという手続きによって、主体化を図るという論理を確立することによってである。
ここからフーコーの説明に入る。以上のように、バトラーは、ヘーゲルを綿密に読み、今度はそこから、この論理はフーコーの語彙で、再定式化可能であることを示す。その上で、ヘーゲルの洞察が、フーコーにおいて反復されていること、さらにフーコーは、依然として、ヘーゲルに束縛されていることを示そうとする。
バトラーのフーコー論は以下の通りである。バトラーは、フーコーの『監獄の誕生』の次の文章を引用する。「人々が解放しようと促している、その人間像こそが、すでに、それ自体において、その人間像よりも、はるかに深部で営まれる主体化=服従化の成果なのである」4。主体は、権力への原初的な服従を通じて創始される。
さらにフーコーは、現代政治の要点は、主体の解放ではなく、主体を生産し、維持する統制的機構を問うことだと言う。外的な権威からの解放は、主体を自由にするのに十分ではない。権力からの解放ではなく、権力が主体形成そのものの前提条件であることを見るべきだ。先の引用部分に続けて、フーコーは次のように言っている。「ひとつの『精神』が、この人間像に住まい、彼を存在させる。だが、その存在それ自体が、権力が身体に振るう支配のひとつの断片である。精神とは、ある一つの政治的解剖の成果であり、道具である。精神とは、身体の牢獄である」5
しかしそこにひとつの欠点が見えて来ると私は思う。主人は権力であり、その権力が、奴隷の主体化を促すという考えは、そこから生まれた主体は、言わば、権力の内側にあり、それは果たして、権力に抵抗することができるのかということだ。すでにこのことについては、多くの論者が言及しているが、権力の抵抗の拠点となるべき主体が、権力の産物だということは、権力への抵抗が不可能だということを意味していないだろうか。
ヘーゲルの場合、主体化=隷属化の原理は、意識経験の発展としての労働論と、相互承認論の融合のために考えられた主奴論から導かれたもので、奴隷は自立し、主人に昂然と抵抗すべく、その力を身に付ける。
このように考えてみる。主奴論は、例えば、資本家階級と労働者階級の関係というようなことを考えても良いし、もっと一般化しても良い。特にこの後で述べるように、子どもが大人になる際に、親は権力として現れる。また、さらには、社会もまた権力である。そういう関係を考えれば、誰もが、奴隷の立場にあり、そこから、自立をして行く。そうして権力に抵抗する力を身に付けて行くのである。
もちろん、何度も言及したように、主奴論は、逆転の論理ではないから、労働者階級が、資本家階級を倒して、自らが支配階級となって、それまでの資本家階級を支配するということではない。しかし労働者階級は、資本家階級に抵抗する根拠を持ち、そして自立して行くことが論じられている。もっと一般化して、子どもも、このようにして自立して行くのである。親や社会が理不尽なものなら(いつだって、理不尽なのだが)、抵抗する権利を持っている。
だから、バトラーが言うように、ヘーゲルの論理はフーコーの語彙で、再定式化可能であり、ヘーゲルの洞察は、フーコーにおいて反復されていて、さらにフーコーは、依然として、ヘーゲルに束縛されているのだが、しかしヘーゲルの持つ可能性を減退させてしまったように、私には思われる。
このことは、大澤真幸も指摘している6。フーコーの場合、主体は権力によって、生成される。しかし権力の主体が、権力によって、作られたのなら、果たして、それは、権力に抵抗することができるのか。フーコーの結論は、抵抗の不可能性を示しているように見える。
しかし、ヘーゲルは、それに応える論理を持っている。大澤は、ジジェクの議論を下敷きにして、主奴論を展開する7。それは、私の言葉では、第2原理から、第4原理に向かうものだ。つまり、主奴論においては、主人は、自分の命を顧みずに、闘い、自立する。一方の奴には、それができない。しかし、次の段階では、今度は奴が、主人の命令で、死に晒される。そして、今度は、奴の方が、勇気を持ち、自立する。
大澤は、この関係の逆転の論理を、ひねりと呼ぶ。つまり、非自立的な奴が、ひねりによって、今度は自立的になる。
ここで、大澤は、ぎりぎり逆転の論理に落ち込むことなく、ヘーゲルを救っている。そして、権力への抵抗は、権力の内部から生じて来るということを示すことに成功する。大澤の論理は、ここで彼の批判するフーコーと違って、奴隷は、抵抗する権利を持つということを示している。その論理をヘーゲルの論理が保証している。
3-2へ続く

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1 Subject of Desire -Hegelian Reflections in Twentieth-Century France-, Columbia University Press, 1987
2 野尻英一を参照した(「書評 : 『欲望の主体』ジュディス・バトラー著)」『ヘーゲル哲学研究』Vol.16, 2010)
3 『権力の心的な生 主体化=服従化に関する諸理論』佐藤嘉幸、清水知子訳、月曜社2012
4 M. フーコー,『監獄の誕生 -監視と処罰-』田村俶訳、新潮社1977、p.34
5 同
6 大澤真幸『生権力の思想 -事件から読み解く現代社会の転換-』筑摩書房2013、補論
7 S. Zizek, Less than Nothing -Hegel and the Shadow of Dialectical Materialism-, Verso 2012

(たかはしかずゆき 哲学者)
(pubspace-x304,2014.03.24)