「芸術」とはどれくらい大切なものだろうか

西兼司

一、「あすへの話題」への感興
二、「利休、織部の切腹」と「為政者の想い」
三、「美」と「公序良俗」
四、なぜ、芸術家は嘘をつくのか

一、「あすへの話題」への感興
平成26年5月20日の日本経済新聞夕刊の第1面に乗っているコラム欄「あすへの話題」は、静岡文化芸術大学学長の熊倉功氏の「古田織部」と謂う短文である。しゃれた文章で簡潔に古田織部の400年忌命日が今年6月11日である、と謂うことが案内されている。
「古田織部(1543-1615)は戦国武将であるが、武勲はいたって少ない。有名になったのは千利休のあとをうけて天下の宗匠となった茶人織部である」という書き出しから始まって、漫画「へうげもの」を借りつつ、「師の利休をしのぐ異才の持ち主であった」ことを紹介し、転じて、「偉大な芸術家は、しばしば相反する二面性を持つことが多いように思える」として、秀吉と利休、織部と徳川将軍家(主として秀忠)の連携と自侭な関係が例として語られ、「それゆえに織部もまた師と同じく切腹を命じられた。その400年忌の命日が、今年6月11日にめぐってくる」と語られるのである。そして、決め台詞のように「利休や織部が死を賭して守ろうとしたものは何だったのか。明らかに主君でもなく家でも、国でもない。声高に主張することはなかったが、彼らは己の信ずる美の世界に殉じたのであろう。われわれにとって守るべきものが見えにくくなっている現代であればこそ、彼らに心ひかれるところが大きい。」と芸術(美)の賛美で締め括られている。
この一文に心惹かれたので、興の趣くまま、予ねて芸術家の精神に対して持っている疑問について、若干述べてみたい。

二、「利休、織部の切腹」と「為政者の想い」
歴史の議論をするつもりではないので、利休、織部の切腹の事情が熊倉氏の前提とするような事情であったのかどうかは問わない。利休が「黄金の茶室を造って秀吉の権力を盛り上げたりするが、己の茶の湯としては厳しい粗相の世界に沈潜しようとした」、「古田織部も徳川将軍の茶の湯指南をつとめる一方で、名品といわれる美術工芸品を、己の美意識のもとに壊したり破ったりしては新たに作りかえるようなことを平気でやった。いわば秩序の破壊である。織部を危険視する人からは『世の宝を損なう者』と非難された。それ故に織部もまた師と同じく・・・」と熊倉氏が言っていることを前提にしての、私の想いである。
では、利休、織部に死を下賜した者はどの様な心算でそれを為したのだろうか、と謂うことである。戦争(軍事)指導者として処刑の断を下したのではない。明らかに為政者として、政治指導者として、名誉の死を与えたのである。勿論、死後の処置は名誉の死としては理解が難しい側面を伴ってはいる。しかし、「切腹」であり、斬罪や磔ではない。「利休は関白への不敬」、「織部は豊臣への内通」が建前では名誉の救済は切腹で充分でもあろう。
考えられるのは政治の大本、民心を落ち着かせるか、民心を誘導する為であろう。この際は、「公序良俗」を鮮明にする為であろう。熊倉氏の言葉を借りれば、「厳しい粗相の世界に沈潜する茶」の自立を良俗と看做さず、公序からの逸脱と受け止めたのであろう。「名品といわれる美術工芸品を、己の美意識のもとに壊したり破ったりしては新たに作りかえるようなことを平気でやった」独善性の自立を良俗と看做さず、公序からの逸脱と受け止めたのであろう。

三、「美」と「公序良俗」
案内文としては蛇足部分、コラムとしては結論部分の「利休や織部が死を賭して守ろうとしたものは何だったのか。明らかに主君でもなく家でも、国でもない。・・・己の信ずる美の世界に殉じたのであろう」と謂うのは歴史研究でなければ納得出来る。しかし、これは「切腹」を与えた側にも、細密な歴史事実発掘課題でなければ全く同じことが言えるはずなのだ。明らかに、主君の為(自分の為と言い変えても良いが)、家の為、国の為でもない、己の信じる民心の安寧、公序良俗の確立の贄(にえ)として当代最高の芸術家を捧げたのに、誤解の余地は余りないだろう。
芸術が無駄ガネを浪費する勝手な私的祭り事として自立したのは、貨幣経済の社会への浸透と平衡している事は否定の仕様もない。利休は近世商人資本自治都市・堺の豪商であったし、古田織部が信長家臣団美濃衆から出て摂津、山城、播磨、丹波、甲州、伊勢、近江、紀州、四国に足跡を残し、山城に3万5千石を領した秀吉恩顧の大名であったことは隠れもない。共に同時代人としては貨幣経済の最先端で、カネと奢侈品に塗れて暮らしていた人間だ。
信長の「天下布武」に続いて、秀吉の「惣無事・天下静謐」、家康の「元和偃武」と謂う象徴的なイデオロギーが語ろうとしているものは、いずれも、「下克上、乱世」を克服する為政者の「武装闘争によって作られた秩序は、最上位者が安堵し(既成事実として認め)、その秩序の外での武装闘争は認めず成敗する」と謂う組織暴力団頭領の論理であった。近代主権国家の論理の先駆を為すものである。しかし、当然のこととして「人民主権主義」(民主主義)などと謂う混乱したイデオロギーが形成される前のリアリズムの時代である。
民心の安寧、公序良俗の確立のためには、商品経済に依拠した貨幣的奢侈文化とそれに付随する精神が自立していく可能性を潰すと謂うのは、統治者の責任であると考えられたであろう。カネのあるものがカネに飽かせて、美を語り、文化を起こし、特権的な流派的人脈秩序を作っていくことは、下克上の種、乱の始め、と看做さざるを得ないであろう。「祭り事」=「政り事」として祈るように処刑したことは何も違和感の湧くものではない。
秀吉も徳川将軍家も公の祭り事(政治)として、時代の先端を行き、独特の贅沢文化を判り難い形で普及させようとしていた二人の政治的文人を処刑したのであろう。「万世の為に太平を開かんと欲す」(終戦の詔書)から、私的祭事が産み落とされることを禁じたのではないか。其の事によって、他の様々な様式を持った文化要素が、「下克上の種、乱の始め」となることを防いだのであろう。喫茶も(茶道も)、生花も、カルタも、将棋も、囲碁も、難しく秘儀的な要素のある芸事が娯楽へと誘導される道がつけられたのであろう。そうした芸者達が家元、貸元として生産活動に寄生しながら、インサイダーとして生きていく可能性も開かれたのである。

四、なぜ、芸術家は嘘をつくのか
だから、熊倉功夫氏が本当に「われわれにとって守るべきものが見えにくくなっている現代であればこそ、彼らに心ひかれるところが大きい」と謂うのは偽りである。歴史学者であって、茶の湯や寛永文化研究を専門としてきた熊倉氏が利休、織部のことについて、「心ひかれるところが大きい」と謂うのは本当だろうが、現代を見て、「われわれにとって守るべきものが見えなくなっている」時代と看做すのは違和感がある。韜晦しているのであろう。
乱世の終戦に当って、貨幣経済に基礎を置いた民間秘事の新しい「祭り事」的発展は、公序良俗の形成にとって見逃すことの出来ない邪教の出発点だから潰された。それならば現代は乱世が終戦を迎えようとしているのか。それとも、近世、近代、現代と続いた絶対主義権力以来の「主権国家システムによる抑圧的平和」が終わろうとしているのか。そして、平和から乱世が開闢されようとしているのか。
共同体が社会の隅々までも解体され、甘えを基礎とした「他者依存」の結合関係が、家族でも、学校でも、企業でも、私的な金銭貸借関係でも推奨されなくなった社会で個人が自活していくことはほとんど不可能である。そうした微視的な一人ひとりの生活と人と人の間の関係を診ても、「個人の自立」とは、いまや、他者の了解できない抑圧による外はないところまで来てしまっているのである。
他方で巨視的に人類72億人そのものの環境的負荷、72億人間での生活格差、利害対立の深刻さ、取り纏めている組織利害の複雑さ、などのどれをとってもこれ以上の延長を許さないところまできている。砂のようにばらけている個人間の矛盾を調整する「権力の正当性」は失われていて、正当性を擬制するために他の権力などを毀損する戦争の勝利を切実に求めるところまできている。乱世の開闢が必然ではないのか。
だから「我々」と謂う主語を使う限りにおいて、そうした主語は普遍性をもたなくなっている社会・時代だからこそ、「守るべきものが見えなくなっている」のは当然と言わなければならない。
解っていて、このようなことを言うのは体制的インテリの処世ではあるだろうが、これはインテリに限らない。利休、織部のように処刑されて然るべき役割を果たさなければならない「私的祭り事」の創造者を自負してよい人々もまた、処世に汲々としているかに見える。「秩序の破壊」、「世の宝を損なう」ことをきちんとしていないかの如く見える。「創造即破壊」と謂う自覚が弱すぎて、嘘に生きているようにしか見えないところがあるのだ。
抑圧的平和の時代のあとには、どれが公を体現する祭り事になるのかを争う、長い乱世の時代が来る筈である。クリエーターを自称する人間は己を欺瞞することなく、撥ねよ。
以上