ヘーゲルを読む 3-2 欲望と他者の原理(バトラー論2)

高橋一行

3-1より続く

欲望を持つ主体と、他者の根源性という結論を3-1で得ていた。そのことを、さらに検討して行く。
バトラーとラクラウとジジェクの3人の共著を読む1 。これは興味深い本である。三者が、それぞれの問題意識を述べた後で、3回に亘って、相互の批判を展開して行く。つまり、まず、三者が、各人の問題意識に則って、自説を展開し、二回目は、それぞれが他の二者の論を読んだ上で、それを批判し、三回目は、さらに、それぞれが他の二者の二回目のものを読んだ上で、批判するという展開になっている。
ここで、ラクラウについては、省く。取り挙げたいテーマは、一点だけだ。それは、バトラーが、ラカン批判をし、それに対して、ジジェクが、ラカンを擁護した上で、バトラーの立論を、フーコーのそれに近いとして、そのフーコーを批判する。ここは単純に読むと、ラカン=ジジェクvs.フーコー=バトラーであるかのように見えるが、ここで問題となっているのは、彼らのヘーゲル理解である。その点を分析してみたい。つまり、バトラーのヘーゲル理解が浅薄だというのが、ジジェクの言いたいことだ。そのために、ラカンの把握ができなくなっていると言うのである。
3-2は、この、バトラーとジジェクのヘーゲル観、それも、バトラー批判として使えるものだけを扱う。ジジェクについては、バトラーとの比較で取り挙げるだけである。つまり、ジジェクのヘーゲル理解の、積極的評価は、本稿第6章で扱う。
上掲書の、ジジェクの2回目の担当の箇所を読んで行く。
バトラーの理論に対して、ジジェクの批判する第一点は、次のものである。それは、バトラーが、ラカンの原理を、歴史を超えた、超越論的なものだと考えているということである。そしてそれは、バトラーにしてみれば、非難されるべきことである。また、ここですでに、バトラーは、歴史的なものは偶発的なものだが、しかし、ラカンの理論は、普遍的なもので、非歴史的であるという認識が示されている。
さらにラカンの原理は、法の現状維持に寄与するものだと言う。それは権力に抵抗することができない。というのも、バトラーから見れば、ラカンも、その理論化に基づいているジジェクも、権力装置やそれを支えるイデオロギー体系が、如何に自らを再生産させるか、その機構を記述するが、しかし、それに抵抗することは考えていないと批判する。
さて、それに対して、ジジェクは、まず、バトラーの依拠する、フーコーこそ、むしろ、そうではないかと言う。つまり、現状維持の理論ではないかと言うのである。それに対して、ラカンは、主体の介入によって、普遍的な原理そのものを、根源的に変革しようとしているのであると言う。
さて、フーコーのことは、この後で触れたい。ここは、バトラー批判をもう少し展開して置く。
バトラーは、ある文化的文脈から別の文脈への翻訳があって初めて、個々の文化を超えた普遍性が現れると言うが、ジジェクは、個別の文化は、個別の文化だけでは成立せず、それは他の文化と関係する、つまり翻訳があることで、その関係の中に、普遍が宿り、そのことで初めて個別が存在するという、ヘーゲル流の考えを披歴する。つまり、バトラーは、翻訳のない普遍は存在しないと言うが、ジジェクは、そもそも翻訳のない個別は存在しないと言う。
バトラーの言いたいことは、簡単なことで、ヨーロッパという個別的な文化が、普遍を名乗って、他の文化を弾圧している現状に対して、その批判をしているのである。一個の個別が普遍を詐称してはいけないということである。それを防ぐためには、翻訳が重要だと言うのだ。それに対し、ヘーゲルならば、個別に先立って、普遍があり、それが個別を成立させる2。個別はそのアイデンティティを主張する際に、常に、普遍を参照している。つまり、個別が個別だけで存在するというのは、間違いだと言うことだ。
ジジェクの言い分は、バトラーは、ラカンを読み損ねているが、それは、ラカンが、バトラーが考えている以上に、もっとヘーゲルに近いというのだが、しかしこれは、本当は、ラカンを誤解しているというより、ヘーゲルを読み損なっているということだ。あるいは、ヘーゲルこそが、必要だということだ。だから、バトラーの問題を論じるのに、バトラーのヘーゲル理解を問題にしている。そして私はここでは、ジジェクの言い分に、全面的に依拠して、バトラー批判を確認したいと思う。
ジジェクは、個別と普遍の関係、偶然と必然の関係、歴史的規定と本質の関係について、これらすべて、ヘーゲル的な問題について、バトラーの欠点を指摘する。
具体的には、次のようになる。まず、バトラーは、本質と偶然の二項対立に依拠し、本質を重視する立場を批判して、偶然性を称揚する立場を取る。その際に前提となっているのは、ヘーゲルの誤読である。つまり、ヘーゲルにおいては、偶然性は、必然性の見せかけに過ぎず、すべては必然的であると考えられているというものである。この種の、ありがちな誤解から、バトラーも抜け出せていない。
しかしヘーゲルにおいて、偶然は偶然に過ぎない。徹底的に偶然に過ぎないからこそ、それは、必然に転嫁するのである。偶然性を、必然性の仮象、まやかしだと考えてはならない。また、偶然性を称揚しても始まらない。それは偶然性でしかないのだけれども、私の言葉で言えば、それは、統計的に、偶然性の集積の上で、自己組織的に、必然的なものとなる。そのことは、5-3で詳述する。ヘーゲルの「論理学」と『自然哲学』、『精神哲学』の読み込みが必要である。
歴史もまた、その、偶然/必然の観点から、考えねばならない。個々の歴史的事象は偶然の産物であり、そのこと自体を、つまりそのことの偶然性を称揚しても、意味がない。その偶然性を、引っ繰り返して、必然性に変える、ヘーゲルの論理を学ぶべきである。それは、偶然の見せかけを取った必然ではなく、徹底的に偶然的なものでしかないからこそ、必然に転化するのである。
そのダイナミズムが分からないと、単に、偶然性を、また個別性を重視し、また、相対的な偶然性を主張するという意味で、歴史主義を主張するということになり、普遍性を、あっさりと、拒否することになる。そのことは、却って、普遍を問えなくさせており、そのために、普遍が、そのままで温存されるのである。ジジェクのバトラー批判の根源は、彼女の考え方では、権力に抵抗できないし、資本主義とリベラル民主主義という普遍を疑わないということに帰結してしまうということだ。つまり、バトラーこそ、却って、資本主義とリベラル民主主義という本質を固定してしまっている。
重要なのは、本質を批判することだ。
ヨーロッパ文化という個別が普遍を詐称してはならないというのは、その通りだが、問題の本質はそこにはない。個別が成り立つとき、すでに普遍は存在しており、その中でしか、個別は確認されない。問題は、その本質をどう批判するかだ。何度も書くが、個別性を称揚しても始まらない。
個別は、常に、普遍を名乗る。だから個別なのである。ジジェクは、バトラーに、いちゃもんを付けている訳ではないし、私も屁理屈をこねているのではない。この考え方は重要だ。個別が重要だと言うのでは、却って、本質を見ないで、それを固定してしまう。
ここで私は、ジジェクとともに、バトラー批判をすることを目的とせず、彼女の欠点が、ヘーゲル読解の物足りなさから来ていることを指摘し、ジジェクとともに、ヘーゲルの有効性を確認したいと思う。その上で、私のジジェク批判は、6-1と6-2で行う。ジジェクに対しても、物足りなさはあるからだ。
問題は、ヘーゲルの意義である。個別なものにこだわり、偶然性を大事にし、歴史的に規定されていることを意識すれば、それで物事が、つまり、社会の矛盾が解決するかのような、ナイーブさは、批判されねばならない。
欲望を持つ主体と、他者の根源性という結論を3-1で得ていた。しかし、バトラーの原理では、その主体は、抵抗する主体ではあり得なかった。それが、3-1の結論であった。ここでは、さらに、バトラー理論では、普遍に抵抗する、普遍を変革する主体になり得なかったということを書いておく。
しかし、本節の最後に、それにもかかわらず、欲望する主体と他者の根源性という結論は貴重であるということは、再度書いておく。バトラー論を終えるにあたって、補足的に以下のことに触れておく。
バトラーは、2004年に、『生のあやうさ』という本を出す。そこにおいて、傷つきやすさ(vulnerability)という単語がキーワードになる3。この本に収められた論文は、どれも2001年以降に書かれ、そこでは、「テロとの戦争」のような、突然の暴力によって、自己も他者も、喪失の体験を共有している。その上で、自己と他者と関係を再構築したいと言うのである。
私はこれを、情報化社会の所有論=他者論としたい。つまり、自らをできるだけ無力にして(これが、vulnerable)、そのことで、他者を受け入れ、他者との関係を作る。そうして、私もまた他者も、所有物を失っており、しかしその上で、互いに主体化を図る。そういう、主体化論=所有論=他者論を考える。
また、その喪失の体験の中で、他者からの声をどう引き受け、どう、それに呼びかけ、応答し合うかという、自己―他者関係が、問題となる。
実は、これは、本稿の次の章で扱う、レヴィナスの問題である。実際、バトラーの、この本の中には、レヴィナス論もあり、そこでは、レヴィナスの「顔」に着目がなされている。倫理とは、生のあやうさに対する危惧に依存している。それは他者の生の脆弱さの認知から始まる。他者の顔は、その生の脆弱さを伝える形象である。そういう議論がある。欲望論と他者論は、ここにおいて、一層精緻になったと言える。喪失の体験があり、他者へ開かれることが本質的に求められる時代において、バトラーは、レヴィナスに向かった。そして私たちもまた、他者論をさらに追究するためには、バトラー論はここで終わりにして、レヴィナス論に向かうべきだろう。
4へ続く

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1 J.バトラー&E.ラクラウ&S.ジジェク、『偶発性・ヘゲモニー・普遍性 -新しい対抗政治への対話-』青土社2000
2 ジジェク流に言えば、普遍が個別を成立させ、かつ成立させないということになる。肯定的作業と否定的作業が、同時に起きるのが、ヘーゲルの論理であるとされる。このジジェクの、ヘーゲルの読み方については、本稿第6章で扱う。
3 J.バトラー『生のあやうさ -哀悼と暴力の政治学-』以文社2007

(たかはしかずゆき 哲学者)
(pubspace-x871,2014.05.11)