資本主義を越える原理とは何か -加速主義について(哲学篇)-

高橋一行

   
   資本主義を何とか超えて次の社会に進みたいと思っても、これは越えられないのではないかという思いがある。加速主義とはその思いそのものを声高に叫ぶだけの主義主張であるのではないか。一方で哲学的な思潮として、同時期に思弁的実在論と呼ばれる考え方が出て来る。これはカントによって作られた近代的な枠組みを何とかして超えたいのだが、それが際立って困難であるという自覚のもと、様々な工夫を凝らしているように思われる。そして実際、両者は同じものの実践的側面と理論的側面として表裏をなしている。つまり資本主義と哲学の近代的な枠組みは、私たちが越えることができない、ひとつの、そして最大の困難であって、どうそれに対処すべきかということを巡ってなされた試みの二側面が加速主義であり、思弁的実在論なのである。
   実際、加速主義者と思弁的実在論者は互いに影響関係にある。ここでは「政治篇」で参照した木澤佐登志を再び使う。彼によれば、先に挙げたN.ランドはカントによって近代の啓蒙が完成したと考える。カントは他者をその他者性を抜き取って、自己の内部に取り込むというプログラムを作ったのである。それはまさに資本主義のプログラムそのものであり、それを内在的に克服する、つまり資本主義に内在する自己運動で近代を覆すことをランドは目論む。そしてカントを克服するために、G.ドゥルーズに近付く(木澤 第4章)。
   さらに浅沼光樹によれば、ランドがI.H.グラントに示唆を与え、それがQ.メイヤスーによって積み上げられたものが、思弁的実在論である。さらにそれがR.ブラシエによって、飛躍させられたものという見取り図が示される(浅沼)(注1)。
   千葉雅也はもう少し屈折した言い方をする。思弁的実在論は、加速主義という社会的応用がどのように可能かということを巡って展開されている。それは倒錯した欲望だ。それは超越論哲学を攻撃し、自ら新たな超越論哲学になる。それは超越論哲学の自殺であり、同時に生き延びることでもある。それはまた超越論哲学の剥き出しの生だとも言う。いやそもそも思弁的実在論によって照射されるものは哲学の剥き出しの生である(千葉2018)。
   それは相関主義の外部を問うことである。千葉の考えでは、まさしくラカンの現実界が相関主義の外にある。このことについては、かねてから私もそう考えて来ており、以下に扱う予定である。
   
   メイヤスーから考えて行く(注2)。彼の提唱する思弁的実在論(本人の言葉では、思弁的唯物論)は、現代哲学が思考と存在の相関のみを問題にする相関主義に陥っていることを批判して、その相関の向こうに何かしらの物質が実在することを主張する。その相関主義とは、メイヤスー自身の言い方では、私たちは思惟と存在の相関関係にしか接近できず、切り離して捉えられたこれらの項のひとつに決して接近することはできないというものであり、さらにはそのような相関の乗り越え不可能な性格を認める傾向全般を指す(メイヤスー p.15f.)。
   この相関主義には弱い相関主義と強い相関主義と二種ある。前者はカント哲学を指し、後者の哲学の代表はヴィトゲンシュタインとハイデガーの哲学である。
   カントは、物自体は認識不可能であるとした。認識できるのは、その物自体に触発されて主観の形式の中でまとめ上げられた現象のみである。ここに相関主義が始まる。しかし物自体は認識できなくても、思考することは可能であり、従ってその存在は確実である。するとカント哲学は、思考から絶対者への関係を完全に禁じている訳ではない。これが弱い相関主義である。
   彼はカントにこだわる。主観が構成する現象の世界しか認識できないと言いつつ、その向こうに物自体を設定する。カントの相関主義にとって、物自体は強力な影響力をその相関に及ぼすものとして想定されている。ただそれは思考できないとされているのである。メイヤスーの相関主義批判はいつもカントに帰って来る。問題はカントを反復する。
   これが強い相関主義になると、このカントの物自体は認識できないばかりでなく、思考もできないとされる。さらにその物自体をすっかり除去してしまい、現象という主観が構築する限りでの客観を扱う。つまり主客の相関のみを残す。
   ここでハイデガーとヴィトゲンシュタインについての短いコメントがある(同 p.74f.)。この世界は思考された限りのものである。しかし思考不可能なものが存在することが不可能なのか。メイヤスーはヴィトゲンシュタインの「表現し得ないものは存在する。それは神秘である」という言葉と、ハイデガーの「存在者が存在することは驚異である」という考えとを参照し、思考不可能なものが不可能であるということは思考不可能であるというテーゼを示す(同 p.73)。そして相関主義が思考と存在の相関を根本と考えるために、思考不可能なものの存在について、それを認めつつも、そのことを思考できなくなってしまったと、相関主義の限界を示唆するのである。
   さらにその祖先以前の世界は際立って偶然的なものであり、その中で人間の出現もまた偶然的なものであるとメイヤスーは考える。世界は別様であり得たというのが、メイヤスーの結論になる。つまり世界は人間が出現しないという可能性があった。それでもこの世界に事物は存在するはずだ。しかし相関主義ではこのことは思考できない。私たちが存在しなかったかもしれないということは、相関主義では思考できないのである(同 p.99)。
   さてしかし、人類が出現する以前の自然は想定されるべきである。つまり人間がこの地球上に出現したのはたかだか数百万年前のことであり、それ以前の現実について何かしらの解釈が可能である。メイヤスーはそれを「祖先以前的」と言う。すると相関主義においては、この祖先以前的な言明にどのような解釈が与えられるべきかという問いが生じる。つまり相関主義はそれ自身永遠的で、かつそれ以外の思考はできない。相関主義者は、相関主義に忠実ならば、祖先以前的言明は幻想であると言うしかなくなるはずである。相関主義者は、自然科学者が宇宙の歴史や生物の進化に対して積み上げて来た言説は、その言説通りには起こり得なかったと言うしかない。
   ここからメイヤスーは、この相関主義を超えて、大いなる外部を取り戻そうとする。ポイントは、この相関主義をまずは一旦肯定し、しかしそれを超えたところに、「祖先以前的」な自然を見出すことにある。相関の循環に入り込んだ上で、それを突破し、相関の外へ出る。そして人類が生まれる前から自然が実在したことを確認する。
   それは素朴実在論を信奉する自然科学者たちがやって来たことと変わらないように見えるのだが、メイヤスーは相関主義の果てに実在論を認める。
   ここでメイヤスーは思弁的という言葉の定義をする。それは絶対的なものに接近できるとする思考のことである。するとそれは独断論に陥ると思われるかもしれない。しかしあらゆる絶対的なものが独断的なものである訳ではない。近代哲学は、独断的形而上学の終焉を説くことによって、あらゆる絶対的なものを否定してしまった。とすると、その反省として、そこから新たな絶対論的な思考を蘇らせねばならない。ゆえに自らの立場を思弁的実在論とするのである。
   メイヤスーの主張の意義は、人間がいない自然、つまり人間が生まれる前の自然について、考察することを可能にしてくれるということにある。自然科学上の知見だけがそこに迫れるというものではない。それは哲学の課題とすべきである。つまり自然科学者は、現代哲学と無縁なところで、素朴実在論の考えに基づいて、宇宙の歴史や進化論を研究して来た。それを尊重し、哲学者もその問題に取り組むべきである。
   
   さて私見によれば、カントの相関主義はヘーゲルによって克服される(注3)。このカントからヘーゲルへの移行が、私がこの数年関わってきた最も重要なテーマである。カントは物自体を存在論的に扱わず、認識できないものとしたが、しかしそのことによってカントはこの存在を前提した。しかし重要なのは、ここでジジェクを参照して簡潔に言えば、それは以下のようになる。つまり、そのカント的な存在論の残余を破壊すること、カントにおいて物自体=現実界は実体化されているが、それを徹底的に脱実体化することにある。これを成し遂げたのがヘーゲルである(ガブリエル=ジジェク2015)。
   実際にヘーゲルは次のように書いている。「(カントの)物自体はただ彼岸として規定するしかない抽象物、まったく空虚な物であり、あらゆる表象、あらゆる感情、あらゆる特定の思想の否定である。しかしこの蒸留の残滓自身が思惟の産物であることもまた明白である。・・・それは自己自らの空虚な同一性を対象とする空虚な自我の産物である」(『小論理学』44節)。物自体は思惟が作り出したものだ。しかしジジェクに言わせれば、それが実在するのである。ポイントはこの否定的な物が実在するということである。ここでは、物自体は脱実体化され、そういうあり方として実在するとだけ言っておく。
   またここから分かるのは、ヘーゲルとジジェクは、現象世界と物自体がふたつの別の世界であるという考え方を採っているということになる。つまりカントは物自体と現象は、ひとつの世界の二側面であるという考え方と、それらはふたつの別々の世界であるという考え方と、両方の解釈を許す曖昧なところがあるのに対し、ヘーゲルは、このカントの後者の側面を徹底したのだが、それがジジェクに言わせると、それこそが実在論なのである。理論的な構成物が、つまり理論的な残滓が実在する。
   カントは有限なものの対立に意識的に留まる。そしてそのことによって、その向こうに無限なものがあることを示唆する。そこには決して到達できないとしつつも、その存在は認め、かつそれを絶対化する。
   ヘーゲルは一般には、その有限な対立を止揚し、現象と物自体の二元論を統一したとされているが、それはどうか。有限な対立が、そのままで、実はその中に無限が胚胎していることを指摘する。それを反省的に措定することで、すでに私たちは無限に達している。いや、このように言うべきかもしれない。無限はすでに有限の運動の内にあり、決して超越論的なものではないと。
   カントは物自体は認識できないとして、その存在を前提に、認識の問題を解明した。問題は、そのことによって、物自体の存在を確定し、それを神格化してしまったことにある。本当は、カントの物自体は、それを認識論的に問うのではなく、存在論的に問わねばならないのである。それはカント以降しばしばなされるように、物自体をあっさり捨ててしまって、カントの認識論だけを評価するということではなく、物自体の存在論的な資格を論じるということでなくてはならない。そのことによって、物自体を脱存在化し、脱神格化する。それがヘーゲルのやったことである。
   さらにジジェクはまたその同じ本の中で、次の様にも言っている。ジジェクは『純粋理性批判』の第二版の序文を使う(ガブリエル=ジジェク第3章)。
   我々が認識できるのは物自体としての対象ではなく、感性的直観の対象としての物、換言すれば現象としてのものだけである。するとこのことからおよそ理性の可能的な思弁的認識は、すべての経験の対象のみに限られるという結論が当然生じて来る。ところで、これは十分注意しなければならないことであるのだが、我々はこの同じ対象を、たとえ物自体として認識(erkennen)できないにせよ、少なくともこれを物自体として考える(denken)ことができねばならないという考え方は依然として留保されている。さもないと、現象として現象して来る当のもの(物自体)が存在しないのに、現象が存在するという不合理な命題が生じて来るからである」(B XXVI)。
   ジジェクはこの箇所について、ここはもうほとんどヘーゲル/ラカン的であると言っている。本質=物自体=超感性的なものは、現象としての現象に他ならないが、まさしくその中で何物も現象しない現象であり、それは無が現象する現象なのである。この時点ですでにカントはヘーゲル的なのである。
   
   今回、明確に書いておきたいことがある。先に書いたように、千葉は、相関の外というのはラカンの言う現実界のことであるとし、それを説明しようとする。私はこのことを先の、カントからヘーゲルへの流れの中で位置付けてみたいと思う。
   ここでもジジェクに依拠する。ジジェクは前中期ラカンから後期ラカンへの移行はカントからヘーゲルへの移行であると言う(ジジェク2004 p.200f.)。ここは説明が要る。
   ラカンの「現実的なもの」は、フロイトの「物」をカントの「物自体」に結び付けて、「象徴的なもの」への統合に永遠に抗う、トラウマに満ちたある種の核心であるとジジェクは説明する。これは正しい。そしてこの限りでは、ラカンは極めてカント的であると言うことができる。つまり現実界=物自体とはそもそも、象徴界=悟性では統御できない世界のことなのである。
   しかし晩年のラカン(1981年に亡くなるまでの15年間くらい)は、こうしたカント的地平を克服しようとした。そして欲動概念をもう一度生々しいものにしようとした。欲動はこの「現実的なもの」の内在的な迂回、ないしは位相論的なねじれとして機能する。かくして、前中期ラカンから後期ラカンへの移行はカントからヘーゲルへの移行である。つまり、現実界=物自体を措定することで、経験の地平としての象徴界=悟性を確保する立場から、現実界=物自体を重視し、それを私たちを飲み込んでしまう深淵とするのである。ジジェクの主張は以上である。そして私はそのことに完全に同意する。晩年のラカンの試みは、ヘーゲルがカントの物自体を、「蒸留の残滓」とみなし、その意義を確認したことと同様に考えることができる。
   そしてさらに言えば、実はカント自身が晩年、それ以前のカントを克服しようと努力したのである。それは上述のラカンの試みと平行的である。だから正確に言えば、前中期ラカンから晩年のラカンへの移行は体系期カントから晩年のカントへの移行であるということになる。そのことが第二に指摘すべきことである。このことは以下に説明される(注4)。
   私は、カントの『判断力批判』の後半での議論において、そこでは物自体が超感性的なものとして捉え直され、それが反省的判断力によって規定されていると考えている。それは超越論的なものと見なされるのではなく、目的論的に捉えられているのである。そこでは自然の客観的合目的性の論理的把握がなされ、そこで完全にその神秘性は剥奪されている。そしてその仕事がカント構想力に託されている。しかもそれが無自覚に働いている知性の存在を顕在化するというやり方でなされる(佐藤康邦2005)。そのようにカントを、ヘーゲルに近付けて読むことが可能であると考えている。
   この『判断力批判』をどう位置付けるか。第一批判は、確かに物自体を認識できないものとして想定することによって、その存在は揺るぎないものになってしまった。ヘーゲルは、物自体を認識できるとしたのではなく、それはむしろ現象の作り出したものだと持って行く。そしてそれはジジェクの表現を使えば、無なのである。それに対して、カント第三批判は、構想力概念を充実させることによって、この物自体を規定できるとした。その点で、カントは一段とヘーゲルに近付いたことになる。
   一応次のように言うことはできる。カントは第一批判において、物自体と現象の二元論を展開し、第三批判では、これを一元論に近付けた。しかし一元論にはなっていない。カントは物自体を現象の現象として、脱神格化することはできなかったし、のちに述べるようにその目的論的な理解も徹底できなかった。
   カントは、どうしたって現象を超えた世界の重要性について語りたい。それは構想力にしかできないということになる。ヘーゲルにおいては、そういう世界は、有限の、現象の世界にある。いや、そこにしかないという話だ。
   第三批判を単に趣味判断の書、美学の書として読むのではなく、目的論の側面を念頭において、第三批判の内にある形而上学的・存在論的問題を扱う。それが超感性的なものを扱うということの意味だ。
   それは自由の実現可能性の問題でもある。超感性的なものは、理論的には超越的で、実践的にしか内在化され得ないとされたのだが、『判断力批判』において、第二批判で論じられる自由概念が第一批判で扱われる自然概念に影響を及ぼし得ると考える。そこでは感性的な認識から超感性的な認識へと進展がなされ、それによって、自然と自由との裂け目が埋められる。それが『判断力批判』のなし得たことである(濱野喬士を参照した)。そしてそれは、美感的判断力の批判と目的論的判断力の批判、つまり反省の主観的な面に定位した合目的性と、反省の客観的な面に定位した合目的性という区分に対応して、それぞれが吟味され、この両方を見ることによってなされる。それによって、超感性的なものが規定されるのである。
   多くの論者はこういう読み方の対極にある。彼らに共通するのは、『判断力批判』を前半部しか評価せず、後半部の目的論的な議論を拒否することである。それは同時にヘーゲルを徹底的に拒否することでもある。しかし目的論とは、このあとで詳述するが、自然を神学的に基礎付けられたものと見るのでもなければ、自然そのものに顕在化した秩序を見出すものでもない。それは自然を徹底的に偶然なものと見なし、その偶然性に依拠する考え方である。再びジジェクの言い方に従えば、目的論が見出すものは無である。
   目的論は自然がどのように精神を産み出すのかということを説明する。カントが『判断力批判』で取り組みたかったのはそういうことであったし、ヘーゲルが『エンチュクロペディー』で説明し得たのもそのことだ。しかしカントは目的論を示唆しただけで終わった。
   
   以上はすでに書いたことを再録するに留める。今回、ラカンの前中期から後期への流れはカントからヘーゲルへの流れと等しいということを、ジジェクを参照しつつ、あらためて確認する。つまりやはりラカン=ヘーゲルなのである。そしてさらに次のことを付け加える。つまりその流れはすでに晩年のカントが用意していたということで、これもすでに書いているのだけれども、あらためてこの思弁的実在論=加速主義批判の中で書いておきたい。そして本章ではこのあとヒューム論を展開する。これは初めての試みだ。
   
   メイヤスーは言う。「(存在するものが必然的であるとする理由を持っていないという)非理由を私たちの不十分な世界把握として捉えるのはやめて、非理由をこの世界自体の真なる内容にしなければならないのだ。私たちは非理由を事物それ自体の中へ投影し、事実性についての私たちの把握の中に、絶対的なものの真なる知的直観を発見せねばならない(メイヤスー p.137f.)。
   これはどういうことか。メイヤスーはカント批判をして、ヒュームに行き着く。ここは丁寧に見て行かねばならない。ヒュームは、偶然が客観的に実在するとは言っておらず、単に人間の認識能力では必然は認識できず、必然だと思われているものは単に習慣に過ぎないと言っている。このことはヒュームに即して解読できる。『人間本性論』において、私たちが原因から結果へと推理を行えるのは、経験によるのであり、ある事象と他の事象が隣接、継起するのを私たちが覚えているからであり、過去のすべての事例において恒常的に随伴するのを記憶しているからである(ヒューム 第1巻第3部第6節)。つまりヒュームは客観的な世界がどうなっているかということについては全く言及しない。ただ単に、世界が必然的であるということ、つまり自然に斉一性があることを証明することはできないと言う。しかしメイヤスーは、人間の認識能力の問題で、世界は偶然的であるとしか認識できない、世界の必然性だと私たちが思っているものは単に習慣に過ぎないというヒュームの主張を、客観的に偶然が実在するという風に持って行ってしまう。それをどう考えるか。
   加藤尚武は、結局ヒュームは偶然性を基礎付けていないと言う。ヒュームは客観的な世界についてはニュートン力学の影響を受けて、決定論的な見方をし、そこに不可知論を持ち込んだに過ぎないからだ。しかしヒュームによって偶然性を基礎付けたいと考えるならば、メイヤスーがやったように、拡大解釈をして、客観的に偶然性が実在すると言うしかない(注5)。
   もちろんメイヤスーはヒュームを正しく理解している。「確かにヒュームは彼の時代の自然学が持つ決定論的な枠組みの中で問題を提起した。けれどもそうした問題は、実のところ、確率論的なものであり得る自然法則の本性とは関係ない」(同 p.144)。「しかしヒューム自身も、因果的必然性について実際には疑いを抱いていないのだ。ヒュームは単に推論を通じて因果性を証明する私たちの能力を懐疑しているだけである」(同 p.150)。
   
   ここでドゥルーズのヒューム理解と比較するのは有益だろう。千葉雅也によれば、若きドゥルーズは、ヒュームに与することによって、カント的でない仕方で哲学を再開したいと考えた(千葉2013 p.86)。それで相関主義的でないやり方で、つまり事物を主体との総合された現象としてではなく、事物を主体から解放して、事物の現前を問うのである。
   千葉はドゥルーズの初期の著作『経験論と主体性』を分析し、そこに如何にドゥルーズがカント批判をし、ヒュームに依拠したのかということを読み解いている。カントの超越論、ないしはメイヤスーの言葉で言えば相関主義において、現象同士のあらゆる関係は、事物を現象として総合している、その総合に内属している。つまり主体の側の総合の能力が事物を現象させる。それに対してヒュームは、関係に依存しない事物それ自体を見ようとする。ドゥルーズはそこに着目する。
   ここでは、つまりドゥルーズにおいては、カントを批判するのに、非カント的なヒュームに戻ってカントを批判しようとしたのだとまとめることができる。しかしメイヤスーは、カントを批判するのに、カントの相関主義に即して、主観の側が世界を偶然だと捉えるのなら、それは客観的にもそうであるはずだと見做すのである。つまり相関主義に即して、世界を必然的であると考える相関主義を批判するのである。
   メイヤスーはかくして、ヒュームの真意に反して、偶然性の実在を主張する。そしてここでメイヤスーが考えているのは、思考と存在の一致というまさにヘーゲル哲学そのものである。主観が世界を偶然的であると捉えるのなら、それは世界が偶然的であるからなのだと、反転されたヘーゲルの主張に行き着くのである。
   メイヤスーはカントの相関主義を内在的に批判しなければならないから、単に相関の外に事物が現れて来るという、ドゥルーズの理解したヒューム理論では不十分であるとして、相関の外に絶対的な偶然性が実在するとしなければならなかったのである。
   
   メイヤスーの試みは正しいものだと私は思う。ただそれをヒュームに基づいて敢行しようというところに引っかかるだけの話だ。今まで何度も言ってきたが、それはまさにヘーゲルが試みたものだからだ。ヘーゲルはまず偶然の実在を示し、それが確率的な必然のもとにあること、かつさらには自己組織性の原理に従って、統計的な必然性になり得ることを示したのであり、つまりヘーゲルこそが偶然性の基礎付けをしたのである。
   
   メイヤスーは、人類が消滅したあとのことにも触れている。ではブラシエとどう異なるのか。ここでブラシエの絶滅論を取り挙げる(注6)。メイヤスーの、人間が出現する以前を、つまり祖先以前を問うことで相関主義を超えようという考えでは、相関主義を批判し切れていない。もっと根本的にそれを批判しなければならないというのが、彼の理論である。
   そこでブラシエは、太陽の絶滅に言及する(ブラシエ)。絶滅とは、「ある生物種の殲滅として理解されるものではなく、意識であれ、現存在であれ、ある相関関係が生じる場としての特権を人間から剥ぎ取ってしまうような、すなわち人間に授けられていた超越を平らにするようなものとして理解されなければならない。かくして、もしも太陽の絶滅が破局的であるのは、それは絶滅が相関関係の分節を解くものであるからなのだ」(同 P.68)と彼は言う。
   太陽の死は精神の死に他ならない。そして精神は精神の死を、すなわち思考の死をどう思考するのか。
   メイヤスーの「祖先以前」理論では相関主義を批判するのに十分ではない。「人類に先立つ先行性は、あまりにたやすく我々にとっての先行性へと変更されてしまう」(同p.73)とブラシエは言う。つまり祖先以前を考えるのは私たちであり、私たちにとっての先行性の意義は何かということを、私たちが考えるのである。そこに私たち、認識能力を持った精神の存在は前提されている。しかし絶滅は「私たちにとって」という思考など完全に破壊してしまうほど強烈なインパクトを持っている。
   例えば、ハイデガーはその死に対する思索を積み重ねて来たことで知られているが、ここで言われていることは、そのような考察ではない。太陽の死は、人間の死に随伴する実存的な可能性を導くものではない。またヘーゲルも死を「哲学的思弁の原動力として機能させて来た」が、そのモデルとも異なるとブラシエは言う。「太陽の絶滅は哲学的思考に養分を与えて来た死に対する関係を無効にしてしまう」(同p.68f.)。
   ハイデガーやヘーゲルは、死を考察することで、そこに精神の根拠があること、そこから精神が出現して来たことを論じている。そこにおいて、死は精神性を補強する。人間が精神を持っているという事実を死が特権化するのである。
   さらに生物種としてのヒトの絶滅では、また時間が経てば、この地球上に人が出現する可能性が残されているかもしれない。汎心論や生気論的に考えれば、人間の出現は必然的だから、一旦滅びてもまた復活するのかもしれない。あるいは私のように、自己組織性の法則とあとは偶然だけが自然を支配していると考えても、再び人類が発生する可能性は残されている。ごくわずかな可能性に過ぎないものであっても。しかし太陽の絶滅は、そういった可能性をすべて吹き飛ばすのである。
   ブラシエはニーチェに導かれつつ、太陽の死ののちにはいかなる思考も残されていないという結論に辿り着く。ニーチェは『権力への意志』において、ニヒリズムを次のように説明する。「生成は何も目的とせず、何ものにも到達することはない。・・・これがニヒリズムの原因としての生成の目的に関する幻滅である」(ニーチェ 第一章12A節)。生物が発生してから、私たち人類が絶滅するまでの間に、そもそも何も起きていないとニーチェは考える。人間が発生する前と死滅したあとに広がる永遠の時の流れの感覚がニーチェにはあり、それこそがニヒリズムの根源である。
   しかしニーチェの目的はこのニヒリズムを克服することである。それはこのニヒリズムを肯定することによってである。ではブラシエはどうなのか。まずひとつ言えるのは、絶滅に言及するのは相関主義を批判するための戦略だということである。そして第二に、ニーチェとともに、ブラシエはこの絶滅を肯定するだろうということも言えるだろう。相関主義を超えたところで、つまり人間が絶滅したあとにそこに存在するものを、また人間が出現する以前のこの宇宙の存在を肯定する。そして人間が束の間この世に出現し、やがて絶滅して行くということも肯定する。
   すべて生成するものはいずれ消滅する。それだけの話なのだと私は思う。存在するものは、すべて消滅の方向に向かっているからこそ、その中で部分的、一時的に秩序が生まれ、それが維持される。
   すべて存在するものは、それが出現する以前は存在せず、それが滅びたのちにもまた存在しない。それだけの話だ。人間だけがその例外になる訳ではない。
   
   サッカーは、ブラシエの「哲学は絶滅のオルガノン」という言葉を引用しながら、自説を展開する(サッカー)。ブラシエは、「哲学は肯定の手段でも、正当化の根拠でもなく、むしろ絶滅のオルガノンである」と言った(ブラシエ p.74)。これを受けて、サッカーはさらに考察を進める。哲学は絶滅を思考できる。それは自己否定によってである。
   サッカーはブラシエを補強する。しかしブラシエはニーチェに倣って、すべてを肯定したが、サッカーは自己否定という観点を出す限りで、どうもニーチェ的と言うより、ヘーゲル的なのではないか。
   メイヤスーは相関主義では祖先以前が問えないと相関主義を批判しつつも、私たちは相関主義を超えられないとし、それをどう内在的に超えるかということを問うた。しかしそれは具体性に欠けると思う。ブラシエは、絶滅の観点を提出することで、これは相関主義を完全に超えているとしている。メイヤスーの祖先以前では、まだまだ相関主義批判としては不十分だというのがブラシエの言い分であった。
   重要なのはニーチェのニヒリズムを克服するという観点をブラシエが援用していることだ。これは相関主義を超えて、そこに存在するものをすべて認めよということである。
   サッカーはそれを受けて、哲学が自己否定をすることで、絶滅を思考し得るとしている。両者の位相は異なる。
   絶滅は経験可能なものではない。サッカーは言う。「経験的でもなければ、経験に即したものでもない絶滅が思考され得るのは、思考自身の否定においてのみである」(サッカーp.88)。さらには次のようにも言う。「哲学が思考できないもの、あるいは思考しようとしないもの、それはこのような仕方で、つまり世界に内在的に関わりつつ、しかし世界とは超越論的に引き離されて、哲学が思考することを可能にする基盤である。言い換えれば、絶滅は思考の地平を指示するのである。なぜなら哲学が絶滅の思考をすら思考することを可能にするような「哲学的決定」があるからである」(同)。
   ブラシエもサッカーも哲学は絶滅を思考し得ると考えているが、その場合の哲学とは、相関主義ではない。彼らはとうに相関主義を捨てている。
   しかし次のように考えれば、相関主義の内側から絶滅を考えることができるのではないか。つまり、あくまで人間の思考が人間の絶滅を唱えるのである。絶滅は人間の特権をすべて奪い去るのだけれども、限定的にその特権を認める。つまり特権的な人間の思考が絶滅を考えている。そして繰り返すが、私たちはすでに思考する能力である精神を持って存在している。
   だが人間の出現は必然的で、私たちは必然的に思考する存在となり得たのだという考えはあり得る。そう主張する場合もあるし、むしろそう主張する人の方が多いだろう。その点で、人間が絶滅した後の世界を考えるのならば、私たちの存在は徹底的に偶然的なものとなり得る。だからそこから考えて、人間の出現もその絶滅も、徹底的に偶然性に依拠するものだと考えるべきなのである。そのことが絶滅を考えることではっきりする。しかし基本的に、そこさえはっきりさせるのなら、メイヤスーの祖先以前性の主張とブラシエの絶滅の主張は変わらない。すでに前回までに書いたメイヤスー批判と同じものを、ここにブラシエ批判として繰り返すことができるのである。つまり偶然人間はこの地球上に出現し、束の間、精神を持って存在している。その精神が自然を認識する。それは思考と対象との相互作用を通じて、つまり相関の内部で認識という行為を行っている。私たちは相関主義の内部にいて、そしてそこからその相関を超えたもの、つまり祖先以前や絶滅を認識する。
   
   カントの相関主義を超えるのに、ドゥルーズとメイヤスーはヒュームに戻り、私はジジェクに示唆されて、それはヘーゲルの方がより良く克服できると考える。またこのヘーゲルへの道は、晩年のカントが試みたものである。これが哲学史を使った説明である。
   さて加速主義者は資本主義から抜け出したいと考える。どうするのか。資本主義を超えるものは資本主義の中にあると言うのは正しい。資本主義内部の動きこそが資本主義を超えて行く。しかしそれは資本主義の外にあるものをユートピアとして理想化し、それに向けて進むというものではない。今の資本主義の動きの中の弊害を取り除くべく努力すること。それが資本主義を変えて行く。そういう努力によってのみ、資本主義は克服され得る。
   相関の向こうに偶然が絶対的に実在するというメイヤスーの主張では、資本主義の向こうに何かが存在するにしても、それは偶然の世界であって、そこに主体がどう関わるかということが出て来ない。ランドに影響を受けてメイヤスーが自説を展開したのだとすると、資本主義を超えようという加速主義に感化されて、超えられないと思われていた相関主義が越えられるのだとしたところに、メイヤスーの意義がある。しかしそれだけのことだ。
   ブラシエとサッカーのニヒリズムこそ、加速主義のものだ。資本主義の向こうには人間の絶滅がある。資本主義はそこに向かって、ひたすら突っ走る。そこが加速主義の主張の根本なのではあるまいか。つまり資本主義の向こうには絶滅しかない。
   しかし私は前回書いたように、メイソンに倣って、すでに資本主義が次の社会に向かっている傾向を主体が促進できると考え、さらにジジェクに倣って、その次の社会はユートピアとしてあるのではなく、今の資本主義の暴走を食い止める、この運動の中にあるのだと考えたい。
   現象の運動が物自体を作りだす。物自体とはそういうものだ。物自体は現象を超えたものだが、しかしそれこそ現象が作り出すのである。そしてそれこそが実在する。
   つまり資本主義の中の運動の中に、資本主義を超える観点が出て来る。そこを強調して、資本主義を超えることができる。それは資本主義を超えたものだが、しかし資本主義の運動が作り出す。
   晩年のカントは、批判期カントが作り出した概念である物自体に迫ろうとした。しかし迫り得なかった。それを成し遂げたのはヘーゲルである。物自体は現象の運動の滓なのである。しかしそれでいて、物自体は現象を基礎付ける。同様に、資本主義の向こうに共産主義があるとして、それはユートピアではない。それは資本主義の運動の中にあり、かつ資本主義を超えるものであり、かつ資本主義を基礎付けるものである。
   資本主義は内在的に越えられる。それは内在的にしか超えられない。
   

1 思弁的実在論者として、グラント、メイヤスー、ブラシエ、G.ハーマンの4人が知られている。ハーマンについては、以前「病の精神哲学 8」で扱った。グラントを論じるには、私はまだ準備不足である。この章ではこれも以前扱ったメイヤスーとブラシエのみを参照する。
2 「病の精神哲学 5」と「同 8」で扱ったものを再掲した。
3 「病の精神哲学 4」で扱ったものを再掲した。
4 「病の精神哲学 4」で扱ったものを再掲した。また「病の精神哲学 3」でも詳述した。
5 千葉は、メイヤスーはヒュームを誤読していると言うが(千葉2013 p.104)、以下に述べるように、メイヤスーはそのことを意識している。
6 「病の精神哲学 9」で扱ったものを再掲した。
   
参考文献
浅沼光樹「加速主義から思弁的実在論へ – ブラシエとグラント -」『現代思想』2019-6
ブラシエ, R., 「絶滅の真理」星野太訳、『現代思想』2015-9
千葉雅也『動きすぎてはいけない - ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学 -』河出書房新社、2013
—–   「ラディカルな有限性 – 思弁的実在論の10年とその後 -」『現代思想』2018-1
ドゥルーズ, G., 『経験論と主体性 - ヒュームにおける人間的自然についての試論 -』木田元他訳、河出書房新社、2000
ガブリエル, M.=ジジェク, S. 『神話・狂気・哄笑 -ドイツ観念論における主体性-』大河内泰樹他監訳、堀之内出版、2015
濱野喬士『カント『判断力批判』研究』作品社、2014
ヘーゲル, G.W.F.,『小論理学』(上)(下) 松村一人訳、岩波書店、1951
ヒューム, D.,『人間本性論 第1巻』木曾好能訳、法政大学出版局、2019
加藤尚武「確率論の哲学」『加藤尚武著作集4』未来社、2018
カント、I., 『純粋理性批判』(上)(下) 篠田英雄訳、岩波書店、1961
—– 『判断力批判』(上)(下) 篠田英雄訳、岩波書店、1964
木澤佐登志『ニック・ランドと新反動主義 - 世界を覆う<ダーク>な思想 -』星海社、2019
メイヤスー, Q., 『有限性の後で -偶然性の必然性についての試論-』千葉雅也他訳、人文書院、2016
ニーチェ, F., 『権力への意志(上) ニーチェ全集11』原佑訳、理想社、1980
サッカー, E., 「絶滅と存在についての覚え書き」島田貴史訳、『現代思想』2015-9
佐藤康邦『カント『判断力批判』と現代 - 目的論の新たな可能性を求めて -』岩波書店、2005
ジジェク, S. 『身体なき器官』長原豊訳、河出書房新社、2004
   
(たかはしかずゆき 哲学者)
   
(pubspace-x7075,2019.09.18)