ヘーゲルを読む 2-2 知的所有論を展開する

(『精神現象学』読解2)

 

高橋一行

2-1より続く

前回は、「自己意識」の前半部分を見たが、今回は、その後半を見て行く。結論を先に書けば、そこでは、先に私が、第4の原理と呼んだものが展開されているのだが、その前に、再度、『精神現象学』を最初から順に見て行く。
「意識」の3つの章において、意識は、対象の進展に合わせて、感覚的確信、知覚、悟性と進展して行く。これが、意識経験学の進展である。この最後の段階の、悟性の対象は内なるものである。ここで、ヘーゲルは、内なるものは無限性であり、ここで、意識と対象の同一性が確立されると言う。というのは、悟性は、最初は、対象を、現象と内なるものとの二重化において捉えるが、内なるものが現象世界の原理を取り戻すことによって、内なるものは無限性となる。順番から言えば、まず、内なるものが無限性になり、無限性は、自己同一的な統一で、そしてそれは、ヘーゲルのキーワードであるのだが、自己関係性を持つものなのである。そして対象が自己関係的構造を備えているために、意識の方も対象意識ではなく、自己意識となる。つまり、ここで、一旦、自己意識が成立している。
その上で、ヘーゲルは、このメカニズムをもう一度点検して行く。まず、自己意識は、対象意識のすべての経験の成果として、生じている。つまり、黒崎剛の言葉で言えば、自己意識は、「意識経験学」の最後の段階として、成立している。そしてそこから、ヘーゲルは、この自己意識は、欲望であると言う。というのも、ここで意識は自己意識であり、自己意識というのは、普通は、自己を意識する意識のことだが、ヘーゲルは、そうではなく、対象を自己であると意識する意識のことである。つまり対象を自己に同化する意識のことであり、この能動性を欲望という言葉でヘーゲルは表す。そしてこの欲望としての自己意識の対象となるものもまた、無限性の構造を持つものでなければならず、これを生命とヘーゲルは言う。これは必ずしも、生物のことではなく、生物も含め、さらには、自然すべてだと言って良い。
そこからさらに、ヘーゲルは、自己意識が、対象を自己に同化しようとするだけでなく、対象もまた自己意識なので、その対象が自らを否定して、意識の側の自己意識に同化しようとすると持って行く。この自己否定ができるのは、対象が他の自己意識であるからに他ならない。
かくして、自己意識が、対象となる。ここまでが、「意識経験学」である。そしてここから、自己意識同士の相互承認論が始まるのである。
さて、それで、前回2-1の内容になる。つまり、相互承認論には、4つの原理があり、その最後のふたつが、一番、説得力があるというのが、結論であった。
前回、次のように書いた。相互承認と労働という、別の原理を融合させるために、生死を賭けた戦いと隷属の原理のふたつが必要になった。というのも、相互承認で、主体化が完成すれば、そこに労働は要らないということになる。しかし、労働という概念は、必要だ。それで、ふたつの自己意識が、主と奴に分かれ、奴の方だけが、労働するという原理が必要になったのである。
それが第3の原理で、そこから、奴は主体化する。つまり、奴は労働し、労働対象との同一性に達する。自分で作ったものは、自分の一部だということである。ここで興味深いのは、ヘーゲルがここで、奴の意識と労働対象との同一性を扱っていながら、それを、奴の意識にとって、もうひとつの他者である主人との同一性と、同一視してしまうことである。そしてそこで奴が獲得する自己意識が、思考であり、これによって、自己意識は、「自由な自己意識」となる。これは労働の結果として成立した知的労働によって、自由になったのではない。ヘーゲルにとって、労働はあくまでも自然が対象で、ここで思考の対象は、精神であるからだ。労働と思考は、別の水準にある。
ここにヘーゲルの『精神現象学』における欠点が出ている。このことを、再度、労働からどのようにして、思考が出て来るのか、見ることによって、確認する。
まず、奴だけが労働する。労働することで、奴は自立する。奴が主になるのではない。逆転はしない。奴が自立するのである。そして自立し、奴は、主と仲直りをして、そこで相互承認が再び得られるということでもない。奴は、奴の労働の対象と相互承認をする。つまり、奴の意識は、労働対象が自分の生産物であることを自覚し、そこに自己を見出す。そこに自己関係が生じて、それで一応、論理は完結する。私は、それで終わりにしても良かったのではないかと思うのだが、しかしヘーゲルにおいて、実は、労働対象物が自然である限り、意識との同一性は形成できないとしてしまったので、それで、ここで、真に意識と同一化できるのは、対象が他の自己意識であり、その時、労働は、労働を克服して、思考に至っていると考えられている。かくして、労働は思考になる。思考において、自己と対象が同一であるという前提で、対象を自己だと認識する意識、つまり自己意識は完成する。
対象が進展して行き、ついには、他の自己意識を対象にする。それが、最初から、労働論として展開されていれば、相互承認論は、知的労働論として展開できたのだが、ヘーゲル『精神現象学』の場合、単に意識の問題として、話が進展し、そこら相互承認論が出て来て、話が終わってしまい、しかし、それではまずいので、苦労して、労働論を入れ、相互承認論と労働論の融合を図り、しかし労働では、意識と対象の同一化はできないので、思考が導かれる。
その後、この「自由な自己意識」は、ストア主義、スケプシス主義、不幸な意識という3段階を経る。
すでに、思考が成立している。思考は自由な自己意識とも呼ばれ、これは、意識と対象とが、ともに自己関係を成し、そこに無限性が生じているということである。この無限性は、再び、分裂し、その後、長い行程を通って、その対立を克服する。
まずストア主義として、純粋な自己関係性に固執する段階を想定し、次いで、それは、あらためて、自己の対象を設定して、それに欲望を以って向かう、スケプシス主義という段階になる。ここで自己意識は、対象と分裂し、その対象を否定しようとする意識が成立している。さらにその上で、ここで再び、その自己意識が、主と奴とに、分かれる。この段階が「不幸な意識」である。先の、「自己意識」の章の前半の、主と奴の闘争の段階と違って、ひとつの自己意識の中で、分裂がなされている。それらの段階を経て、再び、自己意識は、その分裂した状態を克服して、思考が実現されるが、この新しい段階の思考を、ヘーゲルは、理性と呼ぶ。
バトラーは、この「不幸な意識」に、先の、主奴論の再現を見出し、しかし、ここでは、先の場合は、労働によって、奴の自律性が成立するのだが、ここでは、すでに思考が成立しているので、思考のみによって、奴は、自立する。彼女は、そこに定位する1
ヘーゲルが、「不幸な意識」として、念頭に置いているのは、自己を此岸に置き、一方で、対象としての神の国を彼岸において、その両者が分裂している意識である。そして神の国と自己との同一性の意識を主とし、両者を区別する意識を奴とし、その両者の意識の中で悩むので、「不幸な意識」と言われるのである。
そして、ここでも、対象としての神の国が、自己関係的構造を持っていて、そのために、個別的な「不幸な意識」は、神を表象できる。神の方が本質的な存在で、神の働きかけのおかげで、つまり神の方から自己否定をして、個別的な意識に迫って来るので、個別的な意識も、普遍性を獲得できるのである。
バトラーは、先に私は、第4の原理に定位すると書いたが、しかし、正確に言えば、このスケプシス主義の箇所から、隷属化の原理を導いている。ここでは、先の第4の原理と少し違って、奴隷が主体化するのだけれども、そして第4の原理のときは、労働することでそうなるのだけれども、ここでは、その推進役を担うのは思考であり、それが、すでに見て来たように、必ずしも、知的労働ではない。知的労働においては、対象は自然と精神の両方であるが、思考においては、対象は精神だけである。そして何によりも、その結果、相手の、精神という対象の中に、ここでは、宗教意識を見出して、それを自己とし、自己関係を作るという構図になっている。ここに再び、相互承認の原理が働く、とヘーゲルは持って行く。
労働は、自然という対象の中に自己を見出すことであり、知的労働は、その対象が知であるものである。それは本来、連続的に段階を成すものだと言って良い。しかし、ヘーゲルの場合、労働から思考へ、論理が飛んでいる。
黒崎剛の解説では、思考を、労働と相互承認をひとつの意識の中に取り込んだ自己意識のことであるとしている2。そして、相互承認から、労働を導くために、生死を賭けた戦いによって、主と奴が生じなければならなかったし、今度は、その奴の意識の中で、労働をさせるために、隷属化=主体化という原理が必要だった。それでようやく、労働と相互承認がひとつの意識の中に取り込まれるのである。そのように考える。
確かに、黒崎が言うように、相互承認だけの論理だと、どこにも労働という概念が入って来ない。だから、無理にそれを主奴関係にし、そこから奴に労働させ、再び、相互承認に戻す。そのことで、相互承認と労働論とを融合させる。しかしそれは成功しているのか。実は、成功していないので、もう一度、「自己意識」の章の後半で、同じ話を繰り返すのではないか。
労働は、実は『精神現象学』の原理ではない。後の章で見るように、ヘーゲル哲学において、労働は極めて重要な意味を持っているが、しかし『精神現象学』において、そのことは明確に出て来ない。ここで私は、ヘーゲルの発展史を扱うつもりはないし、思想史研究をしたいのでもなく、私にとっての、「ヘーゲルの『精神現象学』」の再構築をしたいだけであり、しかし、その場合、やはり、労働を基底に『精神現象学』を構築したいと思う。つまり、潜在的には、ヘーゲルには、労働概念があるのだから、そこを根拠に、展開することは可能なのである。
ヘーゲルは、労働の対象が自然である限り、限界があるとして、労働の価値を認めていないかのように記述していて、しかし、奴は労働することで、労働対象との同一性を得て、無限性に達するのであり、事実上、労働の価値を相当に評価している。
しかしヘーゲルは、ここで、労働から思考へと移行させることで、自然を労働対象とすることを止め、精神だけを対象とし、そのために身体性をも消し去った。また、労働対象という他者と、労働を命令する他者という、二重性も消した。精神一元論となったのである。
先にも書いたように、バトラーは、そこに定位する。そして、他者の根源性という問題意識は強調した。これが彼女の功績である。主人の権力は絶対である。「意識」の3章においても、「自己意識」においても、対象の側から、主体の側の欲望が触発されるという構造だったが、主奴論に入って、第2と第4の原理においては、主人という、圧倒する他者の存在が強調される。そのことを再度考えるのが、次の章の課題である。
しかし、私は、この節で、バトラーのように考えないで、以下、私は、思考を知的労働と考えて、『精神現象学』を書き直したい。
自己意識から、相互承認論が展開されると、そこに、労働論を展開する余地はなくなる。労働論は、自然を対象とするものだから、意識経験学の延長上に位置し、一方、相互承認論は、精神現象学の課題である。両者は交わらない。
しかし、本当は、以下のこと、つまり、労働を通じて自然に働き掛け、労働の成果として、自然を人間化、つまり精神化し、そのことによって、他の人間と関わりを持ち、相互承認をし、共同体を形成して行くという社会過程形成論こそ、必要だったのではないか。つまり、労働論の徹底こそ、必要なことだったのである。
こんな風に言うことができる。相互承認と労働という、別の原理を融合させるために、生死を賭けた戦いと隷属の原理のふたつが必要になった。というのも、相互承認で、主体化が完成すれば、そこに労働は要らないということになる。しかし、労働は、本当はヘーゲルが一番言いたかったことだ。それで、相互作用で、ふたつの自己意識が、ともに主体化するのではなく、原理的にはそうなのだが、現実にはそうならず、そこで別の原理が働いて、主と奴に分かれ、そして、さらにまた、別の原理が働いて、奴の方だけが、労働し、最終的に、労働するという原理で、奴が主体化するのである。また、バトラーによれば、すでに、労働する以前に、主の命令を内面化することで、奴は主体化できることになる。
しかし、第3の原理が本当は一番重要なのである。そのことをヘーゲルは、必ずしも十分に自覚していない。そして潜在的にしか出ていない第4の原理だけが成功している。
この第4の原理は、それでもまだ、労働を必要としていたが、そこから労働を消し去ったのが、「不幸な意識」における隷属化の原理である。だから、二つの、つまり「自己意識」の章の前半部と後半の、隷属化の原理は、少しだけ、しかし決定的な点で、異なる。
最初の第4の原理から、思考の原理が出て来るが、その記述だけでは不十分なので、さらに、もう一度繰り返し、「不幸な意識」を経て、その隷属化の原理から思考の原理を導く。
ヘーゲルの失敗は、対象が次々と生成し、変遷するが、そしてそのすべてが対象であるべきなのに、最後に生成した自己意識だけを、対象に限定したことである。それは、この対象の中に自己を見るためなのだが、それに対して、私は次のように考える。対象が物でも、自己になり得る。それは自らの労働対象として、自らが作り上げたものであれば、それで良い。そこに自己関係は成立するはずだ。
この労働概念については、しかしやはり、『精神現象学』では十分に展開されていない。ヘーゲルの他の著作を参考にするしかない。つまり、労働の原理も、ここではうまく行っていない。他の著作では、労働の原理があるのだから、ここも、知的労働論で押せば良かった。
そして私は、前著で、現代では知的所有が優位な社会になっていて、それはふたつの意味においてであり、ひとつは、知的所有が主流になっているということであり、もうひとつは、物の所有においても、それが知的所有化していることだと書いた。
ここで、知的所有を可能にするものが、知的労働で、同じことが、ここで言えるはずである。つまり、労働対象は、まずは自然であり、それが、知的労働になると、自然と精神の両方を対象とし、しかし、そこでは、精神の方が優位になる。つまり知的労働が主流になっていることと、自然を対象とする労働においても、それが、知的労働化しているということである。しかし、自然が対象でなくなるということはない。ここが、私が展開する、知的労働と、ヘーゲルの言う、思考との違いである。
第二のヘーゲルへの批判は、対象が精神であっても、容易にそこに自己を見出せる訳ではないということだ。ヘーゲルは、意識は、自然を対象にすると、そこに自己を見出せないとした。従って、ヘーゲルに対する第一の批判は、自然が相手でも、自己を見出せるはずだというものだ。そして第二の批判が、今度は、精神であっても、本当に容易に、そこに自己と同等のものを見出せるのかということである。つまり、先に書いたように、相互承認は容易には成り立たない。相互承認においては、相手と自分とが対等な関係であることが必要だが、そうでなければ、すぐに、生死を賭けた戦いに陥ってしまう。そうして自立ができなくなる。常に、対立物は、その統一を探っている。このことが次の課題である。
2-3へ続く

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1 バトラーについては、2-1前掲書を参照。
2 黒崎剛についても、2-1前掲書を参照。

(たかはしかずゆき 哲学者)
(pubspace-x328,2014.03.24)