―――第10条における「主権者国民の不存在」による第三章全体の混乱―――(3)
第8回より続く。
西兼司
第3節 国民主権に必要な具体的課題・「天皇主権規定」と多衆国民の課題
(一)主権国家を作る諸観念
国民主権論をここで具体的に考えていこうと思うが、課題は二つに分けられる。ひとつは、「国民主権」論が語らなければならない論の領域はどのように射程されるのか、という事である。二つは、実際に「国民主権」論を帝国憲法の「天皇主権」論との関係で具体的に検討してみることである。
そのように第3節の課題を確認して、「国民主権」論の前に「主権」を条件づけている前提を確認しておこう。専門家ではないので学説史は立ち入らない。ウエストファリア条約(1648年)以降の国際関係が前提となって、主権国家群による国際社会が成立したと理解してよいだろう。
この主権国家を主体とした国際関係を成立させる前提が「主権国家」の「相互承認」である。相互承認自体は相手の「主権国家性」を承認し合うだけだから、のちの時代の人間が考えなければならないのは、承認の対象である「主権国家」性だけである。そして、「主権国家」の条件は、簡単にはすべて実態から出発する。縄張りとしての「領土」、被支配実体としての「人民」、支配実体としての圧倒的暴力による秩序生産力「主権」が、その三大構成要素である。秩序生産力「主権」が、「領土」と「人民」を持っていると、その主権を相互承認し合う。それが国際規範となったものが、「主権国家」間関係であり、国際法的国際社会である。
こうした条件下では、「主権」の中身は、自ずから「外国」と「被支配人民」と「領土」との関係が不可欠な課題となり、これにそうした課題を処理させる「役人・公務員」をいかに統制するのかの四つが主権の本質的な中身になる。これは、政策の問題であるとともに、「権利」承認という政策の本源であり、政策を制約する課題の設計にかかわる問題である。
外国を主権的に対象化するという事は、外国に対する利権をどう設定するのかという問題であるとともに、外国が自国(我が国)に対する利権をどう設定するのかという問題と一体である。利権の形を承認すれば、それは外国の主権国(我が国)に対する「権利」となる。最初は領事権であろうが、領事特権から外交特権に発展していくことは避けられない。各種条約などによって、文字通り利権を権利・権益として確定する作業が外交活動の恥じることのない本線であることは、通念として認められている。また、権利として確立すれば、いわゆる治外法権の確立であって、いわゆる「治外法権空間」とは紙一重の発展をすることも避けがたくなるものである。外交官にとっては常識であっても主権国人民にはダブルスタンダードとしか見えない「国際法体制下で成立した主権国家の法律制度の限界」に人民は否応なく付き合わされるわけである。
対して、主権国家人民に対する主権の関係は根本的には難しいことはない。主権は、人民に対して「登録」を求めて、国民と外国人を区別し自らの支配責任対象を明確にし、存在の自由と制限(統制)を「権利と義務」として「法律制度」に整え、それを安定的恒常的に継続するために収奪による「財政」を「暴力装置」と一体の形で作る、というだけのことである。外国から縄張りを認めてもらえば、後はなわばりの中で圧倒的な暴力組織力であり続けるという事が核心で、在り続けるために「法治体制」と「外交」が必要だという事に過ぎない。人民の権利は主権に従属する。
「領土」という人間ではない「事物」に関することは人間が如何対象化するか、と謂うことに係るのであって、これは他の事情次第で大事にも小事にもなる融通無碍の問題である。主権にとって外国の存在が絶対的な課題(与件)であるから、外国との関係で外すことのできない問題領域ではあるが、主権の大きさ・強さ・歴史的経過性などに拘束される問題で「主権論」の本質的な中身ではなく外皮である。
同じく「公務員」と云うのも論理的には事物に類するものではあるのだが、主権の行使・運用にかかわる人間であるだけに、これは人民や領土と比べると大変に厄介な存在である。「公務員」と云うのは主権主体であることはない。しかし、被統治客体でもない。主権主体と被統治客体の間にあって、「法治主義」ないしは「法の支配」を媒介にして「法治体制の主体」を担うものである。法治体制の運用の実質的担い手として、実務的には立法や司法をも主導することで主権者から離れた「法治体制の主体」として自立してゆくのである。
これが主権と被統治客体の媒介にとどまっている間は、単なる使用人として公務に当たるだけで在りえたのであろうが、歴史的事実は「国民国家」の形成・肥大とともに公務員が法治体制の主人たる地位を獲得してきたことを示している。この「法治体制の主体」が充分に検討理解されているとは思えないのだが、「公務員」は、所謂「官僚独裁」体制として帰結している現代国家資本主義国には普遍的な権力の担い手である。公務員独裁・官僚独裁とは、「民主主義」という擬制が必要としているインチキであって、「小国寡民」を超えたところにおける「人民主権」・「国民主権」の無理がおそらくは齎した権力の奇形の一形態であろう。
このように点検してくると明白なのであるが、「主権」の前提条件はウエストファリア条約以降の17世紀後半とは大きく変わっていると言えるだろう。主権の前提たる「外国」は今や単なる外国ではない。地球上を隙間なく覆って主権国家の前提をなすと共に、その隙間のなさが齎すストレス緩和のための「国際関係ルール」を作り続ける相方でもある。連合国戦勝体制下で「国連」と称されるものを筆頭に、「国際機関」が国際法づくりに精を出し、各種条約協定が主権国家を拘束している。「領土」も第二次世界大戦の結果が尊重されなければならないというドグマが聞かされる一方で、植民地が独立し、主権国家が拡散し、その国境線でさえ、常に書き換えられ続けている。
覇権国アメリカの大統領でさえ、「パレスチナに於ける二国家独立」に拘泥しないというありさまであるし、南シナ海九段線問題、尖閣帰属問題、(それ自体の問題設定がおかしい)北方四島返還問題、「琉球」独立問題など、問題の種群として「主権国家」体制を揺るがし続けている。
主権下人民=「国民」の問題は、憲法的問題である「無国籍者」問題ではなく、「無戸籍者」問題に移行した感があるが、戦後一貫して「在日」の人々、「移民」、「難民」と云ってよい人々に対する態度を自覚的に決めてこなかった。「日本国民たる要件」が決められないから、「帰化」要件(国籍法第5条)も形式以上には何も決められず、「大東亜の解放」の延長線上に「世界の解放」を目指す「国家の国民」を措定できずに来た。
そして大事なことを決めてこなかったから、「国民主権」は「公務員独裁」一色に塗り替えられ、それも「国会議員優先」ではなく「内閣が法律を提出」するという名分の「官僚(行政各部)独裁」に裏側で変えられている。「公務員」とは国際法的には一体どのような存在で、日本的には憲法的にも法律的にもどのような存在として措定されているのかは、はなはだしく曖昧である。
(二)「国民たる要件」論の課題
簡単に主権国家を作る諸観念を確認して、では如何様にして国民主権国家の主体「国民」は概念的に措定できるものであろうか。これは実務的には六つくらいの乗り越えなければならない仕切り・敷居がある。その上でのそれぞれの国の歴史やイデオロギー状況に応じての具体的な国民設計がなされるものであろう。勿論、先進諸国においてもそんな問題が正面から意識して取り組まれてから、概念として措定されたわけではないのは認識として当然ある。主権者国民たる要件論の課題である。
六つとは、第一に当然のこととして、「外国人」、「無国籍者」、「二重・三重国籍者」と区別して「日本国民たる要件」は明記されなければならないだろう。はっきり区別して処理は初めて可能になる。天皇も、大東亜解放戦争の同志・戦友も、戸籍喪失者も、ということになれば、当然、それは理念的にならざるを得ない。
第二に、「主権者国民」の明記の問題である。日本国民たる要件に何も問題がなくても、主権者国民たる要件に問題がある人間は当然いる。代表例が未成熟の子供であるが、これは子供の問題にとどまるものではないし、子供の問題としても子供は成熟するものであるから、仕切り・敷居の問題の難しさは変わらない。病者、障碍者、年寄りの主権者たる要件が簡単に描けるはずがない。天皇主権体制下でも大正天皇の押し込めは臣下の手でなされた。主人が主人たる条件は、臣下・公務員などが決めてはいけないことではあるが、主人一家の人間は決めなければならない。主権者になるということは難しい判断に責任を持つということであろうから避けられないことではある。
第三に、外国(外国人)から区別し、子供(病者、障碍者、年寄り)から区別しても、その区別を誰がどのように実施し、管理し、その要件事項をどのように修正していくのか、という問題は残る。戸籍か、住民票か、それ以外の何物かという話でもあろうし、刑事でも民事でもない問題領域を扱う、単なる行政登記ではない、主権登記に類する話の処理方法は、裁判所などに馴染むのかという話でもある。修正は国権論的にも難しいが、個別事案的、個人的にも極めて難しい。憲法裁判所の必要に対応するようなものであるが、主権者登記法制の整備は恐らく避けられないのである。
第四に、そうすれば「日本国民」と「主権者日本国民」との間には、明確な利害相反関係が生じる。主人と主人の縁者の違いであるが、この利害相反による主権者の一方的利益が許されないことが明白な以上、主権者日本国民の主権の限界も自ずから日本国民に対して明記しておかねばならない。親は親であるからと云って子どもを奴隷としてこき使ってよいわけはない。何のため、だれのための主権者であるのかと云えば、親が子供ための存在であるように、日本国民のための主権者であることは、主権者国民の章を憲法上に起こして概念化しておく必要があるのである。
第五に、それは主権目的論に留まることはできない。憲法において主権の制限・限界として、帝国憲法のように主権の形として具体的に書いておくよりほかはない。主権の制限を「法律でこれを定める」などと書くことがあってよい筈はないのである。帝国憲法第一章天皇がそれなりに長文であったことは無視することはできないのだ。
第六に、こうした主権者の主権の管理に対して公務員が関わらざるを得ないのは避けられないが、この主人と僕の関係をどのように設計するのか。国民主権下の主権者は、多数者である。主権の発動形式を様々に工夫して一つの意志に描いて見せることは可能であるが、主権者の存在が多衆者であることはどのような時にも否定できない。一つの意思以前の段階での様々な意向に対する公務員の態度・協力・援助・仕え方については「公務員統制法」制度が整備されなければ、主権者の尊厳は守れなくなる。また、公務員と云えども多衆の主権者に対するに、自分の僕としての位置を措定するにあたって多衆は戸惑いの対象以外の何物でもないはずなのだ。公務員の側からも「公務員基本法」制度は切実に必要とされるのは避けられないのだ。
すると「国民主権」は、理念に留まることはできなくなるのだ。概念化する以外に「国民主権」の実体化はできないということである。自ずからして、憲法を現状のままに収めておいてはいけないということにならざるを得ない。幸か不幸か、おそらく世界中に「国民主権」を概念化した憲法は存在しない。君主主権の成熟と比べて、国民主権は未成熟な状況で、「人権」観念を肥大化させることで、権力(暴力組織力)からは国民や人民を遠ざけようという流れが、欧米の基調的な傾向である。日本国憲法が優れている憲法であると考える人々がいるのであれば、ぜひ、それを国民主権の概念化という方向に於いて考えてもらいたいものである。
(三)帝国憲法における「天皇主権」規定
さて、帝国憲法で主権者天皇は具体的にどのように書かれていたのか。天皇主権はどのように羅列されていたのかを確認していこう。「第一章 天皇」は全17条(註3)である。各条文には見出し・表題はつけられていない。これを、私の「国権論的検討」という立場から、簡単に付けて行ってみよう。
第1条は、「帝国の主人」
第2条は、「主の継承」
第3条は、「主人性」
第4条は、「主人の主体性」
第5条は、「人民(臣民)の協賛による立法統治」
第6条は、「法律の裁可と官吏命令権」
第7条は、「代表人民(議会)の統制」
第8条は、「勅令権の明示」
第8条2は、「勅令権の制限」
第9条は、「法律下位の命令権」
第10条は、「官制制定、官吏統制権」
第11条は、「軍統帥権」
第12条は、「軍編制権」
第13条は、「戦宣・和講条約権」
第14条は、「戒厳宣告権」
第14条2は、「戒厳法定主義」
第15条は、「栄典授与権」
第16条は、「大赦等対人赦免権」
第17条は、「摂政皇室典範主義」
第17条2は、「摂政大権代行主義」
である。17条と云っても実質20条と云ってもよい。
中は、六つに分けられる。第1条から第4条までは、「主権性」論である。国と主権が天皇とどのようにくっついているのかの規定である。
第5条から第10条までは、「主権組織編成論」であり、「主権性の制限論」である。「協賛を以て・・・行う」(第5条)、「裁可し・・・交付及び執行を命ず」(第6条)と創造権とチェックが一体であったり、勅令権が議会閉会時(第8条)に出されるものとされていても、次期議会承認がなされなければ失効(第8条2)とされていたり、創造権とその制限が組み合わせられている。
第11条から第13条は、「軍権直率主義」である。軍人勅諭の精神を憲法で繰り返しているのであるが、武家に軍権を渡してなるものかという軍人天皇主義の明確化である。
第14条は、「法治逸脱法定主義」である。治に居て乱を忘れずとも読めるが、非常事態をあらかじめ想定するというのは、主権者にとっては必要な備えであろう。
第15条から第16条は、「主人依怙贔屓主義」である。褒めたり許したりを、主人独自の権限として確認しておくというのは、主権者としては当然のことであろう。
第17条は、摂政のことは皇室典範によるというのだから、「立法外法定主義」である。家内法である皇室典範には議会を容喙させないとしていたが、第2条の「主の継承」と同じで、「主人の代行」も臣民には容喙させないという事で、主権者の不可侵を強調しているのである。
私は、帝国憲法の方が日本国憲法よりもよく考えられていると思うが、この帝国憲法第一章「天皇」の部分を読むとそれは明らかではないか。大きく見ても「主権性論」、「主権組織編成・制限論」、「軍権直率主義」、「法治逸脱法定主義」、「主人依怙贔屓主義」、「立法外法定主義」など、「主権者論」をするのであればみな考えてみなければならない課題ではないか。主権者はこれくらいの権限を持っていなければ主権者にはなれないだろう。「法治主義」か「法の支配」か、イデオロギーには差はあっても「法律制度による世俗支配」に変わりはない。しかし、治められる側・支配される側ではなく、治める側・支配する側に立った時には、支配の道具である法律制度を大切にすることは当然ありうることだとしても、道具である「法律制度」と支配者である「主権者」の関係について、遊びと云ってもよいし、ゆるみと云ってもよいが、法律の及ばない隙間を設計していくことは、「法による支配の要諦」に類することなのではないか。帝国憲法はそれがよく書き込まれていて、主権者天皇の側からする問題は生じる余地が少なかったであろうと思われるのだ。
まして、「国民主権」は、「天皇主権」と違って、(1)、「多衆国民」をどのように単一統合体と見做すのか。(2)、「多衆国民」の中における対立は、「主権者の分裂」の筈であるが、これをどのような問題としてとらえたらよいのか。(3)、「臣民」と違って「主権者国民」は、対外関係・公務員との関係において、概念と具体的権限の両面においてどのように有権的権利を設計できるのか。(4)、「主権的権利」とは現在の解釈では、基本的に「選挙権」しか想像されていないが、本当にそうなのか。「公務員統制権」を明確にせずして「国民主権」は成立するのか。(5)、「基本的人権」とされている「健康で文化的な最低限度の生活」などは、「主権者の国家目的」であって「国権の義務」=「国民の主権的権利」ではないのか。などなど、いくらでも困難な課題が成立する。
見ればわかるように現在の日本国憲法では、こうした「国民主権」にかかわる疑問はすべて捨象されている。何一つ国民主権を能動的に語る条文がないのだから、それはやむを得ないことなのだという言い訳はもちろん成立するが、それで「護憲」も「改憲」も「憲法尊重義務」者である「公務員」(国会議員など政治家)たちから語られているのだとすれば、「主権者国民」はどこにいるのかという疑問は不可避であろう。護憲や改憲の主張以前に、日本国憲法は「主権者国民」に読まれていないのだ。単なる抽象的な理念として「国民主権」が存在するのは、生徒・学生に対する憲法学の基礎講義だけでよい。実際に憲法に書き込むのだとすれば、帝国憲法ですら、実質20条分に及ぶ規定を置いて「天皇主権」を「臣民」に詳らかにしている。はるかに難しいことが想定される「国民主権」規定は、帝国憲法が準備に7年程度の歳月(註4)をかけたことを思えば、それ以上の時間をかけて、公務員ではなく主権者国民の間でゆっくり検討していく必要があることは明らかではないか。
(註3)帝国憲法第一章は、以下の通りである。
第1章 天皇
第1条 大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス
第2条 皇位ハ皇室典範ノ定ムル所ニ依リ皇男子孫之ヲ継承ス
第3条 天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス
第4条 天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ
第5条 天皇ハ帝国議会ノ協賛ヲ以テ立法権ヲ行フ
第6条 天皇ハ法律ヲ裁可シ其ノ公布及執行ヲ命ス
第7条 天皇ハ帝国議会ヲ召集シ其ノ開会閉会停会及衆議院ノ解散ヲ命ス
第8条 天皇ハ公共ノ安全ヲ保持シ又ハ其ノ災厄ヲ避クル為緊急ノ必要ニ由リ帝国議会閉会ノ場合ニ於テ法律ニ代ルヘキ勅令ヲ発ス
2 此ノ勅令ハ次ノ会期ニ於テ帝国議会ニ提出スヘシ若議会ニ於テ承諾セサルトキハ政府ハ将来ニ向テ其ノ効力ヲ失フコトヲ公布スヘシ
第9条 天皇ハ法律ヲ執行スル為ニ又ハ公共ノ安寧秩序ヲ保持シ及臣民ノ幸福ヲ増進スル為ニ必要ナル命令ヲ発シ又ハ発セシム但シ命令ヲ以テ法律ヲ変更スルコトヲ得ス
第10条 天皇ハ行政各部ノ官制及文武官ノ俸給ヲ定メ及文武官ヲ任免ス但シ此ノ憲法又ハ他ノ法律ニ特例ヲ掲ケタルモノハ各々其ノ条項ニ依ル
第11条 天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス
第12条 天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム
第13条 天皇ハ戦ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ条約ヲ締結ス
第14条 天皇ハ戒厳ヲ宣告ス
2 戒厳ノ要件及効力ハ法律ヲ以テ之ヲ定ム
第15条 天皇ハ爵位勲章及其ノ他ノ栄典ヲ授与ス
第16条 天皇ハ大赦特赦減刑及復権ヲ命ス
第17条 摂政ヲ置クハ皇室典範ノ定ムル所ニ依ル
2 摂政ハ天皇ノ名ニ於テ大権ヲ行フ
(註4)明治22年(西暦1889年)2月11日、「大日本帝国憲法発布の詔勅」に付随する形で、「大日本帝国憲法」は公布された。これは明治15年(1882年)3月、伊藤博文参議が政府の命令を受けて、ヨーロッパに行きドイツを中心として実際に憲法研究を始めてからの時間である。
当然その前からの経過はあり、明治6年(1873年)の政変の後、明治7年の「副島種臣・板垣退助・後藤象二郎・江藤新平らの民撰議院設立建白書」、明治8年4月の「立憲政体の詔書」(漸次立憲政体樹立の詔)、明治9年(1876年)9月「元老院議長有栖川宮熾仁親王へ国憲起草を命ずるの勅語」、明治13年(1880年)、元老院「日本国国憲按」、明治14年(1881年)10月「国会開設の勅諭」、という長い階梯がある。民撰議員設立建白書は明治6年から10年までの武装反乱への経過の中でのものであるし、それだけの力のないものは各種の「私擬憲法」案を出した。私擬憲法案提起のピークは明治14年である。明治7年、ないし8年から数えれば、凡そ15年の歳月をかけて準備したものと云える。
(以上で、第9回終わり。第10回に続く)
(にしけんじ)
(pubspace-4263,2017.07.27)