戦後国権論として憲法を読む(第2回)本説 第一章 日本国憲法の制定形式

西兼司

 
第1節 「公布文」と「前文」
 
 誰でも直ちに気が付くことは、日本国憲法にはかなり長い「前文」がついていることである。こうした前文は大日本帝国憲法にはついていなかった。従って、当然のこととして、いったい前文は本文とどの様な関係にあるのであろうか、ということは議論されてきた。本文と同じような規範力を其処に読み取るべきなのであろうか、という疑問である。
 
 しかし、これは二つの点で何時の間にか尻つぼみになってしまった。一つは、ほかの法律に戦後は、しばしば「前文」が付けられるようになって、あまり奇異という感じを皆が持たなくなってきたからである。特に平成時代に入ってからの各種基本法には、かなりの割合で前文が付けられており、日常化しているということができるだろう。もう一つは、憲法前文そのものが極めて悪文で、日本国民が誰に向かって独白をしているのか、その必要があるのか不明確であるが、永年月のうちにそれに慣らされて、本文で述べられていない重要事項を、ただ読み取ればよいという諦めを持つに至ったからであろう。
 
 その点を不問に付せば日本国憲法は、「前文と本文」とで出来ていることになるが、国民に交付されるに当たっては、つまり国民のものとされるに当たっては、それだけで国民に与えられたものではない。通常の憲法改正手続きに従って国会と枢密院の議決を経て、帝国憲法の手続きに従い天皇の裁可を経て、天皇の手によって御名御璽がなされ、国務大臣の副署を添え、天皇の「公布文」とともに公布され国民のものとなったのである。
 
 公布文の全文は
「朕は、日本国民の総意に基づいて、新日本建設の礎が、定まるに至ったことを、深くよろこび、枢密顧問の諮詢および帝国憲法第73条による帝国議会の議決を経た帝国憲法の改正を裁可し、ここにこれを公布せしめる。
 
御名御璽
昭和21年11月3日」
となっている。国務大臣15名の副署がこれに添えられているのは、連載第1回で述べたとおりである。
 
 公布文があることによって、日本国憲法は帝国憲法の改正という形式を明確にしているのである。ここには、敗戦憲法の第一章が定めているように「天皇」の存在の継続が予告されている。言い換えれば、ドイツ基本法の第9条2項、第18条、第21条、第33条のような、前政権時代の権力や社会運動を周到に否定する仕組みは組み込まれようがない形式がとられている。
 
 もっと明確に言ってよいだろう。敗戦の主体が天皇であったように、新日本の主体も天皇であることが、旧臣民=日本国民に明確に示されているのである。欽定憲法の形式が公布文では踏襲されているのである。そのことで、一部学説にあるような敗戦を革命ととらえて敗戦憲法を「革命憲法」ととらえる見方は、憲法の中身に過大な評価をしたものであって、誤りであることを公布文は示唆しているといえるであろう。
 
 そして、これが占領軍からの「軍令」、「マッカーサー指令」、もしくは極東委員会からの「戦勝国指令」とならなかった日本権力システムの統治力の力量であろう。解体粉砕されたナチス支配体制にとって変えられた東西ドイツや、昭和天皇が放棄した沖縄の、戦後の出発との違いである。
 
 なお、「日本国憲法GHQ草案」前文は、現在の日本国憲法前文とほとんど違いはないが、民生局長直下の運営委員会(4人)の一人として、アルフレッド・R・ハッシー海軍中佐(当時44歳)が一人で書いたことが明らかになっている(註1)。2月13日にこれが日本政府に手交されてから、4月総選挙後、選挙結果を拒否されて(鳩山自由党総裁追放)から出来た吉田内閣と国会は、11月3日、憲法公布の日まで、ついにこの前文に手を入れず成立させてしまったのである。
 
第2節 前文の意味
 
 前文は、公布文の示唆するものとは特異に異なっている。全文は9文、四つの段落から形成されている。第一段落は4文で、285字。趣旨は「日本国民は・・・主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する」ということである。第二段落は、3文で、206字。趣旨は「日本国民は、・・・平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」ということである。第三段落は1文で、110字。趣旨は「われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従うことは、・・・各国の責務である」ということである。第四段落は、1文で、41字である。趣旨は「日本国民は、・・・全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓う」ということである。
 
 ただ、こうして趣旨を確認することと直接「前文」を読むこととの間では、受ける印象はかなり違う。修飾語と言っても、粉飾の言葉と謂ってもよいが、日本語を母国語とする人間ならばこんな面倒な言葉を沢山挟んで文意を分かり難くすることは無いだろうという余計な言葉が多すぎる。外国人が書いた文章の翻訳であろうという感じは否定できないのである。650字ほどでほぼこれに類することを謂うにしても、日本人に意訳させれば、文の数を増やして格調高く恥ずかしくない文章が書けたであろう。
 
 内容評価にかかわる特徴は二つある。一つは、全体として前文の主語が、「日本国民は」と明確に書かれていることである。だから、日本国民の宣言として、「国民主権」が謳われているのである。国権論的には、重要なことはこれだけだ、と謂っても良いくらいである。そして、憲法の三つの重要な原理といわれている「平和主義」、「基本的人権の尊重」と並ぶ「国民主権」の明記は、憲法本文(条文)のほうには、「第一章 天皇」の冒頭第1条で、天皇の地位は、「主権の存する日本国民の総意に基づく」という表現としてしか、言い換えると自明の前提として受身表現例としてしか出てこないのだ。「第三章」も「主権者国民」と書いてあるわけではなく、「国民の権利及び義務」と規定してあって、これは、帝国憲法の「第二章 臣民権利義務」を引き写しているだけであることを思えば、前文で宣言していることを除けば護憲派の人が有難がるほどには、日本国憲法本文で「国民」は大切にされていないのだと謂うことが判るであろう。GHQ草案作成過程では、「第三章 国民の権利及び義務」は、運営委員会の下の組織された七つの小委員会のうちの「人権に関する小委員会」が担当していて、つまり、「国民と人権」は課題とされていたが、「国民と主権」の関係は全く視野の外にあったことが明らかになっている(註2)。
 
 「国民主権」が能動的、積極的に語られているのは、「前文」冒頭の第1文だけなのだ、と謂うことは憲法における「天皇」と「国民」の関係を永続的に窺わせるものになっているのである。先走って憲法全体を見渡すと天皇に関心はあっても、国民そのものへの視線は「基本的人権」を与えての庇護対象に過ぎないということである。憲法の上に立つ主権者としての着眼はない。制定権力としての国民という問題意識は全くないのである。
 
 もう一つの特徴は、前文全体の末尾が、「日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓う」と、誰かに誓う形式になっていることである。帝国憲法は、「憲法発布勅語」があり、「告文」があり、「大日本帝国憲法」があった。勅語は臣民に対し、「此の不磨の大典を宣布す」とあるように天皇が臣民に下賜したものであった。「告文」は敗戦憲法の「前文」に当たるものであるが、「皇朕れ謹み畏み皇祖皇宗の神霊に皓げ白さく」ものであったから、「此の憲章を履行して愆らさらん(あやまらざらん)ことを誓う」という皇祖神への誓い方に違和感は少しもない。
 
 しかし、前文は誰に誓っているのか、あまりにも無神経である。日本国民が帝国憲法を改正し、主権者宣言をして、それを誰に誓わなければならないのか。天皇を虚仮にするために天皇に誓っているのか。そうではなかろう。内容から読み取れば、それは第二段落の「平和を愛する諸国民」と第三段落の「政治道徳」であろう。直截に言えば、「戦勝国」と「戦勝国を中心とする国際法体制」である。当時の心ある人は敗戦の無慚を感じたであろうが、謂うまでもなくそれは昭和天皇の選択した筋道である。私のような人間は可笑しくって付き合い切れない誓いである。そして、戦後70年、昭和天皇も死に、戦後生まれの世代が絶対多数でありながら、生き続けているのである。
 
 中華人民共和国政府からも日本の侵略責任が政治の道具として追及されているが、ロシア政府外務大臣からも日本が唯一の第二次大戦で形成された秩序を尊重しない国だと名指しされている。政治的事態は、政治の駆け引きとして組織されているわけだからバカバカしいが、そのバカバカしい事態を規定する刻印が憲法前文の結論たる「誓い」を出発点としてなされていることは主権者国民としては確認しておくべきであろう。
 
 こうした内容的核心のほかに、護憲派の一部の人が言うような、「国民主権」ではなくGHQ民生局行政部が昭和21年2月4日から12日までの9日間で書き上げた草案作成過程で出てきた「人民主権」という言葉をなぜ使わなかったのかと謂うことについて、若干触れておきたい。結論的にはその理由は、帝国憲法改正であって、革命憲法でなかったからである。敗戦主体である国家元首天皇が、帝国憲法改正を「深くよろこび・・・改正を裁可し・・・公布」したのだ。敗戦国元首が、「人民」に対して「裁可し」、「公布」するなどということが許されるはずもないだろう。人民と言ってしまえば、戦勝国人民も含まれてしまう。また、この時点で、(現在に至るまで)日本国憲法の施行範囲は定まっていない。領土の範囲が決まっていないのだ。元首は臣民に語り掛けることしか出来ないし、臣民はそれを「国民」と自ら呼び換える以外にないだろう。戦勝していれば、臣民を人民ということは出来たかも知れないが、叶わぬ夢である。
 
 ただし、基本的人権のことについてなら話は別である。私は、「眼を潰された人間」という原義を持つ「民」(註3)という語を使う「人民」よりも、「人間」という語の方が良いと思うが、もっと適切な「自然人」(註4)という言葉も民生局チームは使っていた。領土の内部なら権力は「自然人」をこそ、主権者国民として認め、基本的人権の対象とすることは正しいと思う。
 
第3節 憲法の章別構成
 
 さて、そうして前文の後から憲法の本文が始まるわけだが、本文の前に憲法の章別構成がすこぶるおかしい、という点を軽く確認しておきたい。
 
 前文の後の章は、「天皇」、「戦争の放棄」、「国民の権利及び義務」、「国会」、「内閣」、「司法」、「財政」、「地方自治」、「改正」、「最高法規」、「補則」と在って、全103条となっている。全十一章である。帝国憲法は、「天皇」、「臣民権利義務」、「帝国議会」、「国務大臣及び枢密顧問」、「司法」、「会計」、「補則」の全七章、76条である。
 
 一見したところ、「戦争の放棄」、「地方自治」、「改正」、「最高法規」の四章が増えているわけである。「戦争の放棄」は戦争に負けたから、「地方自治」は国権の形が変わって地方公共団体が内務省の出先機関ではなくなったから、「改正」は帝国憲法と違って不磨の大典ではなくなったから、「最高法規」は天皇大権が否定されたから、で理由は直ぐ分かるがおかしいのは其処ではない。「天皇」、「国民の権利及び義務」、「国会」、「内閣」、「司法」、「財政」、「補則」の順番が帝国憲法と全く同じというのは、何故だと謂うことである。
 
 帝国憲法は仮にも、明治6年の政変、西南戦争へ至る反乱の連続(佐賀の乱、神風連の乱、秋月の乱、萩の乱)、明治14年の政変、「国会開催の請願」を受けて、明治15年(1882年)3月から明治22年(1889年)2月まで7年の歳月をかけているのに対して、敗戦憲法は近衛副首相へのマッカサーの依頼から数えても、公布まで13か月に過ぎなかった。実際はGHQ民生局が昭和21年2月4日から12日までのわずか9日間で草案を作ってしまったことが、基底要因であることは間違いない。その時、彼らは占領者が占領地の憲法を作ることが国際法に違反する作業であることを承知していたから、米国政府(国務省)にも、極東委員会にも、GHQの他部署にも秘密にして作成したのだ。
 
 だから、主権者が誰なのかについての検討も、主権者だったら帝国憲法のように第一章に持ってこなければおかしいだろうということも、全く検討された形跡がないのだ。僅かに、2月12日に一度だけ、運営委員会(ハッシー中佐、ケーディス大佐、ホイットニー准将の三者)で「政治道徳の法則と主権を搦めるかどうか」、「前文で国民主権を謂っているが本文で入れる必要があるかどうか」が話し合われただけである(『日本国憲法を生んだ密室の9日間』鈴木昭典、第11章)。政治道徳とは搦めない、本文では言わない、というのが結論だが、現実の憲法もそうなっている。国民主権の根拠は憲法では謳われないことに為ったのである。
 
 常識的に見てこの水準の憲法なら、「主権者国民」、「基本的人権」、「国会」、「天皇」、「内閣」、「司法」、「地方自治」、「財政」、「国民と公務員の義務」などということが順番であるのが当たり前であるだろう。「戦争の放棄」については別に論じる。
 
〔以下註釈〕
 
(註1)『日本国憲法を生んだ密室の九日間』(鈴木昭典著 角川ソフィア文庫)p299
(註2)『日本国憲法を生んだ密室の九日間』p30
(註3)白川静『字統』p814に「象形 一眼を刺して害する形」とある。多くの先例解釈が引かれているが、概ねその核心を逸脱するものではない。
(註4)『日本国憲法を生んだ密室の九日間』p227,p233
(連載第2回終わり)
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(にしけんじ)
(pubspace-x2173,2015.08.01)