戦後国権論として日本国憲法を読む(第1回) ―「敗戦憲法」の「体制的誤読」と「戦後国体の限界」―

西兼司

 
前説   憲法読解の問題意識と方法
 
(一)、私人として、主権者として憲法を読む

 
私は中学に上がると社会科の副読本の中に「教育勅語」を見つけて、それを暗証して一人悦に入っていた。親が教育勅語を好きであったからである。本も好きであったから、図書館で「軍人勅諭」を見つけてこれも暗記していた。戦前の文語調の文章は読み難い代わりに、覚えやすい文章の調子があって、「論語」などの断片的な文章とともに、忘れてよい文章である限り、返って忘れずに何時しか不完全ながらも覚えて身についてしまった。
 
そんな感覚から意味は分からないながらも、「国体明徴」とか、「我が国体の精華」とか、「国体の本義」などと謂うことは、考える癖がついてしまった。国体明徴に関する戦前の議論があったことは若い時からそれなりに知っていたが、『国体の本義』と云う文部省編纂の本(昭和12年・西紀1937年)があることなどは、この文章を書き始めるまで知らなかった(註1)。考えている時間は長かったが、物は知らない、という素人の率直な論である。
 
現在、世界も日本も大きな曲がり角に来ていることには、あまり異論がなかろう。その曲がり角の性質を論ずることは大切なことであるが、本稿の課題とは差し当たりしない。本稿では、歴史の曲がり方の対象である日本の現在を考える、その一部を考えていきたい。戦前にあれほど議論された、日本の国体の戦後的な姿を考えたいのである。「戦後国体論本義」と行きたいところであるが、それはやはり論題が大きすぎるので、「戦後国権論本義」として語っていきたい。
 
時代が変われば、憲法改正の必要性も高まる。それは事の必然の話であるが、「改正」を問題にする前に、一体何を改正すれば良いのか、明確にしなければ必要性は判らない。改正するということは、改めるべき処が判っている筈だけれども、本当なのか。改正派は、そもそも憲法理解をきちんとしているのか、という趣旨の疑問である。こうした言い分は「自主憲法制定論者」に対する批判には全くならないが、しかし、いわゆる「護憲論者」に対する疑問としては「改憲論者」に対する批判と全く同列になる。
 
私は自民党の「新憲法草案」(平成17年・西紀2005年10月)も「日本国憲法改正草案」(平成24年4月27日決定)も読んでいるが、この二つの草案は戦後国体の根本を改変するものである。特に平成24年版草案になると「国権の最高機関・国会」(憲法第41条、草案第51条)の優越性への否定が、「衆議院の解散は、内閣総理大臣が決定する」として実質的に「内閣の優越」として明文化(草案第54条)されるのだ。
 
これを自民党草案の根本的問題だということを指摘する議論が、私には見えない。改憲派からも、護憲派からも、自主憲法制定派からも、である。皆、憲法を自覚的に読んでおらず、いわゆる「7条解散」という解釈改憲がなされている現状(註2)追随に埋没しているのではないかと危機感を抱く所以である。憲法改正が時代の要請であったとしても、現在の憲法が読まれていないのでは、まともな、次世代へ向けた「憲法」も「国体」も作れる筈はないではないか、というのが私の懸念である。
 
「主権者が国民」で、「すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分または門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない」し、「公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である」から、直接選挙された公務員で構成する「国会は国権の最高機関」であって、「唯一の立法機関」であるとともに「国政調査権」を持ち、「裁判官を裁判するために弾劾裁判所」を持っている。天皇に対しても、「皇室典範を定める」こと、「国会の指名に基づいて、内閣総理大臣を任命」させるなど、国会の優越は天皇の意志の容喙を許さない、という形で明白になっている。「国体が国民主権」なら、「国権の最高機関は国会」というのが、明確な戦後国権論として設計されているということが憲法理解の初めの一歩である。
 
これを承知の上で、変えようというのなら、「自主憲法制定」でも、「敗戦憲法改定」でも真剣に主権者国民として検討に値することであろう。しかし、戦後憲法制定以来70年近く、「選挙権の平等」が真剣に検討されたことはなかったし、「国会が国権の最高機関」であることもごまかされ続けてきた。「議院内閣制」は「政党内閣制」を脱却したことはなかったし、当然、思想、信条、綱領で結合した私的政治盟約集団構成員が選挙後に公務員(全体の奉仕者)になったからには「政党を離脱」するという話も聞いたことがない。特定政党人以外は、「差別される政治」を味わい続けてきたのである。
 
これを放置し、隠蔽したままの「憲法改正」論議は、一層の迷妄の中に人々を誘うだけである。私は完全でないことは承知の上で、あえて、日本国憲法の正しい読み方を自分なりに提起し、「国権」というものについての人々の注意を喚起したい。
 
言うまでもないことだが、「国権」とは「国家権力」の謂いである。本来、「権力」というのは美しい言葉である。「権」とは「棒秤」のこと(註3)で、争いの調停に際しての「正・不正」、「益・不益」の割合を、均衡を取るべく量るのが「権」である。その裁定を確定させる力が「権力」である。争いの有るところ、無くては為らない力が「権力」である。儒家でも道家でも、態様こそ違え、必要を認める力が「権力」である。「力」そのものでもなく、「破壊力(ゲヴァルト)」でもない、対立する両者を「納得させる裁定」と一体となった「確定させる力」である。聖人の技にして威力である。
 
それが「国家権力」になった途端、聖人の技とは言えなくなるのが悲しいところだが、それでも、聖人以下ではあっても己を捨てられる大人君子でなくては扱ってはならない「徳なくして正統性を主張できない威力」であることに変わりはない。西洋思想はこうしたことを早くから諦めていたから、近代が成立する前に国家論の問題として、権力の分割などという奇妙なことを考えた。もちろん、「権力の分割」などと謂うことは出来る筈もないから、「近代主権(領土)国家」における「権力機関の分立」である。主権を中央と地方、中央における権力機関の三つないし四つへの分立する、と謂うのである。中央でなら「立法」、「行政」、「司法」ないしは「軍事」である。実際にはそれを統合する機関としての「元首」が有るのであるから、五つというのが正解であろう。あるいは、「監察」をこれに加える場合もある。分立しておけば、相互牽制をし合って一部権力機関の暴走を防げるだろうという、権力に対する「不信を基盤にした対策」である。
 
権力不信を持つならば、権力の性質を変えれば良いだろう、あるいは統治対象の社会を変えれば良いだろう、と素直に思うが、西洋人はそう考えずに、対策になるのかどうか判らぬ「権力機関の分立」を選択した。その分、権力と権力者とは分離して、権力が人格的責任から離れたわけである。当然、それに応えるように「法の支配」が進められた。法執行という見せかけで力ずくの実行行為を隠蔽することに依って、「職業(食うための生業)としての公務員業務」が無限に生産されることに成ったのである。無責任な権力行使が構造化されることで、権力は「主権と称する弾圧力」への道を選択したわけである。
 
これを承認・維持し続ける条件は、「国家権力」を必要とする「争う人々」と、「権力を運用する人」(法律関係生業者、「社会知」生業者)が存在すると謂うことである。社会が争いのない状態に成り切っていないことである。「桃源郷」や「共産主義社会」というような「理想状態」が実現されていない、矛盾と諍いの中で人々が生きていかなければならない状態が現実である時である。だから憲法を読むときに、大日本帝国憲法のような「不磨の大典」だとか、第9条があるから「理想の憲法」だなどというドグマ的な読み方は御法度である。「国権」の存在と「理想」とは両立しないのだ。
 
私は理想主義者であるので、「日本国憲法」には冷ややかである。勿論、「大日本帝国憲法」にも義理はない。憲法改正が日程に上がっているのなら、年寄りの冷や水の誹りを受けても、護憲派と改憲派が議論できるように、「憲法的国体」の姿を詳らかにし、実体的現実としての「戦後国体」との異同を指摘しておくことも役割かもしれない。「国体形成」指示文書としての「憲法」が現実に対応できないのなら、文章の書き換え「憲法改正」ということは当然あって良いことであるが、読み方が間違って指示を誤読したままでは、後世に悔いを残す事に繋がるであろう。
 
書いてあることを読むだけだから、指摘されれば何程のこともない筈である。私は「明文正読」を第一番にし、解釈を第一番にはしない心算だ。その上で、註釈の心算で、「釈義」を入れて行きたい。背景的事情と条文間の関係で補足する解説である。最後に、自分自身の理解としての「述義」を入れて行きたい。理想主義者が読めば、憲法にはこんなことが書いてあるという発見である。ただ、冒頭留保したように直ちには「戦後国体論」は手に余るので、「戦後国権論本義」に留まることは了解願いたい。
 
(二)、「国体―国権」考察の意味
 
昭和21年11月3日(明治節に)憲法は公布され、昭和22年5月3日(極東国際軍事裁判開廷から丁度1年目)から施行された。「憲法は国権の形をどのように定めているのか」をまず語らねば、昭和27年4月28日(南西諸島・小笠原、対米献上の日)発効の旧「日米安保条約」下の「独立」と、昭和31年12月18日の国連総会による「連合国加盟」とを併せた戦後国体論は無理だと考えるのである。特に、昭和45年(西紀1970年)の「安保自動延長」からの「国体の変貌」は、現在では「個別的自衛権」では自衛隊すら動かせなくなっており、「集団的自衛権」で風穴を開けなければ自衛隊がアメリカ軍の下請けから自立する事が出来ない処まで来てしまっている。戦争的事態に乗じなければ、国権の背骨たる武力が奪還出来ない状況が現出しており、国体論を論じるのは絶対に切実なのだが、私がその力を有していないことはお許し頂きたい。
 
それでも国体を論じなければならない理由だけは、話の初めに確認しておこう。「国体論」とは随分古めかしい言葉だと思われる方が居るかもしれないが、根本的には「国家体制論」なのである。誰が、誰を、どの様に、組織して、支配し、生活させ、縄張りの範囲外とはどの様に調整、戦いを組織していくのか、その仕組み論である。当然、それにはそうなった事情が歴史の問題としても、人々の意識の問題としても、内部の利害関係集団の相克の問題としても、風土・環境の問題としても、また、国家規模の問題としても、外部国際環境の問題としても、見ていくことが避けられない。「国柄」の歴史的瞬間風速による確認である。
 
「国体」という言葉は古く万葉の時代からあるが、現代につながる意味合いでの使用方法は、水戸学からである。「クニカタ」(『出雲国造神賀詞』・国の様子の意)ではなく、様々な傾向の違いはあれども日本独自の歴史としての「天皇の存在」を前提にした「国柄論」である。だが、当たり前のこととして、水戸学以来の「国体論」は顕著な弱点をも持っている。姓なき「天皇」号の持つ弱さに無自覚であること(註4)や、天武以前も以降も存在し続けた「日本」に統合されない部族集団(蕃夷)を無視しなければならないという弱さである。
 
東アジア儒教文明圏では権力の必須要件である「姓」すらない天皇は、象徴である事に為っているが主権者とはどういう関係であるのか。「姓」が無いと謂うことは、「万世一系」の根拠がない、「本貫」地が確定出来ないと謂うことに他ならないのだが、それで正統性はどの様に担保されるのか。「神話」による粉飾は、外部に対しては無力である。また、「倭寇」、「蝦夷」、「奄美」、「琉球」、「対馬」を無視してかかるより他ないことは、水戸学以来の「国体論」の決定的難点である。
 
そんなことすら直視出来ない精神の弱さが、日本空間には確かにある。
 
しかし、この「国体」という観念の持つ可能性は、「国家建設史からくる特殊性」、「法的、組織的体制」、「その時々の上下の人々の気分」、「諸外国(夷敵)との関係的気分」を統合して論じ得るものとして魅力的である。そうした問題意識の議論を何時かしたいと希望している。
 
それに至る前段で、「国体」の一部を為す「憲法」の定める「国権」を読み解いていこうというのが、本稿の課題である。
 
だから、日本国憲法を国体論的視点から読んでいかなければならない理由は数点挙げられるが、その第一は「被統治人民」と「主権者」と謂う狭間で、我々は憲法とも法律とも付き合っていかなければならないからである。「立憲主義の主体」とされてはいても、実は「主権者」とは言い切れない現実がある。「主権者である筈の私が知らない法律」によって遵法義務を負わされ、管理される「被統治者一人民」として生きるより他ない圧倒的な現実がある。「立憲主義的主体」であって、「法治主義的客体」であると謂う矛盾を避けて、「私」は日本国憲法を語ることが出来ないし、さすれば、「立憲主義的憲法解釈」によってお茶を濁すことはできない。
 
元来、東洋思想における法治主義は儒教文化の一形態である法家のイデオロギーである。人治である事を前提に、「徳治主義」で行くのか、「法治主義」で行くのかの差に過ぎない。其処では当然法は法を超えた「大権」の下で発布されるのであり、「家臣統制法(公務員統制法)」と謂う側面と、「家臣(公務員)による人民統治法」と謂う側面の両方がある。現在は建前の上では西洋思想の導入によって、明治以来の立憲法治国家が出来ていることになっているのであるから各種法律に、この両方の側面が混濁していることは事実であるが、それでも「国家公務員法」、「警察法」、「国税徴収法」など公務員統制法と、「刑事訴訟法」、「民事訴訟法」、「国家賠償法」、「生活保護法」など人民統治法と、「刑法」、「民法」などの公務員と人民の両方を拘束する混淆法の三種を区別することは難しくない。結果、主権者として主観的に偉そうに生きることも出来ないし、ひたすら法権力から逃れる様に生きることも出来ないように組織されているのだ。
 
「主権者」である、と明言するにしては余りにも惨めだろう。
 
理由の第二は、「被統治人民」と「主権者」の両立は一つの側面では「法の支配」を媒介させたり、別の側面では「主権は一人のものでなく全体のもの」と謂う「権力理念」を媒介させたりすることで、ある程度目くらましすることが出来るものではあるが、一人ひとりの実在する心の中で解決できるものではない。実在の人間が、「主権者として人民を統治する」と謂うのなら、また逆に「被統治者として主権者の許容範囲で生きる」と謂うのならお話としても想像力の範囲内だが、「法の支配と謂う権力理念によって、主権者が公務員によって裁かれる」と謂う転倒した観念劇に本当に納得できる者はいるのだろうか。こんな不条理劇がみんなに支持されるとは思えない。私には、「法の支配」を実在の人間=「上御一人・国家元首」を法源とした支配形式と考える以外に、了解できる皮膚感覚が理解できないのである。
 
なぜこうなったのかと言えば、端的には昭和21年11月3日の昭和天皇による貴族院での「公布文」による「帝国憲法改正の裁可」形式による「正統性の粉飾」と、「敗戦・占領軍による『憲法改正審議の三原則』、『文民条項の押し付け』」(註4)などの「敗戦と謂う実体との不整合」が、戦後憲法の出発点から刻印されていたからである。大日本帝国憲法改正形式に誤魔化しがあるのだ。粉飾と実体の乖離を、この時日本人は問題にしえなかったのである。日本国憲法は「主権」と謂う文言についての検討がお粗末なのだが、その原点はここにある。「与えられた主権」について「措定された主権者」が、主体的に「主権を考察出来ない」のは不思議なことではない。そして現在も、「主権者は法の上に存在するのか」どうか、自分の問題であるにも拘らず、一人一人の主権者は明確に出来ない状態のままである。
 
「主権者」とは「法の支配を受ける者」で、得心出来るのか。
 
理由の第三は、「国家体制論」として憲法を検討するだけでは駄目だ、と考えるからである。体制論と言ってしまえば、どうしても静止的な組織構成図の印象から脱却できない。実際にはどんなにいい加減な秩序であっても、それは「多部族・多民族混淆」のできる風土、歴史を基盤に作られてきた「習合による基準の揺らぎ」、「儒・道混淆の権力」、「権門の並立」、「神仏習合と称される伝統への自任」、東アジアに共通する「殺されない限り逃散することで常に自由に生きる人民生活」など、「国柄」でもあり、国柄の基盤でもあるもの(言語・文字文化、呪観念)を前提にして成立しているし、そのいい加減さを前提として検討して理解するより他はないだろうと思う。いい加減、出鱈目で済んでいる様々な生活実態が、現実の人間生活としてある。
 
国家論ですら共通理解は存在しないのに、その一部である「国家体制論」を厳密に論じてその内容が確定できるだろうか。人々の生活のいい加減さが、国家権力の側にも反映して、決してドグマ的、固定的にはならない「国体論」(体質論、水戸学派イメージを含む)を射程する事によって、歴史的法外規定を含めた議論がしやすくなると考える所以である。
 
「天皇大権」と謂う「立憲主義」よりも大きな法外枠組みによる「帝国憲法改正」はその典型例である。天皇大権の行使があったから敗戦憲法は出発できたのだ。天皇は、敗戦国元首として使役されたのだ。それが確認できれば、戦争敗北元首天皇が公布した「憲法は国内基本法」に過ぎなくて、戦勝国世界体制に入れていただく「国際条約」は「憲法的国内処理」が為されさえすれば、「国内法の上、憲法と同格」と謂うことも了解しやすくなる。始め、「敗戦国体の中の基本法」として「占領憲法が欽定」(昭和22年施行)され、「サンフランシスコ講和・日米安保条約・南西諸島小笠原献上」(昭和26年9月締結)と共に「戦後国体の基本法」となり、昭和31年「連合国(国連)加盟」と重ねて、「戦後国体の三本柱の一つ」となったのだ、と謂うことも腑に落ちやすい筈なのだ。
 
全部いい加減に流れてきた、戦後変態を重ね続けた国体の一翼を為すものとしての憲法論なのである。
 
さらに第四の理由として、諸前提の欠落(隠蔽)も「国体論」とせざるを得ない理由なのだと指摘しておきたい。「主権」と謂う文言がお粗末なのだ、と謂うだけではない。「国民」とは誰のことを言うのかわからない。「領土」ももちろん書いていない。サンフランシスコ講和条約によって、様々な領土整理は為されたが、サンフランシスコ講和条約に関知していないロシア(ソ連)、韓国・北朝鮮、中華人民共和国との間の領土が確定していない、すなわち、「日本国憲法の及ぶ範囲」が決まっていない、書かれていないことは歴然たる事実である。
 
「大日本帝国憲法改正」は為されたが、「大日本帝国の非継承の範囲」は「領土」、「人民」、「歴史」において明らかではないのだ。これは改憲過程そのものにも関わる微妙な問題をもはらんでおり、「マッカーサー・GHQ」と「極東委員会」、「日本政府」の駆け引きだけではなく、「枢密院」、「衆議院」、「貴族院」、「枢密院」と謂う改憲審議過程の正統性にも疑念を抱かせるものだ。昭和17年の翼賛選挙が良いと謂う者もいないだろうが、昭和20年12月に解散され、21年4月に実施されるGHQ選挙(第22回総選挙)は(婦人参政権が実現された普通選挙だからと言って)、良い選挙だったのだろうか。21年1月に予定されていた選挙が4月に延期され、その間に1月4日、GHQから「追放指令」が出され、それを受けて、2月28日勅令109号「公職追放令」が出されている。戦勝軍ならではの不正選挙であって、「国民の一部を排除した普通選挙」で選出された国会議員が「国民主権」を審議したのだ。また、この時の総選挙は敗戦前の昭和20年4月の選挙法改正により、樺太、朝鮮、台湾からも代議士が誕生するはずのものであったが、樺太、朝鮮、台湾において総選挙は実施されておらず、勿論これが実現することはなかった。
 
こうした主として、歴史的に引き継がれてきた事実を踏まえた上で、昭和天皇の「帝国憲法改正の裁可」があり、「日本国憲法」は公布・施行された。天皇を抜きにした日本国憲法はありえなかった、と謂うことについて主権者国民はどれほどの自覚があるのだろうか。「皇統譜」に記載され「戸籍」を持っていない、儒教文明圏では権力の必須要件である「姓」すらない天皇は、象徴である事に為っているが主権者とはどういう関係であるのか。そもそも日本人であるのか、それすら法形式的には明確ではない。「国家体制論」としてではなく、「国体論」でなければ触れられない議論の余地があるのではないかと思う理由である。
要するに、「領土」、「国民」、「改正審議過程」があいまいなまま、「天皇」という「存在の根拠があいまいな存在」によって「改正憲法公布」がなされたのは事実であって、これが「日本国憲法」なのである。
 
多くの人(現日本人)は気にもしていないが、南樺太、全千島列島に、何故日本国憲法が適用されず、奄美、小笠原、沖縄に、何故ある時期まで日本国憲法が適用されなかったのかを、隠蔽して成立している憲法である。尖閣も竹島もその一部である。
 
蛇足になるが第五の理由として、「憲法」と謂う基本法は、その下位に一般法としての「法律、政令、省令、条例、要項、要領、判例」を供えなければ、「法的規範力」を発揮できないのだという事も確認しておいて良いかもしれない。憲法はその解釈としての法律などを必要としており、単立では、「国家権力として人民弾圧」も出来ないし、「権力暴走の抑止力」にもなりえない。立憲主義と法治主義は両立していくより他ないイデオロギーである。この両立は「政治」と謂う作業の場で調整されていくより他ないものであろう。
 
簡単に五点、「国体論的に憲法を読む」理由を述べたが勿論それにとどまるものではない。
しかし、事前の注釈はこれで充分であろうから、先を急ぐ。
 
(三)、読解の前提としての事実の確認
 
参考までに、一応の年表的事実を読解の前に点検しておく。
 
日本時間昭和20年8月14日、日本政府は昭和天皇の(憲法的輔弼に依らない)決断で、「ポツダム宣言の受諾」を連合国に伝えていた(鈴木内閣)。翌15日、臣民に対して終戦を伝える「詔書」が「玉音放送」として流された。満州、樺太、千島における抗戦が直ちに収まった訳ではないが、本土における武装抵抗や皇太子を立てた抗戦計画などもおおむね挫折して、日本軍は8月中に急激に求心力を失い、兵のレベルでは「国軍」として解体した。
 
9月2日が降伏文書調印(外務大臣重光葵・東久爾宮内閣)、3日、重光がマッカーサーに会見して「間接統治の意向確認」。8日、連合軍による東京占領。10日、連合軍による「検閲の開始」、同日アメリカ議会において「昭和天皇戦犯決議案提出」。11日、37名に及ぶ戦犯逮捕の実施。15日、東久爾宮首相、マッカーサー訪問。16日、皇居前の第一生命ビルにGHQ本部移転。20日、外務大臣吉田茂にマッカーサー側からの「天皇によるマッカーサー訪問打診」、と謂う経過があるのであるから、このころ天皇が敗者としての振る舞いを見せよと謂う強い心理的圧力を感じていたことは事実であろう。9月27日、昭和天皇はアメリカ大使館のマッカーサー宿舎を訪問した。
 
10月4日、近衛文麿はマッカーサーから「憲法改定を示唆され」、このあと、憲法改正問題を委嘱されたものとして取り組む。10月9日幣原内閣が成立し、10日の初閣議から憲法改正の議論が公然化する。この日、5日に府中刑務所に確認調査に来ていたノーマンの指揮で徳田球一、志賀義雄ら政治犯が解放され始める。21日、近衛は外国人記者との会見で、憲法改正と天皇退任論に言及。昭和天皇と近衛の対立は、日本再建の筋道をめぐる極めて鋭い対立になった。24日、連合国は「憲章」を発効させ、いわゆる「国際連合」への衣替えを始める。「国際法」を濫造する体制を、総力戦戦争に勝利したことをもって動かし始めたのである。
 
11月1日、GHQは近衛への委嘱を否定する異例の声明を出す。12月6日、近衛へA級戦犯としての逮捕状が出され、参謀第2部対敵諜報局(CID)調査分析課長ハーバート・ノーマン(ソ連シンパ、共産主義者・MI5認定)、内大臣木戸幸一(2.26決起弾圧派)の関わる屈折した謀略戦の中で近衛(2.26決起理解派、「皇道派」は広義には近衛の周辺に結集していた軍人集団)は16日に服毒自殺をしている。前日の15日には「神道指令」が出され、国家神道が禁止されている。17日、衆議院議員選挙法改正・別表による朝鮮、台湾戸籍者、樺太排除の上、沖縄、千島に対しては附則による「これを行わず」を決定(小笠原決定せず)。18日、衆議院解散。
 
21年元旦、いわゆる「人間宣言」詔書が発布される。注目すべきはこれが臣民に出されたものではなく、国民に対して出されていることである。もちろん、事前にGHQから指示された上で、英文で文言についてもお伺いをたてた詔書である。敗者が身について来たのであろう。1月25日、マッカーサーは米陸軍参謀総長アイゼンハワー宛に、「・・・天皇を葬れば、日本国家は分解する。連合国が天皇を裁判にかければ、日本国民の憎悪と憤激は、間違いなく未来永劫に続くであろう。・・・」と謂う天皇無答責を良策とする極秘電報(手紙)を打つ(註5)。
 
その上で、2月3日、「マッカーサー三原則」と言われる、①、「天皇は国の頭Headである」など、②、「日本は、紛争解決の手段としての戦争のみならず、自国の安全を守る手段としての戦争も放棄する」など、③、「日本の封建制度は廃止される」などを明示して、GHQ民生局に「憲法草案」の作成を指示した。GHQ草案は2月12日に完成し、13日に日本政府に手交され、25日にGHQ草案全文仮訳が閣僚に配布(全92条)され、26日の臨時閣議でGHQ草案に沿った憲法改正草案の起草が閣議決定されている。
 
3月6日、「憲法改正草案要綱」の発表がなされ、マッカーサーがこれへの支持表明をしていたところから、2月26日に第一回目の会議を開いたばかりの「極東委員会」(連合国の対日占領のための政策を決定する正式会議。米・蘇・英・華・蘭・豪・ニュージーランド・加・仏・比・印の11カ国)とGHQに対立が生じ、極東委員会は4月総選挙の延期までをも求めてきたが、マッカーサーが押し切り、4月10日衆議院選挙投票、全466議席中、日本自由党141議席を獲得して比較第一党、22日から枢密院で諮詢案の審議が開始され(内容はすべて秘密会議のため議事録はなく要領以外不明)、5月29日審査終了、6月8日枢密院諮詢案可決(美濃部達吉顧問官反対の為、起立せず)、6月20日GHQ選挙を経て選出された帝国議会に「帝国憲法改正案」(全100条)が始めて明らかにされた。
 
この間、5月3日には「極東国際軍事裁判」が開廷され、4日には(総選挙で勝利し4月30日に単独組閣の方針を明らかにした自由党総裁)鳩山一郎がGHQから政府に対して公職追放を伝達されて、22日自由党吉田内閣が成立している。8月24日衆議院帝国憲法改正案修正可決、10月6日貴族院衆議院の修正改正案をさらに修正して帝国憲法案(全103条)を可決、7日、衆議院、貴族院からの回付案を可決、29日、枢密院「修正帝国憲法改正案」を全会一致(美濃部など2名欠席)で可決して、改正の手続きを終えている。
 
この経過の中に、(1)21年2月、「GHQ草案」、(2)、6月、「吉田内閣改正案」、(3)、10月、「国会可決日本国憲法」の三つが在る。政府と議会が、いかにGHQにおもねって行ったのか、点検しながら読んで行く事も「国体論」的には大切なことであろう。
 
参考的事実だけからでも、勝者内部での対立、勝者の変容、占領者と敗者の駆け引き、敗者内部の様々な動きが葛藤しているのが分かる。実際はもっと複雑極まりないことは明白だ。憲法改定案だけでも数十はあるだろう。だから、出来上がって現に存在している日本国憲法は、それに実際は組織されて、建前では主権者とされている人間が、自分で読んで自分で解釈しなければならない。作った人々も思惑だらけで作ったのだ。それを有り難がるのは可笑しい。自分の想い、自分との距離感を明確にしなければ、「護憲」も、「改憲」もないのだ、と謂うことは断言できることであろう。
 
〔以下註釈〕
 
(註1)「国体の本義」、「国体明徴」、「国体の精華」という形で使われる「国体」という用語は、実は、古代中国の『漢書』成帝紀・王莽伝などで使われてきた言葉で、「国柄」、「国の様子」などを指していた。それが日本に流入し古事記に伝えられている祝詞(出雲国造神賀詞)では、「出雲の臣等が遠つ祖天の穂比の命を、国体見に遣はしし時に、天の八重雲を押し別けて、天翔り国翔りて、天の下を見廻りて返事申したまはく、『豊葦原の水穂の国は、昼は五月蝿なす水沸き、夜は火瓮なす光く神あり、石ね・木立・青水沫も事問ひて荒ぶる国なり。しかれども鎮め平けて、皇御孫の命に安国と平らけく知ろしまさしめむ』と申して」などと、「国土の様子」というニュアンスで使っている。「国土と組織」と理解しても差し支えない。
 
これが、水戸学では大日本史を編纂する過程で、孟子の「易姓革命」説を否定して万世一系の日本の特殊性を強調する観念として、「天皇」が統治してきた「神国日本」を語る特権的用語として「国体」が使われるようになる。皇祖神末裔である天皇が君臨統治してきた国だから終わりなき国だと謂う理路で、「国体」が使われるのである。明治国家はこのイデオロギーを「脱亜入欧=富国強兵」国家建設路線のために、近隣アジア諸国文化の桎梏からの解放のために使い、昭和維新運動弾圧の後には白色帝国主義からの解放=大東亜共栄圏建設のために使った。
 
(註2)あまりにも当たり前のことであるが、現在の日本では西洋思想が学術分野の主流潮流をなしている。従って、天皇をsymbolとすることについて、天皇が人間であっても違和感が表明されていない。人格を持った人間をロボットのように意思なき存在として、憲法7条が書かれていることについても、強い批判が存在していない。しかし、日本国憲法は日本語で書かれており、日本人のものであり、日本文化を背景に人格形成をしてきた日本人が読むものである。日本語での「象徴」を人間に使うのは、この憲法が初出例なのではないか。元々が訳語だとしても、この使い方は漢字の造語機能を逸脱しているものである。「象徴」と「人格」は「客体」(対象)と「主体」(措定主体)であって、それを合体して新概念を作るという独自概念作業(「人間集合」と「個体としての天皇」の措定主体間の調整も含めて)がなされない限り、表意文字を使って新表意を成立させることができないのである。
 
天皇を象徴とした意味は憲法第一章を読むところで考えるとしても、憲法学者多数派が考えるような「69条対抗解散権」に因らない「7条解散合憲論」は、曲学阿世の徒という謗りを免れられないものである。「助言と承認」を与える内閣は、憲法と法律によるしか助言と承認の余地がない以上、憲法的には69条以外は内閣の助言の余地はないのである。まして、国会は憲法で明記された「国権の最高機関」である。それを、「国会」、「天皇」に次ぐ国権第三位の機関「内閣」の総理大臣が専権事項だと称して、どこにもその根拠規定のない国会の一院・衆議院を、何時でも解散できるだなどという話は常識論として読みようのない強弁である。強い悪意を持った(天皇ロボット)機関説論者以外に、こうした日本語を曲げる「7条解散合憲論者」が跋扈することは信じられないことである。
 
(註3)白川静『字通』p447、「形声・・・字は権量あるいは権要の意に用いる。おもりを権といい、物の軽重によって権をとりかえるので、権変の意となる。権によって軽重を定めるので、標準・準的の意となり、それより権威・権貴・権勢の意となる。みな権衡の意の引伸義である」とある。
 
(註4)『「孟子」の革命思想と日本 天皇家になぜ姓がないのか』松本健一
 
(註5)『昭和史』半藤一利p163-165など。
http://www.ndl.go.jp/constitution/gaisetsu/03gaisetsu.html国立国会図書館日本国憲法の誕生
 
(第1回。前説終わり)
 
次回 第2回 本説 第一章 日本国憲法の制定形式に続く。
 
(にしけんじ)
(pubspace-x2165,2015.07.31)