生き物語ー自然は尋常ではない!8話「ゴーヤにまつわる私的過去・現在」

 若生のり子(NORIKO WAKO)

 

ゴーヤを始めて食したのは、撮影の為に訪れた、沖縄返還前後の1972年5月。

友人のつてでコザにお住いのお宅に1泊ご厄介になったときでした。

98歳のおばあさんが作って下さった、ゴーヤチャンプルと豚、鶏肉、魚と沖縄野菜がたくさん入った鍋物でした。

あの時は、ゴーヤ独特の苦さの奥深さが分からず、少々食傷気味でしたが、出していただきましたものはすべて完食しました。

その時、この苦さ沖縄の過酷な歴史の苦渋だ!」と心の中で呟き、モグモグしながらいただきました。

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お鍋からわたくしのお皿に取り分けて下さるおばあさんの手の甲を見て、ドキッとしました。

彼女の手の甲には一面黒い刺青がありました。

「これは島抜けをさせないための一生消えない掟の刺青よ」とその孫の友人から聞きました。

ますます胸が詰まり、モグモグしてつっかえつっかえ、ゴーヤは咽喉をとおりませんでした。

第2次世界大戦で唯一の地上戦を戦った沖縄。

日本国昭和天皇の為に悲惨極まる理不尽で無謀な戦いを否応なく強いられ 、敗戦後もその昭和天皇とマッカーサーとの密約で、

米国の占領下におかれ、それ以後も散々な目に合わされてきた沖縄の当時のルポの撮影の為でしたが、、、。

もっとそれ以前の歴史、島津藩の強奪の生き証人の刺青を目の当たりに見るとは、思いもよらないことでした。

累々と続く根深い人間支配の業に、、、。

遠ーくを見つめざるを得ませんでした。

琉球は、ずっとこの方、島津藩や日本国や米国の支配によって悲惨で過酷な歴史を余儀なくされ、今もそれが続いていることを思いますと、、、。

彼らを犠牲にして、ノホホンと生きているヤマトンチュウのわたくしなんぞは、何をか況やで、消え入りそうになりました。

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この鮮やかなオレンジとレッド

南洋の野菜、独特です。

 

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食べきれず、収穫しないでおきましたら、グリーンが熟すにつれてオレンジに変色し、実の中の真っ赤な種と汁が、血のようにベランダに散乱していました。

店先で売られているグリーンのゴーヤしか知らなかったので、「これは一体全体何なのかしら?」といささかショックを受けました。

種が、こんなに艶やかな真っ赤で、ベトベトなのは、意外にも意外だったからです。

過去、琉球・沖縄の人々が、流し続けてきた血のように思われて、心が萎えてしまいました。

 

 

 

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西側2階のベランダの日よけとして ゴーヤを植えることを思い立ったのは連れ合いで5年前でした。

見通しの良い傾斜地にある我が家のベランダは、この上なくお日様が当り植物の育成には好条件なのですが、台風や暴風雨も容赦なく直撃します。

不憫なことに、5月に植えた苗は6月中旬の梅雨から9月の収穫期までに何度かその試練を乗り越えねばなりません。

プランターに立てかけ、屋根に引っ掛けただけのつる棚は、暴風雨の猛威には、ひとたまりもなくよじれてしまい、若い苗はくちゃくちゃになって、再起不能となります。

試作実験の1年目は、どうにかショボショボしながらも6本の苗のうち2本は生き残り、頑張って数個の実をつけました。

2年目には前年の学習が功を奏して、写真のようにかなり立派に葉をつけ、日よけと食卓を楽しませてくれました。

が、ゴーヤをつる棚一杯に這わすのは、コトある毎にかなりの気遣いと労力を必要とし、

しかも、連れ合いの助けなしでは、屋根に引っ掛けてつる棚を作ったり修理したりすることはなかな困難で、

この2回限りで残念せざるを得ませんでした。

今となっては、突然昨年亡くなった連れ合いとの共同作業の苦いながらも楽しい思い出のゴーヤです。

 

ゴーヤは、沖縄を代表する食材のひとつです。

返還後43年もたった現在でも、基地周辺の問題(米兵の犯罪・交通事故、航空機の墜落、騒音など)は相変わらず厳しく、普天間基地移設問題は20年もこじれています。

日本国も、米国も、当該の沖縄県民の意向など露ほども意に介せず、それどころか足蹴にしているのが現況です。

「ゴーヤが、苦く、苦く、苦くなるのは、沖縄の怒りと悲しみに感応してのことだ!」

と腑に落ちました。

 

(わこう のりこ Artist)

(pubspace-x2191,2015.08.07)