チェルシー・シーダー「ゲバルト-ローザ:日本における新左翼、ジェンダー、暴力」に寄せて

草丘 望

 
1、60年代、70年代に学生運動が論じられていますが、そのこと一般についての補足です。「ジェンダー」を主題にされようとしていますが、日本の学生運動は「70年安保沖縄闘争」が終わるまでは、72年までは、明らかに「労働運動」の補足運動であるという意識が強烈でした。
 
2、「労働運動」とは当然労働者の運動ですが、それが「労働組合運動に組織されているからダメ」なので、そこから逸脱する労働者組織運動をどのように作るか、を常に考えていました。その問題意識を突き詰めていって、日共は「合同労組」、社会党は「地区労」・「地評」(地域労働者・労働組合評議会)、革命的左翼は「反戦青年委員会」から「活動者会議」、「労働者評議会」、「争議団・支援者会議」を作りました。一部は「労働者経営委員会」で会社 運営をしたものもあります。革命的左翼も「合同労組」形態に70年代後半は進んでも行きます。おおざっぱに言って、何とか「地区ソビエト」を作りながらナショナルセンターとしての「全労活」を実体化させたかったのです。紆余曲折を経ながらそうした流れは、現時点では「全労協」になっているということでしょう。
 
3、マルクス主義派が圧倒的ですから、「プロレタリア革命」の主体に学生運動が成りえないのは自明の前提で、武井全学連以来の「層としての学生運 動」論に依拠して、社会的には学生運動も独自のことができる。しかし、歴史的に巨大な「革命」運動については、自分たちが主体ではない、という自覚は極めて強いものでした。労働運動が、民同「労働組合運動」に握られている以上、その中でヘゲモニーを育てていくことは当然としていても、外で 組合ならざる労働運動をという意欲は強かったのです。
 
4,60年安保はブンドの「全学連」主導の闘争だと喧伝されていて、それは必ずしも間違いではありませんが、総評東京地評幹部と極めて密接に連携した闘争であったことは、由井格さんなどが報告している事実です。全学連の突出と総評の大量動員は連携し計画されていたの です。
 
5、66年のブンド再建過程も、64年から「SM」と「電通ブント」と「ML」と「関西ブント」と「長崎造船社研」と「広島機械労組」の六者から始まったものです。このグループの中で学生運動グループは佐竹茂さんの「ML」しかありません。このうち、まず、64年に「SM」と「電通ブント」 と「ML」が合同して、いわゆる「MLブンド」が出来ました。佐竹さんが議長ですが、根回しをしたのは佐竹さんではありません。この段階で、第二次ブンド初代議長松本礼二も三代目議長さらぎ徳二も政治局員として参加しています。この、「MLブンド」に12月、独立ブンドグループも参加してきます。古賀暹(情況創刊者)、石井暎禧などです。これで、明大、東大、医学連など学生運動をかなり広く確保しました。時期を同じくして、佐竹さんが議長を辞任しMLブンドを抜けます。旧ML同盟グループの学生多数派は出ていきましたが、MLブンド創立時から佐竹さんを批判していた旧ML 同盟グループの学生はかなり残ります。独立系が入ったので、学生運動でもMLブンドが主流になりました。65年、これに「関西ブント」が合流して、「共産主義者同盟統一委員会」を作ります。これに、マル戦派を合流させて、66年再建第6回大会を開いて、「共産主義者同盟」が再建されます。
 
6、再建ブンドの歴史はそれはそれでいろいろありますが、一貫して労働者グループが再建したことは事実です。SMとは「社会主義青年運動」の略称です。社学同の歴史とは違っています。67年「明大2.2協定」という妥結をして、それが大学当局との妥協スキャンダルだとされ、古賀さん(ブンド学対責任者)、斎藤さん(三派全学連委員長)が失脚するなどして、学生運動の主導権を中核派に奪われると、早稲田の解放派、法政、横国の中核派に対抗するため、社学同は共産同の統制を離れようと動きます。塩見孝也さんはこの時、関西から派遣された学対部員でした。
 
7、その関西系学対が参加した反マル戦派グループが、実行した第一弾が望月彰さんというマル戦派系政治局員に対するテロでした。マグロになった望月さんを岩田弘さんのお宅の前にわざわざ放置して、マル戦派排除の姿勢を明確にしたのです。マル戦派は全然理論的には戦闘的ではなく、労働者運動を一番に考えていたグループで すが、それを排除して討論ではなくゲバルトで同盟内会議を制するという作法が持ち込まれたのです。マル戦派は67年10月、11月羽田闘争の主力でしたが、68年3月の第7回大会を機にブンドを出ていきます。
 
8、ブンド内部の学生運動の自立性が出てくるのはこれからです。時はちょうど日大闘争の最中でした。もちろん、日本中で学生運動は高揚し、「全共闘」も続々と造られます。それこそ安易に学生の動員は可能で、誇大妄想は容易に出てきやすい時期でした。
 
9、この時の全共闘こそが「全共闘」であって、決して69年1月の安田決戦以降のでっち上げ「全共闘」が全共闘を代表しているのもではないと思う のですが、多分、のちの人には誤解されているのだろうと思います。どちらかといえば、日大全共闘が類型的規範でしたが、本当のところはすべての全共闘が別々の組織原理を持っていました。
 
10、全共闘運動としていえば、日大、東大が印象的代表でしょうが、全学連運動と共存していたのだ、ということを忘れるべきではありません。そしてその時期、68年は全学連は三つから四つに増えた時期でした。一番活躍したのは、「三派全学連」(中核、ブンド、解放、ML派、など)、加盟自治会が一番多かったのは「民青全学連」、組織継承関係でいえば由緒が正しかった「革マル全学連」でしたが、夏休みに三派が割れて「反帝全学連」(解放、ブンド)ができます(ただし、中核派は全学連主流派と名乗って、分裂を認めなかった)。民青全学連はほぼすべての大学で全共闘を「自治会民主主義の破壊者」として敵視していました。革マル全学連は自治会が取れていない大学やない大学では、全共闘を認めていましたが、自分たちの足がないところや自治会を持っている大学では、敵対していました。三派や反帝は、全面的に共存していました。
 
11、私が知っている例えば、法政では動員力では毎年法大単独デモを全学で協力して取り組んでいましたが、このころで5000名を動員していたような記憶があります。最大時は多分71年で1万人を動員しました。日大にさほど劣らなかったはずです。68年は学費値上げに反対する「学費値上げ反対全共闘」でしたが、これは68年の秋ごろに勝利し、69年には学生会館の自主管理権を勝ち取るための「学館全共闘」になります。70年新学期には 日本帝国主義を打倒するまで、無期限バリケードストライキを続けるという「安保粉砕・日帝打倒全共闘」です。民青以外は皆賛成(創価学会系の新学同を作ろうとしていた諸君も)で、プロレタリア軍団(法自、二部教養部自)が第一軍団、中核(経自、文自)が第二軍団、という感じで応援団、体育会も含めて軍団編成でした。文連も、各サークルも自分たちの傾向で軍団編成式になっておりました。黒軍団、白軍団、青軍団、緑軍団などなどです。10軍団ぐらいあったでしょう。
 
12、で、それらのグループが、全部自分たちが主体にやるのではない、日帝打倒に向けて指導部を求めていたわけです。そういう時代でした。革命を目指す人々に幻想がありました。結構純朴な雰囲気でしたが、それは多分法政大学という「自由と進歩」を掲げる非エリートリベラル大学という事情と、学内警察としてのプロ軍と学外に拠点であることを誇示していた中核派の任務分担が成立していたからでしょう。両者とも学生活動全般に対して優しかった、セクト支配的なことをしなかったという印象があります。
 
13、あの時代を学生運動の時代とみるか、革命運動の時代とみるかですが、私は学生運動の時代とみることにかなり違和感を感じます。府川充男さんも、すが秀美さんも書いていることですが、デモに際して、巨大な群衆の存在を抜きにあの時代を語ることはできません。群衆あってのゲバ棒ですし、群衆が投石してくれるから弾圧しにくい状況があったのです。
 
14、その群衆は労働者もかなりいましたが、職人や第三次産業従事者が相当部分を占めていました。第二次産業よりもさらに劣悪な状況で働いていた 人々です。その人たちのうっぷん晴らしと共鳴していました。まだ、大学進学率が短大なども含めて30パーセントにようやく達した時代です。
 
15、ジェンダーがらみで言えば、私が知る限りでは、女の人を馬鹿にしたり、軽んじたりすることはありませんでした。もちろん、私のことですから、「女」という言い方にこだわり、「なんで女性といわなければならないんだ」とか、「朝鮮人を朝鮮人と言ってなぜ悪いんだ、ごまかすほうが悪いだろう」とか、「ちんば、メッカチ、唖、ツンボをなぜ排斥するんだ。言葉がなければ問題にできないだろう」とかいう類の 言説は吐いていますが、糞真面目に言うせいか、嫌われた記憶もありません。
 
16、差別問題が社会的課題として浮上するのは、70年の「7.7」集会で華僑青年闘争委員会から新左翼諸党派が、「抑圧民族」の一員として、「被抑圧民族」を無視したまま世界革命を目指すのかと糾弾されて、この糾弾に対して、全面的に屈服し自己批判に走ってからです。その前、69年の11月に中核派が浦和地裁屋根を占拠し、「狭山差別裁判糾弾」という大きな旗を掲げました。部落差別の問題と戦前の侵略の歴史と、ともに避けて通れない問題を「差別問題」として提起されたため、新左翼はそれに取り組み始め、それが社会的風潮になったのです。
 
17、しかし、世界革命を目指す、いわば転覆運動体が、なぜ、転覆対象である他者の負債を背負わなければならないのかを糾弾される側として、論理的に反論できませんでした。そのことによって、社会的に差別問題が浮上したのは良いのですが、誰がどの様に解決すべきなのかは却って曖昧にされました。「女性差別」問題も同様です。この世には男と女しかいないのに、「性差別」とは問題を無効にしてしまうのではないか、という疑問などは封印されました。社会的生産過程には、人間はできるだけ少なく動員されるほうが良いだろうとか、ことに子供を育てるための家族にとっては、家に沢山大人がいた方が好いだろう、などという疑問は隠蔽され、「婦人参政権」ならぬ、「婦人労働者権」ばかりが強化され、女の人もみな社会で仕事をしなければ子供を育てられない「家庭の収奪」が普遍化していきます。
 
18、そういう意味では、「ジェンダー」論は問題にしている人も含めて、人類学的な問題である「家族」を軽視して、管理通貨制以降のカネが供給されることを通じて、資本は倒れにくく、生産力は拡大し、家庭生活とはカネを媒介に過剰消費をすることだ、というイデオロギーに飲み込まれている印象がぬぐえません。
 
ちょっと、余計なことを書きすぎました。失礼します。
 
(くさおかのぞむ)
(pubspace-x2158,2015.07.30)