ふたつのテロの後で -宗教とナショナリズム(6)-

 

高橋一行

(5)より続く
 
 大澤真幸は、2015年1月7日に起きたパリのテロに触発されて、「資本主義の<その先>に」連載を始め(注1)、同年11月13日に再びパリにテロが起きると、それについて、その連載の第13回目で次のように書いている。すなわち、この事件の、日本における報道の少なさに、「単純に驚いた」と言うのである。「人権」も「国民」も、皆、フランスから私たち日本人が学んで得た概念であり、今回の事件は、それらに対する攻撃にほかならず、かつ、日本もまた、その矛先が向けられているテロだというのに、あまりに、報道やその後のコメントが少なすぎるのである。
 これはまったく以って、同感というしかなく、そして私自身、1月7日のテロを受けて、この論稿を始め、また、10月の時点で、今回分と次回分は書き上げていて、しかし、それら発表をする前に、11月13日のテロが生じてしまい、早急にその分析をして、世に問うべきだと思う。この論稿は、テロ対策を論じたものではないのだけれども、のちの歴史学者が、ここから世界が変わったと見做すべき大事件が、一年の間に、ふたつも起きてしまったのである。その分析は、私たちの責務である。
 
 大澤の分析では、資本主義は、内部に、格差の拡大という弊害を持ち、外部に、イスラム諸国からの移民という問題を抱える。
 まず、格差の拡大という問題は、現象から言えば、誰の目にも明らかである。これは私は、以前からネットワーク理論を使って論じていて、結論だけ述べれば、その拡大は、情報化社会においては、不可避である。日本でも、社会構造として、第二次産業が中心の頃は、国民の中間層を育てていたが、第三次産業中心の世の中では、格差是正の手が打てない。
 さて、大澤は、この問題をピケティを使って論じている。ここでは、19世紀の100年間で格差が広がり、それが20世紀になって、ふたつの戦争、大恐慌と、例外的な経済成長があって、格差が縮小するが、この数十年は、再び、格差が拡大して行く。このことが、論証されている(注2)。そして、ここで重要なのは、この大きすぎる格差は、資本主義を脅かすということなのである。つまり資本主義は内部に大きな問題を抱え込んでいる。このことだけ指摘しておく。
 格差問題は、必然的に、スーパー経営者を産み出す。とりわけアメリカで、企業のトップ経営者は、極端に高い報酬を得ている。ビル・ゲイツを思い浮かべれば良い。つまり、神である。大澤は、彼らを、資本主義の内なる神と呼ぶ。彼らは神であるために、圧倒的に高い報酬を得ることが許されている。また彼らの存在が、アメリカ社会の幸福と救済のための保証になっている。ここでは、資本主義の内部にいたはずの経営者が、人間の外に祭り上げられているという事態を確認する。
 さて、大澤は、ここで、もうひとつの神、つまり、資本主義にとって、外部の問題である、イスラム原理主義の分析に移って行く。そして、実は、この外部の神の問題は、実は内部の問題なのだと持って行く。このイスラム原理主義の問題は、実は内部の格差の問題である。そのように主張する。それはどういうことか。
 この間のことは、ジジェクが簡潔に、かつ繰り返し語っている。大澤もそれを引用する。この章の後半で、ふたたび、書くことになるが、簡単に言って置けば、それは次のようなことだ。つまりイスラム原理主義者は、なぜ、テロを行うのか。それは、私たち先進諸国を羨んでいるからにほかならない。彼らが真の原理主義者ならば、自らが確信している真理に従って、生きて行けば良いだけのことだから、先進諸国の国民が如何に自堕落であろうと、関係ない筈だ。しかし、彼らは、ひそかに、先進諸国の基準を持ち込んで、そこから自らを劣っていると思い、私たちを妬ましく思うのである。すると、この外部の神は、実は資本主義内部の格差の問題なのである。
 すると、ここで、外部が内部になり、内部は外部に反転するという、如何にも、ジジェク的な、またはヘーゲル的な話になるのだが、問題は、さらに問い詰められねばならない。事態はさらに深刻である。
 つまり、イスラム原理主義は、資本主義の内部の問題なのだが、しかし、彼らの奉ずるイスラム教は、一神教であり、しかもキリスト教よりも、厳密な一神教である。このことが、彼らに、資本主義の外部に立たせようと促すことになる。超越的な神だけが、資本主義の倫理的な特性を映し出すからだと言うのである。このことが分析されねばならない。
 さしあたって、とりあえずの結論として、資本主義は、内部と外部に神を持ち、それは相互に反転し、それこそが、資本主義の問題であるということを確認しておこう。そして、大澤は、ここで、イスラム地域がなぜ資本主義を生まなかったのかという問題の検討に移る。これが、先の、資本主義の倫理的特性の問題と関わる。
 こういう風に考えても良い。ウェーバーは、プロテスタンティズムの倫理が、特にその禁欲精神が、資本主義を産み出す基盤になったことを、詳細に論じている(注3)。ではイスラムは禁欲的ではないのか。また、イスラム教のどういう特徴が、資本主義と合わないのか。
 これは、大澤の『<世界史>の哲学 イスラーム篇』で検討された問題である(注4)。この時、大澤は、繰り返し、本当はイスラム教の方が、キリスト教よりも、資本主義を産み出す基盤を持っていたのではないかと問うている。というのも、イスラム地域は、東西の交易に有利な場所であるし、ムハンマドは有能な商人で、その宗教の倫理は商業的であるからだ。しかし歴史的な事実はそうではない。ここで大澤は林智信の論考「イスラームの倫理と反資本主義の精神」を参照する(注5)。
 まず、イスラム教では利子が嫌われているから、資本主義が発展しなかったのだというという俗説を退ける。利子はキリスト教でも嫌われており、共同体は、それを禁じていた。そして、イスラム教でも、キリスト教でも、その嫌われている利子を、合法的に活用するための抜け道を持っていた。どちらも、独特の金融技術を持っていたのである。いや、むしろ、イスラム教の方が、その抜け道の巧みさの点で勝っていた。つまり、利子が認められなかったから、イスラムで資本主義発達しなかったのだということは、言えないのである(注6)。
 では、イスラムのどこに、資本主義の発達しなかった原因を求めることができるのか。林は、それを、法人を認めないことに由来するとしている。法人は、資本主義においては、集団契約の不安定さを解消するために、必要とされたが、つまり個人は死んだり、集団を抜けたりするが、その都度、集団の契約をやり直していたのでは、その契約の維持は難しく、擬制的な法人格が要請されるのである。しかし、イスラムでは、それは認められていない。
資本主義は、法人が認められてから、無限の利潤の追求が可能になり、発展して来たのだが、しかし、イスラム文化圏にあっては、神と契約を遂行できる主体しか、主体として認められず、信仰告白、礼拝、断食、喜捨、巡礼といった、宗教的な義務を履行できない主体は一切認められないのである。まずは、そういう理由で、イスラムでは、法人が認められない。
 実は、さらに、理由がある。法人は、永続的なものである。しかしイスラム教は、この永続性を拒否する。イスラム教徒にとって、時間は連続ではない。それは、一瞬、一瞬、アッラーが創造するものであり、従って、時間の因果律を前提に、未来に向けて投資するということは、禁じられる。以上が、林の説である。
 大澤は、この、林の説を前提にして、もう一歩、考察を進めている。つまりイスラムで資本主義が発達しなかったのは、法人がないことだという理由を確認し、その基盤として、永続性がないからという理由を一応は肯定する。しかし、もっと厳密に考える必要がある。むしろ、なぜ、キリスト教文明から資本主義が出て来たのかを分析すべきである。
 まず、中世の神学者が、キリスト教とアリストテレス哲学を合体させたのだが、その際、アリストテレスの、時間の持続性の観念が、キリスト教の中心に置かれることになる。話はそこから始まる。世界は永続的である。
 そしてこのことと、先ほど述べた、利子が、キリスト教においては、禁止されていたこと、しかし技術的に抜け道があり、利子は使われていたこととが、結び付く。ここに、負債という概念が出て来る。資本主義社会で、借金をすれば、負債は、永続的に続くだけでなく、利子が付き、負債は増加するのである。それは、そのままでは、いつまで経っても完済されない。
 そこで、一生懸命働き、負債を支払わねばならないのだが、しかし、利子がある以上、いつまで経っても、負債は完済されない。そこから、勤勉に働くことが、倫理的に推奨され、資本主義下の主体が成立する。ここで、ニーチェが使われる。ニーチェにとって、負債感こそ、人間の特徴である(注7)。そしてこの時間の永続性と負債感が資本主義を生んだのである。
 さて、大澤の問題意識は、資本主義の起源であって、さらに分析は続くのだが、そして私もこのことには興味があるのだが、ここでは、しかし、以下のことだけ確認できれば良い。つまり、イスラム教は、あまりに強い一神教であり、すべての倫理はアッラーが決め、時間もまたアッラーが創造する。そこには、アリストテレスの永続の観念もないし、ニーチェの負債の概念もない。とすると、歴史的に、イスラムに資本主義が起きなかっただけでなく、イスラムではやはり、資本主義が今後も起きないということになる。アッラーは資本主義の外にいて、むしろ資本主義を制約し、資本主義の倫理的特性を批判的に炙り出すのである。とすれば、いつまでもイスラム諸国は、資本主義制度の中で、後進国でい続けるのか。そして欧米の資本主義は格差を生み続け、イスラムを差別し続けるのか。
 
 今、アラブ民族の大移動というべき事態が起きている。それは古代ローマを終わらせ(本稿第4回)、近代ヨーロッパを準備し、そして今、その近代を終わらせるべく、新たな世界的な再編成を要求している。しかし、欧米のナショナリズムがそれを阻む。
 問題は、資本主義を巡って、欧米ナショナリズムとイスラムという宗教が戦っているように、私には思える。その前者が、思いのほか、宗教的だということを、今まで私は書いてきた。今回は、後者が、資本主義の遅れを、今後も取り戻せないのではないかという問題を扱っている。これはさらに議論が必要だが、しかし、このことは、次回以降に続きを考えよう。

 この後は、ジジェクに行く。今まで参照して来た大澤の議論のベースになっていると思われるからである。
 ジジェクが、盛んに、フランスのテロ事件に言及している。ここでは、1.7のテロを受けて書かれた短いエッセイをふたつ、11.13後に書かれたものをひとつ、取り挙げる。彼は、2001年の9.11についても、積極的に発言してきており、さらには、2005年秋に、デンマークで、ムハンマドの風刺画に激怒したイスラム原理主義者が起こした暴力についても、詳細に書いている。これも取り挙げる(注8)。しかも、その状況に、彼の難解な哲学の見事な具体化が現れていて、今回も、同じことが言えるだろうと思う。つまり、ジジェクの良さを具体的に理解するためにも、今回の事件についての、ジジェクの発言をていねいに分析することが必要だ。
 ジジェクの言っていることは、次のことだ。まず、2015年1月に書かれたものの方から見て行こう。
 イスラム原理主義者は、実は本物ではない。つまり、彼らが真の原理主義者ならば、非イスラム教徒がどんな生活をしようが、それに憤りや嫉妬はしないはずだし、フランス人が何を言おうが、何をしようが、関係なく、信仰に没頭していれば良い。しかし、実際には、彼らは、劣等感を持ち、非イスラム教徒に脅かされていると感じる。それは実は、ひそかに、欧米の価値観を受け入れていて、その基準を内面化し、その尺度で自分たちを判断している。その基準に照らして、自らの信仰に優越感を持ち得ないでいる。それが、あの風刺画に過剰に反応し、フランスにテロを引き起こす所以だ。彼ら、偽物の原理主義者たるテロリストに欠けているのは、自分たちの方が優位に立っているという、「人種主義者」的な信念である。
 この指摘が、根本である。つまり彼らテロリストは、イスラム原理主義者なのではなく、欧米の価値観から、自らを資本主義社会での敗者と位置付けているのである。
 もうひとつの問題は、欧米の左派が持っている罪悪感で、自らの罪を追及すればするほど、イスラムへの嫌悪感を隠そうとする偽善者になってしまうと恐れている。イスラムに寛容になればなるほど、ますますそのプレッシャーに押しつぶされてしまっている。
 ここで、ジジェクがしばしば引用する、ベンヤミンの言葉が挙げられる。つまり、ファッシズムが出て来たのは、革命が失敗したからである。まさしく、ここでも、左派が失敗して、大衆を動員できず、イスラム過激派が勃興したのである。これは、イスラム諸国の世俗的左翼が消滅したからにほかならず、問題は、従って、なぜ左派が消滅したかということだ。
 一方、欧米の左派にとっても、彼らがよって立つ基盤は、今や、リベラリズムしかなく、資本主義批判に向かわない。彼らはせいぜい、どう移民を受け入れるのかという議論しかしない。しかし、問題は、資本主義社会の矛盾にある。
ここでリベラリズムの問題が出て来る。リベラリズムは、それ自身の力では自立できず、原理主義に抗し得ない。原理主義は、そのリベラリズムの反動として出て来る。両者は、補い合っているのである。だから、リベラリズムを原理主義から切り離してしまうと、自ら崩壊する。それを救うには、左派を復活させるしかない。
 
 11月に書かれたエッセイも、基本的には同じことを言っている。
 いつの間にか、私たちの周りでは、階級闘争が文字通り抑圧され、リベラルな話題に取って代わられた。問題がすり替えられている。イスラム-ファシストと欧米の反移民人種主義者は、同じコインの両面にほかならず、彼らの暴力を、十分に意識することが私たちの義務だ。妥協はしてはならない。
 そのためには、階級闘争を取り戻すこと。搾取され、抑圧される者たちとのグローバルな連帯のみが必要なのである。
 今回の事件の背後にある状況を、イスラム原理主義と西洋のリベラリズムの対立と捉えてみる。後者は、言論の自由、宗教批判の自由を唱え、フランスのライシテを尊ぶ。
 さて、問題は、両者が和解不可能なほどに対立しているということが問題なのではない。実はイスラム原理主義は、ひそかに、リベラリズムを受け入れている。いや、自分たちが、リベラリズムに侵食されていると恐れている。リベラリズムの原理を受け入れ、それに照らしてみると、自分たちの劣位を感じざるを得ない。自らコンプレックスを感じている。それで、ますますその分、過激になる。
 一方、西洋リベラリズムはと言うと、リベラリズムはそれだけでは存立し得ず、原理主義に押されている。リベラリストは、原理主義に引け目を感じる。
 イスラム原理主義の勃興は、これも左翼が衰退したからである。リベラリズムは、左翼と組むことができなくなると、右派原理主義を補完する。
 ここから出て来る帰結は、原理主義を押さえるには、左派を促すしかないということである。
 しかし、その左派とは何か。また、左派の勃興は現実的なのか。
  
 さて、以下、『暴力』を読む。ジジェクの著作の中で、これが、一番分かり易いものだ。これは、2005年9月にデンマークの日刊紙に掲載されたムハンマドの風刺漫画を巡り、イスラム諸国の政府および国民の間で非難の声が上がり、外交問題に発展した事件がきっかけで、書かれた。この事件は、まさしく、10年後のテロを予測するものであり、そしてジジェクの、2015年のテロを受けての一連の論考は、ほぼ、この、2008年の本の中ですでに扱われている。これら上述の論文は短いもので、ジジェクに馴染んでいれば、その言いたいことが分かるだろうが、そうでない場合は、この『暴力』を読む必要がある。
 この本は、6つの章から成るが、ここでは、第2,3,4章を取り挙げる。まず、第2章から始める。
他者の傷つき易さへの配慮と、他者を行政的に管理することとは、実は同根である。前者で使われる、傷付きやすさ、vulnerableという単語は、バトラーなどが他者論のキーワードとして使っており、他者性の尊重とその全面的な受け入れは、今日、リベラルの主張の根本である。後者は、フーコーの表現で言えば、生政治であり、人が生存する上での安全性と福祉を管理することである。アガンベンの言い方では、聖なる存在、ホモ・サケル、つまり、あらゆる権利を剥奪された存在に、人間を還元することである。これは、ハラスメントを受ける可能性から身を守ることであり、ハラスメントに対する脅迫的な恐れに基づく。
 この、まったく正反対を向いていると思われるふたつのことが、実は同じだというのである。ジジェクは、これを、無限判断だと言う。まったく結びつかない筈のものが、実は同じものだとして結び付いているからである。
 他者は、実は、私にハラスメントを与えない限りで、尊重される。私はまた、他者に過剰に接近しない。私にとって、他者は実際には、他者ではないし、他者はまた、私を受け入れるのではない。かくして、私は他者と安全な距離を保つことができる。
 ここで他者は、根源的に、その毒を抜かれている。または他者は排除され、存在しない。
 ここで、普遍を標榜するキリスト教が批判される。キリスト教は、その倫理が普遍的であればあるほど、つまり、すべての人を包含するものであればあるほど、キリスト教共同体への参入を拒否するものを、完全に排除する。非信者は、人間ではなくなる。ユダヤ教の選民主義は、まだ、他の人々の存在を前提としていたが、それを克服したというキリスト教は、すべての人を包括するために、逆に、人類という普遍的枠組みから、非信者を排除する。これはしばしば、ジジェクが行うキリスト教批判である。
 では、普遍性という同一性を廃し、他者を尊重すれば良いのか。ここでジジェクは、これもしばしば取り挙げるレヴィナスをここでも批判する。レヴィナスにとって、他者は、倫理的命令を発する、尊敬すべきものであるが、それは、他者の異質性を考慮していないと、ジジェクは言う。確かに、普遍性の根底にある同一性への欲求は、ここで抑えられている。他者は他者である限り、尊重されている。しかし、他者が我々を脅かすという側面は、ここで、考慮されておらず、そのようにジジェクは批判する。他者と根源的に出会うことは不可能なのである(注9)。
 さて、そもそも言語が暴力だという観点が、ジジェクにはある。ムハンマドの風刺画に反応したムスリムは、風刺画の背後にある、精神的な姿勢、つまり、西洋という複雑なイメージに反応している。それは彼らに対して、暴力的に現れる。つまり、西洋帝国主義、神を忘れた物質主義、快楽主義、パレスティナ人の苦しみといった、シンボルや態度の織物であり、それが、風刺画と結び付けられる。この暴力こそ、言語がもたらすものである。
言語は、事物を象徴化するが、この象徴化こそが、暴力である。そして人と人とのコミュニケーションの過程において、そこに対等な主体間の関係は成立せず、つねに、非対称的な暴力的な関係がある。
 この暴力、つまり他者への侵犯は、押さえることができない。そして、この暴力の究極の手段が言語である。この言語が、我々の欲望を限界の外へと突き動かす。この欲望の過剰こそ、人間の欲望の本質そのものである。
 第3章では、先の、イスラム原理主義者の似非原理主義者であることが繰り返される。彼らが、本当に原理主義者であるのならば、ルサンチマンと妬みはない筈で、無信仰の人が何をしても気にならないだろう。つまり、真のイスラム教原理主義者なら、無信仰者が、ムハンマドを侮蔑したところで、そんなことには煩わされず、信仰の道に生きる筈である。
 しかし、似非原理主義者の彼らは、テロ行為に走った。これは、彼ら自身のコンプレックスのなせる業ではないだろうか。つまり、彼らは、自らを、西洋よりも劣ると考えたのである。西洋の方は、リベラリズムが原理で、自らは、イスラムよりも優越していないと、建前上は言うのだが、却って、それが、イスラムのルサンチマンや妬みを高める。実際には、差別しているからである。
 原理主義者に欠けているのは、自らが優れているという、差別主義的な信念である。しかし、ここは、ジジェクが、ラカンを引用して、度々言うところだが、そして、ここにジジェク=ラカン(さらに、ヘーゲルを付け加えても良い)の根本が現れているのだが、人間の欲望とは、常に他者の欲望である。他者を欲望し、他者から欲望され、他者の欲望するものを欲望すること。つまり、妬みやルサンチマンこそ、人を行動に駆り立てる根源なのである。
 一方、西洋の側でも、壁を作り、移民が北アフリカからヨーロッパに流入するのを防ごうとする。これは、リベラル左派の政権においても、まさしくそういう傾向がある。というのも、彼らは、移民の増大に直接影響を受ける、地元の労働者の要求を受け入れざるを得ないからである。しかし、彼らがすべきは、移民の締め出しではないはずだ。失業を増やしているのは、移民ではないからだ。政治と経済こそが問題のはずだ。1960年代、70年代と、労働力として、移民を必要とするときは受け入れ、必要でなくなれば、邪魔者扱いにするということは、当然問題にすべきことだが、それだけでなく、今、ここで、移民を締め出すことが、問題解決にはならない筈だということを言って置くべきだ。問題は、内部にある。
 かくして、第4章に繋がる。リベラリズムも原理主義もどちらもくたばれという、ジジェクの主張が繰り返される。
 イスラム原理主義は、欧米に対して怒り、他者としての彼らに対する敬意を要求するのだが、それはしかし、リベラリズムの寛容の原理を受け入れ、その枠組みで、西欧に対応していることになる。一方、欧米は、イスラム教を冒涜し、他者の持つ一番の弱点、つまり、イスラム教の信仰の核を攻撃する。しかしこれは、際立って宗教的な作業ではないか。つまり、神への冒涜は、宗教的な枠組みの中で行われている。
 つまり、イスラムは、リベラリズムの領域で、物事を発想し、西欧は、宗教のレベルで、行動している。両者ともに、相手の地盤で戦っている。
 この両者をともに廃さねばならないのだが、幸いにも、欧米には、無神論という、価値ある遺産がある。宗教的な呪縛を解くには、これしかないのではないだろうか。どの宗教でも良いという(これがリベラリズム)のではなく、複数の宗教をまとめ上げるのでもなく、無神論という宗教一般を信じるのである。現実を受け入れ、自らの生が生み出すものに対する責任を担う覚悟を持つ。そして、神の名の下では、すべてが許されるという宗教性を、完全に放棄するのである。
 そしてイスラムには、自分の宗教に対して、責任を取ってもらう。西欧のリベラリズムの価値観で、わがままを言うイスラムであってはならない。対欧米の、つまり彼らにとって、外部への問題は、容易に内部の問題に転化する。あるいはそもそも最初から、それらはイスラム諸国内部の問題なのである。つまり、自らの宗教の問題は自らで考える、大人のイスラムになってもらう。
 そして西欧に話を戻せば、そのようなものとして、イスラムに対することができる者こそ、つまりイスラムに対して真の敬意を払える者こそ、真の無神論者である。
 

1 webちくま https://www.chikumashobo.co.jp/new_chikuma/ohsawa/01-1.html
2 Piketty, T., Capital in the Twenty-First Century, translated by Goldhammer, A.,2014 なお、この分析が、本稿の目的ではない。邦訳が出た後に、日本でも夥しい解説がある。
3 本稿(3)参照。なお、プロテスタンティズムを産み出したのは、カトリックであり、ここでは、これをキリスト教の特徴としてまとめてしまって良い。
4 大澤真幸『<世界史>の哲学 イスラーム篇』講談社、2015
5 林智信「イスラームの倫理と反資本主義の精神」『思想』No.974, 2005
6 林も大澤も、この抜け道について、詳述しているが、本稿では重要でないと判断して、簡単に指摘するに留める
7 ニーチェ, F., 『道徳の系譜』信太正三訳、筑摩書房、1993
8 Žižek, S., Violence –Six sideways reflections, Picador, 2008 = 『暴力 -6つの斜めからの省察-』中山徹訳、青土社、2010
“Slavoj Žižek on the Charlie Hebdo massacre: Are the worst really full of passionate intensity?”
http://www.newstatesman.com/world-affairs/2015/01/slavoj-i-ek-charlie-hebdo-massacre-are-worst-really-full-passionate-intensity , 2015 = 「最悪の者らは本当に強烈な情熱に満ち満ちているのか ?」清水知子訳、『現代思想』Vol. 43-5, 2015
“In the Grey Zone, Slavoj Žižek on responses to the Paris killings”,
http://www.lrb.co.uk/2015/02/05/slavoj-zizek/in-the-grey-zone , 2015
“The Paris Attacks and a Disturbance in a Cupola”
http://www.newsweek.com/slavjo-zizek-paris-attacks-396085 ,2015 = 「キューポラの騒乱」清水知子訳、『現代思想』Vol.43-20, 2015
9 拙著『他者の所有』参照。
 
(たかはしかずゆき 哲学者)
(7)へ続く
(pubspace-x2887,2016.01.07)