ヘーゲルを読む 5-3 偶然と必然(マラブー論3)

高橋一行

5-2より続く

習慣によって、魂と身体は統一された。そこで成立するのは、5-1において論じた、可塑的個体である。ヘーゲルが『美学』で論じた、内的なものと外的なものとの一致としての、可塑的個体は、また普遍性と個別性、類と個の統一でもある。
しかし習慣はまた、人を殺すとマラブーは言う(『ヘーゲルの未来』p.126)。習慣は、ひとたび目的を達成すると、その個人を死に追いやる。生の習慣は、死そのものである。人間は、消滅していく主体である。人間の主体性は、自己忘却の中で構成される。それは、自己を不在化することで、現実性が獲得される(p.125)。
 
死もまた、無限判断である。個は有限で、次々に個体が死ぬ。これは悪無限である。しかし、その中に、すでに、類という無限が胚胎している。死において、類と個は合致する。しかもいささか強引にである。それを以って、無限判断と称することができる。
 
マラブーは、「実体-主体は、人間の死の中で、回帰する」(P.125)と言う。このことの意味を、マラブーが考えている以上に、展開してみること。死が精神を生む。つまり、偶然という一個の死が積み重なって、精神という必然が現れる。このことを、分析するために、マラブーの別の本を必要とする。しかし、その本に言及する前に、ヘーゲルを読んで行く。
 
一個の個体の死は、それ自体無意味で、偶然的なものである。個体の死は、無限に続く。動物の場合、それは、悪無限と言って良い。しかし、人間は、そのことを自覚する。すると、ヘーゲルの理屈では、それは、真無限だ。無限に続く死の中に、精神が宿る。
死と精神の関係は、偶然と必然の関係でもある。一個の死は偶然でしかない。しかしその集積が、精神=類という必然を生む。
ここに偶然と必然の考え方が良く出ている。一個一個の死が、つまり偶然が、その裏に必然を宿しているというのではない。また、偶然は、必然の仮象ではない。しかしその集積は、必然に転化する。そこに自己組織化の原理が働く。動物の死は、いくら集積しても、そこから精神は出て来ない。人間の死のみが、精神を導く。
動物の死も、人間の死も、一個の個体の死としては、無意味で、偶然的である。動物も人間も、性行為をし、やがて死んで行く。その集積も、動物の場合は、最後まで無意味である。進化論的に考えれば、その無意味を通じて、進化するのだが、従って、長期的には、必然の過程にあるのだが、ヘーゲルは進化論を知らないから、そういう議論はしない。しかし人間の死は、そこから精神が出現する、根本原因である。では、動物との違いは何か。それは、死を意識するかどうかである。ヘーゲルは議論をそのように持って行く。その自覚の有無が、動物と人間を分ける違いとなる。そして、その違いが、悪無限と真無限の違いである。
 
自然から精神の出現というテーマで、ヘーゲルを読解する。『エンチュクロペディー』を読んで行く。読むべき個所は、三か所ある。
ひとつは、「小論理学」の「生命」の箇所である。222節に、「個別的生命の死が、すなわち精神の出現である」とある。ここに至る、数節を読み解く。
ふたつ目は、「自然哲学」の最後の箇所「個体のおのずからなる死」のところである。そこのところでも、個体の死から、精神が出現するとされている。
みっつ目は、「精神哲学」の最初のところ、「精神の概念」、とりわけ、381節の補遺を読み解く。
補足的に、『大論理学』も使いたい。「小論理学」と同じ、「生命」の箇所である。しかし、ここでの論点で、何か新しいものが付け加わっていることはないだろう。一応、確認するためである。
 
「小論理学」の、220節から、222節まで、及びその補遺を見る。まず、個体は同じ類に属する他の主体と関係する。これが性である。そして、この性によって、他の個体が生み出されるが、同時に、元の個体は、死ぬ。動物にとって、この類の過程が、生命の頂点であるとされる。直接的な生命は、子を産み、また自らは死ぬという過程を経る。これは、悪無限である。次々と個体が生まれ、次々と死ぬ。しかしこのことによって、生物は、「その真実態へ、自分自身へ到達し、自分自身に向かう」。かくして、「個別的生命の死が、すなわち精神の出現である」となる。
だが、これだけでは良く分からない。精神の出現が、真無限だが、では一体、どのようにして、自然は悪無限を脱して、真無限に至るのか。「自分自身へ到達し、自分自身に向かう」ことによってだとしか言われていない。
 
「自然哲学」では、376節の補遺を見る。「かくして、自然の死を超えてその死せる外皮から、ひとつの、より美しい自然が出て来る。すなわち、精神が立ち現われて来る。」しかしどのようにして出現するのか。「精神は、精神が前提するところの自然の中にいて、常に、すでに、自然の中で保持されているのである」。自然から精神が出て来るのは、自然の中に、すでに精神がいて、それが、自ら出て来るのである。
 
「精神哲学」の381節の補遺に行く。
動物の死は、個別の否定であるが、まだその有限性を克服していない。この克服は精神によって、始めて起こるとされる。あるいはこのようにも言われる。精神は、他者という、最初の否定に向かい、その否定の否定を介しつつ、自己へ復帰し、自分を絶対的否定性、つまり自分の無限の肯定として、明示する。このあたり、いつもの、ヘーゲルの決まり文句である。しかしまだ、良く分からない。
しかしさらに、ヘーゲルは次のように言う。精神が、自然によって、定立されるのではない。むしろ、自然が、精神によって定立されているのである。精神が絶対的に最初のものである。精神は、自然の成果ではなく、精神自身の成果である。精神は自然の中から、自然的な仕方で出て来るのではない。自然は、自己自身の意識に到達しない。人間が初めて、自分を、自分の自我の把捉へ高める。
 
さて、どうすれば、自然から精神へ移行するのか。ひとつは、この以降は、悪無限から、真無限への移行と同じであった。それは否定的自己関係があるかどうかだと、ヘーゲルは言う。しかし、否定的自己関係は、悪無限の段階ですでにないだろうか。
 
ひとつの可能性は、死を自覚するかどうかである。死の自覚は、類の自覚である。この自覚がポイントとなる。類の自覚が、個体としての自己の自覚になる。ここで、自己が自己に出会う。否定的自己関係が成立する。
しかし、動物の死と人間の死と、その区別は明瞭ではない。人間は、個と類の一致を自覚している、ないしは、死を自覚しているのだが、しかしそれは、精神があるからで、自然から精神への移行のメルクマールは何か、説明していない。精神が誕生したから、死を自覚するのであって、死を自覚したから精神が誕生するのではない。ここには、同語反復しかない。
 
とりあえず、ここまでにする。実は、マラブーの別の本を読むことで、ここのところが、つまり、動物から精神への移行が明確になる。
以下、『新たなる負傷者』を扱う1。マラブーは、この本を、アルツハイマーを患った彼女の祖母の話から始める。アルツハイマーは、脳の外傷であり、回復は不可能で、つまり確実に死に向かうものである。それは死ぬ前に死ぬことであり、死そのものへと死ぬことである。
彼女は、まず、ニューロサイエンスと精神分析を突き合わせ、さらに、このような脳の病、あるいは傷は、従来の精神分析が扱って来なかったものであると非難する。
それから、このような脳の病または傷は、政治的な含意を持ち、というのは、この考察は、直ちに、人を、戦争の傷へ、それは強制収容所の体験や、ベトナム戦争後の退役軍人の持つPTSD(外傷後ストレス障害)の考察へと、人を導くからである。
脳に外傷がある場合と、社会的な外傷と、同じであるということは、社会的排除もこの中に含めるということである。日本の文脈で言えば、いじめや、過酷な労働で痛めつけられた者や、非正規労働から抜け出せない者なども含む。
 
さて、大澤真幸2010の、同書に対するコメントを取り挙げる2。と言うのも、大澤は、まずは、見事に、マラブーの、この難解な書物をまとめているからである。その上で、もうひとつ、ジジェクのマラブー批判も挙げる。ジジェクと大澤とでは、そのマラブー観が大分異なる。その違いを明確にしたい。
大澤が言うのは、マラブーの新たな外傷は、意味付けを拒否するもので、解釈をした上で、内面に取り込むことを断固として拒否する、つまり、当事者にとって、いつまでも外在的なものであり続けるリスクのことである。それは、大きな物語のなくなった、現在におけるリスクである。
従来であれは、悲惨な出来事は、物語化され、受け入れ可能なものに変容する。精神分析の治療において、医者は、分析主体である患者をサポートして、トラウマを、患者の人生にとって、有意味なものへと物語化させる。
しかし現在の事件は、偶然で、無意味で、非合理的である。つまり、精神分析の治療では、解決できない。具体的には、それは、テロなどの犯罪、地震などの災害という物理的暴力であり、また、アルツハイマーなどによって、精神が破壊されることであり、さらには、いじめやハラスメントのように、非合理的な社会的排除である。
大澤は、彼の理論である、第三者の審級という概念装置を使い、現代のリスクは、その出来事を有意味化する参照枠がなくなってしまった、つまり、第三者の審級が撤退してしまったと、まとめている。そして、そのために、私たちは、積極的な自由を感じることができない。なぜなら、第三者の審級こそが、自由の可能条件であるからだ。消極的な自由は過剰なほどあるのに。
しかし、大澤は、次のような結論へと、ここから展開する。つまり、ごく普通の他者の呼びかけに応えることが重要ではないかと言うのだ。自由は他者との関係の中で生じる。その他者は、第三者の審級でなくて良い。平凡な隣人で良い。その隣人との関係に自由があるのではないか。いわば、凡庸な善こそが、私たちの時代の自由なのではないかということだ。新しい物語が必要なのではない。
 
さて、ジジェクは、このようには持っていかない。まず、ジジェク2010のマラブー論は、ジジェクが他の思想家を論じたものとしては、例外的に長いものだ3。また、ジジェク2013には、さらに簡潔に、マラブー論が展開される4
マラブーの主張を、心理的な死の後もなお生き続ける主体に関する概念だと、簡潔に整理する。つまり、ひどいショックを受けた後の、自我が破壊された状態のことだという。リビドー(本能的エネルギー)という実質を奪われた主体であり、これを、ジジェクは、「リビドーのプロレタリアート」と言う。
確かに、私たちは、自然の暴力や、外的な物理的暴力に曝されている。また、私たちは、内的、身体的に、非合理破壊に曝されている。また同時に、社会的、象徴的暴力にも曝されている。
これを、ジジェクは強引に、自分の理論に引き寄せる。ジジェクのプロレタリアート概念は、ジジェクが、随所で展開しているものである5。その、プロレタリアート概念が、ここでも提起される。これが、マラブーの先の3点に対応する。
第一に、外的自然に対応するものとして、マルクスのプロレタリアートの概念がある。ここでは、生産物が搾取されている。第二に、仮想的現実に埋没している主体である。彼の日常は、コンピューターによって操作されている。これが、文化的自然に対応する。第三に、内的自然に対応する、心的外傷後の主体である。
フロイトやラカンの場合、心的外傷、つまり、予想外の、主体に備えのない、暴力的に侵入してくるものに対し、その衝撃は、あらかじめ存在している「心的現実」という「現実的なもの」によって、内面化される。しかし、上述の、現代の暴力は、徹底して、無意味で、そのような内面化を拒否する。従来の個性は、徹底的に破壊される。そこにあるのは、不在、または死の形式である。
以上のように、マラブーは、この本で、フロイト、及びラカンを批判する。彼らは、意味を探そう、物語化しようという誘惑に勝てなかったのである。ここで、フロイトの想定していなかったような、自分自身のアイデンティティ化の死を超えて、生き永らえる、新たな主体を歓迎したい。これが、マラブーの言いたいことである。20世紀はフロイトの時代で、最も恐ろしい悪夢でさえ、リビドーの変動と解釈されたが、21世紀は、ポスト心的外傷的な主体の時代である。
しかし、ジジェクに言わせれば、このような主体こそ、ヘーゲル的=フロイト的=ラカン的なものである。主体は、自己自身への還帰という運動の中にあるが、主体はそのようなものとして、自らの死を生き延びたものとして成立する。つまり、死の欲動の純粋な主体として、成立する。
実のところ、マラブーの『新たなる負傷者たち』では、ヘーゲルはまったく使われていない。それは徹底して、無視されている。しかし、やはりこれは、マラブーがヘーゲルを掴み損なっているということを示しているに過ぎない。せっかく、可塑性という概念をヘーゲルから得たのに、それで押し通すことができなくなる。ここでまさに、主体の成立が論じられているのに。
否定的可塑性、つまり、破壊性、否定性こそが、実在性を獲得するという、ヘーゲルからマラブーが獲得した概念こそ、実は、ここで展開されているのである。主体が、自分に語る、自分自身についての物語と、主体は、合致しない。それらを全部取り払って、なお、そこに残るのが、死の欲動の純粋な主体である。
そして、ここで、動物からどのように人間に移行するのかという問いの答えが出ている。動物の性、つまり生の本能を、死の本能に従属させることによってである。これが、動物から精神への、移行の根本だ。
心的な死の後も、生き続ける主体。脱リビドー化された、純粋な死の欲動の主体。これがキーワードである。
またここで、ヘーゲルの、動物と人間の違いは、死を意識するかどうかだったという、先の、ヘーゲルの議論に、注意してほしい。それをラカン的に言えば、死の本能の優位ということになる。マラブーが、この本の中で、ヘーゲルを無視し、ラカンを批判しておきながら、結局は、ヘーゲル的=ラカン的な主張をしているというのは、こういうことである。
まとめをしておく。心的外傷という死を経験した上での主体の成立が、このマラブーの『新たなる負傷者』のテーマである。これを、大澤真幸は、大きな物語のない時代の主体のことだと捉えた。それをジジェクは、労働せず、富を生み出さず、またひとつにまとまらない、現代のプロレタリアートという主体のことだと考えた。
さて、それでは、マラブーの言いたいことは何か。心的外傷の後の主体化について、それをどうしたいのか。マラブー自身の具体的運動は、『わたしたちの脳をどうするか』の、日本語インタビューで示唆されている。それを紹介して、この節を終える。
重要なのは、システムの内部から、亀裂や抵抗戦線を生み出すことだと前置きして、さらに、この、病、及び傷の分析は、明白な政治的・地政学的含意を持つとも言った上で、支配的言説に従う柔軟性でもなく、テロリズムのような硬直性でもない、闘争形態を探って行く。具体例として、フランスで、欧州憲法批准についてなされた国民投票や、オルター・グローバリズム運動や、アメリカにおける反ブッシュのデモを挙げている。
しかし、それだけでは、どうにも凡庸である。
一方、大澤の言い分ははっきりとしている。平凡な幸せがそれである。それは簡潔で、しかし、重要な指摘である。
それに対して、ジジェクの主張は、どう考えるか。これこそが、現代の主体化だということなのだが、それは、6-2の問題にしたい。
6-1へ続く

1 C. マラブー Les noueaux blesses : De Freud à la neurologie, penser les traumatismes contemporains, Bayard Centurion, 2007, The New Wounded : From Neurosis to Brain Damage, Fohdham Iniversity Press, 2012.私は主として、英訳を読んだ。
2 大澤真幸『生きるための自由論』(河出書房新社2010)
3 S. ジジェク2010、『終焉の時代に生きる』(山本耕一訳、国文社2012、原文は2010)、pp.403 – 432
4 S. ジジェク2013、『ジジェク、革命を語る』(中山徹訳、青土社2014、原文は2013)
5 例えば、S. ジジェク2009、『ポストモダンの共産主義 -はじめは悲劇として、二度目は笑劇として-』(栗原百代訳、筑摩書房2010、原文は2009)

(たかはしかずゆき 哲学者)
(pubspace-x1073,2014.07.11)