高橋一行
前章のバトラーの結論として、所有の放棄と他者の受け入れという観点を得ている。そこからレヴィナス論に繋がる。
熊野純彦は、レヴィナスとヘーゲル『精神現象学』の議論が逆向きであるとして、次のように言っている。そこを解読する(熊野1999a,p.118ff. 1)
「自己意識」の章の冒頭部の議論を再度、見てみよう。自己意識とは、対象の中に自己を見出す意識のことであった。その対象は、自己否定をし、自己の側に迫って来る。
この点を、熊野は、レヴィナスと逆向きと言っている。ヘーゲルの議論では、まず、自己が他者を欲望し、他者を同化し、つまり所有し、否定しようとする。しかしそれでは、他者に達することはできない。そこでは、ヘーゲルの言葉で言えば、悪無限構造になってしまう。しかし、他者はここで、自己意識であり、否定的自己関係構造を持ち、つまり、自己と同じ構造をしている。その他者が自己否定をし、つまり他者は自己になり、他者の他者たる自己に迫る。自己は、他者に自己と同じ構造を見出し、他者もまたそういう関係を自己と持ち、相互承認ができる。つまり真無限に至る。それがヘーゲルの議論だが、しかし、どの部分が、レヴィナスと逆なのか。
レヴィナスは、まず、ヘーゲルの議論における、他者の自己への同化を拒否する。レヴィナスの議論は、次のようになっている。まず、私の欲求を満足させようとして、私は、他者の独立性、つまり私にとっての外部性を否定しようとする。欲求は充足する。しかし充足されない渇きがあり、これを渇望(désir)とレヴィナスは言う2。欲求されるものは、所有の対象だが、渇望されるものは所有されない。それこそが、真の他者である。
ここでは、他者そのものが無限である。自己の内部に同化されることなく、絶対的な他者として、他者は存在する。
逆向きというのは、こういう風に考えるべきか。所有=欲望の充足=悪無限から出発するのは、ヘーゲルとレヴィナスと同じだ。しかし、ヘーゲルの場合、自己は他者の中に自己と同じ構造を見出し、その他者の方が自己に向かい、その上で、自己と他者が同一化するのだが、レヴィナスでは、他者は自己の中に取り込めない。他者は他者のままである。出発が同じで、その後が、まったく正反対の方向を向く、ということだろうか。他者は所有され得ない。他者は外部であり続ける。
ところが、以下に展開する、私の所有論=無限判断論から、つまり、「論理学」と『法哲学』におけるヘーゲルを考えてみる。すると、このヘーゲルの所有論は、先のレヴィナスの議論と、案外似た構造をしていることに気付く。両者は、同じベクトルであると言っても良いくらいである。というのも、所有論において、所有とは、所有の放棄のことだからだ。とすると、逆向きというのは、『精神現象学』の「自己意識」の章での議論に過ぎない。
詳述していく。所有の三段階ということを、前著で書いた。人は、労働し、また社会的承認を経て、物を所有する。そしてそれを使う。最後に、それを、交換・譲渡・売買する。
物を所有する段階を、最初の肯定の段階とし、次に、物を使用して、使い切ってしまえば、それは所有物の否定である。そして、それを他人に、あげたり、売ったりすれば、自分の物でなくなるので、それは、その所有物の否定を徹底したことになる。しかし同時に、人に物をあげたり、売ったりできるのは、その物を、真に所有していたからに他ならないから、交換・譲渡・売買というのは、所有の肯定でもある。肯定、否定、否定の否定という、ヘーゲルの使う三段階の、最後の段階は、否定の徹底でもあるし、肯定でもある。おおよそ、そういうことを書いた。
さて、今ここで、交換・譲渡・売買を、所有の放棄という表現でまとめ、そして、所有は放棄することで所有するのであるという、ヘーゲルの文言を、そのまま受け止めてみよう。つまり、所有しているものを、人にあげたり、売ったりして、放棄したときに、所有の概念は完成する。そこに他者が必然的に要請されている。そしてまた、その他者との関わりにおいて、所有する主体も、所有する主体として、成立する。人は、所有物を放棄することで、その主体性を確立する。文字通り、放棄するから、所有しているのである。
こういう逆説を、そのまま受け止めると、所有論におけるヘーゲルは、レヴィナスと、極めて近いところにいると思う。つまり、人は所有物を一旦は同化するけれども、それを放棄する。そしてその放棄を以って、所有概念が完成するということは、所有は同化作用そのものを意味するのではない。むしろ、放棄することで、同化を否定し、さらに、そこから必然的に他者を要請する。交換・譲渡・売買するためには、他者が必要だからだ。そしてこの、所有によって、他者が現れるという点は、レヴィナスの論じ方とよく似ている。
以下、レヴィナス『全体性と無限』を読んで行くことで、そのことを説明したい。先の熊野1999aと同1999 b、及び佐藤2000も参照する3。
レヴィナスの所有論も、労働から始まる。
「この未来が繰り延べと延期という意味を帯びて浮上し、未来のこの意味によって、労働が未来の不確定さと危うさを制御して所有を創設しながら、エコノミー的な自存性という相で分離を描き出す」(上p.303)。
このあたりの議論は、ヘーゲルのものとはだいぶ異なるという印象がある。所有が労働とともに始まるという点だけ共有し、しかし、レヴィナスは、主体がまだ成立していないのだから、主体が成立する以前の状況がどのようなもので、そこからどのように主体が成立するのかという点を説明するのに、腐心しているように思える。
先の引用部を、熊野は次のように解釈する。人は家に住むことで、人になり、それから労働することができ、所有することができる。家があって、そこに住むことで、私が成立し、労働と所有が始まる。
しかし『精神現象学』でも、最初の「意識」の章で、主体と客体は、まだ概念規定が十分与えられていない段階から始まり、ともに進展し、「自己意識」の章に至って、ようやく主体として成立するのだし、『法哲学』においても、最初にあるのは、意志だけであり、それが、労働し、所有をしてやっと、主体化する。向いている方向として、レヴィナスとヘーゲルと、それほどは異ならない。
身体を巡る考察においても、同じことが言える。
レヴィナスの場合、ロックのように、身体を私が所有し、次いで、その身体を使って、労働をし、労働したものを所有するという順に考えられているのではない。身体は、私の外にあるものではない。その意味で、私は身体を所有できない。
「裸形の身体としての身体は最初の所有物ではなく、身体はなお持つことと持たないこととの外部にある。・・・つまりは住まうことで、私たちはじぶんの身体を自由に取り扱うことになる。身体が私の所有物であるのは、内部性と外部性との境界にある家のなかに、私の存在が留まっていることによる」(上p.329)。私が身体を所有し、次いで、外のものを所有するのではなく、家があって、そこで身体が外のものを所有し、身体が所有そのものである。
これに対して、ヘーゲルは、やはり最初はロック的と言うべきで、私はまず身体を所有する。しかし同時に、身体は、媒辞である。それは私の内側と外側を繋ぐ。「小論理学」の簡便な記述を引用しておく。
「魂は身体を自己のものにし、その内に自己を直接的に客観化している。人間の魂は、その身体を手段とするために、多くのことをしなければならない。人間はその身体を魂の道具とするために、いわばまず、それを占取しなければならない」(§208補遺)。
人は主観的目的を達するためには、まず客観である身体を使って、同じく客観である労働対象に向かうのである。
しかし、身体を媒辞とするところは、レヴィナスとヘーゲルと、両者共通である。私は身体を通じて労働し、労働によって、所有が成就する。「世界とは所有されることの可能性」(上p.332)であり、主体は、身体が労働し、その労働生産物に依拠することで生きられる。「自己とは、別のもののうちにありながらもわが家にあること、自己自身とは別のものによって生きながらも自己自身であること、つまりは、この何々によって生きることが、身体的に現実存在することにおいて具体化される」(上p.336)。このあたりの記述は、ヘーゲルそのものだ。
かくして労働により、所有が完成する。「所有することの可能性、言い換えれば、最初だけ他であるものであり、私との関係において他なるものであるものについて、その他性そのものを宙づりにする可能性、これが〈同〉(le Même)のふるまい方に他ならない」(上p.49)。「所有とは、〈他〉が私のものとなることで〈同〉と化する、際立った形式である」(上p.69)。
しかし、次の段階で、レヴィナスは、その所有を、否定する。所有する物は、使用することによって、すり減り、ときとともに、変質し、やがてはなくなる。また、所有物は、言語を共有する人々に譲渡される。さらに、所有物は、他者によって、纂奪される。所有物は、商品となり、それはすでにもう貨幣であって、所有は、解消される。
熊野が、所有が挫折し、転覆し、解体すると表現するところは、見事に、ヘーゲルの記述と合致する。そしてその、所有の浸食、解体は、他者が現前することによって、起こるのである。
ここで他者が出て来る。ヘーゲルの場合は、所有から他者が現れ、その他者と所有を介して、社会が構築されるのだが、レヴィナスの場合は、他者は所有を拒否するものとして現れる。所有という、同化作用を、それは拒むのである。
ここで他者は、顔(visage)として現れる。「顔は所有を、私のさまざまな権能を拒む」(下p.38)。つまり、所有を拒む他者性が、顔として現われて来る。他者は、絶対的に他者であり、それが顔なのである。「私のうちにある他者の観念を踏み越えて、他者が現前する様式は、じっさい顔と呼ばれている」(上p.80)。
この引用をした上で、佐藤2000は、絶対他という言葉を使う。それは、私の内にあっても同化しない他者である。私の内にあって、他が現れる。
また、この絶対他の意味するところの、もうひとつは、顔が無限責任を迫って来る時の他者の現れである。他者は私に無限に大きな責任を、私が到底果たすことのできない責任を押し付けて来る。そして私は、この他者の無限責任を、果たし得ないことに苦しむ。そこから、レヴィナスを論ずるものが誰でも引用する、次の言葉が出て来る。つまり、他者とは、「私が殺すことを欲しうるただひとつの存在」(下p.40)である。人は、他者の要求に耐えられず、他者の殺害すら、望むようになる。
さて、この間の消息を、次のようにまとめてみる。私は他者を所有したいと思う。しかし、所有は拒否されている。他者は、所有を超えた存在である。他者には、接近することしかできない。しかし、その、他者への接近が、私を存在させる。そこにおいて、私は私を所有する。
再度、ヘーゲルに戻る。交換・譲渡・売買が所有の真理であった。それは、真に所有しているものだけが、交換できるからということなのだが、さらに一歩踏み込んで、交換することこそ、所有なのであるとしたい。そしてそれこそが、無限判断なのである。自分のものでなくなることこそ、所有である。主体と対象が徹底的に分離するのが所有である。繰り返す。所有は無限判断である。そこまでを、ヘーゲル論として、語ることができる。
このように考えてみる。モノの所有、情報の所有、他者の所有と進展する。人の欲望の対象が、物、情報、他者と進んで行くのである。モノの所有と情報の所有は、その所有物を放棄することで、所有が完成する。では他者の所有はどうか。
モノの所有から、知的所有に進むことは、ヘーゲル『法哲学』の中に示されているし、また、歴史が、そのことを示している。つまり、私たちは、第一次産業中心の社会から、第二次産業中心の時代を経て、今や情報化社会に入り、そこでは、知的所有が基本的なものとなっている。
しかし、そこから、他者の所有に進むということについては、説明が要る。このことは、ヘーゲルにおいて、明示的ではない。つまり、ヘーゲルにおいて、他者の所有という問題意識はない。ここではレヴィナスに導かれ(また、この後の6-1では、ラカンによって示される)、他者の所有という観点で、ヘーゲルの論理を拡張することが必要である。
他者は所有できない。他者は所有を超えている。つまり、他者こそ、まさしく、放棄することでしか所有できない。そこで、他者性は維持される。そして、所有したいと思っていた、他者の所有を放棄することで私は、他者からも所有されず、他者の他者として、初めて私になり得る。
熊野は、この議論を、所有の可能性と不可能性という言葉でまとめている。私はそれを、所有の放棄こそが所有であるというヘーゲルの言葉で捉え直したいと思う。
ヘーゲルの他者論を、もう少し続けたい。ヘーゲルは、思考は消化であるということを随所で言っている。これが観念論の原理である。私はさらに、それを所有の原理と同じものであるとした。他者を体の中に取り入れて、同化することが所有である。
しかし、消化において、外界から取り入れた他者、つまり食べ物は、体の中に同化されると言っても、まずその大半が糞便となって、外に出て行く。また、体に吸収された栄養物も、身体を動的に維持する過程の中で、燃焼して、外に出て行く。さらには、蓄積されたものも、常に新しいものが入って来て、古いものは老廃物となって、分解され、これも外に出て行く。とすれば、消化の本質は、外に出て行くことにある。これが、何度も言うように、所有の本質が、放棄にあるということの言い換えに他ならない。
また、これは同化した他者が、しかし、他者であり続けるということでもある。
以上の、ヘーゲルの他者論を確認した上で、今度は、レヴィナスの、ヘーゲル批判を見たい。『他性と超越』において、レヴィナスは次のように言っている4。
「ヘーゲルはまさに、否定性がひとつの規定であり、規定は定義されたものの限界で排除をもって完成されるのではなく、他なるものを吸収するような全体化であること、具体的には歴史における理性の有効な活動であること、それを示すことになろう」(p.80)。
ここでレヴィナスはヘーゲルの『大論理学』を引用する。「有限なもの、それは内在的限界を伴って、自己自身との矛盾として措定された何者かであって、この矛盾によって、この何かは、自己自身の外に追いやられ、押し出される」。有限なものとは、それに即して、無限が顕現するところの様態そのものである。
ここで無限は、有限を吸収して、他を超克する同として全体となっている。これが批判されるべき論点である。そして、ここにレヴィナスのヘーゲル観はすべて出ている。
レヴィナス自身の考えは、その次に示されている。
他は同に吸収されない。無限の他性の本義は、自らを無きものにすることではなく、近さ、責任と化すことだと言う。ここで、近さとは、責任に呼びかけつつ、他性が増大していくことだと言う。
しかし、次のように言うことが可能ではないか。他者が自己と関わりを持つとき、それが可能なのは、自己の中に、他者性があるからではないか。
ここを展開してみる。先に言ったように、ヘーゲルの場合、他者の中に自己を見出すことが、自己意識であった。他者は否定的自己関係構造をしていて、そして自己否定をする。そのことによって、自己となる。つまり、他者が自己になり、一方、他者の他者である元の自己に迫って来る。
これとまったく反対のことを考えてみる。つまり、自己は他者関係を自らの内に持っていて、だから、自己は他者に迫り、他者は、自己に迫ることができる。そのように考えてみる。
そして、他者は、自己に吸収されない。吸収されると言っても良いのだが、自己の中で、責任として他性を持ち続ける。それは自己が制御できないものである限り、自己の中の他者である。
もう一度、言葉を換えて、繰り返したい。前者において、自己は他者に自己を見た。他者は自己構造をしていて、そして、自己と他者は互いに同化し合う。
それに対して、後者においては、今度は、自己は自己内に他者を見て、そして、他者もまた、自己に他者を見る。自己は他者からも同化されず、自己を保つ。
前者がヘーゲル『精神現象学』自己意識論の議論で、後者がレヴィナスの議論であった。しかし、後者は、ヘーゲル所有論の帰結でもある。つまり、所有の放棄から他者が出て来て、それは同化されても、なお、他者であり続ける。
次章5-1で、脳を扱い、そこで、脳内他者と脳外他者ということを考える。つまり、脳が、他者を認識できるのは、脳の中に、他者性があるからだという議論をする。それとパラレルに、自己内他者と自己外他者とを考えることができる。
5-1へ続く
注
1 熊野純彦1999a 『レヴィナス入門』(ちくま新書)。また、次の本も参照する。同1999b『レヴィナス -移ろいゆくものへの視線-』(岩波書店)。
2 désirは、他者に向かうが、充足されないという意味で、欲望よりも、渇望と訳した方が良いと、熊野は、この訳語を与えている。
3 E. レヴィナス『全体性と無限(上・下)』(熊野純彦訳、岩波書店、2005 ,2006)。また、佐藤義之2000『レヴィナスの倫理 -「顔」と形而上学のはざまで-』(勁草書房)。
4 E. レヴィナス『他性と超越』(合田正人/松丸和弘訳、法政大学出版局、2001)。
(たかはしかずゆき 哲学者)
(pubspace-x1057,2014.07.11)