高橋一行
マラブーの『ヘーゲルの未来』は、彼女の博士論文を基にして、補筆したもので、1999年に出版された。可塑性という概念を、ヘーゲル解読のキーワードとして使い、ヘーゲルの、全体系を、これで説明しようとする1。
しかし、可塑性という言葉は、ヘーゲルの記述に頻出するものではない。そもそもマラブー以前に、この単語に着目した研究者も、私の知る限りではいない。マラブー自身、次のように言っている。
(ヘーゲルにおける)可塑性概念の使用頻度数の少なさが物語るのは、まさしく根源的総合たる現前の様態である。つまり、可塑性は、現前と不在の間にあるのだ。可塑性は、・・・(ヘーゲルの)体系的論述の胴体部分を辛抱強く攻撃するようなものとして、精神的なものの体内化、つまり受肉を解釈するという点で、真価を発揮する(p.45)。
これは、苦しい言い訳というよりも、開き直っているとしか言えないようなものなのだが、しかし、なぜ、このようなものでしかない可塑性を、ヘーゲル哲学にとってのキーワードと言い張るのか。いや、それよりも、かく主張するマラブーを、なぜ、ここで私が取り挙げるのか。結論を先に言えば、この、可塑性は、私の言葉で言えば、無限判断論的なものであるからだ。これが、本稿の、このみっつの節の結論である。しかし、結論に行く前に、丁寧に、マラブーの論述を見ていきたい。
可塑性(Plastik、形容詞はplastisch)は、元々は、『美学』で使われる概念である。ギリシア芸術の説明の中で、ヘーゲルは、造形美術の意味で、この言葉を使い、彫刻の分析をする。ギリシアにおいては、彫刻こそが、芸術である。この、第一の意味においては、可塑性という言葉の使用頻度は結構高い。例えば、『美学』第三部第二編「彫刻」の第一章「本来の彫刻の原理」の最後の二つの段落の中には、古典的理想の芸術としての彫刻の説明があり、その中に、「彫塑的理想」、「彫塑的形成」、「彫塑的な芸術品」という言葉が出て来る2。
またそこから、範例的、ないしは、実体的という意味で、「可塑的個体性」という用法も出て来る。ギリシア彫刻の持つイメージを個体に当てはめてみる。これが第二の意味である。『哲学史講義』においては、ギリシア哲学が可塑的であり、とりわけ、ソクラテスを可塑的であるとしている。ソクラテスは、「あの時代によく見られる一枚岩でできたような、あの大きな彫塑的人物」である3。また、『歴史哲学』においては、ペリクレスを可塑的個体性のモデルと表現している。第二部「ギリシアの世界」の第三章C-II「アテナイ」に、「ペリクレスは、実に、可塑的な、古代的な性格を持った政治家であった」とある4。同書の訳者の解説では、「その人の全人間が打ち出され」、「全像が生き生きとして、動的」とある(P.335)。また、ペリクレスを「彫塑的個人」とするのは、先の、『哲学史講義』のソクラテスの説明のすぐ後にもある。
さらにそこから、哲学的可塑性という概念も出て来る。この三番目のものが最も重要である。この用法で使われている箇所は、マラブーが取り挙げる限りでは、ふたつある。いや、ふたつしかない、と言うべきか。ひとつは、『大論理学』にあり、もうひとつは、『精神現象学』にある。それぞれ引用する。
『大論理学』の方から、引用する。1831年版の序文の、末尾近くで、ヘーゲルは次のように言う。
可塑的な論述(ein plastischer Vortrag)には、それを受け止める者と理解する者の、可塑的な意味(einen plastischen Sinn)が必要である。自分自身の反省や着想を通じて、自己流の考えを示そうとするのだが、それを冷静に抑制することができるような可塑的な青年や大人(solche plastische Jünglinge und Männer)、ないしは、プラトンが描いているような、ひたすら事柄だけに随順する能力のある聴衆が、現代の対話の中に登場することはできないだろう。まして、そのような読者を期待することはできない。
ここでは、哲学に向かう、主体的な能力のことを、可塑的と言っている。可塑的個体を哲学に向かう者に求めている。
次いで、『精神現象学』は、「序文」に、その言葉はある。
ひとつの命題の、(主語と述語の)普通の関係の仕方を断固として排除するところの、哲学的叙述であって、初めて、可塑的であること(plastisch zu sein)が達成されるだろう。
ここでは、真の仕方で、高められた主語-述語関係が必要で、それを可塑的と言っている。しかし、この可塑的という言葉に、何か特別の意味があるようには思えない。思弁的内容が展開される、哲学的な叙述が可塑的だと言っているに過ぎない。
つまり、このふたつとも、ぴんと来ないというのが、実状である。ギリシアの造形美術において、英雄や偉人を、彫刻を通じて、その範型性を表わすという、元々の意味から始まり、それが、その普遍性を受肉した、英雄や偉人そのものを表すようになる。そこまでは、あまり問題はない。しかし、それをさらに、哲学に必要な能力、哲学の叙述にまで、拡張が行われると、必ずしも、すんなりと受け入れられるものではない。
しかし、マラブーは、さらに、この可塑性という言葉を、根源的な可塑作用、未来を創る作用という意味でも使い、ヘーゲル哲学にとって、最も重要なキーワードだと考えている。
しかし、これだけで、ヘーゲル哲学の根本が、可塑性という言葉で表せると主張されても、良く分からない。ひとまず、この本を読解するのは、措くことにして、ここで以下、彼女の別の本を読んでみたい。この可塑性の概念が、最も分かりやすく出ているのは、ヘーゲルを離れて、脳を論じるとき、つまり、『わたしたちの脳をどうするか』という本の中での議論においてである5。こちらを先に扱う。さしあたって、ヘーゲルは、考えない。
脳は可塑性であるというのが、この本のテーマである。まず、可塑性とは、「ある物体に力を加えて変形を与えたとき、その外力が取り去られたのちにも、痕跡がそのまま残る現象」(p.iv)である。つまり、それは、造形という意味を持つ。各人が作り上げて行くのという意味である。
ここでマラブーは、マルクスの『ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日』の有名な句を引用する。
人間は自分で歴史を作る。だが、思うままではない。自分で選んだ環境の下ではなく、すぐ目の前にある、与えられ、持ち越されてきた環境の下で、創るのである。
ここで、マラブーは、歴史と脳の関係を語っている。脳は歴史である。人は脳を作る。思うままではないが。ここでこの本の意図が明らかになる。私たちは、脳をどうするのか。
それから、いよいよ脳論に入る。脳の可塑性とは、脳の、しなやかさ、適応能力、進化する適性を意味する。それは、脳の、形を作り、また、消滅させる能力を意味する。彫刻的造形と爆発との間に、その固有の意味がある。創ることと、消滅させることとが同時に成り立つ。
この脳の可塑性を、みっつのレベルで考える。①ニューロン同士の結合の造形、つまり、胎児や幼児の段階での発達の可塑性。②ニューロンの結合の修正、つまり、人の生涯に亘っての、シナプスの調整の可塑性、③回復能力、つまり、脳の再生、修復の可塑性である。
その結論は、複数の可塑性があるということである。
つまり、脳は、中央集権化しているのではなく、命令の構造は、分散化し、ネットワーク状に柔軟になっている。それはまた、未来を算出する組織でもある。または、他者性との関係によって、決定される機械でもある。
マラブーは、このように、脳の可塑性について、説明する。しかし、彼女は、脳科学者ではなく、その説明は、断定的、かつ断片的である。
脳論は、短い論文で、事実上、ここまでのものでしかない。
この脳論の最後に、ダマシオの議論が否定的に取り挙げられている(p.123ff.)。ダマシオが扱った、神経的なものから、心的なものへというテーマは、まさに、自然から、精神への移行を議論するということである。「神経的なものから、心的なものへの移行は、否定と抵抗を前提とする。・・・存在論的爆発だけが、ある次元から別の次元への、ある組織から別な組織への、そしてある与件から別な与件への移行を可能にする。神経的なものと真的なものは抵抗する・・・」(p.123f.)。
しかも、マラブーは、そのすぐ次に、ヘーゲル『自然哲学』に言及する(p.138f.)。生物的なものから、精神的なものへの移行を、ヘーゲルは論じているからだ。しかし、この、ヘーゲルへの言及も、あまりにも短い。思考の本性は、自己を否定するものであり、つまり、思考は自然であると同時に、否定された自然でもあると、彼女は記す。私たちは、これを敷衍することが必要だ。
本節(5-1)の最後に、次のように書きたい。
ヘーゲルが可塑性という言葉を概念にした最初の哲学者である。『自然哲学』を読み直すこと。そこでは、生物的なものから精神的なものへの移行が、そしてさらに、精神がいかに物質的でもあるのかが分かる。思考は否定された自然である。その断続と連続、否定と肯定、爆発と創造とを見る必要がある。
マラブーに対する、私のコメントはふたつある。先にも書いたが、彼女は脳学者ではなく、脳についての記述は少ない。それを、現代の脳研究の水準で補う必要がある。第二に、結局は、可塑性は、ヘーゲル解釈の問題だ。脳論の結論が、そこにある。つまり、マラブー自身が、脳論の最後に、ヘーゲルを参照し、ここで、再び、私たちは、ヘーゲルに戻って来たことになる。このことについて、5-2と5-3で扱う。
前者について、以下、補足しておく。考えるべきは、脳の複数性と他者性についてである。ここでまず、ソーシャルブレインズという概念を挙げておく。こういった議論を挙げておけば、可塑性について、補完することができるはずである。
この複数性と他者性は、脳論の現在のキーワードでもある。以下はまず、藤井直敬6を使う。
つまり、現在の脳研究の中で、ソーシャルブレインズという言葉が使われる。脳は社会的で、他者を認識でき、社会は、その社会的な脳がたくさん集まって、出来上がっている。その脳の社会性の研究が、急速に進んでいる。
一方で、大脳皮質には、カラム構造と呼ばれる、円柱(これがカラム)状の機能単位が存在する。このカラムの中には、神経細胞が詰まっていて、ネットワーク構造を作っている。そのカラムが集まって、機能単位を作り、その脳領域が、相互に、他の脳領域とつながることで、多層的なネットワークができ、それが脳を作っている。
つまり脳は、中央集権的命令系統を持つ組織ではなく、多重な領野が、ネットワークを作っている。そして、その領野は、ある程度独立し、他の領野とその機能を重複し、場合によっては、矛盾もする。進化の過程の中で、それぞれの過去を持っているからだ。
ここで、先の、マラブーの主張する、脳の分散性、ネットワーク性を確認できる。そしてさらに、先の、脳の、複数性と他者性をも考察することができる。つまり、脳の複数性とは、一個の脳の中に、いくつかの脳があり、それぞれの領野が他の領野にとって、他者となっているということである。そしてそのことが、他者性、すなわち、社会の中の、様々な他者を、一個の脳が認識できる根拠となっているのではないか。5-3でも使う、大澤真幸7を参照して、脳は内的に社会的であり、そのことが、外的な社会性につながっていると言うこともできるし、脳内他者が脳外他者の根拠となっているという言い方をしても良い。
5-2へ続く
注
1 マラブー、K., 『ヘーゲルの未来 -可塑性・時間性・弁証法-』(西山雄二訳、未来社2005)
2 ヘーゲル『美学』(竹内敏雄訳、岩波書店、1973)、第3巻上, p.1626f.なお、翻訳に従い、「可塑」ではなく、「彫塑」にした。
3 ヘーゲル『哲学史』(真下信一訳、岩波書店、1961)、中巻の1、第一部「ギリシア哲学史」第二章B「ソクラテス」, p.61
4 ヘーゲル『歴史哲学』(武市健人訳、岩波書店、1971)、中p.163
5 マラブー、K., 『わたしたちの脳をどうするか』(桑田光平、増田文一朗訳、春秋社2005)
6 藤井直敬『ソーシャルブレインズ入門 -<社会脳>って何だろう-』(講談社2010)
7 大澤真幸『生きるための自由論』(河出書房新社2010)
(たかはしかずゆき 哲学者)
(pubspace-x1059,2014.07.11)