身体の所有(8) メタバース、または共有する身体(2)

高橋一行

 
   伊藤亜紗は、けん玉をバーチャルな空間でトレーニングするという話を紹介している(伊藤2022 p.2ff.)。ヘッドマウントディスプレイを装着してバーチャルな空間でけん玉を操る。そうすると実世界でけん玉ができるようになる。1000人以上の人たちに実験をして、96%以上の人が、バーチャルでトレーニングしたけん玉の技を現実的に習得したそうである。
   ここにメタバースの良さが現れている(注1)。私は空手や居合の稽古として、ビデオを見ることがある。達人たちが演武するのを見て、その順番を覚える。しかしビデオを見ただけで、実際に技が使えるようにはならない。ビデオはあくまで参考で、その上で実際に稽古をしなければならない。ビデオを見るという行為は、技を身に付ける稽古の中で補助に過ぎないのである。ここがメタバースとの大きな違いだ。
   伊藤はさらに幻影肢の話もする(伊藤2019 エピソード3, 6, 8, 2022 p.5f.)。幻影肢とは、メルロ=ポンティの分析によって有名になったもので、事故や病気で手足が切断されたあと、または麻痺状態になったあと、ないはずの、または感じないはずの手足をありありと感じるというものである。これが強い痛みになる場合がある。例えば低気圧が近付くと、存在しないはずの手足が痛むのだそうである(注2)。
   バーチャルな空間でこの痛みを緩和することができると言うのである。患者はバーチャルな空間で合成された手足を見る。例えば右手が失われていたり、麻痺している場合、健康な左手の動きを機械がキャッチし、それを反転させて両手が動いているように見せる。このバーチャルな動きを見ている内に、痛みが消えるのである。バーチャルな空間上の手が自分の手として認識され、その結果、痛みが消える。この現象をどう説明すべきか。
   そもそも幻影肢の痛みは、脳が右手が動くだろうと予測するのに、実際には動いたという結果の報告が脳に返ってこないために起きるのである。脳はそこで動けという命令を出し続ける。それが痛みになる。
   そこでバーチャルな手を体験者は現実の自分の手だと感じ、手を動かそうとすると、バーチャルな空間で手が動き、手が脳の信号に応じるのである。かくして痛みが緩和される。
   身体が何かしらの理由で欠如を経験する。その欠如を新しい身体のシステムに統合し得ず、欠如していることが納得されないときに、この幻影肢が現れる。メタバースを使って、かつて両手が連動していた記憶が取り戻され、幻影肢の感覚が変化し、痛みが消える。記憶を取り戻すことで、新たなシステムを身体内に構築する。こういうことが可能なのである。
   杉本麻樹は、すでにパイロットが訓練の大半をシミュレータでしているという事実を挙げ、バーチャルとリアルの継ぎ目がなくなりつつあると論じている(杉本 p.174)。
   また稲見昌彦は、次のような例を紹介している。白人女性が黒人女性のアバターに変身して、バーチャルな空間で暮らしていると、次第に黒人女性に対して感じていた偏見が薄れるというのである。外見は社会的指向性や心の持ち様をも変えると稲見は言っている(稲見2016 p.207f.)。
   また『アバターワーク』という著作では、男性が酒場で女性店員として接客するとか、定年退職後にゆるキャラになって、旅行ガイドをするという例がある(株式会社 往来 p.37)。現実の世界で持っている徴表、すなわち性別や年齢、肩書は、メタバースで新たに作ることができ、自ら納得した姿で働くことができるのである(注3)。鬱の人が患者のアバターになって、医者のアバターからカウンセリングを受けるという話もすでに進んでいる(同 p.75f., p.232ff.)。この例においては、メタバースの中の医者が実際に医師の資格を持っているかということが、現時点では確認できないという問題点もあり、当面は医者の自発的なポランティアに任せられるとしても、いずれは法人化して、信頼されるカウンセリングの場を創りたいということである。
   メタバースについて、すでにひと通りの論点は前回書いているのだが、補いたいことがいくつかある。今年になって、夥しいメタバースに関する書籍や記事が出ているということと、身体に関する研究が一斉に発表されていることとがあるからだ。
   メタバースは多くの人にとって、それはまだゲームのひとつに過ぎないし、ビジネスに使えると言っても、様々なコミュニケーション手段とどのくらい異なるのかというところで、その良さが十分理解されているようには思えない。しかしそこに見られる身体性が重要で、そこに着目すると、単なるゲームやコミュニケーション手段ではない、メタバースの特殊性が見えてくる。
   これも前回紹介したMeta Questの広告がネットに出ている。そこでは400以上の体験ができると書いてある。ラーメン店での修行、剣術シミュレータというのもある。スポーツ、ガンシューティング、ダンスといった身体を動かすタイプのものが多く、今まで遊園地やゲームセンターでしか遊べなかったようなゲームを家にいながらプレイできる。またアバターを使って、現実では遠方にいる人たちにも会える。マイクが内蔵されているので、バーチャル空間での会話も可能で、他にも、3Dの絵を描いたり、世界の観光地をバーチャル観光したり、VRのコンテンツは次々と登場しているので、日々「できること」が増えているというものである。
   ここに明らかなように、メタバースの有効性が発揮されるのは、ゲームの場合でも身体を使ったものであり、さらには身体の訓練や治療には大いに役立つものである。以下もう少しそのことを列挙してみる。
   まず修行についてすでにこのサイトで触れている(注4)。前回も書いたが、武道の達人の身体感覚を修行を経ずに得たところで何の意味があるのかと書いたが、しかし達人の身体感覚をまず味わって、あとはアバターがその能力を持つことで、そのアバターを師として、修行するということは可能だろう。修行と教育に師は必要である。師は他者である。アバターも他者で、師となり得る。メタバースは、アバターを師とする教育手段になる。アバターは人生相談にも乗ってくれるかもしれない。
   ロボットにそのような機能がすでにある。癒しロボットや、自閉症児の治療に役立つロボットもある(注5)。ロボットが現実世界でやってくれることを、アバターがメタバースの世界でやるのである。
   先に書いたように、空手や居合で、達人の演武をビデオに撮って、それを何度も見るというのは、実際に行われている稽古の一手段である。それは結構私にもありがたいもので、なるほどこんな風に身体を動かすのかと、いつも益することは多い。しかしそれはビデオであって、メタバースとは根本的に異なる。メタバースでは、アバターが現実の私に働き掛ける。それは私の身体もアバターとなって、メタバースの世界に参入するということを意味する。
   あるいは、水が怖い子供がメタバースで水泳の訓練をする。こういう風に使える。
   不登校の子がメタバースの学校に行く。それは単なるビデオ学習とは異なる。そこではその子がいるということが他の子どもによって認知されている。ビデオと異なって、参加者同士の交流がある。互いに子どもたちの身体が確認されている(注6)。
   またメタバースを活用して、地震による津波の避難訓練をしようというものもある(注7)。メタバースはゲームと異なって、まず身体の体験である。避難訓練はまさしくその身体がどのように動くべきかを考えて体験することが必要だから、メタバースの特徴が最大限生かされる。またシナリオが予め固定されておらず、参加者のその都度の判断で避難行動が決定されていく。参加者が共同で創り上げていくものである。これもまたメタバースの特徴が生かされている。
   以上、修行や教育、治療といった話からさらに話を進めたい。
   例えば、ワインを味わうこともできるのではないか。私はソムリエの友人の家で定期的にワインのブラインドのティスティングをしている。まったくヒントなしに、どの品種の葡萄で、どの地域のもので、何年くらいのものかということが問われるのだが、いつも当たらない。どうも味覚が鈍いのだと思う。しかしそれでも段々馴染んでくると、ある程度、これは高級品か、そうでないかということくらいなら分かる。するとそこで欲望が膨らんで、超高級と言われるワインを飲んでみたいと思う。1本数十万円というワインを飲みたい。しかしお前の舌で味が分かるのかと言われそうであるし、そもそも私の小遣いで何とかなるものではない。ただ超高級と言われるワインの成分分析は可能だろうし、そこにそれらを飲んだ人たちのコメントを総合していけば、メタバースの世界で超高級ワインの試飲会が開けるはずだ。
   前回、メタバースに性はあるが、食と排泄はないと書いたのだが、しかしこのようなことならできそうである。
   あるいは摂食障害の治療もできるだろう。食という行為は、いずれメタバースの世界で重要な役割を担うはずである。
   また食人はどうか。愛する人の肉を食べたいとか、愛する人に食べられたいという、倒錯した欲望を持つ人がいた場合、どうなるのか。神話の世界にあるように、愛する人が豚になったり、ジャガーになったりして、捕食被食の関係を持つということでも良い(注8)。
   つまりメタバースで、神話や小説や映画の世界で行われてきたことを実行することができるのである。
   するとメタバースの世界で犯罪を起こす可能性についてどう考えるかということが問われる。人を殺したいと思う人だっているだろう。メタバースなら許されるのか。窃盗はどうか。麻薬を吸うのはどうか。
   また戦争をテーマとしたゲームはたくさんある。各種の戦いのゲームも人気だろう。そこで人はたくさん殺される。あるいは一回殺されてもまた生き返るという場合もある。
   自殺の瞬間を味わいたいという人だって出てくるだろう。死ぬ瞬間の感覚はどんなものなのか。死はいつだって他者のものだが、ここでは他者は自分である。
   こういったことをメタバースでどう考えるのか、もう少し詰めていく必要がある。次回、さらに取り挙げたいと思う。
   ここで議論されているのは、身体で思考するということである。そのことは何度も確認したい。メタバースは脳内世界の話ではない。脳を刺激して快楽を得るという近未来像がしばしば描かれてきた。そうではなく、人は身体全体で世界を生きるのである。そのことの意義がメタバースによって、再確認される。
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   ここからこの身体論をさらに展開する。
   先に引用した稲見昌彦は自在化プロジェクトを主宰する。それは、人間がロボットや人工知能などと「人機一体」となり、自己主体感を保持したまま自在に行動することを支援する「自在化技術」の開発と、「自在化身体」がもたらす認知心理および神経機構の解析をテーマに先駆的な研究を展開しているというものである。ここでは稲見本人の書いた『スーパーヒューマン誕生!』(2016)という著作と、プロジェクト研究員たちとの共著『自在化身体論』(2021) の中の第一章を参照する。
   そのどちらにおいても、身体の拡張、分身、変身、合体が論じられる。
   まず義足だとか、眼鏡といった身体の延長としての技術が用いられることで、身体の能力が拡張される。さらにロボットやバーチャルなキャラクターによって、一層人間の能力は拡張される。そしてひとりでいくつもの身体を使い分けるといった分身や、より能力の高い身体へと変身したり、何人もが協力して、ひとつの身体を操る合体が論じられる。自在化身体というのは、このような身体の能力を工学的に設計しようとするものである。
   人間の能力はどこまで拡がるのか、人間は複数の身体を同時に生きられるのか、また他人の身体を生きられるか、身体は融け合うことができるのかということが問われる。
   ここで前回論じた、行為主体感と身体所有感がポイントとなっているようだ。ロボットやアバターは、まずは身体を持ち、その身体を駆使し、そのことで目的を達成して、自らが主体であると感じる。そして互いに相手もまた同じく主体であることを確認し、つまり互いに相手が他者であることを承認し、さらに私と他者は私たちの世界を創るのである。
   発生的機序で言えば、アバターやロボットは私たちにとって何かしらの目的を達成するための対象として成立させられる。それが身体を持ち、自らの身体を動かす主体であり、そうすると私たちにとって他者となる。他者は主体的に私に働き掛ける。私もまた他者に働き掛ける。そうして私たちという共同体ができる。
   メタバースが注目されるようになると、それに呼応して、身体論が一気に出てきたという感じがある(注9)。
   さらに身体論は他者論であると言うことができる。それは私たちが他者とともに生きており、他者から承認されて自己を確立するのだということが前提になる。その上で人はまず、その自らの身体こそが自己であると他者から思われるのだし、また他者の身体を他者だと思うので、他者論として身体論が議論されるのは当然のことである。
   そして今ここで議論されているのは、アバターやロボットが、身体を持ち、主体として確立され、他者と見做されるということである。主体として確立することが他者として存在することと同義だということが、ここで議論されている。
 
   さらに話を進める。
   佐藤航陽は、メタバースは世界を創造するというものであり、つまりそれは神の民主化だと言う(佐藤 第1章)。私たちは今や誰もが簡単に世界を創ることができるのである。そこでは空間的な制限は取り払われ、無数の人がそこに参加できる。そういう世界を作り出す技術を、今私たちは急速に発達させている。
   そこで創られる世界とは何かということを詳細に論じたのが、この本の意義であるのだが、ここではその結論だけを掻い摘んで紹介すると、それはビジュアルな視空間と社会的な機能と役割を持った生態系が融合したものである。ビジュアルな視空間は、アバターとアバターが動き回るフィールドのふたつから成り立つ(同 第2章)。そして生態系は、私たちが今まで住んでいた世界の持つ問題点を克服するために、新たな社会的機能と役割を持たせて、私たちが自ら創っていくものである(同 第3章)。専門的な知識がなくても、想像力と創造性があれば、新たな世界を創り、富を生み出す(同 第4章)。
   さらに佐藤はそこから、アルゴリズム民主主義を提唱する(同 第5章)。上述のように、メタバースが普及すると、データとアルゴリズムの影響力が増す。データの取得量は飛躍的に増大し、アルゴリズムは精度を増す。私たちはこのアルゴリズムに従って生きていくことになる。
   このように書くと、あたかも私たちが科学技術の奴隷になるかのような印象を受けるかもしれない。しかしそうではない。私たちは今までも法という、人が歴史的に蓄積され、集合的に創り挙げてきた知に従って生きている。特定の為政者の横暴から身を守るために、法を創ってきたのである。ここで言われているアルゴリズムとは、法のことであると言っても良いし、佐藤は、かつて王の上に法を置いたように、今や法の上にアルゴリズムを置くという言い方をしている。このアルゴリズムを参照しながら、最終的には議会が方針を決定し、国家運営をしていく。こういう物事の決定の仕方をアルゴリズム民主主義と呼ぶのである。
   これはディストピアでも、またテクノクラート支配でも何でもない。そもそもなぜ法の支配ということが言われるのか。法の支配とは人智を集約したものであろう。それは個々の為政者の判断を超えるものなのである。すると法とアルゴリズムは同じものである。
   佐藤はIT企業の経営者であるが、その政治的感覚はまともだと思う。
   さらに重要なのは、メタバースは社会の実証実験の場だということである。今までは理系の技術者が専門家だけに入室が許される実験室においてしか実験はできなかったのだが、今やメタバースを使って、誰もが様々な実験ができる。さらに未来においては、現実がメタバースの在り方を模倣する可能性もあるという指摘もある(同 p.249)。
   先に「ビジュアルな視空間と社会的な機能と役割を持った生態系が融合」すると佐藤の言うところを参照した。ここで重要なのは、アバターが身体を持っているということではないか。
   つまり人と人とがどう共生するかということが問われている。その際に、人は誰もが身体を持って生きている。より正確に言えば、身体で生きている。そのことがあらためて問われている。
   またメタバースの世界が意味を持って充足し、かつその影響が現実の世界に及ぶのは、そこに身体を持つアバターがいて、かれらは他者としての資格を持ち、私と共に私たちの世界を創るからである。
   メタバースは世界を創造する。そこに従って身体を持った人がいないとならない。
   第二にその世界の創造は多くの人に開かれている。
   このことは言いかえれば、参加者の多くが、自ら価値を創り出す生産者であり、かつそれを消費する側でもあるということである。
   それに対して、当然批判もある。メタバースを現実逃避のゲームであると考えて、大衆は廉価なゲームに没頭して、批判的精神を失い、一部の為政者の言いなりになるだろうという、ディストピアは随分前から繰り返し、主張されている。
   例えば宮台・藤井『神なき時代の日本蘇生プラン』の第5章は、「神なき時代のメタバース」というタイトルが付けられているが、そこではひとりにひとつのメタバースがあり、メタバースの数だけ神がいると主張されている。そこでは先の佐藤の主張と同じものが確認される。
   そしてこれもまた、拙稿のこのあとで展開されるベーシックインカムが配られ、人びとはメタバースの世界で過ごすという未来像が語られる。
   問題はここからである。そこではわずかな「卓越者」が社会を動かすという権威主義社会が来る。テクノロジーによる社会変革がものを言う(宮台・藤井 p.250f.)。つまり大衆はゲームに興じて、易々と支配者の言うことを聞くようになると言うのだ。
   さらにどれだけ実りある現実を生きられるかが、メタバースに持っていかれないストッパーになると宮台は言う(同 p.231)。
   ひとりにひとつのメタバースがあるという観点は、メタバースの本質を突いている。そこまでは正しく理解されているのに、しかしそれがなぜ衆愚に繋がってしまうのか。
   私はこういったメタバース衆愚論を批判したい。しかしだからといって、メタバースで人々が積極的に熟議をする政治が実現できるとは思わない。悲観でも楽観でもなく、実際にはその中間あたりに落ち着くはずである。
   このアルゴリズム民主主義をもう少し展開したい。
   東浩紀はすでに2011年からこの問題を論じている。まずルソーの言う一般意思はデータベースのことであると言う(東 p.83)。そしてグーグルやツィッターなどを活用して、人びとの選好を集める。これは集合的無意識だとも言い換えられる(同 p.101)。この人々の無意識の欲望の集積がネットワークの新しい公共性の可能性を開くと主張するのである。SNSを利用して、集合知を集めよというのである。
   成田悠輔も2022年の本の中で、無意識データ民主主義論を主張する。それは選挙を必要としない民主主義、アルゴリズム民主主義である。
   民主主義とは民意を表すデータを入力し、社会的意思決定を出力する装置のことである(同 p.164)。選挙もまたこの入力手段のひとつだが、私たちは必ずしも選挙に頼る必要はない。今や人々の意志や価値観に関するデータは無数にある。例えば、人がテレビをどのように見ているかということを数値化する技術がある。人体認識技術を搭載したセンサーをテレビに設置して、視聴者の視線を毎秒読む。そうすると、ニュースに対してどのように人が反応するかということが分かる。そのデータを蓄積すれば、これも民意データになる。あるいは家庭内や会社の会議室での発言も、すべて観測し、蓄積することができる。町中に設置された監視カメラが捉える政治家への悪口の集積も民意である。もちろん夥しい世論調査や価値観調査もある(同 p.171ff.)。それらをアルゴリズムで変換していけば良い。
   さてこれらの主張はどうしてもアルゴリズムによる全体主義だとか、監視社会だという批判を招くと思う。それに対して、私はここにメタバースを導入することで、民意が調整されると思う。つまりデータ集積に、身体を持った人びとの積極的な政治参加の要素を足していくのである。人々が日常的にメタバースの世界を通じて、政治に関する議論を積み重ねることが可能なのではないか。
 
   さて、民主主義の話のあとは資本主義である。
   先にメタバースでは、参加者の多くが、自ら価値を創り出す生産者であり、かつそれを消費する側でもあるということであると書いた。ここから資本主義論に話を繋げられる。バーチャルな世界では、人びとは複数の貨幣を持って経済活動をする。それはひとつひとつの貨幣の価値が相対化されていく世界である。
   しかしこれで資本主義が越えられるのか。そういう問いを立ててみる。
例えば井上智洋は、メタバースの議論でしばしば使われる分散型自立組織はアソシエーションだと言う(p.192f.)。そしてそれによって資本主義を超えることが可能だと言う。その論点を追っていく。
   そうすると資本主義を超えるという議論で必ずと言って良いほど出てくるアソシエーションが、メタバースの世界では実現されるということになる。
   それは社会主義になる訳ではないということはまず押さえる。資本主義が高度な段階になるのである。しかしそれを脱資本主義と呼ぶことが可能ではないか。
   つまりアソシエーションがメタバースによって可能になり、資本家が銀行から資金を借りて、投資をし、金儲けをするという仕組みから脱し得ているのである。今までは私は、アソシエーションは欲望の渦巻く現実社会では不可能だと思ってきた。しかし今は、メタバースの世界においては可能だと思う。協働ということが具体的にイメージできるからである。
   また資本主義が加速することで、脱資本主義がなされるという、加速主義の考え方も批判してきた。そんなことをしたら、資本主義を超える前に人類は滅亡するだろうと。しかし今、展望が見えてきたように思う(注10)。
   また資本主義の欠点のひとつは格差が大きくなることと、もうひとつは環境破壊である。これが人類を滅ぼす可能性がある。しかし前者に対しては、確かにメタバースの世界は格差を一層拡大する懸念があるが、先のアソシエーションと同じく、人びとが共同して改革をすることができるだろう。そのひとつの試みとして、井上が言うようにベーシックインカムを、その対策として考えることができる。これについてはここでは示唆するに留める(注11)。
   後者に対しては、それこそメタバースで改革することができる。それは単なるシミュレーションではなく、人々が具体的に関わって、メタバース上で、取り組みの様々な案を提出する。
   繰り返すが、私はメタバースですべてがうまくいくとは考えていない。しかしメタバースが私たちの生活を悪化させるという悲観論に対しては、明確な楽観を対峙させることができる。
   さらに少し視点を変えて、シンギュラリティというのは、人工知能に人間が支配されるときのことである。しかしアバターやロボットという人工知能の産物が、メタバースの世界では人間と共存する。人とアバターやロボットとの新しい関係がそこに生まれたと言っても良い。それを可能にするのがアバターやロボットの持つ身体性で、これで彼らが他者となる。そして私たち人間と新しい世界を創っていくのである(注12)。
 
   このテーマで、もう一回は書きたいと思う。
 

1 前回の論稿では、metaverseは「メタバース」とし、これはほぼ「バーチャルな現実」(Virtual Reality)とほぼ同義であるとした(岡嶋 p.26f.)。しかしバーチャル(virtual)を「仮想」と訳すことには、多くの人が違和を感じている。それは仮想などではなく、実質という意味であって、本質的には現実そのものである。舘暲は、「抽出された現実」と言い換えられると言っている(舘 p.14f.)。本稿は以下、「バーチャル」、または「バーチャルな」という表現を使い、Virtual Realityについては、これは訳さずにVRと表記する。これも「仮想現実」ではなく、「人工現実感」と訳した方が望ましいという人もいる(稲見2016 p.133)。
2 幻影肢は、メルロ=ポンティが自らの哲学の主題として取り扱った。メルロ=ポンティの議論とこの伊藤亜紗の議論を繋げることが重要であり、このあとの号で取り挙げたい。またメルロ=ポンティは、幻影肢とともにシュナイダー症例と呼ばれる症状を取り挙げている。これについては以下で扱った。「身体を巡る省察5 病理が教えること」( 2019/04/16)
http://pubspace-x.net/pubspace/archives/6506
3 メタバースでは男性が少女の姿になることが好まれている。このことについては次回書く。
4 「身体の所有(1) 武道について」( 2022/05/03)
http://pubspace-x.net/pubspace/archives/8535
5 「身体を巡る省察4 自閉症の「硬さ」について」( 2019/03/20)
http://pubspace-x.net/pubspace/archives/6458
6 朝日新聞2023年2月7日(同日閲覧)
7 朝日新聞2023年1月30日(同日閲覧)
8 「身体の所有(6) 食人について」( 2022/11/21)
http://pubspace-x.net/pubspace/archives/9278
9 諏訪正樹は『身体が生み出すクリエイティブ』において、身体知を主張する。身体知とは、身体が中心的な役割を担っている知のことで、書名にあるクリエイティブというのは、身体知を持っていることであると著者は言う。クリエイティブな感覚を身体に即して具体的に説明している。
10 加速主義については拙著2冊で論じている(高橋2021、2022)。
11 ベーシックインカムについては、拙著高橋2013、及び井上2018を参照せよ。
12 本文に入れられなかったが、参照したものを注に書く。
深田萌絵『メタバースがGAFA帝国の世界支配を破壊する』
   題名の通り。まさしくそれはインターネットを取り戻す戦いなのである。またGAFAと戦うことが民主主義を取り戻すことになるのだという発想がある。
伊藤穣一『テクノロジーが予測する未来』
   物欲が強くなく、環境問題などに敏感な若い人の、フェアで平等で持続可能な社会へと向かうべく、パラダイムシフトが起きている(伊藤 p.59)。
   ここでも人は身体から解放されると言っている(同 p.126ff.)。しかし不自由な肉体から解放されて、自由な身体になるという話だ。新しい身体を獲得するのである。
   ガバナンスが民主化するという話もある(同 p.170)。これは佐藤の指摘と近い。もちろん衆愚政治に陥る危険性は指摘されている。
 
参考文献
東浩紀『一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル』講談社、2011
伊藤亜紗『記憶する体』春秋社、2019
—-  『体はゆく できるを科学する〈テクノロジー×身体〉』文藝春秋、2022
伊藤穣一『テクノロジーが予測する未来 web3、メタバース、NFT』SBクリエイティブ、2022
稲見昌彦『スーパーヒューマン誕生! 人間はSFを超える 』NHK出版、2016
—-  「変身・分身・合体まで ―自在化身体が作る人類の未来―」稲見昌彦他『自在化身体論 -超感覚・超身体・変身・分身・合体が織りなす人類の未来 -』NTS、2021
井上智洋 『AI時代の新・ベーシックインカム論』光文社、2018
—-   『メタバースと経済の未来』文藝春秋、2022
舘暲『バーチャルリアリティ入門』『メタバースと経済の未来』2022
株式会社 往来『アバターワーク メタバースが生み出す時間、場所、身体から解放された働き方』MdN、2022
佐藤航陽『世界2 メタバースの歩き方と創り方』幻冬舎、2022
杉本麻樹「バーチャル環境を活用した身体自在化とその限界を探る」稲見昌彦他『自在化身体論 -超感覚・超身体・変身・分身・合体が織りなす人類の未来 』NTS、2021
諏訪正樹『身体が生み出すクリエイティブ』筑摩書房、2018
高橋一行『知的所有論』御茶の水書房、2013
—-  『カントとヘーゲルは思弁的実在論にどう答えるか』ミネルヴァ書房、2021
—-  『脱資本主義 – S. ジジェクのヘーゲル解釈を手掛かりに』社会評論社、2022
舘暲『バーチャルリアリティ入門』筑摩書房、2002
成田悠輔『22世紀の民主主義 選挙はアルゴリズムになり、政治家はネコになる』SBクリエイティブ、2022
深田萌絵『メタバースがGAFA帝国の世界支配を破壊する』宝島社、2022
松田卓也『人類を超えるAIは日本から生まれる』2016
宮台・藤井『神なき時代の日本蘇生プラン』ビジネス社、2022
 
(たかはしかずゆき 哲学者)
 
(pubspace-x9620,2023.02.08)