身体の所有(6) 食人について

高橋一行

 
   檜垣立哉と雑賀恵子を参照しながら、食について書いてきた。彼らはそこから食人に言及する。今回はその食人について書きたい。
   食人はなぜいけないのか。それは近親相姦と同じく社会が定めたタブーであるからだ。そしてこれはこのあと検討していく課題であるが、歴史上の幾つかの社会では、必ずしもそれはタブーではない。そのことを確認することが、またなぜそれらの社会においてはタブーではないのかということを説明することが本稿の目的のひとつである。またそうは言っても、私たちの社会ではそれはタブーであり、その中で止むを得ず食人をした場合に、どのようなことが起きるのかということも見たいと思う。それがもうひとつの本稿の目的である。
   その際に生物学的な理由で食人タブーを説明できないということをまずは確認したい。こののちに取り挙げる雑賀は、福岡伸一が食人タブーの根拠を分子生物学的に説明していることを批判する。福岡によれば、消化とは、食べ物を細かくするだけでなく、元の生物が持っていたたんぱく質の情報を解体して、体内で自分に適合的なものに再構成することである。しかし自分と同じ種の肉を食べた場合には、消化酵素によって解体されずに他者の情報の干渉を直接受ける恐れがあると言うのである。福岡によれば、これが食人タブーの生物学的根拠である(注1)。しかし雑賀はそれに対して、食人タブーは法の問題であり、善悪は言葉によって決定されると極めて正当な説明をしている(雑賀 p.94ff.)。生物学の知見をそのまま人間の文化に当てはめることの危険性について、ここであらためて指摘しなければならない。
   私は進化論を論じたことがある(注2)。そこで得られた結論は、精神は自然から生まれたということであり、しかし一旦精神が発生したら、精神は精神の論理で動くので、そこに自然の論理をそのまま当てはめてはならないということである。自然科学と精神科学は相互に刺激を与え合うべきだが、精神科学が完全に自然科学のもとにあるということではない。人間の行為は自然によって影響は受けるが、それをすべて自然科学で説明できるものではない。食人の問題においても、自然と文化のせめぎあいを議論すべきである。
   さらにここで注意すべきは、食人について、それがタブーであるにせよ、タブーでないにせよ、それは単に構築主義的に、社会によってその考え方が異なるのだということではなく、普遍的な正当性を要求するということである。つまりそれは人間の精神的な問題であるのだが、しかし自然性も問われている。そこにおいては先ず、生物としての類意識が発達したものが精神なのだと考える。そうすると自己が自己を成り立たせている類の一部である他者の肉を食うことができるかということが問われている。場合によっては、類の一部である他者の肉だからこそ、食うことが奨励される場合もあり、しかし多くの社会ではそれがタブーとなる。いずれも精神を持つ、つまり類意識を持つ人間にとって、根本的なことが問われている。
   この問題を以下、深めていく。
   まず食人のパターン訳をする。それは個人が①飢餓状態において、または②異常な精神状態で猟奇的な事件を起こしたときがあり、また共同体が③宗教的、文化的な理由で食人をするという場合もある。この区分けに従って、整理する。
   檜垣と雑賀はこの①を扱う。私もまずそこから入っていくが、しかしその前に世にどんな食人論があるか、見ていく。
   実は結構たくさんの本が出ているのである。そしてそれぞれの著者がそれぞれの関心で食人について書いている。例えば、O. ケリー『世界食人事件簿: 食人犯罪者の知られざる素顔』は、パリに留学していた日本人が女子学生を殺して、その肉を食べたという佐川一政事件などの数例を集める。これは①極度の飢えから起きたものでもなく、③宗教的、文化的な理由に基づくのでもない、②精神異常と言って良い個人の犯罪を集めている。
   ただここで思うのは、この②のパターンは、どれも性的なものではないかということだ。加害者は多くの場合、殺人をし、死体に姦淫する。場合によっては死体を見ながら自慰をする。性的な欲望が極まって、食人が行われているという印象を持つ。するとここでの私の関心は食だから、ちょっとこれらの性的な異常を対象にして私が何か書くべきことはないように思える。
   そのため、とりあえず②はここで対象から外す。性と食の関係、つまりそれらの同一性と差異は、実はこの論稿の隠れたテーマなのだが、今回は主題としては取り挙げない。いずれ詳しく書きたいと思う。
   また吉岡郁夫『身体の文化人類学 身体変工と食人』においては、食人とは、飢餓状態や精神異常の時に人肉を食うことを含まないとある。①飢餓状態や②精神異常の時を除くと、③宗教的、文化的な理由で食人をする場合を扱うということになる。①と②は特殊な状況下の個人の食人ということだろう。すると吉岡にとって食人とは、ある共同体の持つ風習なのである。
   問題はこの個人と共同体の接続である。吉岡は世界各地でみられる食人を分析する。そこで得られる結論のひとつは、①、②という個人の食人と、③の共同体の食人はきれいに分かれる訳ではなく、幾分かは重なるということである。吉岡は、どんな場合に食人をするかということについて、飢餓のとき、または食料が尽きたとき、さらには嗜好物として、怨敵の肉を食う場合、医療の目的で、としている。これらは個人のものもあり、また共同体のものでもあるだろう。つまり個人と集団的な行為とは重なるのである(注3)。
   また本稿は後半で、レヴィ=ストロースを参照して、アメリカ先住民の食人を論じるが、結論を先に言えば、檜垣と雑賀の論じる①個人の食人とレヴィ=ストロースの論じる③共同体の食人と本質的に変わりはないのである。結論を先回りして言えば、そういうことになる。こういったことを頭に入れた上で、①個人の食人の問題から分析を始める。檜垣と雑賀は、以下の小説を題材にする。
   野上弥栄子『海神丸』、大岡昇平『野火』、武田泰淳『ひかりごけ』と、この3つの小説はどれも、①飢餓状態の食人を扱っている(注4)。ただし、『海神丸』では殺人があったが、食人はなく、『野火』では死んだ人を食う場合と、殺して食う場合と両方があり、また主人公は殺人はしたが、食人はしていないと言い張っている。『ひかりごけ』では、食人は明らかで、あとは殺人をしたのか、餓死したのかということが問われる。これらの違いは法的には大きな問題であるが、しかし食人がなされたときの状況を考えると、どこまで大きな違いなのか。
   まず野上弥栄子の『海神丸』について見ていきたい。
   1916年師走、貨物帆船「海神丸」が、嵐に遭って吹き飛ばされ、救助されるまでの56日間大洋を漂流する。乗組員は船長以下4名で、途中食糧が尽き、飢えた乗組員のひとりが、一番若い乗組員を食べようと斧で撃ち殺すが、船長の必死の抵抗で諦めて水葬にするという実話を元にした物語である。
   続いて大岡昇平『野火』を取り挙げる。
   太平洋戦争末期、フィリピン戦線でのレイテ島において、主人公は肺病のために部隊を追われ、野戦病院からも食糧不足を理由に入院を拒否され、ひとり熱帯の山野を彷徨う。そこでふたりの戦友に出会い、人肉を猿の肉だと偽って食わされる。そののち、このふたりのひとりが他を殺す。しかしその時に主人公はその殺された人の肉を食うことは拒否し、殺した方の戦友に銃を向けるのである。
   最後に武田泰淳『ひかりごけ』を見る。
   1943年12月、7人の乗組員を乗せた日本陸軍の徴用船が、知床岬沖合で大シケに遇い、座礁した実話に基づく。小説は二幕の戯曲仕立てである。第一幕は真冬の島で、ここに4人の男が流れ着く。食糧もなく、4人は徐々に衰弱していく。初めにふたりが死に、そのふたりの肉を船長と一番若い船員が食って生き延びる。やがて人肉がなくなって、ついにふたりは争い、最後は船長が若者の屍をひきずって再び登場し、幕が下りる。
   第二幕の舞台は法廷で、食人を犯した船長の裁判が行われる。ひとつの争点は食人そのものである。最初に死んだふたりはついに食人はしなかったし、3番目に死んだ若者も食人をしたが、それを恥じて死んでいく。ひとり船長だけが反省もせずに生き残ったのである。それに対して、弁護人は、食人をしなければ飢え死にし、食人をすれば罪を犯すことになると、船長を擁護する。
   小説はここで終わるのだが、しかし食人は罪ではない。実際には船長は死体損壊罪で1年間の実刑を受けているが、食人に対する罰ではない。食人を罰する法律はない。ただし問題はさらにここから先に進む。つまり彼は死んだ人間の肉を食べたのか。それとも肉を食べるために人を殺したのか。このふたつは法的には大きな違いである。しかし極限状態であり、証拠は何もなく、相手は殺さなくても間もなく死ぬであろう状況で、殺したか殺さなかったのかということは、実は大して違いがないのである。こうなると、人肉を食ったという、法的には大きな問題にならないことだけが、重要な意味を持ってくる。
   また武田泰淳はこの小説の中で、「殺害したが喰うことはしなかった」事例として『海神丸』を参照し、『野火』については、主人公は人を殺しておきながら、人肉は結局飲み下すことができず、つまり食人に至らず、そのことを、「「俺は殺したが食べなかった」などと反省して、文明人ぶっている」と批判している。
   さて雑賀はまず、食人が刑法の中に存在しないことについて、近代理性は「人間存在の昏く根源的なところを揺さぶるおぞましさ」を退けてきたからだと説明する(雑賀 p.88)。特権的な人間を食べるということの是非は法体系の中にはあり得ないのである。
   そこからまずは大岡を批判する。戦争時のような極限状況では、食人は善悪の向こうにあり、それを理性が裁けるものではない。しかし『野火』の主人公は、法を疑わず、食人を拒否したことを誇っている。そのために人間の業を凝視し得なかったのではないかと言う。
   食人タブーは実はおぞましい悪ではない。しかし『野火』の主人公は、人肉を突き付けられて、激しく嘔吐する。「身体の欲望を身体が反抗する。・・・『野火』で闘争されているのは、剥き出しになった世界と、ほかならぬこの私、言語に拠ってしか思考し得ない、しかしまごうことなく肉体を持ったこの私との関係にのみ在る、倫理なのである」と、この論稿を結んでいる(同 p.98)。
   さらに雑賀は武田をも批判する。武田もまた言語-意味の世界に囚われている。「全ての人が担うべき業(カルマ)を、理性で裁断される善悪の彼岸にあるはずの業(カルマ)を、むしろ武田は、意味の体系に組み込んでしまっている」と批判する(同 p.90)。
   檜垣は、上述の雑賀の議論をていねいに読み解いていく。食人は法の外に置かれており、それはタブーではあるが、法律で明文化されないということをまずは確認する。それはおぞましいものだが、それは文化で論じることができないものなのである。
   さらにそこから檜垣は、宮沢賢治を引用しつつ、考察を深める。例えば「よだかの星」ではよだかは虫を食い続けることを嫌悪し、ついには自死する。ここでは他の生物を食わねば生きていけないという、食の根本が疑問視されている。また「注文の多い料理店」は、客が危うく食べられてしまうという話である。人が他の動物を食うだけでなく、人もまた食われ得るのである。檜垣は、「生きるものを食べるわれわれの試みとは、すべてがカニバリズムでありうるということではないだろうか」と問うのである(檜垣 p.94)。
   檜垣はそこから生き物を殺す欲望を、さらには人を殺す欲望を示唆する。人は動物を殺して食う。人は殺さない。しかし人と動物は連続しているのではないか。生きているものを同類とみなしてしまえば、食べることはそもそも生命のカニバリズムであるというのが檜垣の考えの根本にある。そしてさらに、生き物を殺す快楽もまた人間の本性ではないかと考える。
   しかし一方で、人は毒を好んで食う。これは前回書いたことである。ここのところで、檜垣は、他なるものこそが毒であると考えている。つまり人は毒を好み、他なるものを食べる。そういう仕組みで、人は食人を避けることになる。「カニバリズムを避けるということは、自分と近いものは食べないことである。毒を食べることは、構造的な必然である」と檜垣は書く(同 p.174)。毒を食べるというパラドックスが檜垣の主張の根本であり、そのために食人は避けて、他の動物を食うことの快楽に話を持っていく。
   私もまた、そもそもすべての生物を殺して食べるということと食人は繋がっていると思い、しかしそうすると檜垣のように、他の生物という毒を食うことこそ快楽であると話を持っていくことで、食人は避けられると結論付けることに不満が残る。つまり人は毒を好むものだとした上で、しかしなぜそれが食人タブーを説明することになるのか。他の生物を殺して食べることが毒であるとして、なぜそうすると食人は避けられるのか。そこが分からない。先に他の生物を食べることと食人は繋がっていると言っておいて、しかし両者は異なるのである。そこが十分説明されているように思えない。
   しかし一応の結論としてここに書いておき、あとでもう一度考えたい(注5)。
 
   さらに話を先に進める。E. V. de カストロ『食人の形而上学: ポスト構造主義的人類学への道』は、興味深い本である。ドゥルーズ-ガタリに触発されて、レヴィ=ストロースをドゥルーズ-ガタリで読み直す本だと最初に書いてある。訳者のひとりは今まで議論の中心に私が据えた檜垣立哉である。彼はドゥルーズ研究者でもある。カストロはブラジルの人類学者で、その議論の中心は「アンチ・ナルシス」である。これはもちろん「アンチ・オイディプス」をパラフレーズしたものである。後者がギリシアに行き着くことに対し、前者はアメリカ・インディオ的な自然主義に依拠する。そこから多自然主義という観点が提出される。
   食人という言葉がタイトルにあり、またこの本の第IVは「食人的なコギト」となっていて、それがテーマなのだが、しかし食人そのものについての記述は少ない。カストロはここでアメリカ先住民と言えば食人という烙印が押されていることに異議を唱えているのである。
   確かに彼らの風習の中に食人はある。しかし先住民は、なぜ敵の肉を食べるのか。それによって復讐や祝福をするというのが、それまでに考えられてきたものである。何か超自然的なものがあり、それに対する信仰から人肉を食う。そしてその信仰は文明化された人々から、野蛮だと見做される。カストロは、それに対して、私と他者が交換するという観点が重要だとする。
   私は他者が憑依することによって他者として規定される。そして今度はその他者が私になる。私は常に他者の中の私である。これをカストロは、他者を横断すると表現する。
   人肉を食することが重要なのではない。肉は身体だが、その身体は敵と食する者の関係である。「自己に対する視点としての他性」なのである。
   さらには次のようにも言う。殺戮者は、その敵を通じて自らを敵のように見なしたり、敵のような状態にする。自らは敵として現れる。倒した相手のまなざしを通して自らを理解する。
   常に敵を創造しなければならないとしたら、他者をそのようなものとして作り上げるのだとしたら、その目的は実際に敵を食べるということであり、それは自己を他者として作り上げるためなのである。(以上、カストロ 第8章)
   自己が他者になり、他者が自己になるという、この変容、すなわち自他の置換、転置、交差と並んで、もうひとつの観点は、人間が動物になるというものである。人は死ぬと動物になる。ある者は豚になって、人に食われる。ある者はジャガーになって、人を食う。動物は元々は人間であり、人間は最後は動物になる。(以上、同 第9章)
   ここではふたつのことが言われているように思う。ひとつは、私たちは他の生物を殺して食うのだが、食人はそのことと連続しているということである。私たちは、かつて人間であって死んだのちに豚に変身した存在であるところの動物の肉を食い、また直接的に人肉も食う。もうひとつは、これは私たちとは現代の日本にいるとまず自覚しないのだが、人もまた他の動物に食われる存在だということである。人は死んでジャガーや禿鷹やピラニアに変身し、それらは他の生物も食うのだが、同時に人も食うのである。
   こういうことをカストロに教わって、いよいよレヴィ=ストロースを読むことになる。そしてそこに、人が他の部族の人間の肉を食う話と、間接的に、つまり死者が豚になって、人に食われたり、死者がジャガーになって、人を食ったりという話が夥しいほど出てくることに気付くのである(注6)。
   ここでカストロが依拠するのは、1964年から1971年に掛けて書かれたレヴィ・ストロースの『神話論理』である。それを取り挙げる前に、私は1949年に出された『親族の基本構造』を論じたことがあり、そちらを先に見ていきたい(注7)。
   『親族の基本構造』では次のように論じられていた。つまりその第1章と第2章で方法論が論じられる。「近親相姦のタブー(訳本ではインセスト禁忌となっている)は性向であり本能であるという普遍性も、法であり制度であるという強制的性格も併せ持つのである。・・・我々の社会においてすら、聖なる事物にまといつく畏怖の後光を、これほどまでに保ってきた社会的命令はまずない」(p.69)。かくしてこのタブーを避けるように女性の交換が行われる。互酬原理が論じられ、婚姻の形態が社会の構造を決める。
   結論部で再びこのタブーが確認される。すなわち「インセスト禁忌は母、姉妹、娘との結婚を禁ずる規則であるより、母、姉妹、娘を他者に与えることを義務付ける規則、典型的な贈与規則である」ということになる(p.775)。
   それは『神話論理』の構成とはだいぶ異なる。するとレヴィ=ストロースの問題意識は、若い頃は性の構造にあり、そこから近親相姦のタブーを論じ、これを避けることが社会の構造を決めていると論じたのだが、のちに関心は食に移り、そこでは食人のタブーが社会構造を決めると考えたとして良いのかということだ。とりあえずそういう先入観を持って、実際に1964年以降のレヴィ=ストロースを読んでみよう。
   まずレヴィ=ストロース「われらみな食人種(カニバル)」(初出は1993年)に簡潔なまとめがある。
   食人は人間の本性に反するもので、食人の習慣のある部族は野蛮であるという世間に対し、食人の風習は多くの地域で存在しており、「カニバリズムの概念やその直接、間接の適用があらゆる社会に見られる事象」であり、「われわれのもとにもカニバリズムが存在すると言えないこともない」とレヴィ=ストロース言う(p.160)。他人の肉体の一部を自分の身体の中に入れることはありふれたことなのである。「他者と自分と同一化する一番単純な手段は、何をおいてもまず、他者を食べてしまうことである」とも言う(同)。
   また『パロール・ドネ』(初出は1984年)には『神話論理』の要約がある。そこで次のように言われている。前回私は、レヴィ=ストロースの、「生のもの」、「火にかけたもの」、「腐敗させたもの」という料理の三角形を紹介した。彼が取り挙げる神話の世界では、このほかに第四の食べ方があり、直接間接的に食人が話題になると言う(p.66)。ここで直接的というのは、彼らが敵対する部族の肉を食うということであり、間接的というのは、人が鬼やジャガーや禿鷹やピラニアになり、人を食うというものである。実際『神話論理』には夥しい例が見られる。食人タブーではなく、食人が論じられている。そしてなぜ食人が行われているのかということについて、まさしく先にカストロがそれを整理して論じていたのである。
   さていよいよ『神話論理』を読む(注8)。全4巻から成る。第4巻が邦訳では二冊に分けられているから、全部で5冊ある。一冊平均500ページを超える大部のものである。
   出口顯によると、この5冊の読解のためには、さらにフランス語原文と英訳と、南アメリカ先住民について解説する民俗分布図と星座早見表と、机の上に並べて読んでいかねばならないのだそうである(出口 p.21)。
   すべての神話には番号が振られている。M1からM813まであり、またそれらはヴァリエーションがあって、同じ番号の中にさらにa、b、c・・・と付けられて、細かく分けられている。総勢で1000余りの神話が記述されている。
   単に先住民の神話をまとめただけではない。レヴィ=ストロースがもう一度その神話の誕生と生成を再演しているのである。神話に即して、その神話の生れた瞬間に立ち会うのである。
   そして私たちもまた、レヴィ=ストロースを読むことで、私たちの頭の中にもう一度その神話を創り直すことが可能になるのではないか。これも出口によれば、レヴィ=ストロースはこの1000を超える神話を全部記憶しているのだそうだ(同 p.313)。番号を付けて、読者にも関連する神話をもう一度読み直すことを求めている。この5冊の本をあちらこちらひっくり返しながら、その番号の神話を探し出して、記憶を新たにし、私たち自身が神話を再生することが求められる。
   残念ながら実際に私たちの誰もがそこまでの作業をなし得るのではないが、その可能性は開かれている。
   神話は伝播する。ある部族から別の部族へ伝わると、もう一度それが解釈し直され、変形されていく。そしてそれはレヴィ=ストロースによって集められ、そこでも変形を受け、私たちに伝えられるのである。
   以下、内容に入っていく。それは南北アメリカ対立の先住民の神話を論じている。神話の中に見られる二項対立をレヴィ=ストロースは取り出す。生のものと火にかけたもの、男性と女性、雨季と乾季、明暗、昼と夜などである。それらの分析が基本で、その中に食人も出てくる。食人の例は夥しくある。
   また自然と文化の対立の上で、料理が論じられる。乾いたものと湿ったもの、蜂蜜とタバコが論じられる。蜂蜜は蜂蜜酒になる。また糞便も大きなテーマである。ここは前回のテーマである。
   レヴィ=ストロースの著作において、糞便の役割は大きい。小便と樹液は生のもので、大便とビールは発酵、腐敗させたものという意味で料理したものに分類される。またもうひとつの二項対立は、排泄と性交である。
   食人も出てくるが、主題ではない。先に書いたように、『親族の基本構造』では、女性の交換がテーマであり、近親相姦のタブーが常に議論の基調にあったが、ここでは、摂食と排泄などの二項対立が主題で、食人はその中のひとつのテーマに過ぎないようにも思える。
   女性の交換も論じられるが、それは食を巡ってなされている。食と性、植物と動物、魚と鳥が論じられ、「自分たちと同じように食事をする人々と女性を交換する」ということになる(p.549)。
   全巻を見渡して、『基本構造』から『神話論理』への移行において、性から食へ比重が移ったという言い方をしても良いだろう。しかし後者でも性は論じられている。
   また近親相姦のタブーから食人のタブーへという移行はないと言って良い。つまりレヴィ=ストロースの取り挙げる世界では、後者はタブーではない。むしろ普遍的にみられるものとして位置付けられている(注8)。
   すると私の先入観は見事に打ち砕かれることになる。
   そこでは食の話が多いが、性に関する話も当然たくさん出てくる。近親相姦の話も出てくる。話は生活全般に亙るのである。
   また食人の話は、主たるテーマではないと今私は言ったが、しかしその話は夥しく出てくる。捕虜を食い、そのことによって、捕虜が自分たちと同じになると考える部族がいる。自分の乳房を切り取って、人に与えるという話もある。好戦的な食人があり、自らの身を捧げるという食人もある。死体を火葬したあとに残る骨の一部を酒などに加えて飲むという場合もある。
   さらに直接的なものだけでなく、間接的なものが実に多い。間接的というのは、人がジャガーに変身し、そのジャガーが食人をするというタイプのものである。あるいは食人をしてからジャガーに変身するという話もある。自分の子が猪になり、それを食うというものもある。さらには人は容易に鳥や魚になる。鳥の中でも禿鷹は、また魚の中でもピラニアは人を食う。
   またここでは食人が何か特別なものだというようには描かれていない。恐らく人は日常的にジャガーや禿鷹やピラニアに食われているのである。つまり人も容易に捕食される。私たちは他の生物を殺して食べているのだが、同様にまた他の生物も私たち人を殺して食べているのである。生物の捕食被食の輪の中に私たち人間も入っている。また私たちは猪を殺して食べるのだが、神話においては、その猪は自分の子の変身した姿であるかもしれない。様々な生物を殺すことと人間を殺すこと、動物によって食われることと食人とは接続している。
   また神や精霊に人が食われることもある。死者の魂は天界の神に食われることで、自らも神になる。野生動物の主と考えられている森の精霊に人が食われると、その人は野生動物の主として再生する。
   むしろここでのテーマは変身である。人は容易に他の生物になる。人食い女が穴に落ちて死に、その穴を埋めるとそこから植物が生えてくる。これがたばこである。たばこの起源は人食い女である。
   今ここで私は不用意にたばこの起源に触れた。これはしかし、様々なヴァリエーションがあり、先住民の神話のひとつの大きなテーマをなしている。人は蛇になり、その蛇が殺され、その死骸が焼かれると、その灰からたばこが生まれる。ここではたばこは大地と空との媒介者である。しかし別の神話では、死者の魂は水の中にあり、たばこが大地と水の媒介の役割を果たす。
 
   カストロの本のタイトルは『食人の形而上学』となっていた。つまりそこで食人が強調されている。それに対して、確かにレヴィ=ストロースの『神話論理』には食人の例が夥しく出てくるが、しかしそこでは、火と水、空と大地、太陽と月、高みと低さ、近いものと遠いものといった二項対立が論じられ、夥しい例の変身が論じられる。火の起源、肉の起源、たばこの起源が論じられる。
   人もまた他の動物によって食われる。その他の動物が人の生まれ変わりならば、それは人が人を食うということになる。また私たちは他の生物を食うことで生きている。その中に食人も含まれる。
   さらに他者の肉を食うことで、他者と同化したり、他者と自分が入れ替わったり、他者をその共同体の中に位置付けるということもある。食は文化の問題だが、食人もまたそうである。
   これは先の檜垣の結論と繋がってくる。人は他の生物を殺して食う。場合によっては人をも食う。また人は他の生物によって殺されて食われる。場合によっては他の人によって食われることもある。食人がタブーなのか、承認されるものなのかという理屈付けはどうにでもなる。つまりタブーになる場合もあり、タブーにならない場合もあり、問題は実はそこにはなく、食人という問題が食というより大きなカテゴリーの中に位置付けられているということなのである。そして食とは何かしらを殺して食べるということに、その本質があるということなのである。
 

1 福岡が消化の機能を説明する限りで、それは適切なものだと思う。しかしそこからひとつは同種のものを食べるのは望ましくないという結論を導くとき、生物の中には自分の子を食べたり、雄が雌に食われたりするものも多く、その説明が付かないだろうと思うのである。またより根本的には、本文に書いたように、生物学で人間の倫理を説明しようという、しばしば自然科学者が犯す間違いを彼もしてしまっているということもある。
2 当サイト「進化をシステム論から考える(1) — (12) + 補遺」(2015/08/20 — 2016/02/27)を参照せよ。
3 J. アタリは、その大部の『食の歴史』という本で、ネアンデルタール人から、古代、中世、近世、近代と順を追って、人は何を食べてきたのかということを論じ、現代の食が抱える問題を論じ、さらには近未来の食生活を予測する。まさしく食は文化のひとつと言うより、文化の中心的なところに位置しているということを認識させる。
   さて彼は食人にも触れている。しかしそれは未来社会において、食べ物としてクローンから栄養を得るという話として論じられる。「我々ヒトは究極のカニバリズムの形として、自分たち自身を食らうようになるだろう」と言う(第8章の末尾)。
   アタリはほんの一言だけ食人を示唆するに留まっている。それはクローン技術を用いて、タンパク質としての肉の塊を作るという話なのかもしれない。アタリは、生物はすべて意識を持っていて、それを殺して食べるということが意味することに注意を向けさせる。本稿でこのあとに論じる、食の持つ根源的な悪をアタリは示唆するのである。しかしそれでは私たちはバイオ人工物だけを食べれば良いのかということになる。そういう問題意識の中で、クローンに言及するのである。ただの肉の塊としてのクローンを育てることが可能なのか。それともそのクローンは私たちと同じように意識を持つ存在になるのか。
   ここで私はイシグロ・カズオの小説を思い起こすことになる。イシグロは、『わたしを離さないで』という小説の中で、臓器提供をするために育てられているクローン人間の生活を描いている。中年にならない内に生を終えることが明らかな少年少女たちが施設で育てられている。クローン人間もまた私たちと同じく、意識を持ち、様々な経験を積んで育ち、人間関係を構築している。彼らの恋愛が小説の主題となる。
   そうするとクローン人間に臓器を提供させることは明らかに殺人である。そういう過激な問題がここにある。
   いささか刺激が強過ぎるテーマであるが、イシグロの才能が、少年少女たちの繊細な心の動きを描くことに成功している。
   M. モネスティエ『図説食人全書』も、特殊な状況下の個人の食人を扱い、また宗教的、文化的なものを中心に説明した上で、最終章で、21世紀の食糧危機の時代にあっては、食人がなされると予言する。いささか悪ふざけの感がなくもないが、しかし確実に進行する食糧危機を救うのは食人しかないと断言している。本稿に収まり切らないテーマなので、注で取り挙げる所以である。
4 小説については、私が使った版は今や入手困難になっていて、代わりにKindleその他で、入手が容易なものが出回っている。そのために参考文献に特に取り挙げないし、また引用に際しては、ページ数を明記しない。
5 山内昶『ヒトはなぜペットを食べないか』に、なぜ食人がタブーなのかという説明がある。まず人は食と性とを同一視する傾向があるとされる。その上で次のような性文化と食文化の表を提出する。
 
性文化   エゴ(自分自身)   近親     他人
食文化   ヒト       ペット    野鳥獣
 
   まずは自己を愛することと自らを食べることが禁止される。次いで近親相姦とペットを食べることが禁止されるということになる。そうするとセックスの相手は自分自身でもなく、近親でもない他人だということになり、食べて良いのは、人ではなく、ペットでもなく、野鳥獣だということになる。
   しかしここで自愛というのはあまりにも特殊なものである。つまり単なるナルシシズムなら一般的なものなのだが、そうではなく、山内は、「自分のペニスをフェラチオして大気神シューと湿気神テフヌトを産んだとされるエジプトの創造神ケペラ」を例に挙げる。これはかなり特殊なものではないか。しかし考えられるのはそれくらいなもので、つまりこれは一般的に論じられない。つまり性と食を単純に同一視して論じるのは難しいと思う。
   身体とは肉であり、それは人であれ、ペットであれ、食べることは可能なのである。しかし身体は精神でもある。少なくとも精神と繋がっているということは言えるし、もっとはっきり言えば、身体は精神そのものなのだというのが、このシリーズでの私の議論だ。ペットもまた精神的に繋がっていると私たちは思う。だとすると、それは私たちの社会では、食べることはできないのである。それがタブーの所以である。しかし人は生物を殺して食うのであり、動物を殺すことと、人を殺すことは連続的に考えるべきである。その限りで食人はあり得る。またこのあと論じるように、人がむしろ精神的な存在だからこそ、食人をするという社会もある。また付言すれば、鯨を高度に知的で、精神的な存在と見なす欧米と伝統的に食用にしてきた日本との違いも、異なる社会の中でそれぞれ異なった判断がなされる(小松)。
6 檜垣の本の中ではカストロはまったく言及されていない。檜垣としては自分の哲学を作ることが大事で、自分が翻訳したものも含めて、いろいろと参考資料を並べることはする必要がないということだろう。
   檜垣は、雑賀と宮沢賢治など、一部の著書の作品をていねいに論じる。あとは鯨とイルカの話など、日本で起きた事件を分析している。そういうスタイルで書かれている。
7 当サイト「バトラー主体の論理(3) 性的主体の論理」(2021/02/05)を見よ。
8 今回は引用しないが、「小神話論理」と呼ばれる『仮面の道』、『やきもち焼きの土器作り』、『大山猫の物語』も参照した。これらは4巻の『神話論理』が「大神話論理」と呼ばれることに対応するのだが、渡辺公三は、『大山猫の物語』の「監訳者あとがき」で、これはヘーゲルの「大論理学」と「小論理学」の対を念頭にそう言われているとしている。
9 本稿で何度か言及した、性と食の同一性について、確かにこのふたつは類比的に考えられるが、しかし同一性を強調することはできない。例えば人は性を拒否することもあり、食を拒否する場合もある。拒食症はその個体に死をもたらし、性もすべての人が拒否すれば、類は滅びる。しかし個体が性を拒否しても、その個体は生きる上で何の問題もない。当サイト「身体の所有(4) 笙野頼子または性のない身体」( 2022/10/11)を見よ。
 
参考文献(アルファベット順)
アタリ, J., 『食の歴史 – 人類は何を食べてきたのか -』林昌宏訳、プレジデント社、2020
出口顯『神話論理の思想 – レヴィ=ストロースのその双子たち -』みすず書房、2011
カストロ, E. V. de『食人の形而上学 – ポスト構造主義的人類学への道 -』檜垣立哉、山崎吾郎訳、洛北出版、2015
檜垣立哉『食べることの哲学』世界思想社、2018
福岡伸一『もう牛を食べても安心か』文春新書、2004
ケリー, O., 『世界食人事件簿 – 食人犯罪者の知られざる素顔 -』Kindle, 2021
小松正之『日本の鯨食文化 – 世界に誇るべき”究極の創意工夫” -』祥伝社、2011
モネスティエ, M., 『図説食人全書』大塚宏子訳、原書房、2015
雑賀恵子 『エコ・ロゴス – 存在と食について -』人文書院、2008
山内昶『ヒトはなぜペットを食べないか』文春新書、2005
吉岡郁夫 『身体の文化人類学 – 身体変工と食人 -』雄山閣、1989
 
レヴィ=ストロース, C., は以下のものを使った。
『親族の基本構造』(初出1949) 福井和美訳、青弓社、2000年
『神話論理I 生のものと火を通したもの』(初出1964)、早水洋太郎訳、みすず書房、2006
『神話論理II 蜜から灰へ』(初出1966)、早水洋太郎訳、みすず書房、2007
『神話論理III 食卓作法の起源』(初出1968)、渡辺公三他訳、みすず書房、2007
『神話論理IV-1 裸の人1』(初出1971)、吉田禎吾他訳、みすず書房、2008
『神話論理IV-2 裸の人2』(初出1971)、吉田禎吾他訳、みすず書房、2010
「料理の三角形」(初出1971)『レヴィ=ストロースの世界』所収、伊藤晃他訳、みすず書房、1968
『仮面の道』(初出1975)山口昌男他訳、筑摩書房、2018
『パロール・ドネ』 (初出1984)、中沢新一訳、講談社選書メチエ、2009
『やきもち焼きの土器作り』(初出1985)、 渡辺公三訳、みすず書房、1990
『大山猫の物語』(初出1991)、渡辺公三監訳、みすず書房、2016
「われらみな食人種(カニバル)」(初出1993)『われらみな食人種(カニバル) レヴィ=ストロース随想集』所収、渡辺公三監訳、創元社、2019年
 
(たかはしかずゆき 哲学者)
 
(pubspace-x,2022.11.21)