高橋一行
本シリーズ第11回で扱ったS. ジジェクの『性と頓挫する絶対』(以下、『性と頓挫』)にトポロジー理論が出て来る。そこではメビウスの帯、クロスキャップ、クラインの壺が論じられる。これがヘーゲル論理学(ここでは『大論理学』と『小論理学』の総称)を構成する3つの部、すなわち存在論、本質論、概念論に対応するとジジェクは言う。
この文言を見たとき、私は衝撃を受けた。やられたと思ったのである。そう言われれば、確かにそうだ。なぜ私が先にこういうことを言わなかったのかと思う。
40年以上前、岩波文庫で『小論理学』を始めて読んだとき、まず存在論において、存在は無である、悪無限は(いろいろと手続きはあるが、それらを経れば)真無限になるという文言を見て、こういったカテゴリーの移行はいかさまなのではないかと思う。それで「存在論のペテン」という表現を思い付く。次いで本質論に進むと、本質は現象であり、現象は本質であると言われる。そこにおいて論理は反転を繰り返すだけで、全然進展していないのではないかと思う。私はこのことを「本質論の横滑り」と言い現わしていた。そして最後の部は概念論で、この概念というのは主体のことであり、つまりヘーゲルは主体の生成、発展を論じるのだが、本当に主体は発展しているのか。主体は、本当は発展したくないのではないか。そのことを私は、「概念論の自己韜晦」と言った。当時これら表現を私は随分気に入って使っていたのだが、その内忘れてしまった。なぜこれらのアイデアをさらに展開しなかったのか。この40年間、何をやっていたのか。情けなく思う。
以下、ジジェクの上述の本におけるトポロジー理論とヘーゲル論理学の関係についての説明を追い、次いでそれを数学の入門書で確認し、その上でヘーゲル論理学の読解をしたいと思う。また最後にJ. ラカンのトポロジー理論に触れたい。種明かしを先にすれば、ラカンはずいぶんとトポロジーにこだわっている。ジジェクはラカン理論からトポロジー理論を知り、それをヘーゲル論理学に当てはめたのである。如何にもジジェクがやりそうなことである。それでこの機会に私は、ラカンにとってトポロジーがどのような意義があるのかを考えたい。これは私には難しいことだが、このことからラカンの理解を少しでも深められればと思う。
この『性と頓挫』では、ジジェクが本格的に「論理学」を論じている。Less Than Nothingにおいても、「論理学」の冒頭の存在と無については、まさしくそれをless than nothing(無以下の無)という考え方で説明をしていたが、しかしそれ以外に本格的にジジェクは「論理学」を論じて来なかった(注1)。今回この「無以下の無」の考え方をさらに発展させている。具体的にはその否定のダイナミズムをトポロジー理論に繋げている。そこで出て来たのが、このヘーゲル論理学を、メビウスの帯、クロスキャップ、クラインの壺で説明するという発想である。本稿では以下、これを読解したい。
まず序論にジジェク自身による簡潔な説明がある。それは以下のような内容である。
メビウスの帯は、ある概念がその対立物に連続的に移行する様を表現する。例えば存在が無になる、質は量になるなどである。クロスキャップはその連続性に切れ目を入れる。この切れ目によって、ふたつのものの対立関係は反照の関係になる。要するにクロスキャップによってもたらされるのは、純粋な差異、例えば現象と本質、物とその特性、原因とその結果などの間にある差異である。クラインの壺によって導入されるのは主体性である。主体において、反省という円環運動を通じて絶対に到達する。例えば原因とはその結果がもたらす結果以外の何物でもないという風に(p.20)。
まずは本シリーズ第11回にも書いたように、ヘーゲル論理学は失敗、閉塞、行き詰まりの連鎖であり、挫折を解決策に変えようと試みているものである。それは認識の問題であるだけでなく、現実自体の特徴でもある。事物は自らの不可能性によって存在する。
この失敗、閉塞、行き詰まり、挫折、不可能性こそ、トポロジー理論で説明できるということなのである。ジジェクは言う。概念による思考は「自己言及的な捩じれ、内方向への自己言及的な反転といった問題そのもの」であり、そういう思考過程の基本的な特徴が図解的モデルで表すことができる。概念の過程の説明を図形モデルに頼っているのではない。こうした思考のねじれや反転は図解的なもののレベルでは「ややこしい逆説」や例外として現れるのである(p.310)。私の言い方で言えば、ペテンに見えたり、横滑りしているようであったり、屈折して自己韜晦しているのではないかと思われる論理展開は、まさしくトポロジカルなのである。
そのトポロジーを説明したい。まずメビウスの帯は分かりやすい。話はここから始まる。
メビウスの帯の作り方は以下の通りである。帯のような長方形の両端を180度捻って張り合わせる。これだけである。鋏と糊があれば簡単に作ることができる。
メビウスの帯とは、表だと思って、その表面をずっと進んだら、一周していつの間にか裏になっているというものである。それは先に書いたように、悪無限と真無限の関係を良く表している。つまり悪無限の関係をずっと先に進めて行くと、いつの間にか真無限になっているのである。そこに何かしらの論理の進展もないように私には思われる。ヘーゲルは、「あるものは他のものになり、他のものはそれ自身あるものだから、それはまた同じく他のものになる。かくして無限に続く」と言い(『小論理学』93節)、「この無限は悪無限である」と言い(同94節)、しかし「あるものは他のものに移っていくことによって、ただ自分自身に合するのであり、この移行は真無限である」(同95節)と言う。ここで「ただ自分自身に合する」というのは何か新しい観点が付け加わることなのだろうか。私には何もここで事態が変わっていないように見えるのである。するとメビウスの帯を、表の側をただひたすら先に進んで行くと、いつの間にか裏側に達しているという事態なのではないかと思う。そこに何の飛躍もない。
メビウスの帯はこのように容易に理解されるのだが、それに対してクロスキャップとクラインの壺はいささか難しい。
クロスキャップは、メビウスの帯をその境界がねじれのない円になるように位相的に変形するとでき上がる。それはメビウスの帯に蓋をしたようなものである。この曲面は形が帽子に似ているので、クロスキャップと呼ばれる。
クロスキャップは、従って、メビウスの帯とそれにかぶせる円板に分解できる。つまりクロスキャップから円板を取り去った残りがメビウスの帯になり、クロスキャップはメビウスの帯を複雑にしたものなのである。一方メビウスの帯は、クロスキャップの一部をなしていると言っても良い。
このクロスキャップの曲面を切って断面を作ると、それは8の字型の曲線ができるが、それは交わっていない。これは単純閉曲線と言い、3次元の空間にできる8の字である。断面が3次元の図形だから、このクロスキャップは4次元の図形である。
クロスキャップもまたメビウスの帯と同じく、表裏がない。この図形の、境界以外の任意の点から、この8の字型の単純閉曲線に沿って進むと、いつの間にか最初の出発点の裏側に着く。3次元空間内でイメージを作るのは困難だが、以上の説明で何とか理解が得られればと願う。
そのクロスキャップは、ヘーゲル論理学においては、カテゴリーの移行が反転の関係にあるという事態から、さらにカテゴリーが反照し合う関係へと事態が進んだことを表している。例えば、本質論には、「現象の存在と本質的な存在は、まったく相互関係にある。・・・現象するものは本質的なものを示し、本質的なものはその現象の中にある」(『大論理学・本質論』 p.116)という記述がある。ここではカテゴリーは相互に反転する。
ここまで、トポロジーにおいて、メビウスの帯からクロスキャップが出て来て、それが、カテゴリーが移行する存在論からカテゴリーの反照が論じられる本質論に対応するということを確認しておく。
さらにトポロジー理論におけるクライン壺を取り挙げる。これは、ふたつのメビウスの帯を境界線に沿ってはり合わせるとできる、境界がなく表裏の区別もない閉曲面である。 三次元空間では実現せず、模型図によってそのイメージが示唆される。
クラインの壺は、細長い円筒(アニュラスと言う)をU字型に曲げて、その両端の面を結び付けることによってでき上がる。そのまま結び付ければドーナッツ型の図形(トーラスと言う)ができる。しかしここではそれと違って、U字型に曲げた一方の端をこの図形の内部に潜り込ませて結び付けるのである。この時に曲面に交わりが生じないように、潜り込ませないとならないが、しかしそれは3次元空間内では不可能である。つまりこれは4次元内にある図形である。
クラインの壺は、メビウスの帯が表と裏を区別できないのと同じで、外部と内部を区別できない曲面である。曲面の内側の部分が外側にある閉局面であると言っても良い。それはふたつのメビウスの帯をそれらの境界に沿って張り合わせるとでき上がる。メビウスの帯が、2次元の帯を捻って張り合わせることによって、3次元の図形になったのだが、クラインの壺は3次元の筒を捻って繋ぎ合わせることによって、4次元の図形になる。
ひとつのメビウスの帯に円板を貼れば、クロスキャップになる。ふたつのメビウスの帯をくっ付ければ、クラインの壷になる。 また、底を抜いたふたつのクロスキャップをドッキングさせれば、クラインの壷が得られる。三者をそのようにまとめる。
さてメビウスの帯において、二次元の表面をずっと歩いていたら、いつの間にか裏になっているのに対し、クラインの壺においては、三次元空間の内部を進んで行ったら、いつの間にか外部になっている。しかしそれは三次元よりも次元が上なので、私たちはイメージしにくい。ジジェクはクラインの壺において、人がその上を歩くと、さかさまにひっくり返って元の位置に戻って来るという言い方をしている(『性と頓挫』 p.306)。
帯という二次元の平面を捩ればメビウスの帯ができる。帯という二次元世界に住む蟻は、真っ直ぐに進んでいつの間にかその裏側に辿り着く。同じように考えて、筒の中に住んでいる三次元の人間は、筒を捩って作られたクラインの壺の中でいつの間にかその裏側に到着する。ただしさかさまになっているのだが。
表が裏になるということと、もうひとつ言えることは、二次元の帯は蟻にとって有限な世界だが、捻りを加えると次元が上がって、蟻は無限に進むことができる。クラインの壺においても筒は有限であり、捻りを加えて次元が上がると、無限の世界が展開される。しかしそれも私たちにはイメージが難しい(注2)。
このクラインの壺が概念論を説明するものとなる。ここはいささか説明を要する。存在論と本質論と異なって、ヘーゲルの文言を拾ってきても、このクラインの壺とすぐには繋がらない。
まずヘーゲル読解は、C. マラブーが試みているように、ヘーゲルがほんのわずかだけ言及しているものを拡大していく、つまり戦略的に深読みないしは誤読をするというやり方もある(注3)。しかしそれに対して、ジジェクは今まで、ヘーゲルが明示的に言っているものを、強調したり、独自の解釈をしたりして使っていた。例えば、無限判断論はヘーゲル研究者の間では良く知られていたもので、研究書もいくつか出ている。そもそも否定性の強調も、これはヘーゲルの意図を良く理解した上での戦略である。
しかしトポロジーで「論理学」を説明することは、どのように考えるべきか。
ジジェクはまずヘーゲル論理学をカント理論と比較する(同 p.191f.)。カントの数学的アンチノミーがヘーゲル論理学の存在論に、また力学的アンチノミーが本質論に相当する。カント『純粋理性批判』を使って、もう少し整理すれば、カントは以下の4つのアンチノミーを提出する(注4)。最初のふたつが数学的、あとのふたつが力学的ということになる。すなわち①世界は時間空間的に有限であるというテーゼに対して、世界は無限であるというアンチテーゼが立てられる。以下同様に、②世界は単純なものから成るのか、単純なものは存在しないのか、③世界には自由があるか、ないか、④絶対的必然的存在者はいるか、いないかというテーゼとアンチテーゼが同時に提示される。
カントにおいては、テーゼとアンチテーゼは二律背反の関係にある。しかしヘーゲルにおいては、ふたつのものは反転し合い、どちらも成り立つ。これが客観についての論理学だというのであるということになる。
では概念論はどうなるのか。この存在論と本質論という客観についての論理学を受けて、概念論は主体性の論理学であるとジジェクは言う。そしてさらにその主体は空無であるとジジェクは持っていく。すでに客観の論理学を通じて無が獲得されているからである(p.192f.)。ここで主体-実体論が出て来る。
ジジェクはまず『精神現象学』について、「実体から主体への移行は、ひとつは意識から自己意識への移行である」と言う。ここでは意識は客観に対するもので、自己意識は他の主体に対するものだということが含意されているだろう(同)。それが間違っていると言うか、不十分な言い方であることはすでに指摘した(注5)。『精神現象学』の場合は、意識の経験学として意識と対象の関係を記述する前半から、自己意識と他の自己意識の関係を記述する精神現象学へと、明確に方法論が異なっているという話である。
一方、「論理学」では客観的論理学から主観的論理学への移行がある。これをどう考えるか。
もう少しジジェクの言うところを聞いてみる。
ここでジジェクは、事物、それは社会や自然などすべてのものは、対立する敵対性の中にあると言う。普遍性が実現することは不可能であり、その特殊形態の中で行き詰っている。それは裂け目として現れるしかない。
さてその事物の捻じれた構造から主体が生成する。主体とは、自らの表象に失敗する、その失敗そのものなのである。
ヘーゲルの精神は、自己を自己に対して疎外し、その上で生じた他者の中に自己を見出して、自己を取り戻すのであるが、それは自己が精神の回帰の運動そのものにおいて生み出されるということを意味している。
これは完全に閉鎖された円環構造をなしているように見える。しかしそうではない。その円環は反復されることで、閉鎖が損なわれて、偶然性を刻み込んだギャップが導入される。つまり円環は閉じられていないのだが、その閉鎖が反復されて初めて閉鎖となる。円環はその構成の不可能性を克服しようとして、自らを掘り崩す。
この考え方こそ、まさしくクラインの壺で表せることなのだが、しかしこのことは以下のように考えないとならない。
概念論は、従来からの伝統を引き継いだ、いわゆる論理学なのである。それはアリストテレス以来の、概念論、判断論、推理論から成り立つ。それに対して、存在論と本質論は形而上学であり、存在論である。つまり存在がどう進展するかということを扱っている。ヘーゲルは形而上学を論理学の中に引き込んだのである。
そういうことだから、存在論と本質論が客観を扱い、概念論が主観を扱うという訳ではない。海老澤善一を引用すれば、以下のようになる。存在論は直接性と移行の領域として、感覚を主にして自然としての存在を捉える思惟などが主題で、本質論は反省と媒介の領域として、悟性によって、精神としての存在を客観的に理解する学問を扱う。それに対して、概念論は、自由な主体としての概念、つまり思惟そのものの働きを対象とする(海老澤 p.24)。
『小論理学』の次の文言が「論理学」を要約していると思う。「他者への移行は存在論の領域における弁証法的過程であり、他者への反照は本質の領域における弁証法的過程である。概念の運動はこれに反して発展である」(161節補遺)。このように言って、ヘーゲルは発展の例として、植物の胚からの展開や、意識の発展や、神の世界創造を挙げるのである。
すると存在論と本質論が客観についての叙述で、概念論が主観についての叙述であるという訳ではないのだが、しかし次のことは言える。
ヘーゲル「論理学」全般を見渡してみると、定存在―実在性―有限―必然性という系列と、対自存在―観念性―無限―自由という系列があるのにまず気付く。そしてまた、前者の系列に自然が対応し、後者に精神が対応することに気付くであろう。
つまり「論理学」全体で自然から精神へ、客体から主体へという進展が行われている。
とすれば、概念論が主体の発展を扱うものであるということは間違いではない。ただそれはジジェクの言う意味での「実体から主体へ」という移行がなされたからではない。ここで牧野紀之の「論理学」の見通しが参考になる。彼は『小論理学』の訳出をし、その全体の流れを次のように考えている(注6)。まず存在論の段階で、先に説明した真無限が生成し、そこから対自存在が生成する。それは個人の自我の目覚めに相当し、その自我は本質論の様々な関係性を経験して、概念論でさらに発展するというものである。これが論理学全体の見通しである。
だから概念論は主体論であるというのは正しいが、しかしそれは「論理学」全体がそうだという意味である。
その上でその主体がジジェク的に捉えられるべきである。つまりそこでなされているのは主体の発展には違いないが、それは綻びだらけのもので、無理やりなされているものなのである。
ここでさらに概念論に即して論じてみよう。概念論は、概念が自己分割して、普遍、特殊、個別に分かれ、それが判断論で結び付けられるが、まだ結び付きは不十分で、それが推理論に至って、十全に結び付けられる。さらに概念は自己の対象を見出す。それが客観(=自然)で、その中に推理論的連結があることを確認して、概念とその対象とは統合して理念になる。おおよそそのような流れが概念論である。
概念=主体は実在性を自己の内から生み出す。概念は実在性を持たない限り、概念ではない。概念は自己の内に実在性を含むのである。
まずこの客観というのは、概念が自らを実現したものである。概念は実在性を自己から生み出すように移行すると、ヘーゲルは概念論の客観性の最初のところで論じている。概念には自らの抽象性を超える運動が備わっている。
そうやって生み出された実在性と概念が統一されると、理念になる。自然の持つ機械的機制、化学機序、目的論を概念は取り込んで、理念に進むのである。そののちに概念と実在の同一性が論じられる。つまり概念論とは、主体と客体の統一がその主題である。
そうすると、概念論は主体の論理学であり、発展を記述するものであり、つまり主体の発展を記述するものであるということになる。
存在論の段階では、対立するふたつのカテゴリーが前者から後者へと移行し、本質論では前者と後者が反転し合い、概念論では、前者から後者へ発展する。ここで移行と反転は理解し易いだろうが、では発展とは何か。それは移行と反転の両方を含んでいる。それはヘーゲルの言い方では否定的自己関係があるということなのだが、しかし私との感覚では、すでに移行も反転も発展である。ここでも論理が繰り返されているのだと思う。それはクラインの壺の論理は、すでにメビウスの帯とクロスキャップに含まれているものと同じだということでもある。
ここで概念論のポイントは無限判断であると言えば良いと私は思っている。そのようにはっきりと言えないのは、ジジェクは無限判断の考え方を『精神現象学』から取って来ており、それを「論理学」の概念論由来の考え方であるとはしていないからである(注7)。
確かにふたつの反対物を強引に結び付けるという意味での無限判断は『精神現象学』のものだが、「論理学」においても、その発想は推理論において残っていて、推理論においては根拠があって、ふたつの反対物が結び付けられるのだが、しかし根拠があっても無理やり結び付けられるというのは変わらない。それが拙論の論旨で、そう考えるとここはすっきりする。つまり存在論においては、Aはその反対概念のBに移行する。本質論では、AとBが反照し合う。概念論では、AとBは結び付けられる。それを発展と称する。それがそれぞれ、メビウスの帯、クロスキャップ、クラインの壺でイメージされる。
さてジジェクは、主体は空虚なものであると言うのだが、概念論の主題が主体の発展であり、それがジジェク風に言うと、それは綻びだらけの発展であり、体系からはみ出すものを無理やり繕う発展である。外部のものをどんどん取り込んで内部が肥大するというのではなく、外部と内部のあいだに物質代謝とエネルギー代謝があるのでもない。
するとその発展が、クラインの壺で表せるということになる。内部と外部がない。自己が反対物に移行するのでもなく、自己とその反対物が反照関係にあるのでもない。自己とその反対物はひとつのものになって、空虚になるのである。
ラカンが自らの主張を展開する際に、トポロジーを活用したことは良く知られている。要するにジジェクはラカンとヘーゲルを結び付けたのである。ラカンの主張の中にヘーゲル哲学を読み込み、ヘーゲルの中にラカンの精神分析学を読み取る。それがジジェクの功績であり、そう考えると、ラカンの愛用したトポロジー理論をヘーゲル哲学の説明に使うのは、ジジェクならやりそうなことで、驚きはない。
ラカン理論とトポロジーの関係については、すでにいくつか本が出ている。邦訳のあるもののひとつはグラノン-ラフォンの『ラカンのトポロジー』である。これが一番まとまっている(注8)。
まずラカンにとって、確実に言えることは、ラカン本人がトポロジーにこだわったということである。ただトポロジー理論は20世紀に展開され、とりわけ1970年代以降に開花しているから、1900年に生まれ、1981年に亡くなったラカンがどこまで現代数学を理解し得たのか、そこは良く分からない(注9)。
本稿の最後は、この『ラカンのトポロジー』から拾っていく。そこにはまず、メビウスの帯、クロスキャップ、クラインの壺の他に、先に触れたトーラスが挙げられている。ラカンの精神分析学をそれらで説明する。
精神分析学的諸現象を繋ぎとめているものがトポロジーである(p.49)。ここで主体は穴であるというのがポイントとなる。クロスキャップは穴の組織化である。この穴が構築の出発点になる(P.93)。
トーラスもまた穴の組織化だとグラノン-ラフォンは言う(p.62)。トーラスは意識から無意識への繋がりのイメージを与える。意識と無意識はトーラスの生によって支えられ、繋がっている(p.77f.)。
クロスキャップは我々が幻想に与えることのできるトポロジー的な土台である(p.97)。
また対象aは鏡像のない物体である。メビウスの帯も右と左がない。対象を切り離す幻想の切断を説明するのも、クロスキャップに基づいてできるだろう(p.121)。というのも、メビウスの帯を位相的に変形したものがクロスキャップであるからだ。
ラカンはここから内側と外側が繋がっている曲面、すなわちクラインの壺を自説の説明に使う。ここでも穴の組織化ということが言われる。またこれは捻じれの問題である(p.125)。
ここでクラインの壺について、十分な説明があるように思われない。トポロジー理論においては、メビウスの帯が基本で、それを複雑にしたものがクロスキャップである。そのふたつは本稿で十分説明してきたものであり、理解が容易だと思う。ラカンのテキストに直接当たってみても、『精神分析の四基本概念』において、メビウスの帯とクロスキャップが挙げられている。「このトポロジーのイメージによって、要求と性的現実とが欲望という場で結びあっている有様を思い描くことができるでしょう。この欲望の場で、無意識の拍動の消失が繰り替えし表れているのです」(p.204f.)。
ラカンはここから三次元のトーラスを出し、それを捻ったものとしてのクラインの壺を使う。ただ先のヘーゲル理論におけるクラインの壺も分かりにくいのだが、ラカン理論においても、クラインの壺の説明は良く分からないという思いがある(注10)。ここで今まで述べて来たことを復習して、ヘーゲルの移行の論理はメビウスの帯で説明でき、反照の論理はクロスキャップで説明でき、その両者を含み持つ発展の論理はクラインの壺で説明できるのだとすると、それをラカン理論に当てはめて、ラカン理解に資することができるのではないかという仮説を私は持っている。しかしこれは本稿で扱う水準を超えている(注11)。
さらにラカンの関心は曲面理論から結び目理論に移行する。結び目理論はトポロジーを発展させたものである。そこにボロメオの結び目が参照される。現実界、象徴界、想像界はこれで結ばれる(p.165)。
ボロメオの結び目については、ラカンのどの解説本にも出て来る。ラカンの著作『アンコール』でもひとつの章が設けられ、丸々この説明のために使われてといる。しかしこれもトポロジーを論じる本稿の範囲を超えている。
注
1 本サイト「病の精神哲学6 実在論から目的論へ」(2018/03/17)を参照せよ。
2 以上は、大田春外の本と、伊藤忠夫のサイト「双極的非ユークリッドの世界と8字ノット」を使った。http://web1.kcn.jp/hp28ah77/japanese.htm#chapters
3 本サイト「ヘーゲルを読む 5-1 脳と可塑性 (マラブー論1)」( 2014/07/11)を参照せよ。
4 カント『純粋理性批判』の「純粋理性のアンチノミー」の章を参照せよ。
5 本サイト「主体の論理(12) 実体としてだけでなく、主体としても」( 2022/01/13)を参照せよ。
6 この訳本には膨大な量の注が付いており、それらを拾っていくと、訳者のヘーゲル観が良く分かるようになっている。
7 本サイト「ジジェクのヘーゲル理解は本物か(2) 無限判断論」(2020/03/22)を参照せよ。
8 小笠原晋也の『ハイデガーとラカン』にも、メビウスの帯、クロスキャップ、クラインの壺が出ている。まずトポロジーはハイデガーが使っているということから話を始め、ラカンの穴のトポロジーが説明される。ひとつのテーマは不可能性であろう。これをどう表象するかというときにトポロジーが使われるというのが、小笠原の言うところである。
9 ラカンとトポロジーについては、小笠原晋也『ジャック・ラカンの書』、向井雅明の『ラカン入門』、ジュランヴィル『ラカンと哲学』にもある。
10 クラインの壺は、早い内からラカン使っていることが知られていて、現代思想の様々なところで引用されている。1983年の浅田彰の著書『構造と力』はほぼクラインの壺のメタファーの上に成り立っている。1998年の東浩紀『存在論的、郵便的』にもクラインの壺は多用されている。しかしいくつも入門書や専門書を読んだ上で浅田彰を読み直すと、クラインの壺については、その理解が不十分だと思わざるを得ない。実際、彼らの使い方が間違っているのではないかという指摘もある。これは、山形浩生「『「知」の欺瞞』ローカル戦:浅田彰のクラインの壺をめぐって(というか、浅田式にはめぐらないのだ)」を参照せよ。 https://cruel.org/other/asada.html
11 トポロジーについては、セミネール第9巻L’identification (1961-1962)が重要な著作になるとされているが、邦訳はされておらず、残念ながら私は原文も入手できていない。
参考文献
浅田彰『構造と力 – 記号論を超えて -』勁草書房、1983
東浩紀『存在論的、郵便的 – ジャック・デリダについて- 』新潮社、1998
海老澤善一『対話 ヘーゲル『大論理学』 – 存在の旅へ -』梓出版社、2012
グラノン-ラフォン, J., 『ラカンのトポロジー – 精神分析の位相構造 -』中島伸子・吉永良正訳、白揚社、1991
ヘーゲル, G.W.F., 『ヘーゲル論理の学』I・II・III(『大論理学』)山口祐弘訳、作品社、2012-3
—- 『小論理学』牧野紀之訳、未知谷、2018
ジュランヴィル, A., 『ラカンと哲学』高橋哲哉他訳、産業図書、1991
カント『純粋理性批判』(中)篠田英雄訳、岩波書店、1961
ラカン, J.,『精神分析の四基本概念』小出浩之他訳、岩波書店、2000
—- 『アンコール』藤田博史、片山文保訳、講談社、2019
向井雅明『ラカン入門』筑摩書房、2016
小笠原晋也『ジャック・ラカンの書 – その説明のひとつの試み -』金剛出版、1989
—- 『ハイデガーとラカン – 精神分析の純粋基礎としての否定存在論とそのトポロジー -』青土社、2020
大田春外『楽しもう 射影平面 – 目で見る組み合わせトポロジーと射影幾何学 -』日本評論社、2016
ジジェク, S., 『性と頓挫する絶対 - 弁証法的唯物論のトポロジー -』中山徹、鈴木英明訳、青土社、2021
Žižek, S., Less Than Nothing – Hegel and the Shadow of Dialectical Materialism –(Verso, 2012)
(たかはしかずゆき 哲学者)
(pubspace-x8429,2022.02.08)