――リベラル・左派の何が問題か?(三)
相馬千春
1.はじめに
前回の末尾では以下の諸点を述べておきました。すなわち、<晩年のマルクス(「ザスーリチへの手紙」とその草稿)は、ロシアの前近代的な農村共同体を死滅すべきものとしてではなく、むしろロシアの社会的再生の拠点たる可能性を秘めたものとして捉えていたこと、この考え方からすれば、農村共同体に伴う習俗・文化なども単純には否定できないこと、したがって晩年のマルクスの発想からは、民衆や前近代に対して一律に啓蒙的に振る舞うという態度は出て来ないこと、以上の点は西欧の外部にある日本のリベラル・左派にとっては、いまだに重要な示唆を与えるものあること>です。
このように言うと、次のように反論されるかもしれません。すなわち<19世紀の日本はいざ知らず、現代の日本では、農村人口は人口のごく一部を占めているにすぎない。したがって、そうした提起は現代日本にとってはもはや大した意味をもたないのではないか?>と。
たしかに今日では農村人口は極めて少ないし、村落の共有地などは、現代日本の厖大な私有財産に較べれば、微々たるものです。また日本で欧米に倣った法制度が確立してから既に長い年月が経過していますから、もはや前近代は死滅したようにも思える。しかし西欧的個人や市民社会を前提とした法制度が確立しているということは、必ずしもその前提が実在していることを証明するものではないでしょう。
ですから<日本で西欧的な意味での「個人」は成立しているのか?あるいは「市民社会」が成立しているのか?>と問う意味は十分にあると思うのです。
今回はおもに阿部謹也と神島二郎に依拠して、この問いへの回答を考えてみたいと思います。
2.西欧と日本、阿部謹也が指摘する両者の違い
阿部謹也は、まず「日本の社会はヨーロッパと等質な社会である」とか、「等質な社会ではあるが比較的遅れた社会」という立場を否定し、日本の人間関係を「世間」として把握しようとします。ここで「世間」とは「あえていえば個人と個人を結びつけている人間関係の絆」なのですが、阿部によれば、ヨーロッパでも中世中頃までは、日本の「世間」と対比できるようなものがあった。そしてヨーロッパ式の「個人」というのは、この「世間」が解体することで初めて成立するものである。
それでは、ヨーロッパにおいて、世間の解体をもたらした一番大きな原因は何かというと、「キリスト教の普及」であった。十三世紀になると、ほとんどどんな村にもキリスト教会が作られるようになります。そこで、どういうことが起きたのか。
「一二一五年にラテラノ公会議が行われて、ここで告白はすべての成人男女の義務とされました。……フーコーという人は、ヨーロッパの原点にこれがあると主張しています。/この義務に背いた場合は、あの世で地獄にいくことになるということが公にうたわれているのです。告白の中では、あらゆることについて語らされてしまう。大変なことです。われわれはそういう経験をしていません。告白も最初は公的な形で行われ、教会の会衆を前にして、私はこういう罪を犯したと告白したのです。勿論いっただけではすまないので、十年間巡礼の旅に出ますとか、代償を必ずはらう約束もします(1)。」
この場合、何が罪かと言うことにはマニュアル(贖罪規定書)があって、「夜に悪魔の集会に出かける」などというのはもちろん、「雨乞いの儀式」とか「呪文を唱える」とかは罪であり、また「セックスの仕方」なども、極めて限定された仕方以外は、罪とされている。
要するに当時の民衆の伝統・習俗が広範に罪とされているのですが、このように民衆の伝統・習俗をキリスト教によって解体しようという試みは、カール大帝の治世下(800年 – 814年)――いわゆる「カロリング・ルネッサンス」において――すでに始められています。
「世間というものが伝統や血縁や慣習に基づく人間関係であったとすると、カロリング・ルネッサンスが目指していたのはキリスト教の教義に基づく社会ですから、世間とは全く相容れないわけです。……世間の中には伝統や慣習に基づく権威がありますから、……イエスの言葉を使えば、親と子を切り離し、嫁と姑を切り離し、兄弟も切り離して全部自分のもとに結集させるということは、世間というものを全部打破する、解体することを意味しています(2) 。」
ラテラノ公会議による告白の義務化は、こうした流れを受けて、キリスト教以前の「伝統や慣習」自体を罪として意識させ、抑圧するものであり、「世間というものを解体する」試みの一環でした。注目すべきは、このことによって初めてヨーロッパ式の「個人」というものが成立してくるという点です。阿部はフーコーの次の言葉を引用している。
「個人としての人間は、長いこと、他の人間たちに基準を求め、また他者との絆を顕示することで(家族、忠誠、庇護などの関係がそれだが)、自己の存在を確認してきた。ところが、彼が自分自身について語り得るかあるいは語ることを余儀なくされている真実の言説によって、他人が彼を認証することとなった。真実の告白は、権力による個人の形成という社会的手続きの核心に登場してきたのである(3)。」
佐藤直樹は、――『刑法39条はもういらない』のなかで、阿部の「世間」論を的確に要約しているのですが――引用した個所のフーコーの言に関して次のように言っています。
「「自分自身について語」る「告解」という手続きにおいて、個人が形成される。しかもそれは「権力による」個人の形成だと、フーコーはいうのだ。重要なのは、「そこに産み出されたのは、人間の《assujettissement》〔服従=主体-化〕に他ならなかった。人間を、語の二重の意味において《sujet》〔臣下=服従した者と主体〕として成立させるという意味においてである(4)」という点である。
フーコーがいうように、英語でも主体をあらわすsubjectは、同時にbe subject to「~に服従する」という逆の意味になる。主体になるということは、何ものかに服従することになる。実際「告解」は神に服従する儀式だが、この「告解」をつうじて、ヨーロッパでは個人が形成された(5)」
ここまで見ると、日本的な『個人』とヨーロッパ式の「個人」とが、まったく違ったものであることは一目瞭然でしょう。日本的な『個人』なるものは、いまに至るまで、フーコーの言う「他の人間たちに基準を求め、また他者との絆を顕示することで(家族、忠誠、庇護などの関係がそれだが)、自己の存在を確認してきた」存在そのものですが、こういう存在の否定の上に、ヨーロッパ式の「個人」は成立している。そして、これと表裏一体であるのが、ヨーロッパにおける「世間」の解体と日本でおける「世間」の存続です。この「個人」の成立=「世間」の解体=こそが、「市民社会」の前提である(6)。
ここで補足をしておきましょう。第一に、ここで紹介した<キリスト教の導入によるヨーロッパ的「個人」の成立>という考えについては、この考えと<「アトム」的個人の生成からキリスト教の成立を説く>考え(7)とを統合することができるのか?という設問が提出され得るでしょう。第二に、歴史上の<「個人」の成立>の問題とほとんど一体のものとして、「自我とは何か」という「哲学」上の問いがあります。これらはともに興味深い問いなのですが、言うまでもなく難問ですから、これらについては別の機会に考えることにしましょう。
3.近代日本における『個人』と「社会」(ゲゼルシャフト)の未成立――神島二郎の指摘
a.日本の近代都市の性格
つぎに神島二郎の『近代日本の精神構造』は、いまから60年ほど前に書かれた著作ですが、すでに私たちの設問――日本で西欧的な意味での「個人」は成立しているのか?あるいは「市民社会」が成立しているのか?――に対して、一通りの回答を与えているものと言えるでしょう。
まず<日本の近代都市の性格はいかなるものであったか?>という設問にたいして、神島は、第一の性格として「自由」を挙げて、次のように言います。(そのほかの性格としては、「奢侈と乱費」、「不安定性」が挙げられています。)
「第一は、自然村における拘束の裏返しとしての「自由」(無拘束!)である。「狭い世間」の拘束からの解放を意味するところの「広い世間」の「自由」――それはあの「旅の恥はかきすて」という諺に示されたような、拘束のもとに蓄積された抑圧と屈辱とを洗い去る「自由」であり、……あらわな自己主張と実力闘争に終始する「自由」である(8) 。」
この「自由」とは具体的にはどのようなものか。若者たちの性行動を例に取ってみると、当時の村における男女交際は、親たちからはかなり「自由」であったとしても、「若者組」からは制約を受けたでしょう。しかし都市ではそういう共同体的な制約はありません。なにより都市では「性」は商品となっている(9)。
b.〈第二のムラ〉
神島は、近代日本の都市は〈第二のムラビト〉によって構成されたと言いますが、都市は膨張した農村人口の流入によって、それも――彼らは多くのばあい配偶者を持てないので――絶えざる人口流入によって支えられていたのですから、これは当然のことでしょう。それでは流入した者たちは、どのようにして人間関係を構築していったのかというと、彼らはふるさとの村の人間関係を手本とするしかない。こうして〈ムラ〉的人間関係が――あるいは大家族(10)に擬制された人間関係が――都市でも構築されて、それが近代日本の都市での人間関係を規定するものとなっていきます。
さて神島が挙げている〈第二のムラ〉は、具体的には郷党閥と学校閥なのですが、今日では〈原子力ムラ〉や〈感染症ムラ〉というような言葉も使われ、また政党の派閥が〈ムラ〉と称されたりもしている。これらはいずれも、国家の政策に関わる集団なのですが、そういう集団でさえ〈ムラ〉と称されるところに、近代日本の人間関係の西欧社会との異質性が端的に言い表されているのではないか。つまり近代日本では、先に――阿部によって――見てきたような西欧的な社会(ゲゼルシャフト)は成立していないのであって、神島が次のように言うのもムベなるかなです。
「このような日本の都市は、私のいわゆる〈群化社会〉であって、ゲゼルシャフトではない。たとい農民が無限に都市へと流れこんで、都市が無限に膨脹しても、それだけではF・テンニースのいうようなゲマインシャフトからゲゼルシャフトへの歴史法則がその秩序形成において貫かれるはずはない。そこに成立つのは、かえってゲマインシャフトへの強力な回帰あるのみである。それをしも忘れて、都市をゲゼルシャフトと見立て、国総体のゲゼルシャフト化を夢想したのは、大いなる誤まりであった(11)。」
〈第二のムラ〉の手本となった故郷の村(自然村)はどのような原理で成り立っているかと言うと、神島は「神道主義、長老主義、家族主義、身分主義、自給自足主義」の五つを挙げていますが(12)、こうしたものは、〈第二のムラ〉にも受け継がれていく。あるいはそうした規定よりも早川洋行による次の言が日本の〈ムラ〉的人間関係の核心を衝いていると言うべきかもしれません。
「日本社会は,もともと自然がつくる障壁を境界として成立する小さな集落単位で構成されていた。そこでは,支配-服従が先鋭的に対立することのない「やわらかな」まとめが尊ばれた(13)。」
これは、日本の農村が主として水稲を栽培してきたことと関係しているのかもしれません。水稲栽培は――麦作などに比べて――村の中(うち)でのはるかに緊密な協力を必要とするので(14)、村内の対立を回避することが最優先されたとしても不思議ではないでしょう。
〈第二のムラ〉もこうした性格を自然村から受け継ぐわけですが、そのことによって〈第二のムラ〉の運営では、〈ムラ〉を越えた普遍的な倫理や行動原理は二の次にされてしまいます。なぜなら普遍的な倫理や行動原理というのは、直接には〈ムラ〉の利益とは対立するからで、仮に〈ムラ〉のなかで普遍的な倫理や行動原理を掲げる人びとが出ると、村内の対立を招くことなり、<そんなことは言わず、ムラのしきたり通りでよい>と言われて潰されてしまう。自然村であれば、〈ムラのしきたり通り〉でも、村外の人びとは困りませんが、近代の組織はすくなくとも国民国家の範囲の人びとと関りを持つことは普通なので、そういう組織が〈ムラ〉の論理で動いているわけですから、いろいろと不都合が出てくるわけです。
c.“individual”に対応する観念を持たなかった日本
次に<日本で西欧的な意味での「個人」は成立したのか?>という問いに移りましょう。
このように言えば、例えば、維新の「志士」たちなんかは十分に個性的なのだから、彼らが「個人」であることは自明ではないか、と言われるかもしれませんが、神島は次のように言っています。
「幕末維新はわが歴史上疾風怒濤の時代であり、たしかに事実上の個人がもっともはつらつとその主体性を発揮した時代の一つである。しかし、事実上の個人がいかに主体性を発揮したからといっても、それだけでただちに、この時代に個我の意識が発生したといえない(15)。」
「私は、一九世紀後半の日本に独立主体の意識がまったくなかったとは考えない。ただその自我領が個人(小家族!)ではなく「家」(観念的大家族)にあった(16)」
彼らは家(何某家)に属する者であり――さらに主家(何某藩など)との関係も家(主家)と家(何某家)としての関係であった――わけですから、主体であるのは、「家」であって、いまだ「個人」とは言えないということです。
神島は、穂積陳重の「個人が家に代りて国家の単位たるに至りしは、実に明治維新以後の事に属す」との言も引用しています(17)が、じっさい一八六六年出版の「英和対訳袖珍辞書」はindividual, individualityは「分タレヌ事」とか、「自立」とかと訳されていて、適訳とは思えない。しかし「これはけっして訳者の不明の致すところではなく、要するに、当時日本にこれに対応する観念がなかったからにほかならぬ(18)」。
それでは、日本では「個人」に相当するものはどのように成立したのか? また日本で成立した『個人』は、西欧的な意味での「個人」に相当するものと言えるのか?
d.〈単身者主義〉とは?
しかしこの点についての神島の考えを理解するためには、まず神島の〈単身者主義〉という概念を把握しておく必要があるので、さっそくこの点について、神島を引用しておきましょう。
「イエに責任をもたないですむ身一つの生活形態が都会生活を中心に拡がりつつあったということだ。そしてこの風が家族の責任者にまで浸透していったということだ。そうした生活形態を私は,「単身者本位」,または「単身者主義」と呼ぶことにしている(19)。」
e.「個人主義」に代位する「欲望自然主義」
こうした単身者主義から欲望自然主義が生み出されるのですが、神島は高山樗牛における欲望自然主義の成立を次のように把握します。
高山樗牛は「わが国民的性情を「現世的」とみなして「超絶的な」宗教(仏教、基督教)を排撃し」、「個人→家族→社会→国家の系列を「人生寄托の必然形式」とみることによって「国民的性情の完全なる発達」をそこに期待し、……到達しうべきものを「建国当初の国民的抱負」(「君民一家」!)に見出した」。
つぎに彼は儒学者との対決をとおして、「「国民的性情」を追求し、「美的生活」に到達する。……かれは、「人性本然の要求」=「本能」を満足させるものを「美的生活」といい、これを道徳以上のものとして讃美した。」
高山にとって「本能は……「祖先の貴重な遺産」であり、その精粋たる「忠臣義士」「孝子節婦」の行為は、……「美的行為」である。「美的行為」とは、……なにごとにもあれ、これを価値絶対的とみなしてそれに没頭し、そこに本能のまったき充足を具現することである。そして本能の満足のうち、性欲の満足こそ至楽であり、「美的生活」のうち、恋愛はもっとも美わしきものである(20)」
これは従来パースナルな君父にむけられていたひとびとの献身が、「国事」、「自由」など言語象徴にふりむけられたこと(献身対象の概念化)に即応して、「潜入した個人的欲望が、まず国民的性情―種族的習慣―本能という線でその恣意性を合理化され、ついで献身行為における本能の完全燃焼という点で自己目的化された(21)」ことが前提となっていると神島は考えるのですが、このような欲望の自己目的化の結果出てきたものが、神島の言う「欲望自然主義」です。こうした欲望自然主義と西欧近代の個人主義とを比較して神島は次のように言う。
「欲望自然主義は、いわば、西欧近代の個人主義に代位するものであるが、それは、欲望にたいする正直というかたちで、献身の道徳による規制をうける。しかし、その規制は、欲望そのものにおける選択を含まないから、そこでは、欲望相互のときどきの釣り合い以外に本来内在的な抑制の原理がない(22)。」
以上の神島の分析からも、日本の『個人』というものが、西欧の「個人」とは全く異なるものであることは明らかでしょう。
4.取り敢えずのまとめ
以上見てきたことを、私なりにまとめてみます。
日本の近代化に踏み出した維新期の主体は、武家的な主体――いわゆる武士的エトスを持ち、多くのばあい儒家的な普遍思想の教養と兵学的リアリズムに裏打ちされた主体――です(23)が、幕藩体制が解体されると武家的な主体も必然的に衰退していきます。
武家的な主体に変わって近代日本の主体となったのは、都市に単身者として流入した人びと―――結婚しても精神的には単身者である人びと―――であり、彼らが欲望自然主義的な主体となって、これが近代日本に移入された西欧的制度の前提である西欧的個人を代位するものとなったわけです。
しかし西欧的な個人が絶対者をつねに意識し、<絶対者によってをつねに見つめられている存在>である(24)のに対して、欲望自然主義的な主体は、逆に絶対的なもの(キリスト教の神はもちろん、儒教などの東洋の普遍思想)を排除することによって成立している。つまりこの主体は――武家的な主体と異なり――その内面において普遍的な道徳・思想を決定的に欠いた存在です。
なぜこうした主体が近代日本で通用し、主流となることができたのかと言えば、近代日本が形成しえたのは、市民社会ではなく、「群化社会」(=「広い世間」)であり、「群化社会」が「第二のムラ」や「第二のイエ」という「狭い世間」の集合で形成されている社会だからでしょう。つまり普通人々は「狭い世間」のなかで暮らしているので、「ムラ」の掟に従い、「ムラ」の大勢に順応していればよい。そこでは普遍的な道徳・思想などは、不必要であるというか、むしろ邪魔ですらある。
一方「広い世間」の方は、ほとんどのことについてカネさえあればなんでも可能な世界で、そういう意味では極めて「自由」である。半面では「広い世間」はある意味では究極的な権力とも言える存在であって、それに対して根本的に異質と見なされた存在は、仮に合法であっても、徹底的に排除される(25)。
なぜ人びとは、そういう体制を不自由に感じないかと言えば、「第二のムラビト」あるいは欲望自然主義的な主体は、普遍的な道徳・思想を持ち合わせていないので、「広い世間」に自らを合わせることに、たいして不自由を感じないわけです。そもそも「狭い世間」に対してはつねに自分を合わせて生きているのですから。
こうした状況は日本の権力者にとっては極めて都合が良いようにも思えます。しかしそれでは日本の体制派は万々歳かと言えば、そんなことはない。政治権力を担う主体が武家的な主体性を持っていたうちは、それでも旨く行ったでしょう。しかし政治権力を担う者自体が「第二のムラビト」あるいは欲望自然主義的な主体で占められるようになると、日本の政治は制御が困難になります。あるいは普通選挙が実現されても、有権者が「第二のムラビト」・欲望自然主義的な主体に留まるならば、同様のことが言える。なぜなら、権力機構自体が、制御の前提となる普遍的なプログラムを欠くようになるのですから。こうした事態が昭和の時代に入ると日本の政治が暴走を始めた原因の一つではないか(26)?
最近も首相が政治の私物化・腐敗の挙句に退陣しましたが、その後釜は「ムラ」(派閥)の談合で決められ、さらにそれが多数の国民に支持されている。しかも談合での合意の核心は、前首相の犯罪を隠蔽することに他ならないのですから、戦後政治の劣化は極限にまで到っていると言えるでしょう。
さて、本稿には「リベラル・左派の何が問題か?」と言うサブ・タイトルを付けていますから、本稿を読まれた方は、<今回お前が問題にしたこととリベラル・左派の問題と、いったい何の関係があるの?>という疑問を持たれるでしょう。たしかに<今回述べたような近代日本理解が多少なりとも正しいとするならば、そのことは「リベラル・左派」にどういう課題を投げかけているのか>、その点について述べなければなりません。しかし今回は既に長文となっていますので、それは次回以降の述べることに致します。
(四へ続く)
注
(1)『阿部謹也著作集7』III「ヨーロッパを見る視覚」、p.387-388。
(2)同上、p.384—385。
(3)ミシェル・フーコー『性の歴史」I 知への意志』渡辺守章訳、p.76。
(4) 同上、p.79。
(5)佐藤直樹『刑法39条はもういらない』p.65。
(6)阿部が「市民社会」成立の必然性をどう捉えているかは、次の指摘から凡そのところを推量することが出来るだろう。
「まず人格的自由が認められており、土地所有の自由が認められている。結婚の強制がない。移動の自由が認められている。平和を享受できる。アジール権がある。こういう市民を核にして都市ができてきたときに、都市法の中で人々の関係のあり方が変わってゆかざるを得ない」(『阿部謹也著作集7』III「ヨーロッパを見る視覚」、p.479)
なお、阿部は「市民」(bourgeois)については、次のように解説している。
「「ブルジョワジー」という言葉はもともと「ブールに住んでいる者」という意味です。「ブール」[bourg]というのは城とか、城を中心とした集落を意味しています。いずれも、都市を抜きにしては考えられないものなんです。」(同上、p.465)
(7) ヘーゲルは『精神の現象学』のVI精神-A人倫-c法的状態で次のように言う。
「これらのアトムが絶対的な現実であると思いこんではいても、しかし自体的には実在性を欠いた現実であるのとは反対に、この唯一の一点のほうは普遍的な威力であり、絶対的な現実である。そこでこの唯一の点が「世界の主人」である」(岩波書店『精神の現象学』金子武蔵訳p.781)。
ここで、アトムは「個人」であり、「世界の主人」は、直接にはローマ皇帝であるが、金子武蔵(同書七八三頁の注(7))によれば、また主イエス・クリストでもある。
ここでは、「[人倫の世界における]普遍的なものが絶対に数多のアトムに分散し、こうして精神としては死滅している」(同上、p.777)という事態が先行し、そこから「純粋に思考することであるストア主義の自立性がスケプシス主義を通り抜けて行って不幸な意識において、この自立性がどんなものであるかという真実態を見出した」(同上、p.784)という展開が語られている。
つまりまず人倫の世界の解体によるアトム=「個人」の成立があり、この「アトム」が経験を経て不幸な意識=キリスト教に至るわけである。
(8)『近代日本の精神構造』、p.34。
(9) 早川洋行「神島二郎の論点―社会学理論としての解読」は、神島の次の言を引用している。
「具体的にいえば,食堂と売春宿がピンからキリまで用意されていることであろう。……わが国近代以降の都会の発達はむしろ後者の形,すなわち都会に単身者本位の施設を用意することが先導していたのではないか,というのが私の考えである」(神島二郎『日常性の政治学身近に自立の拠点を求めて』p.65)。
(10) 神島は前近代的な大家族については次のように言う。
「前近代的な大家族にあっては、事情はまったく異なり、それ自体に数世帯とおおくの「厄介」を含んでおり、「家」それ自身が一個の社会をなしているともいえる。そこでは、私的なものが公的なものと分離せず、これらがいわゆる「家族的雰囲気」のもとに融け合い、「家」がたえず「厄介」という異質物を呑吐しながら、一方では、社会的なものがたえず「家」に流れこみ、他方では、家族的なものがたえず社会的原理にまで自己を拡大する可能性を持つ」(『近代日本の精神構造』p. 254)
(11)『近代日本の精神構造』、p.36。
(12)同上、p.24。
(13) 早川洋行、前掲論文、p.109。
(14) トマス・タルヘルムによって、「稲作地域出身の人々は小麦生産地域出身の人々に比べ、考え方が相互依存的で全体の和を重んじる」との説が提起されている。これについては、以下のサイトを参照されたい。
https://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/article/news/14/9215/
https://science.sciencemag.org/content/344/6184/603
(15)『近代日本の精神構造』、p.259。
(16)同上、p.260。
(17)同上、p.259。引用されている穂積の言は『先祖祭祀と日本の法律』p.120のものである。
(18)同上、p.259。
(19)神島二郎『日常性の政治学身近に自立の拠点を求めて』、p.63―64。
(20)『近代日本の精神構造』、p.189-190。
(21)同上、p.190。
(22)同上、p.201。
(23) 神島は武士社会の普遍的要素について次のように言う。
「[近代日本の自然村的秩序原理にもとづく]秩序の形成を当初主導したのは、武士ないし武士化した社会層であり、かれらの組織原理がおなじく自然村秩序原理の派生態であったとしても、そこには本来浮浪化層として固有の普遍的要素があり、かれらの社会はかならずしも原理的に完全なる「閉じた社会」ではない。ことに幕末維新の変革期をとおして天下を周遊して画策した脱藩浮浪の徒によって文字どおり浮浪の精神を供給されるや、武士社会固有の普遍的要素がふたたび力強く復活させられた」(同上、p.185)。
なお、「兵学的リアリズム」については、次回論じたい。
(24)近代西欧的な「私」が、神の視点から見られた「私」であることについては、金谷武洋『英語にも主語はなかった』(講談社 2004年)と新形信和『日本人の〈わたし〉を求めて』(新曜社 2007年)を参照されたい。なおこれらについては、拙稿「「認知の視点」から考える、「I」と「私」の違い――金谷武洋「日本語論」から導かれるもの」で紹介している。
なお、神の視点から見られた「私」については、安富歩の次のような体験が参考になると思われる。
「かつて私は、「親の視点」で自分を見ている子どもでした。それもおそろしいことに、子どもの頃の記憶がすべて、自分を 斜め上から見下ろす映像になっているのです。なぜそんなことになっているのか、不思議でならなかったのですが、10年ほど前に、それが母親の視点であることに気づきました。自分の気持ちや感じ方、体感や欲望を汲み取るのではなく、母親が 自分をどう思っているか、自分に何を求めているかばかりを汲み取ろうとしていたのです。そしてそのことを、意識することはありませんでした。」(安富歩『あなたが生きづらいのは「自己嫌悪」のせいである。』大和出版)
(25)日本では、何か不祥事を起こしたときに、人でも会社でも「世間をお騒がせしたこと」についてお詫びするのがしきたりである。「世間をお騒がせしたこと」は、それが違法であるか、あるいは道徳的な誤りと言えるかどうかに関係なく、お詫びしなければならないわけだ。そういう意味で「広い世間」はそれ自体が権力=暴力である。
(26)神島『近代日本の精神構造』は、「欲望自然主義そのものの必然的帰結は、ほかならぬ膨脹主義である」(p.202)としている。この点については、同書、p.202以下の叙述を参照されたい。
(そうまちはる:公共空間X同人)
(pubspace-x7946,2020.09.24)