相馬千春
(五)より続く。
九、「天皇の神として信奉」が明治国家体制の「顕教」なのか
1.前回の要点を確認する
前回、島薗進の「国家神道」論、「教育勅語」論を検討しましたが、私たちは次の点に疑問を持ちました。
すなわち第一に、島薗は「国民の中に皇道や国体論の教えが刷り込まれていくのは、……教育勅語が発布された後のこと」としますが、内村鑑三『不敬』事件の経緯を見ると、「教育勅語」発布の時点で、既に民衆に「天皇崇敬」が浸透していたことは明らかではないか。
第二に、島薗は国家神道を「皇室祭祀」、「神社神道」、「天皇崇敬」あるいは「国体論」という三つの要素から把握しているが、「民間の尊皇主義」を抜きにして「国家神道」を把握することは困難ではないか。
第三に、島薗は「教育勅語」を「国家神道の柱」として把握しているが、「教育勅語」の国体論からは神話的・宗教的要素は排除されているのではないか。つまり島薗の「教育勅語」把握は、過剰な読み込みに基づいているのではないか。
2.島薗<明治体制の「顕教」・「密教」>論と明治憲法の「天皇」
さて、以上の疑問点を踏まえると、次のような島薗の説にたいしても疑問が生じることになります。
「久野(くの)収(おさむ)が大変興味深い指摘をしています。明治の国家体制は、民衆向けの「顕教」と、エリート向けの「密教」の組み合わせで成り立っていた (1) と。すなわち、国民全体に対しては、無限の権威を持つ天皇を神として信奉させる建前を教え込み、国民の紐帯と国家への忠誠心を確保する。これが「顕教」……。/他方、エリート向けには、……近代西洋の民主主義や自由主義の制度を導入して、政治や経済をまわしていく。明治憲法では、欧州並みの立憲君主制を規定し、対外的にも近代国家であることをアピールする。ただし、これはエリートのなかだけの暗黙の了解です。つまり、「密教」……。」(『愛国と信仰の構造』p.130-1)
「一九二〇年代あたりから、「顕教」すなわち国家神道を掲げる「下からのナショナリズム」……が強くなり、「密教」の作動を困難にしてしまった。/国家に向けられた民衆の宗教性が、明治の元老たちの国家デザインを超えて、歴史を動かしてしまった。」(同上p.131-2)
仮に「顕教」ということばを使ってよいとすれば、国家体制の「顕教」――以下では単に「顕教」と言います――は、まずは「明治憲法」と「教育勅語」で表明されている思想ということになるのではないか。なぜなら「憲法」や「教育勅語」で示されている思想ほど国家にとって顕かなものはないのですから。
それでは、それらに<天皇は神である>という思想はあるのか?「教育勅語」については、前回確認した通り、そこに<天皇は神である>という思想を見出すだすことはできません。
「明治憲法」の方はどうか。「明治憲法」に<天皇は神である>という思想があるとされるならば、それはもっぱら第三条の「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」という規定によってでしょう (2) 。しかし――「神聖である」ということと「神である」ということは、そもそも別であるという点は措くとしても――、第三条が<天皇は神である>とするものではないことは、以下の点からも明らかでしょう。
「明治憲法」の策定にあたって、伊藤博文・井上毅らは、みずから西欧の憲法を研究するとともに、ドイツの憲法学者を日本に招聘もしました。その一人がヘルマン・ロェスラーで、彼は井上のもとで憲法草案を作成したのですが、ロェスラーの草案第二条には「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラサル、帝国ノ主権者ナリ」とあります (3) 。したがって「明治憲法」第三条の「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」の起源は、ロェスラーにまで遡ることができる。つまりこの条文は西欧の憲法思想を背景に持ったものであるわけです。
それでは<西欧の憲法にこれに類似の条文はあるのか>と問われるとどうか。私たちは以下の条文を見出すことができます。即ち、フランス1830年8月14日の憲章 (4) 第12条には「国王の一身は、不可侵であり、かつ神聖(sacrée)である」とあり、イタリア1848年憲法(Statuto Albertino) (5) の第4条には「国王の一身は、神聖(sacra)であり、かつ不可侵である」とあります。
しかし、これらの条文によって<ルイ・フィリップやカルロ・アルベルトは神である>と見なされたわけではないのは、言うまでもない。これらの条文と明治憲法第三条とでは、「一身」(La personne, La persona)の有無という違いがありますが、その点を考慮しても、明治憲法の第三条の<神聖>をもって<天皇が神であることを意味する>と解釈するのは、無理がある。したがって「明治憲法」のテキストに<天皇は神である>という思想を見出すことはできないのです。
もっとも伊藤博文の『憲法義解』の第三条の解説には、「天皇ハ神縱惟神至聖ニシテ……」とあり、伊東巳代治による英訳 (6) では、“The Emperor is Heaven-descended,divine and sacred”となっている。神縱Heaven-descendedは「天(天津神)の子孫である」ということでしょうし、sacredは「神聖」にも充てられている語なので、至聖は神聖とほぼ同じ意味でしょう。divine(神の、あるいは神聖な)と訳された「惟神」(カンナガラ)は意味が取りづらいのですが、折口信夫の所説 (7) に従えば、<天皇ハ……惟神……ニシテ……>という場合は、少なくとも天皇と神には区別がある。つまり明治憲法制定当初から伊藤らは「天皇=神孫」論を述べていたが、「天皇=現人神」を主張していたわけではない、ということになります。こういうと<「神孫」も「神」も同じではないか>と言われるかもしれませんが、日本の文化的伝統のなかでは「神孫」ということでは、天皇も臣民も変わりません。なぜなら国学では<日本人は皆、神の子孫である>と考えられていたのですから。
他方の島薗が「密教」としているものの方はどうでしょうか?島薗は、明治国家が「欧州並みの立憲君主制を規定し」、「対外的にも近代国家であることをアピール」した点を、明治体制の「密教」に帰属させていますが、明治国家はこれらのことを「憲法」によって顕示したのですから、これらのことを「密教」というのは、相当に無理がある。
3.国定教科書にみる天皇論の変遷
さて、国家の「顕教」を把握するための他の目安としては、公教育を挙げることもできます。「天皇」というものはどのように教えられていたのか?これについては――島薗にならって――新田均『「現人神」「国家神道」という幻想』を引用しますが、新田は、<教科書が国定化された明治三十七年以降、天皇についての教科書(修身・日本史)の説明の仕方が、三段階に変化している>と言っています。
「第一段階の明治三十七年以降における説明は、天皇は天照大神の子孫であるという天皇「神孫」論と、天皇の徳と臣民の忠義とによってこの国の歴史は続いてきたのだという君臣「徳義」論とからなっている。」(『「現人神」「国家神道」という幻想』p.23)
「第二段階になると、天皇「神孫」論と君臣「徳義」論の他に、皇室はいわば本家で臣民は分家のようなものである、天皇は親で臣民は子のようなものであるといった「家族国家」論がつけ加わってくる。それは大正十年以降のことである。」(同上p.24)
「最後の第三段階になると、……さらに天皇「現人神」論と「八紘一宇」論とが付け加えられた。それは、昭和十四年以降のことである。」p.24-5
したがって公教育史からすれば、「天皇は現人神」という「顕教」は、昭和期のものであって、明治国家のものではない、ということが言えるでしょう。
このように基準を「教育勅語」・「明治憲法」に置くにしても、あるいは「国定教科書」に置くにしても、<明治の国家体制の「顕教」は「天皇を神として信奉させる」ものであった>とは言うには無理がある。言いかえるならば、<明治の国家体制の成立当初から昭和期と同一の――現人神信仰としての――「顕教」が存在していて、それが、やがて「密教」を圧倒する>というような歴史認識の枠組みには、無理があるということです。
ただし、個々の思想家・学者が「天皇=現人神」論を唱えることは、昭和十年代になって始まったことではありません。新田均は、「明治四十五年刊の『我が国体思想の本義』において絶対神的な天皇観を公表した」加藤玄智を「「現人神」の生みの親の一人 (8) 」としていますから、明治憲法制定より二十年ほど後には「現人神」思想が登場していることになります。
それではどうして、<明治国家体制の「顕教」は「天皇を神として信仰させる」ものであった>という説が信じられるのか?と問われるかもしれません。しかしこの問いは、直接には<歴史の認識主体>に関する問いになりますから、ここでこの問題に立ち入ることは困難です。
しかし、この問いに関連すると思われる明治期の状況については、触れておくべきでしょう。それは、次の二点です。
第一に、明治国家の『公的思想』は<天皇を神とするもの>ではなかったにしても、『天皇信仰』自体は、明治期に既に大衆的なレベルで成立していたのではないか?
第二に、明治国家の「儀式体系」は<天皇信仰>を準備するものだったのではないか?
4.天皇巡行記録が示すもの ――明治期の<天皇信仰>
少し先走って推量してしまいましたが、まず第一点について、傍証となる事例――明治十四年の天皇巡行の様子――を挙げておきたいと思います。
「羽州酒田ノ人ニテ渡辺作左衛門ト云モノ来話。……主上行幸ノ節、行在所ヲ勤メタル後、越後地方、秋田地方又ハ最上辺マデ陸続トシテ僕ガ家ニ尋ネ来リ、是非共行在ニナリタル座敷ヲ拝見致シタシトノコトユへ、……切符ヲ与へ拝観サセタル位ユへ、十日間ニテ縦覧人凡十万人ノ余ナリトゾ。辺僻ノモノハ正直ナルモノニテ、玉座ニナリタル敷物ヲ手ニテサスリ、我ガ体ヲ亦タサスリテ、カクスレバ一生無病ナリトテ悦べリ。……今ノ世ニ当リ、諸国民権ナド唱ルモノアレドモ、皇沢ノ民ニ入ル、斯ク如キ深ケレバ、新舶来ノ自由説ナドニテハ、容易ニ動キハ致ス間敷ク、必ズ御安心ナサレテト、余ニ語レリ (9) 」。(アンダー・ラインは引用者)
これは明治天皇の侍従長山口正定の日記(明治十四年十二月十九日)の一節なのですが、ここに書かれている通りであるとすれば、この時点で<民衆の一部は天皇を現人神として崇拝している>といって良いでしょう。いや、この記録だけでそう決めつけては、「証拠不十分」と言われるでしょうから、もう少し同時代の記録を紹介しておきます。
「天皇は最も優れた人々より現世的に優越しているという以上の現人神(deity)なのである。」(『ジャパン・ウィークリー・メイル』明治十三年六月十九日付け記事「巡幸の意義について (10) 」)
「一八七六年の北日本巡行の際に、天皇が座られた場所の地面が、神聖化された土をたとえひと握りでも手に入れようとする熱心な人々によって、各地で実際に掘り返されたということが記録されている。」 (同上)
さらに、上の文書・「巡幸の意義について」の解題には、「文中、……天皇が座った場所の土を人々が争って掘り取ったと伝えているが、同様の現象が十三年の巡行での松本で見られたことは、これを実見した木下尚江が、回顧録「懺悔」で書いている (11) 」とあります。
さて、私は上の山口正定の記述を藤原正信の論文で知ったのですが、藤原はその論文で次のように言っています。
「国家の政策よりむしろ、宗教を信じる人々の側の問題がより重要であるということである。」 (藤原正信「「真俗二諦」の諸相――浄土真宗と国家神道」、宇治和貴・斎藤信行編『真宗の歴史的研究』p.355)
「一見すると個人の除災招福の祈りは国家とは無関係のようであるが、そうした宗教性が基盤にあるからこそ、より上位の除災招福の祈りに、そして最終的には天皇の祭祀に、組み込まれて行くことになる。神々を簡単に受け容れてしまう圧倒的多数の人々があって、そのような精神性、そうした伝統のなかで、新しく成立した幼弱な政府は、支配の正統性を神裔とされた天皇の権威に拠ったのであった。」(同上、p.356)
「教育勅語」以前にも――国家による種々の宗教政策があったので――、「天皇崇拝」が全く自然発生的なものであるとは言えない。しかし「国家の政策よりむしろ、宗教を信じる人々の側の問題がより重要である」のは、確かでしょう。
今日の常識からすれば、山口正定の日記で語られている人々は<無知で迷信深い>のでしょうが、当時は、病気になってもロクな治療も受けられない、あるいは天候の不順が飢餓や身売りに直結する時代です。そのとき、藁にもすがる思いの人々の前に天皇という至上の権威が「神」として現れたことは――「神」という言葉を日本の文化的伝統の中で理解する限りでは――なんら不思議ではないと思われます。
5.儀式の「思想」と儀式の「効果」のズレ
次に第二点、すなわち「明治国家の「儀式体系」は<天皇信仰>を準備するものだったのではないか?」という推論についてです。すでに述べたように、儀式の『思想』=「教育勅語」は<天皇を神とする>ものではありませんので、この問いは、<「儀式」の効果は、その儀式の『思想』とズレているのではないか?>ということになりますが、これは、次のような例を考えると分かりやすいかもしれません。
お葬式のばあい、唱えられている「経文」の<思想>と葬式の<効果>――彼または彼女を「死者」として確定させる等々――とは、直接に対応しないのではないか?なぜなら唱えられている「経文」を理解できる人はほとんどいないのだから。
こうしたことは、明治国家が作り出した「儀式」についても言えるのではないでしょうか。つまりここでも、「教育勅語」の思想と、それを「柱」とする「儀式」の効果とは、直接に対応しているわけではない。
学校では儀式 (12) のたびに「教育勅語」が奉読されるから、校庭を走り回る子供でもしまいには「教育勅語」を暗誦できるようになる。しかし<それで「教育勅語」が理解されたのか、「教育勅語」の道徳が広まったのか>というと、そうではなかった。
では「儀式」の効果は何処にあったか、と言うと、それは直接には<所作の規制を通して「天皇崇拝」が身体化されること>であったと言ってよいでしょう。そしてこの場合――日本における「カミ」はユダヤ・キリスト教の絶対神とは別のものであるので――人間に対する崇拝と「カミ」に対する崇拝に境界は、そもそも曖昧だったのではないでしょうか。
ですから明治国家の「儀式」が天皇の神格化を準備するものであったことは、必ずしも否定できないと思うのですが、だからと言って、<明治国家の『公的思想』が天皇を神とするものであった>わけではない。
6.一九〇五年日比谷焼き打ち事件にみる大衆のメンタリティと島薗の「顕教」との違い
このように考えると、少なくとも明治期に島薗のいう「顕教」が実在したのか、は疑わしいと思われます。むしろ実際の歴史の中で「明治の元老たちの国家デザインを超えて、歴史を動かし」(島薗)たのは、<島薗のいう「顕教」とは異なった民衆のメンタリティだった>と考えたほうがよいのではないでしょうか。また<それは「一九二〇年代」(島薗)に先行して姿を現している>のではないか。筒井清忠は次のように言います。
「日比谷焼き打ち事件は一九〇五(明治三十八)年九月五日に、日露戦争の講和条約(ポーツマス条約)の締結に反対する国民大会が暴動化して起きたものである。吉野[作造]はこの日比谷焼き打ち事件により「民衆が政治上に於て一つの勢力として動くという傾向」が日本で始まったと見ている」(『戦前日本のポピュリズム』p.3)
「屋外の政治集会は自由民権運動にも初期社会主義運動にも存在したのだが、それらは主催者が行動するのを参加者が観覧するものにすぎず、この「国民大会」[九月五日、日比谷公園で開催]において初めて、決議の可決をする参加者としての政治的大衆が登場することになったのである。」(同上、p.15)
ここでこの暴動について詳しく論じることはできませんが、この暴動が、(それまでの)自由民権運動から(その後の)普選運動につらなる流れの上に位置し、かつ近代日本の政治的大衆の登場を告げるものであり、また「対外強硬政策を主張するナショナリズム」と「天皇崇敬」、そして「官僚に対する反撥」という性格――その後、昭和の戦争の時代にいたるまでの大衆運動を特徴づける基本的な性格――をすでに備えている、という三点は押えておくべきでしょう。
その上で、この暴動の性格を島薗の「顕教」論と較べてみるどうか?この暴動の場合、まず民衆の「天皇崇敬」は必ずしも「天皇を神として信奉」(島薗)することを意味していない。そして民衆の(軍隊以外の)官僚・官吏に対する感情は、「国家への忠誠心を確保」(島薗)しているどころか、むしろ敵愾心であった――内務大臣官邸に放火した他、東京市内の警察派出所の約七割(二五八か所)を焼き払った――。こうした点を考えると、島薗の「顕教」とこの暴動での民衆のメンタリティとでは、ずいぶんと違う点があると言ってよいでしょう。
それで私たちは、この暴動のメンタリティを島薗の「顕教」とは別の論理で説明しなければならないことになる。しかもこの暴動は、昭和期に至る大衆運動の基本的性格をすでに備えているので、けっきょく私たちは、「明治の元老たちの国家デザインを超えて、歴史を動かし」(島薗)た大衆のメンタリティを、島薗の「顕教」論とは別の論理で説明すべきことになります。それはどのように説明できるのでしょうか。
筒井は前掲書で、陸羯南(くがかつなん)の「兵役を負担する国民、豈戦争を議するの権なしと謂わんや」という言葉を引用していますが、平民も兵士となることで、平民の国家における地位も、またその自己意識も否応なく変わったことは確かでしょう。兵士は「士」であって、単なる「民」ではないのですから。
さらに問題を一般化して考えてみると、「民」というのは、元々「盲目にされた奴隷」 (13) の意だそうで、「民はこれに由らしむべし。これを知らしむべからず。」(『論語』泰伯第八)とも言われていた。しかし近代化を推し進めようとする明治体制が必要としたのは、そのような「民」ではなく、半ばは「主体化」された人間――ある程度は道理を理解して行動し得る人間――です。「教育勅語」が「爾(なんじ)臣民」と言うとき、このような、半ばは「主体化」された人間が目指されていた (14) 、と言ってよいでしょう。
しかし、いったん『臣民』(半ば「主体化」された人間)が形成されると、政治の領域も、彼らの振る舞いの対象となることを免れ得ない。そう考えると、国家も容易に制御できない「政治的大衆」が登場してきたことの不可避性は明らかでしょう。それでは、その「政治的大衆」の基本的性格はどのように形成されたのか?それを考えるのは次回の課題としましょう。(続く)
(七)に続く。
注
1「顕教」と「密教」は、ここでは久野収からの「引用」であるが、他では――以下に引用する通り――島薗はこれらを「借用」しているので、以下では「顕教」と「密教」を島薗のタームとして扱う。
「哲学者の久野収さんの比喩を借りれば、「密教」、つまりエリートのあいだだけの暗黙の了解だった。/……国家神道が、……大衆に「顕教」として広まった。」(「「日本会議」と宗教的ナショナリズム」http://shinsho.shueisha.co.jp/kotoba/tachiyomi/160603.html#15 )
2 第一条の「大日本帝国ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス」は、「天皇が神である」ことを意味するものとして読むことはできないであろう。
なお島薗は、帝国憲法の「告文」について、「この「告文」は、憲法は国家神道的な枠組の中で発布されるものであることを明瞭に示している」としている。しかしこの「告文」は天皇が「皇祖皇宗の神霊」に告げているものであるから、天皇がこの「告文」の中で天皇家の宗教の枠組みにしたがって「憲法発布」を語るのは、当然であろう。
3 ロェスラーとその憲法草案については以下のUrlの堅田剛「明治憲法を起草したドイツ人:ヘルマン・ロェスラー研究の系譜」を参照。
https://serve.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=1268&item_no=1&page_id=49&block_id=42
4 「フランス1830年8月14日の憲章」については、以下を参照。
http://www.conseil-constitutionnel.fr/conseil-constitutionnel/francais/la-constitution/les-constitutions-de-la-france/charte-constitutionnelle-du-14-aout-1830.5104.html
https://ci.nii.ac.jp/els/contents110000400911.pdf?id=ART0000839346
5 「イタリア1848年憲法」については、以下を参照。
http://www.quirinale.it/qrnw/costituzione/pdf/Statutoalbertino.pdf
6 『憲法義解』と伊東 巳代治による英訳の文書の性格については、以下のUrlの堅田剛「憲法発布直後の伊藤博文 : 大赦・義解・欧米」を参照。
https://dokkyo.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=680&item_no=1&attribute_id=22&file_no=1
7 折口信夫は『古代中世言語論』 http://www.aozora.gr.jp/cards/000933/files/47186_34894.htmlの「七」で次のように言う。
「天子の、此世の中をお治めになる御行状を惟神と見て居り、「かむながらおもほしめす」などと使つてゐる……。惟神とは、天子御自らのお気持を表はすものではない。「自分のすることは、自分がするのではなくて、神がなさるのだ」といふ風の条件を、御自分の行状につけて、仰言(おつしや)つてゐられる事に使ふのであり、天子が臣下にお下しになるお言葉には、必ずくつついてゐた語に違ひない。「この自分の言つてゐることは、神が言つてゐるのだぞ」と仰言られる訣だ。」
「自分のすることは、自分がするのではなくて、神がなさるのだ」という場合、自分=天皇と神との区別が前提になっていると考えてよいであろう。
8 『「現人神」「国家神道」という幻想』p.124
9『日本近代思想大系天皇と華族 』p.111-2
10 同上、p.99
11 同上、p.98
12 稲田正次『教育勅語成立過程の研究』(p.327)によると、明治三十三年(一九〇〇)八月の小学校令施行規則で定められた紀元節天長節及び一月一日に行なう儀式の内容は、(1)君が代合唱、(2)両陛下の御影に対する最敬礼、(3)教育勅語奉読、(4)教育勅語に基づく聖旨の誨告、(5)その祝日に相当する唱歌合唱、であった。
13 白川静『字統』による。
14 この点については、この連載の第一回で小倉紀蔵の考えを紹介した。小倉によれば「自らが守るべき徳目のみを順守する〈客体的主体〉すなわち〈主体β〉しか、ここ[教育勅語]には存在しない」。私の言う「半ばは「主体化」された人間」は、小倉の言う〈主体β〉に相当する。
(そうまちはる:公共空間X同人)
(pubspace-x4916,2018.03.16)