進化をシステム論から考える (2) ラウプとグールド

高橋一行

(1)より続く

2.ラウプとグールド

 吉川浩満は、ラウプを最初に取り挙げ、次いで、グールドとドーキンスの論争を使って、自説を展開して行く。本稿でも、まず、ラウプとグールドの考えを紹介しておく。そのことで、ダーウィニズムの本質的な問題が明らかになる。

 そのダーウィニズムの本質は、自然淘汰論にあるといって置く。そのことの意味と意義については、今回と次回とで説明する。

 さらに、メンデルに始まる遺伝学が、集団遺伝学となって、進化は遺伝子の突然変異によるという成果が得られる。これによって、先のダーウィニズムが、現代的なものとなり、ここに、ネオ・ダーウィニズムが成立する。つまり、生物の進化は、①遺伝子が偶然、突然変異をし、②そこに、自然淘汰が働くことで、説明されるのである。この、遺伝子の話は、シリーズ第4回で、詳細に説明される。

 さて、以下、ラウプ、グールド、吉川と説明するのだが、ここで、彼らは、②の自然淘汰にこだわっている。ドーキンスが、ネオ・ダーウィニズムに忠実で、①遺伝子の突然変異+②自然淘汰で、自説を説明するのに対し、上述の3人は、遺伝子の突然変異の話を中心にはしていない。私は、むしろ、この遺伝子の点から、ドーキンスを批判しなければならないと思っているのだが、それは、第4回以降ですることになるだろう。

 古生物学者ラウプは、『大絶滅 -遺伝子が悪いのか運が悪いのか-』という刺激的な本の中で、隕石が地球に衝突して、環境が劇的に変化するということを、地球は今までに何度も経験しており、それが生物の大量絶滅を引き起こしたと書いている。そのこと自体は、つまり、隕石が地球に落ち、その時点で栄えていた生物に直接打撃を与え、かつ、その後に、舞い上がった塵の影響で、気候の大変動を起こし、種の絶滅を引き起こすということは、間違いなく事実であったと、今では、誰もが認めている。問題は、それが、その時に生きていた生物にとっては、まったく外在的な偶然であり、しかしそれによって、その種の運命が決められてしまうということであり、つまり、進化を考える際に、決定的に重要な要因であるということだ。しかも、それは、何度も起きている。

 古生物学者が一致して認めているのは、大量絶滅は、カンブリア紀以降、5回あったということである。これはビッグ・ファイブと呼ばれる。古い順に言って、オルドビス紀、デボン紀、ペルム紀、三畳紀、白亜紀に起きたものである。それぞれ、それまで繁栄していた生物の、80%とも、90%以上とも言われる種が絶滅したとされている。また、最も新しい、白亜紀のものは、最も良く解明されていて、これは小惑星が衝突したのではないかと言われている。ここで、恐竜が滅びて、哺乳類が生き残り、その後多様化したということは、しばしば取り挙げられる。

 さらに、それら大絶滅の間には、もっと小規模な絶滅が、連綿と起きているのである。それは、20回以上、あった筈だと言われている。

 しかし、様々なことを考えねばならない。つまり、白亜紀の絶滅にしても、恐竜は確かに滅びたが、哺乳類もまた、多く死滅した。ただ、グループとしては、哺乳類は、生き残った。個体数の大きな、少数の種は、環境の激変で、容易に絶滅した。また、特定の種や属は絶滅したが、しかし絶滅しなかった種や属もある。

 それらのことを考えて行くと、種の絶滅は、決してランダムではないという結論が見えて来る。つまり、本質的には、大量絶滅と呼ばれ、それは偶然起き、つまり根本的には、偶然に大きく左右されるのだが、しかし、それだけで絶滅が起きる訳ではない。偶然の環境の激変で、多くの動植物は滅びたが、一部は生き残った。それは、環境が変化した後に、自然淘汰が働き、その環境に適したものは生き延び、適さなかったものは絶滅したと考えるべきではないか。

 また、もうひとつ考えねばならないのは、大量絶滅だけが、絶滅の原因ではないということだ。つまり純粋に生物的な原因で、絶滅する種も多くある。自然淘汰はここで、根本的な働きをしているはずだ。

 ラウプは、3つの絶滅様式を提案する。ひとつは、弾丸(bullets)、つまり、隕石などが降って来て、そのために絶滅するという考え方で、二番目は、自然選択が起きて、適応度が高い種が生き延びるというものである。しかしラウプは、このふたつはどちらもあり得るが、進化のすべてを記述するには不十分なものだとし、3番目に、理不尽な(wanton)絶滅というのを挙げる。これは、自然選択も働くが、しかし、偶然にも左右されるということである。つまり、ひとつには、環境の激変は、偶然的なもので、これに生物は大きく左右されるが、しかし、環境の激変の中で、その環境に新しく対応するものもいれば、対応できないものもあるということである。個体数の大きな種は、完全にランダムに絶滅が起きているのだとしたら、それは絶滅しにくいということになるが、つまりたくさんいるのだから、確率的に言って、そのいくつかは生き残る筈で、しかし実際は、逆で、個体数の大きな種は、それ以前の環境に適していたために、個体数が増えたのだが、しかし、環境の激変には付いて行かれないから、絶滅する。そこには淘汰が働いている。またもうひとつは、大きな変化は、確かに、環境の激変で起きるが、しかし、それによらずに、日々、淘汰が働き、その中で生物の多くは絶滅している。

 遺伝子の悪さと運の悪さが重なって、絶滅に至るのである。これが結論になる。

 ここで適者生存とか、淘汰ということの意味が問われて来る。ネオ・ダーウィニズムには、あたかも、生物は環境に適合すべく、過酷な競争をし、その最も適したものだけが存在し得るかのような言説があるが、実際には、淘汰というのは、ある程度、環境に適合すれば、それで良いというようなもので、生物はたいてい、何とか生き延びられるし、また、生物は、その後、目や足を持つようになれば、自分が生きるのにふさわしい場所に移動することもでき、つまり最もその環境にふさわしいものだけが、生き残るという訳ではなく、それなりに、環境に適合すれば、生き延びられるのである。このことは、次章以降、何度も取り挙げられる。

 とすれば、生物は、無限に多様化して、その種の数が増えて行き、やがて飽和レベルに達するするだろうと思われるのだが、そこで大きな役割を果たすのが、この大量絶滅で、環境の激変によって、地球は、何度も、それまで栄えていた生物が滅びるのを見ることになる。それまで、その環境にそれなりに適して生存していた生物は、ある日、地球に隕石が落ちて、そのために、ラウプの表現を使えば、理不尽にも、滅びるのである。

 これもまた、ラウプの表現を使えば、地球上では現在、今までに栄えた生物の、0.1%しか生き残っていない。99.9%の生物は、不条理にも滅びて行ったのである。しかしまた、そのことが、常に新しい生物の爆発的な出現を促し、生物の多様化に繋がっている。生物は絶滅することによって、常にその進化が促されて来たのである。

 グールドは、先のラウプの本に、序文を寄せている。それによると、グールドがまだ大学院生の時に、ラウプが、彼の論文を査読し、評価してくれたという話があり、また、その後、ふたりは共同研究をしている。また、のちに、ラウプが、グールドの意見を取り入れて、自説を修正したということも示唆されている。ふたりの関係をまず書いておく。

 グールドには、夥しい著作がある。その中で、私は、以下の二冊を取り挙げる。

 ひとつは、『フルハウス -生命の全容-』である。そこで言われている論点は、いくつもあるが、一番分かり易く、かつ、この本で彼の言いたいことを良く表しているのは、次のことである。それは、バクテリアの話で、これは、30数億年前に生まれて、現在に至るまで、地球上の至るところで、生息している。

 まず、言うべきことは、この最も単純な生物が、生物の歴史の半分を、孤独にも、生き抜いて来た。つまり、真核生物が生まれるのは、10数億から20億年前のことだからである。生命体として、最小限の複雑さを持つこの生物は、際立って、たくましいのである。

 第二に、真核生物が生まれ、やがて多細胞生物となって、進化が急速に行われるのだけれども、バクテリアは、変わらずに、ずっと、単純な形態のまま生き残っている。これは進化ということを考える際に、重大な観点を私たちに示唆している。つまり、すべての生物が進化するのではなく、進化するのは、ごく一部に過ぎないということである。つまりバクテリア程度の複雑さがあれば、生き残るのに、何の不自由もないのである。

 第三に、バクテリアは、現在でも、最大の個体数を持っているだけでなく、量的にも、最も大きいものである。地球上のどこにでもいて、地下にいるものまで含めれば、総重量から見ても、地球上で最大の生物である。つまりバクテリアは、最強の生物なのである。

 ここが問題である。つまり、進化した生物こそが、最も成功した生物であるという訳でもなく、バクテリアこそが、最も成功した生物だと言えないだろうかということなのである。

 また、近年の分子生物学の発展は、この単純なバクテリアが、ゲノムの中の、塩基配列の点で、様々な変異を持っているということも明らかになっている。すると多様性という点でも、バクテリアは、生命体の中で、常に支配的であったのである。

 グールドは、まだまだ多くの利点を、バクテリアが持っていることを例証して行くが、このくらい書けば十分であろうと思う。ここから何が言えるのかということが問題だ。グールドは、ここで、進化を問題視している。真核生物から、多細胞生物へ、脊椎動物から哺乳類へ、そして人間の出現というのは、自然淘汰が導く、必然的な進展ではなく、偶然的なものに過ぎないのではないかということだ。そしてそれは、ごく一部の種の話に過ぎなくて、多くの種は進化などしていないのである。

 もうひとつの論点を挙げておく。『ワンダフル・ライフ』で言われているのは、そのごく一部の生物が、バクテリアの原核生物の段階を脱し、真核生物になり、その上で、多細胞生物になった。その多細胞生物は、エディアカラ生物群と言われる、オーストラリアで見つかった化石によって示される、生物群の時代に発生する。今から、7億年くらい前の話である。そののちに、多細胞生物の多くは絶滅し、さらに、そののちの、この本の主題である、バージェス頁岩群と呼ばれる、カナダで見つかった化石の示す時代に、一気に多様化した。それは、カンブリア紀の爆発とも呼ばれる。5億7千万年ほど前のことだ(注1)。

 そして問題はその次である。つまり、多細胞生物は、このほんのわずかな時代に、一気に多様化し、その後、長い時間をかけて、絶滅し、むしろその多様性を失ったと、グールドは言っている。ダーウィニズムによれば、生物は、少しずつ、多様化していく。しかし、化石が教えるところでは、そうではなく、初めに一気に爆発的に多様化し、その後、それらの多くが絶滅して行くのである。

 具体的に言えば、節足動物を取り挙げた場合、これまでのところ、おおよそ100万種の節足動物が見つかっており、それらは、4つのグループに分類ができる。しかし、このバージェス頁岩群化石の中には、この4つのグループの中に入らないものが、20種以上もあったという。つまり、門のような、大きなグループについて言えば、生物はこの時期にたくさんの門ができて、その内の多くは絶滅して行ったのである。

 そうすると、生物は、ダーウィンが言うように、漸進的な進化をしつつ、次第に多様化したのではなく、グールドの言い分では、ある時期に一気に多様化し、その後は、むしろ、絶滅することで、その多様性を失ったというのである。

 同書で展開される、もうひとつの論点は、先のラウプの主張と同じで、大量絶滅という、偶然的なものが、進化を促しているということである。白亜紀に、隕石が落ちて来なかったら、恐竜は、現代においてもなお、勢力を持ち、哺乳類は、発達しなかっただろうし、当然、人間も出現しなかっただろうと、グールドは言う。恐竜が、脳を発達させて、そこから高度な知的能力を持つ種が生まれるということも、爬虫類のデザインでは難しい。

 グールドは、ここで、生物の進化について、ダーウィニズム的な基準とは何の関係もなく、繁栄したり、絶滅したりすることがあり得ると考えている。しかし、偶然が進化の根本なのだが、ラウプと同じく、ダーウィニズムを全否定しているのではない。進化の要因は、①ダーウィン流の淘汰のみで説明する考え方と、②隕石の落下などの偶然のみで考えるものというふたつの極端な案があるとした上で、真実は、第三の立場にあり、つまり、進化はあり得るし、自然淘汰も働くが、しかし、根本は、偶然であるとするものである。つまり、ふたつの考えの折衷案をここで、持って来るのである。これは、先のラウプの考えと似ている。そして、ここから得られる帰結は、人間に至るまでの進化について、ダーウィンの自然淘汰による説明だけでは不十分だということになる。

 バージェス頁岩群時代に、爆発的な多様化があり、その後にその多様化が減じていると考えるグールドの示す例は、あまりに極端ではないかという、その後の研究の進展からの訂正を、垂水雄二がしている(注2)。つまり、バージェス頁岩群の化石には、今日のグループには属さないものがたくさんあるとグールドは言うのだが、しかしその後の研究は、これらの生物も、従来のグループに入れることができるということである。だから、バージェス頁岩群に奇想天外な動物がいたのは化石上の事実で、そこからグールドは、カンブリア紀に、異質性が最大であったと主張するのだが、それは、今日、その根拠を失ったと言うのである。

 しかし、カンブリア紀に、一気に、現在の動物群が出現したのは事実で、グールドの主張はいささか極端だったかもしれないのだが、しかし、生物が、ある時期に一気に進化するという、グールドの基本的な考えは、なお、正しいと思う。このことは、のちの進化学者も認めている。

 グールドの論点をまとめて置く。それは自然淘汰批判である。ここで自然淘汰とは、厳しい生存競争があり、最も環境に適したものが生き残るという考えを指す。そしてその結果、進化は、漸進的なものとなる。そういう考えを指す。

 しかし、グールドによれば、まったく進化していない、バクテリアこそが、最も生存競争に勝ち抜いた種となる。

 また、進化がある時期に一気に起こり、その後、その後目立った進化があまりない時期が来る。これは化石の示す事実である。これらをどう考えるのか。

 解決案は次のように考えるしかない。つまり、淘汰を緩やかなものにして、厳しい自然環境の中で、最も適した種だけが生き残ると考えるのではなく、有害なもの、環境に適さないものは淘汰されるが、そうでなければ、つまりある程度環境に適応していれば、生き残ると考えるしかない。また、そうすると、種は、無限に増えてしまうのだが、地球の歴史では、時々、隕石が落ちてくるなどの偶然的な理由で、環境の激変があり、それに堪えられない種は滅びてしまう。そういうことが、時々起る。ここは先のラウプのところで説明した通りである。

 自然界は、満杯であるとダーウィンは考えていたと、グールドは批判する。つまり、満杯の自然の中で、過酷な競争がなされ、勝者は敗者を駆逐し、最も勝ち抜いたものだけが生き残る。このような駆逐が、進化を作る。こういうダーウィンの考えが、ここで批判されている。

 私は、これを以下のように考える。まず、自然淘汰の意味を、修正し、上述のように、緩やかなものにする。淘汰が働かないということではない。淘汰は、必ず働いている。ここで、正の淘汰については、この緩やかなものを採用し、また、同時に、負の淘汰というものを考えて、つまり、環境に適さないものは滅びるという観点を導入する。

 また、進化は、遺伝子の突然変異に拠って、漸進的に起こるのではなく、ある時期に一気に起こる。その仕組みを、グールドは言及していない。それは、進化学や遺伝学、発生学の研究者が解明しなければならない課題である。そのことは、これも、本稿の第4章以降で言及する。

 すると、このふたつの観点を合わせると、これを修正ネオ・ダーウィニズムと呼ぶことができるかもしれない。先に、ネオ・ダーウィニズムを、①遺伝子の突然変異により、②自然淘汰が起きて、進化がなされるとまとめた。ここで、②の自然淘汰の方が、修正され、この後の章で、上述の進化学のその他の学問領域の発達により、①の方も修正される。ネオ・ダーウィニズムは、大分修正を余儀なくさせられていることになるが、しかし、逆に言えば、ネオ・ダーウィニズムは修正さえすれば、今なお、正しいのかもしれない。そのことも、今後論じて行きたい。

 最後にまとめをしておく。ドーキンスもラウプもグールドも、偶然を強調する。本稿のキーワードは、偶然であるが、その意味は異なっている。ここで、ドーキンスの言う偶然は、遺伝子の突然変異を指しており、そこにこそ進化の要因があり、つまり、進化はその意味では偶然の産物だが、しかし、自然淘汰が働くので、偶然だけで進化が起きるのではない。ラウプの言うのは、自然淘汰だけではなく、環境の激変という偶然もまた、進化の大きな要因だということである。グールドは、このラウプの、自然淘汰に加えられた偶然の役割を強調する説を受け、さらに、遺伝子の突然変異という偶然だけでなく、そこにもっと大きな偶然が関与して、生物の多様化が起きているはずだとしている。しかし、偶然と物理法則のみで、進化を説明しようとする点において、三者は、共通している。

  1. カンブリア紀の爆発について、その後の研究では、これが起きたのは、5億3000年ほど前で、しかも、それは、わずか500万年程度のことだったと言われている。これは、同書の解説で、訳者の渡辺政隆が書いている。

 

  1. 垂水p.108f.にある。垂水のこの本は、次回にも参照する。

参考文献

第1回で取り挙げたものは、ここでは割愛する。

Gould, S.J., Wonderful Life -The Burgess shale and the Nature of History-, Hutchinson Radius, 1990, 『ワンダフル・ライフ -バージェス頁岩群と生物進化の物語-』早川書房、2000

垂水雄二『進化論の何が問題か -ドーキンスとグールドの論争-』八坂書房、2012

(3)へ続く
 
(たかはしかずゆき 哲学者)
(pubspace-x2437,2015.09.05)