ヘーゲル自然哲学の面白さ (1)

高橋一行

 ヘーゲルの自然哲学を、『自然哲学』と「論理学」に即して、読解して行く。
ヘーゲル『自然哲学』において、自然が時間的に発展するという考え方は、明確に拒否されている(注1)。しかし、ヘーゲルは、「自然は様々な段階から成るひとつの体系として考察されなければならない。ひとつの段階は、他の段階から必然的に発生してくる」(249節)と言い、そこでは、自然は論理的に発展するものとして記述されている。私は、その論理的な発展を、時間的に発展するものとして読み換えることが可能だと思う。さらに、「論理学」はそもそも、カテゴリーの発展を扱っているのだが、これを、自然の発展を記述するものとして読み込むことが可能だと思う。前著で書いたが、私の感覚では、社会は容易に発展しないし、また発展すると見ることは、社会観としては甚だ面白みに欠けるが、自然は発展している(注2)。その発展の仕組みを、以下、詳細に展開したいと思う。
最初に考えるべきは、その発展のイメージである。何がどんな風に発展しているのか。分かりやすい具体例を挙げて考えて行く。現代進化論の成果を、ここで参照する。それはヘーゲルの読解に役立つと思うからである。
まず、生物は、細胞核を持たない原核細胞という、単細胞に始まる。それが、やがて多細胞生物となるのだが、その前に、真核細胞という、ひとつの原核細胞の中に、他の原核細胞が入り込んで共生し、より複雑な、しかし、まだ、この時点では、単細胞である生物になる。そこから、この真核細胞が、いくつか集まって、役割分担をするネットワークができ、それが多細胞生物である。
これは発展である。あとで詳述するが、この、原核細胞、真核細胞、多細胞は、ヘーゲルの言葉で言えば、普遍、特殊、個別に他ならない。それをヘーゲルは、発展の3段階として、記述している。生物というシステムは、複雑化して、自然に適合的な行動を取るようになる。そしてこの発展は、不可逆的で、つまり、一旦、多細胞生物となったものが、突然変異をして、単細胞に戻るということは際立って困難である。複雑化は一方向に進んで行く。そして多細胞になったあとは、今度は、その体制の中で、様々な方向に多様化して行く。
ただ、そのように言って置いて、しかし、次のことを考えねばならない。まず、地球は今から、46億年前に誕生したと考えられていて、そこに原核細胞が生まれたのは、今から38億年から35億年前だと言われている。真核細胞が生まれたのが、10数億年前で、多細胞生物は、数億年くらい前に発生している。そうすると、生物は、この世に生まれてからの30数億年の期間の内、半分くらいを原核細胞として過ごし、さらにその後も、多細胞生物になるまで、10億年近くも掛かっている。これは、いかに多細胞生物になるのが大変なことなのかということを示している。生物は、20億年以上もの長きにわたって、ゆっくりと多細胞生物になるための準備をしてきたのである。まずは、その大変さを指摘したいと思う。
また、真核細胞が出て来る直前には、炭酸ガスを炭酸同化するシアノバクテリアが出現し、炭酸ガスの濃度が下がり、酸素が増えるということがあり、それが生物の進化に影響を与えている。それが、酸素を使って、エネルギーを得る真核細胞の進化を促すことになる。またもうひとつは、全球凍結と言われる、地球の冷却化が複数回あり、それまで高温だった地球が、一気に気温を下げ、また炭酸ガス濃度を下げ、しかし、その後に、再び高温になり、炭酸ガス濃度が増えるということになる。生物は、そのような環境の大きな変化に備えねばならず、適応性を増して行く。多細胞生物の出現には、そのような環境の激変が、大きな影響を及ぼしている。
詳細は、このサイトに同時に連載している、「進化をシステム論から考える」の方に書いて行く予定である(注3)。ここでは、生物の発展は、環境の変化という偶然に根本的に左右されるということを指摘しておく。
偶然性が、重要なものとして考察されねばならないことを示す具体例を、さらにラウプに見ることができる。彼は、『大絶滅 -遺伝子が悪いのか運が悪いのか-』という刺激的な本の中で、隕石が地球に衝突して、環境が劇的に変化するということを、今までに何度も繰り返しており、それが生物の大量絶滅を引き起こしたと書いている(注4)。それは、その時に生きていた生物にとっては、まったく外在的な偶然であり、しかしそれによって、その種の運命が決められてしまうのである。
ここで適者生存とか、淘汰ということの意味が問われて来る。ネオ・ダーウィニズムには、あたかも、生物は環境に適合すべく、過酷な競争をし、その最も適したものだけが存在し得るかのような言説があるが、実際には、のちに何人かの生物学者の論を参考にしながら、詳述するが、淘汰というのは、ある程度、環境に適合すれば、それで良いというようなもので、生物はたいてい、何とか生き延びられるし、また、これものちに詳述するが、生物は、その後、目や足を持つようになれば、自分が生きるのにふさわしい場所に移動することもでき、つまり最もその環境にふさわしいものだけが、生き残るという訳ではなく、それなりに、環境に適合すれば、生き延びられるのである。
とすれば、生物は、無限に多様化して、その種の数が増えて行き、やがて飽和レベルに達するするだろうと思われるのだが、そこで大きな役割を果たすのが、この絶滅で、環境の激変によって、地球は、何度も、それまで栄えていた生物が滅びるのを見ることになる。それまで、その環境にそれなりに適して生存していた生物は、ある日、地球に隕石が落ちて、そのために、ラウプの表現を使えば、理不尽にも(wanton)、滅びるのである。これもまた、ラウプの表現を使えば、地球上では現在、今までに栄えた生物の、0.1%しか生き残っていない。99.9%の生物は、不条理にも滅びて行ったのである。しかしまた、そのことが、常に新しい生物の爆発的な出現を促し、生物の多様化に繋がっている。生物は絶滅することによって、常にその進化が促されて来たのである。
これらのことから分かるのは、生物は、かなりの程度、その発展は、偶然に左右されるということである。そこは押さえて置く。そのことは、今後も繰り返し、具体例とともに、言及される。実は、生物がどのように発生したのかということについて、まだ論じていないが、そこにおいても、偶然の力は大きい。そのことにも、のちに触れたい。しかしなお、その上で発展の仕組みがあって、生物は発展してきた。私は、その仕組みを解明したいと思うのである。
生物は、今に至るまで、もしかしたら、ずっと、原核生物のままであったという可能性があり、また、多細胞生物となった後も、何度も、絶滅とその後の急激な多様化を経験しており、その中で、ちょっとだけ偶然が異なっていれば、現在とはまったく違う生物が、生き残っていたかもしれないということは、ここで、あらためて確認しておく。
さて、もうひとつ確認したいのは、生物は発展するのだが、すべての生物が発展する訳ではなく、また発展した生物だけが生き残ることができる訳でもないということである。現在でも地球上に多く占めるのは、細菌のような原核細胞であり、酵母菌のような真核細胞である。また細菌とは異なる原核細胞として、温泉などにいる古細菌を挙げることもできる。さらには、先述のシアノバクテリアも、出現してから数十億年経つ今も、この地上に生存している。つまり、自然は、進化したものだけが生存を許されているのではなく、ほとんど進化しないものも、多く生き残って、その多様性を保持している。生き残っているのだから、環境に適合的なのである。そのことも押さえ、しかしなお、多細胞生物が出現してからは、生物は加速度的に、その進化を早めて来ており、やはりその仕組みを扱いたいと思う。

もうふたつの点を、発展と言うときに考えねばならないと思う。ひとつは、自己―他者関係である。先に原核細胞が真核細胞に発展したと言ったが、その際に、ある原核細胞の中に、他の原核細胞が入り込んで、共生し、真核細胞になったと言われている。すると、自己の中に、他者が入り込み、共存し、新たな自己を作ったということになる。
さらに、その真核細胞が、多数集まり、相互にコミュニケーションを取って、ネットワークを作り、多細胞生物が生まれる。そこでは、多数の他者が集まり、自己を形成している。自己形成をここでは発展と読んで良い。すると、このように、自己の形成には、他者の存在は根源的である。
もうひとつは、多細胞生物は必ず死を迎える。それは必ず消滅する。しかしその前に、生殖行為をし、つまり他の個体と交わって、新たな個体を作る。そのようにして、種を維持する。ここで、このことを、個というシステムが崩壊して、種というシステムが生かされると考える。もっとはっきり言えば、個体というシステムが崩壊しない限り、種というシステムは現われて来ない。ここにシステムの、生成と崩壊の仕組みがある。その仕組みを通じて、種というシステムが進化する。
さらに、先のラウプの説を再度、取り挙げてみる。すると、地球規模で考えれば、それまで栄えていた種が絶滅することで、次の種が栄えることになり、地球という全体をシステムと考えれば、その中で、ひとつの種が崩壊し、他のシステムが生じ、このようにして、全体の多様性を維持している。ここでも消滅と生成とは、セットにして考えるべきである。

さて、ここでヘーゲル論理学が出て来る。先にも書いたように、ヘーゲルは、生物の進化を認めていないが、しかし、すべての著作において、発展の仕組みを論じており、物事が発展するということは、論理的に考えて、これ以外にはありえないだろうという、その機構を論じている。とすれば、生物の発展も、論理的には、そのようにしかならないのではないか。そういう先入観をまずは持つ。
ここで、ヘーゲルの言葉で言えば、主体化とか、個体化ということが、発展である。それで一方で、ヘーゲル論理学を読み解いて行き、一方で、進化論を研究して行くと、両者が実によく似ていることに気付く。しかしこれは、当然のことなのである。とりわけ、ネオ・ダーウィニズムが、その機械論的発想の持つ限界を露呈し、一方で、ブリゴジーヌやカウフマンの研究があり、複雑系理論やネットワーク理論を受けて、複雑系生命科学(金子邦彦)だとか、進化システム生物学(田中博)だとかが、2000年以降に、着実な成果を示し始めると、そこで使われている言葉遣いが、ヘーゲルの用語に似て来ることに気付く(注5)。これも極めて、自然のことだと、私は思う。
ネオ・ダーウィニズムは、遺伝子の突然変異と、その後の自然淘汰という二つの原理から成るが、そして私は、この法則は、限られた範囲内では、実によく生物の進化を説明するものだと考えていて、その意味で、最も成功を収めた理論だと思うのだが、しかし、繰り返すが、それは限られた範囲内でしか成り立たない。少なくとも、それは、遺伝子がまだ存在しない時に、どのようにして生物が出現したのかということを説明しない。これは明らかである。また、第二に、私は、進化論は、最終的には、人間の精神の出現も扱わねばならないと思っているが、そのことも、ネオ・ダーウィニズムでは扱えない。精神の出現は、単に猿が突然変異によって、知能の高いものになったという話ではなく、動物と人間の間には、連続と断絶とがある。そこには、そして第三に、多くの論者が、生物の進化を扱うにしても、小さな進化なら、ネオ・ダーウィニズムで良いのだが、大きな進化だと、扱えないことを指摘している。このことも、のちに詳述する。以上、三つの理由で、私は、ここで、もっと大きな理論的枠組みを提出しないとならないと思っている。それは、先刻から論じているように、偶然性に大きく依存し、かつ、しかしその上で、その偶然を利用した、何かしら発展の仕組みが、物理的に考えられるはずで、そうすると、遺伝子の突然変異に依拠することは、この偶然性を重視する、ひとつの例であり、その後の自然淘汰は、偶然を発展に繋げる仕組みのひとつの形態であって、そうすると、ネオ・ダーウィニズムは、私がこれから論じる枠組みの中の、ある特殊な一例を構成するものとなり、それは間違いではなく、ただ単に不十分なものなのである。繰り返すが、限られた領域では、極めて有効な理論だが、しかしそれは、限られた領域でしか通用しないというものである。

自然科学者も、また、論理実証主義などを奉じる多くの哲学者も、ヘーゲルの提示する形而上学を嫌っている。それはそれで結構なことなのだが、そして私が、その理論が、複雑系進化論だとか、進化システム生物学だとかに似ていると指摘すると、ただ単にアナロジーがあるだけだと言うに違いないのだが、しかし、そのアナロジーは本質的なものである。繰り返すか、ヘーゲルが物事の発展の仕方を論理的に扱い、これ以外に発展する仕組みとしては、あり得ないというものを提示している以上、それが、現代生物学の記述するものと似て来ることは、必然的なのである。私が言いたいのは、ただそれだけのことだ。
また、しばしば、進化論を論じる場合、とりわけ、ダーウィン批判をすると、それが創造説や生気説に繋げられて理解されてしまうことになる。しかし、ヘーゲルの論理は、目的論的ではあるが、神を必要としていない。徹底的に、物理的なものとして、それを記述することができる。生物の進化は、偶然と、物理法則によるものなのである。それ以外は要らない。ヘーゲルの論理学は、その偶然の重要性と、自然の持つ法則とを明らかにするものである。

以上が前置きである。以下の順に書いて行きたい。
まず、「論理学」の「本質論」の偶然と必然の議論から始める。ポイントは、先にも書いたように、ヘーゲル論理学における、偶然の実在性と、偶然性の重要性を確認し、そしてヘーゲルは世間で誤読されているのだが、その偶然は安易に必然に転化してしまうものではなく、偶然は偶然のまま残って、しかしその偶然の相互作用を通じて、秩序化が自己組織的になされる。そう考えるべきである。
次に、「論理学」の「概念論」に進む。そこでは、まず普遍が実在し、それが自ら特殊化し、個別に至ること、そしてその個別が、さらに再び普遍に還帰することが記述される。ここで、普遍は、通常は、個別を抽象化して、頭の中で得られるものに過ぎないと考えられるかもしれないが、ヘーゲルの場合はそうではない。先の例で言えば、原核細胞は、普遍である。それは、他の原核細胞と区別されないので、それは個別ではなく、普遍であり、まさしく普遍として実在しているのである。それが真核細胞という特殊の段階を経て、多細胞に至ると、それが個別であると考えることができる。それはたくさんの細胞の集まりで、個別としてのシステムを形成しており、生殖を通じて、他の個体と交わり、他の個体システムを作り出す。そして自らは、必然的に死ぬ。つまり、個別は有限である。
ここで重要なのは、実は、特殊の段階で、真核細胞ができなければ、多細胞生物は生まれない。特殊の役割の重要性は、ヘーゲルの強調するところである。
そしてその上で、個別は死を通じて、類という普遍に繋がる。しかし、動物はそのことに無自覚だが、人間はその死を自覚し、類を自覚する。つまり、意識的に普遍に繋がる。そのことを以って、ヘーゲルは、個別が普遍に還帰すると言っている。それが精神の出現である。おおよその流れはそんなところだ。
三番目に挙げるのは、「論理学」の「客観」で、ここは、『自然哲学』と同じ記述がある。つまり、「機械観」、「化学観」、「目的観」と来て、これは、『自然哲学』の、「力学」、「物理学」(ヘーゲルの物理学という言葉は、化学に近く、その中に、化学的過程もある)、それに、「有機体」を、簡潔に先回りしたものではないか。しかし、そのニュアンスは、両者において異なっており、それを詳細に分析することは必要である。一方で、「論理学」を頭の中で、反芻しつつ、体系を完成させ、一方で、当時の自然に関する研究を可能な限り集めて、事実に語らせようとする。しばしば体系と事実は衝突する。そのことをヘーゲルがどのように扱っているかを見て行きたい。
また、ここは、物質がどのように運動をし、そこから生物を産み出すのかということが叙述されている。物質の持つどういう性格が、生物に繋がるのかということを、ヘーゲルが論じているのである。その説明は、極めて興味深い。
四番目には、「概念論」の「理念」に進む。そうすると、そこでは、客観から生命が、さらには、生命から認識が導出されているのだが、それも『自然哲学』の最後で、自然が精神を産み出す論理を記述する箇所、及び、『精神哲学』の最初のところで、精神が自然から出て来る論理を説明する箇所と重なる。しかし、その異同をていねいに見ることは必要ではないか。


1.『自然哲学』は、原文は、Suhrkamp版を使い、邦訳は、加藤尚武訳(岩波書店、1998、1999)を使う。また、次の英訳も参照する。Hegel’s Philosophy of Nature、translated by M.J.Petry (George Allen and Unwin, 1970)

2.拙著『他者の所有』(御茶の水書房、2014)第7章

3.このシリーズは、現代生物学の最近の業績に刺激を受けつつ、ヘーゲル読解を試みるもので、同時に連載している「進化をシステム論から考える」と、内容の重複がある。ただ、前者がそれを、ヘーゲルのテキストを読み込むことで、ヘーゲルの言葉で説明し、後者がそれを、進化論の最近の研究を分析することで、自然科学者の使う言葉使いで説明するという違いがある。

4.D.M. Raup, Extinction –Bad Genes or Bad Luck?, W. W. Norton & Company, 1991,『大絶滅 -遺伝子が悪いのか運が悪いのか-』渡辺政隆訳、平川出版、1996

5.金子邦彦『生命とは何か -複雑系生命科学へ-』東京大学出版会、2009、田中博『生命 : 進化するネットワーク -システム進化生物学入門-』パーソナルメディア、2007、『生命進化のシステムバイオロジー -進化システム生物学入門-』日本評論社、2015

(2) へ続く

(たかはしかずゆき 哲学者)
(pubspace-x2317,2015.08.22)