進化をシステム論から考える(3)  自然淘汰という概念

高橋一行

(2)より続く
 
3. 自然淘汰という概念
 
 前回引用した、垂水雄二は、ドーキンスとグールドの論争を主題として書いた本、『進化論の何が問題か -ドーキンスとグールドの論争-』の中で、以下のように書いている。ここでは、遺伝子の突然変異と自然淘汰の関係が問われている。今や、研究水準が上がって、単純なネオ・ダーウィニズムは成り立たない。前回、私が、修正ネオ・ダーウィニズムと呼んだレベルで、この両者の論争も見直さないとならないということなのである。
 まずホックス遺伝子では、たったひとつの遺伝子が、大規模で、怪物的な形態的変化をもたらすことがあることが知られていて、これはグールドの真意を説明するかもしれないと垂水は言う(垂水、p.76)。つまり、グールドは、前回説明したように、種分化は、短期間に起こると主張し、化石が示す事実によれば、変化は一気に、かつ大規模に起きると言っている。ここはグールドの、最もグールドらしい主張だと思われる。そしてここから、グールドは、ダーウィニズムを批判する。ダーウィニズムでは、種分化は、漸進的に起きるとされているからである。しかし、グールドの主張は、ネオ・ダーウィニズムで得られた知見で説明ができるのではないかと、垂水は言うのである。
 ここで、垂水が言いたいのは、ドーキンスが代表するネオ・ダーウィニストが、遺伝子が突然変異し、そこに自然淘汰が掛かることで、すべてが説明できるとしていることに対して、グールドが批判をするのだが、しかし、そのグールドの批判も、今の水準のネオ・ダーウィニズムでは、その中に納まってしまい、批判としては成り立たない。つまり、遺伝子が突然変異し、それが表現型の変化を促し、それが淘汰を受けるというだけで、進化が決まる訳ではない。それほど単純ではない。垂水は、現在の研究水準で見ると、グールドのネオ・ダーウィニズム批判は成り立たないだけでなく、むしろ、グールドの主張も、ネオ・ダーウィニズムで説明ができ、そうすると、グールドとドーキンスは、主張していることが案外近いのではないかと言うのである。
 また、遺伝子型と表現型との関係も単純ではなく、ひとつの遺伝子の変異が、表現型の変化をもたらし、それが淘汰されて、変化が積み重なって行くというだけの、単純なものではない。同じ遺伝子型でも、異なった表現型が現れる場合もあれば、表現型が同じなのに、異なった遺伝子型を持つこともある。しかし、表現型が遺伝子型によって規定されるということは根本である(p.89)。
 さらに次のようにも言う。自然淘汰の対象となる個体変異の多くは、遺伝子の組み合わせによっても生じる。つまり、必ずしも、遺伝子の突然変異によって、表現型が進化するのではなく、それを必要としない場合もある。そして遺伝子が突然変異しなくても、表現型の自然淘汰を通じて、集団内で頻度を増やせば、集団全体の遺伝子構成が変わるという形で進化が起きる(p.204f.)。
 従って、グールドは、ダーウィニズムを批判するが、その主張は、ネオ・ダーウィニズムの枠組みで了解可能だし、私の言い方では、修正ネオ・ダーウィニズムの範囲内にあるのである。ドーキンスとグールドは、それほど大きく異ならない。ふたりとも、偶然の役割は認め、自然淘汰も認めている。垂水は、グールドが批判したかったのは、俗流ドーキンス主義者の安易な遺伝子決定論や、適応万能論であり、ドーキンスが批判したかったのは、グールド賛美者を取り巻く目的論的傾向や相対主義だったと言っている(p.3f.)。
 まず、①遺伝子の突然変異があり、②自然淘汰が働き、進化が起こるということから、ネオ・ダーウィニズムは始まった。ここで、②自然淘汰は、前回から指摘しているように、大分緩やかなものに修正された。私はしかし、重要なのは、この、①遺伝子の突然変異のみが、進化の要因であるとする考え方を見直す必要があると思っている。垂水は、そこに言及している。さらに、私の結論は、あとの章で説明するが、遺伝子の変異に始まり、何らかの機構が働くと考えるべきで、その「何らかの機構」の説明をする必要がある。遺伝子の変異が進化において、主導的な役割は担うものの、それだけでなく、遺伝子を含む分子ネットワークが、そこにおいて重要だろう。しかも、その機構は、偶然と物理法則のみに基づくものでなければならず、その限りで、それは、修正ネオ・ダーウィニズムの中に入れることが可能だろう。
 
 さて、本章の本題は、これからである。吉川浩満もまた、『理不尽な進化 -遺伝子と運のあいだ-』の中で、ネオ・ダーウィニズムを擁護するが、それは、垂水のものとはだいぶ異なる。
以下、吉川の本に即して、書いて行く。
 序章と第1章では、ラウプが引用される。生物の歴史は、敗者の歴史である。種の大部分は絶滅する。その絶滅という観点から、進化論を見たいと言うのだ。
 さらに、ラウプの結論は、進化は、運が悪く絶滅するという面と、生存競争で勝ち抜くという面と、ふたつの面が混ざったものであった。吉川は、それを、もう少し、この理不尽な絶滅寄り、つまり、絶滅の方に重点を置くものにしたら良い。今までの進化論は、競争に寄り過ぎていたのではないかという問題提起をする。これは、同感である。競争は避けられないが、しかし、それ以上に、運の比重は大きい。
 それから、第2章では、ダーウィニズムの淘汰の概念が、吟味される。淘汰とは、環境に適したものが、選択されるということで、これは、適者生存の原理である。そしてこの適者生存という言葉は、基本的にトートロジーである。というのも、適応したものが生き延びるということは、しかし、結果として、生き延びたものが、適応したものだったということだ。そしてこの、自然淘汰を分かり易く説明する適者生存という概念は、トートロジーだと言うのは、しばしば、ダーウィニズムを批判する者が使うレトリックなのだが、それを逆手に取って、このトートロジーこそが、進化論という科学の研究を先に進める条件となっていると彼は言う。実際、このトートロジーの上で、生物学者は、夥しい研究を進めて来たのである。それは、そのようなものとして評価すべきである。
 ここで、ダーウィニズム理論全体が、トートロジーであると言っているのではない。しかし、その理論が、トートロジー的なものを含んでいて、それこそが、創造説や生気論とは異なる、実証研究を生産させる場を与えているというのである。
 さて、そののちに、第3章で、ドーキンスとグールドの論争が取り挙げられる。論争は、最初、グールドの方から仕掛けられた。グールドの、ネオ・ダーウィニズムに対する批判は次のようなものである。すなわち、主流派の生物学者は、生物のあらゆる器官や行動を適応的なものと考え、生物の特質は、自然淘汰の結果として、進化的な最適値へ調整されていると信じ込んでいるが、それは間違いである。生物の歴史は、もっと偶発的で、自然淘汰以外の要因が関与して来たものである。
 これについては、前章で、私は具体的に扱っている。吉川の、このまとめは妥当だと思う。グールドは、淘汰そのものを否定しているのではない。すべてを淘汰で説明しようとすることを批判している。
 吉川のまとめる、ドーキンスからの再批判は、次の通りである。グールドは、適応主義を、検証不能なものを、検証なしで済ませ、最善なものだとする仮説を用いるものだと非難するが、しかし、ドーキンスに言わせれば、適応主義は、実地に検証をし、適応を導いた淘汰の来歴を調べ、科学的な答えを与えるものである。適応主義的だということが悪いのではない。ダーウィニズムは、本来、適応主義的アプローチを必要とする学問である。あとは、きちんと実証研究をする適応主義かどうかということだけが問題なのである。
 
 さて、この両者の論争に対して、専門家は、勝者は、適応主義的プログラムを掲げる主流派であり、グールドは完敗だとしている。そしてそれに吉川も賛同している。しかし、それはなぜなのか。
 進化論は、そもそも適応主義をベースにして、その上で、研究を積み重ねて来た学問だからである。どちらが正しいのかという話ではなく、また、どちらが、相手を言い負かしたかではなく、どちらが、生産性が上がっているのかという話で、そうすると、適応主義は、実績がある。最適なものが残るという前提で、様々な研究がなされ、結論が導かれる。その成果が積み重ねられて来ている。その肝心な点で、非主流派の分が悪い。彼らは、適応主義に代わる、あるいはそれを超える、リサーチ・プログラムを提出していない。
 そしてもうひとつの勝敗を決する観点は、その理論の包容力であり、前章で、私が述べたように、グールドの指摘は、ネオ・ダーウィニズムを緩やかなものにすれば、ネオ・ダーウィニズムの枠組みに収まる。実際、グールドは、ネオ・ダーウィニズムの、適応万能論、その楽観主義を批判したが、ドーキンスは、慎重に、実証研究を以って、それに応えている。彼の、『延長された表現型』(1982)の第3章は、その見事な返答である(注1)。ゆえに、論争は、ドーキンスの勝ち、グールドの負けということで揺るがないと吉川は考える。
 確かに、次の3点で、グールドとドーキンスは似ている。第一に、あらゆる生物が、単一または少数の先祖から長い時間を掛けて進化して来たこと。第二に、進化は、物理的な過程で記述できるということ。第三に、進化は、偶然だけによるのでもなく、必然だけによるのでもなく、両者の組み合わせによること。
 しかし、これは、さすがに、当然の前提であると思う。問題は、やはり、先述の通り、適応主義にある。この適応主義は、進化論の根源に関わる。進化論が喚起する魅惑と混乱の源泉である。
 以上が第3章の議論だ。
 
 終章は、興味深い。吉川はグールドにこだわる。グールドは、ドーキンスの土俵で戦いながら、単に、不満を述べているだけで、結局自滅したのではないかとまで、彼は言う。グールドは正しく地雷を踏んだのだとも言う。グールドは科学者でもなかったとまで彼は言うのである。
 ドーキンスたち主流派は、この適応主義を、科学の方法論として、割り切って使っている。そうして夥しい研究成果を上げている。しかしグールドにとって重要なのは、そうしたエンジニア的発想ではなく、歴史なのである。進化論が対象とするのは、この世に存在する、またはかつて存在した生物とその歴史なのである。
 そして、歴史において、重要なのは、偶発性である。生物進化は偶発性に左右される。それこそが、生命の歴史を歴史たらしめている。
 それは、でたらめに生じるのではない。そこに法則はある。しかし、常に、別様にあり得たという状況の中で、生起して行く。つまり、偶発的であり、それこそが歴史の中心原理だ。
 そしてさらに、そこから、吉川は、グールドを敗者とし、敗者の理に着目する。つまり、歴史は偶発的なものであり、そもそも理不尽なものなのである。ここで、本書が最初に取り挙げたラウプの主張が、再度、響いて来る。歴史の偶発性に対する理不尽な感覚こそが、グールドの言いたいことではないか。そして、こういう言い方をしても良いだろう。吉川は、論争の敗者グールドと生物の歴史が敗者の歴史であることとを重ね合わせている。
 私はしかし、吉川とは少し異なった見方をしている。
 グールドは、進化のメカニズムを問わなかった。遺伝子の突然変異と自然淘汰というネオ・ダーウィニズムに、確かに文句を付けた。しかし、2015年現在、遺伝子の突然変異が直接、進化の原動力になっているとは誰も思わない。遺伝子の突然変異があり、しかし、重要なのは、その遺伝子の使い方であり、また遺伝子そのものではなく、DNAの総体としてのゲノムが問題であり、または、遺伝子を含む分子ネットワークが問題だ。そして一方、自然淘汰の方だって、相当に緩やかなものに、つまり、最適者が生存するのではなく、特に有害なものは生存できないという程度に、その原理は拡張されている。だから、今の水準で見ると、グールドの文句は正しく、しかし、それを自然科学の言葉で彼は説明し得なかった。一方、ドーキンスは、明確に、自然科学の言葉で、進化を説明した。そしてドーキンス以降、自然科学としての進化論は、その自然淘汰概念を拡張して行った。そしてついに、グールドの主張の正しさを、ドーキンスのあとを受けた主流の生物学者が、説明し得るようになったのではないか。
 グールドは偶然性を強調する。一方、ドーキンスは、まだ、この段階の理論がそうであるように、それほど偶然性を強調していない。しかし、次章以降で述べるように、分子進化論においても、形態発生論においても、偶然性の果たす役割は大きい。淘汰万能論は、そこで批判されている。
 
 吉川の歴史の理解は正しいと、私も思う。歴史の中心に、偶然性がある。しかし、進化論の中心にも、偶然性がある。
 吉川は、偶発性と理不尽性にこだわる。それは正しい。だから、グールドの主張の方が正しいのである。しかし、吉川は、そうは考えない。進化の偶発性と理不尽性とを強調する、グールドを敗者の理として、その魅力を語るのである。しかし私は、グールドの問題意識を、自然科学の言葉で語りたい。今やそれができる筈である。
 グールドは、古生物学者で、しかし、化石の正確な年数が測定されたのは、遺伝子研究が進み、とりわけ、次章で取り挙げる中立説が提唱され、そこから、遺伝子の突然変異の速度が計算され、それでやっと、化石として残されているものの、正確な時期が分かる。つまり、ネオ・ダーウィニズムの方向で、遺伝子研究を進めた結果、やっと、グールドの主張が検証される。その結果、やっとグールドの正しさが証明されたのではないか。ネオ・ダーウィニズムの研究の方が、生産性はあった。それは吉川の言う通りで、だから、当時としては、ドーキンスたち主流派の言い分の方が、この論争においては、圧勝していた。そしてその研究の方向から、しかしグールドの方が正しいという結論が得られたのではないのか。
 垂水雄二は、進化学の最近の研究の上で、グールドの主張が、ネオ・ダーウィニズムと融和し得ることを示している。それは、ネオ・ダーウィニズムの柔軟さを示している。一方で、吉川は、淘汰の意味を問い質すことで、淘汰の概念の懐の深さを示している。それは、ネオ・ダーウィニズムの理論の包括性を示している。
 さて、淘汰と適応については、このあたりにしておく。この問題については、実に多くの議論がある。哲学者が、進化論を論じる際には、ここのところを論じるものが最も多い。しかし、私は、これ以上の議論には興味がなく、すでに、吉川がまとめたもので、十分だと思っている。このあとは、分子進化の中立説、進化発生生物学、進化システム生物学の、近年の研究成果を追って行く。
 また、本稿のキーワードのひとつ、偶然についても、本当は、哲学史的な考察が必要なのだが、ここでは簡単に次のように言って置きたい。
 第一に、偶然は実在する。この世に存在するものはすべて必然的なもので、ただ単に、私たち人間がその必然性を認識できないだけだという考え方を、私はしない。
 第二に、しかし、確率的な必然性はある。つまり、さいころを投げる時、次に何の目が出るかは偶然で、これは予知できない。しかし、6分の1の確率で、1の目が出ることは確かである。これも、6回さいころを投げたら、1回1の目が出るということでなく、600万回くらいさいころを投げたら、誤差の範囲内で、100万回くらい、1の目が出るということである。
 第三に、偶然的な出来事を通じて、自己組織的に、秩序化が起きることがある。ひとつひとつの分子は、偶然的な運動をするのだが、全体として、方向性を持つということはあり得る。
 本稿では、以上の意味において、偶然という言葉を使う。
 

  1. ここで、ドーキンスは、分子進化の中立説を批判している。この説については、次の章で扱う。

 
参考文献
第1回と第2回で挙げたものは、ここに入れない。
Dawkins, R., The Extended Phenotype -the long reach of the gene-, Oxford University Press, 1982, 『延長された表現型 -自然淘汰の単位としての遺伝子-』日高敏隆他訳、紀伊国屋出版、1987
 
(4)へ続く
 
(たかはしかずゆき 哲学者)
(pubspace-x2468,2015.09.09)