教外別伝―森忠明『ハイティーン詩集』・後記(連載36)

ハイティーン詩集以降

 

森忠明

 
教外別伝
 
子宮癌で死ぬ日
意識不明の祖母は糞にまみれた
看護婦二人がかりでも処理できない
大量の大便
俺は恥ずかしがりの祖母を愛していたから
手を焼いている二人を病室から出し
ありったけの青梅綿を使って
なめたようになるまでふいてやった
八十歳の女陰を見たのは初めてだった
それは威ありて猛からず
最敬礼するしかないものだった
と どこかのラジオからか
ピンク・フロイドの
小鳥の鳴き声入り讃美歌
とでもいうような
〈サイラス・マイナー〉が流れてきた
Laughing and in leaving
それは荘厳な名曲であることを知った
日本国仙台出身の老女の糞臭が
大英帝国ロッカーたちによって
浄薫されることを知った
それは文字通りのクソババアが
死に臨んで残した香り
不日
クソジジイの俺が
俺の死を望むやつらに残すのは
 
祖母ゆずりの人生訓
「弱リ マッチャン マンコノ虱
マサカ 煮湯ハ カケラレマイ」
Laughing and in leaving
 
 
 
*後記
   一九六六年の春。偏差値は最低だが地理的には東京の最高にある都立高校の三年生だった私は、そこの小さい図書館で寺山修司の短歌に出会い、大きな衝撃を受けた。
   こいつは天才だ、と思った歌人が、学研の「高三コース」で詩の選者をしていた。すぐ投稿。入選したが末席だったので買わずに書店を出た。詩は二度と書くまい、と腐りながらも〈森くんには来月を期待したい〉という一行が気になり、もう一回だけ、と投稿したら特選になった。それからは特選つづきで、私はちょっとした花形。地方の女子高生たちからプレゼントが届いたりした。
   調子づいた私は、「はたちまではハイテーン(寺山修司は何故かハイティーンと発音しなかった)だよ」との言葉に甘えて、大学に入ってからも群作を送った。
   六七年、長編詩「そしてぼくはニッポンの若い……」(六八年十二月号「現代詩手帖」に転載のとき「呼びかける」と改題された)の選評で、〈森くん。いままでの作品をまとめて、一冊の詩集にでもしてみたらどうですか?〉といわれてから三十四年。ずっと金がなかったし、日陰の花を日向へ出すこともないだろう、
と、師匠のすすめに応えずにきた。
   七一年の初夏、幼友達の有明昭一良が「ぼくのために、どんな形でもいいから詩集にしてよ」と突然催促。しぶしぶ一万八千円かけて二百部、近所のタイプ印刷所でこしらえた。題は『森忠明詩片』。「やや卑屈なタイトルと、きわめてチープな感じが、実にいいですね」皮肉でもなさうに有明はそう言った。
   次の夏、ピアニスト有明は琵琶湖で水死。遺体が発見される前にボートの上から、そのチープなやつと花一束を投げてきたことがある。
   以後、三十年の間に、残部一九九冊もどこかへ消え、さっぱりしていたところ、寺山修司の大恩人(と私は考えている)北川幸比古氏が、詩集の出版社を始められた、という噂を耳にした。
   北川氏は我が師寺山修司の最初期の本を出し、全然売れなかったために、たいへんな損害を蒙った。なのに断裁も破棄もせず、長く保管されたような方だ。
   そういう人に出版してもらえれば幸せだが、師弟二代にわたって迷惑をかけることになるかもしれない。迷いつつ、おそるおそる打診したら、北川氏は快諾してくださったのである。
   また、かねて仰望する名編集者で、書肆楽々の同人でもある小西正保氏にも深謝します。
   表紙には、昨春、母校立川二中の校庭で、写真界の巨匠細江英公氏に撮ってもらったものを使わせていただき、なんだか満艦飾の、てめえごしらえ(立川方言)に過ぎた詩集になるだろうが、寺山修司研究の、ささやかな資料にはなるはずだ。
〈森忠明ハイティーン詩集1966~1968〉は、七一年にまとめた『森忠明詩片』の誤植をなおしただけで改稿は無い*。
〈小詩集『おれは森忠明だ』〉が六七年の「高三コース」に載った時、選者がつけたマッチョなタイトルを、有明が冷笑?していたのを思い出す。
〈ハイティーン詩集以後〉の排列は気分まかせで、拙作を採獲してくれた「詩学」の篠原憲二氏と「ベルヴァーグ」の佐々木英明氏に御礼申し上げる。
 
   二〇〇一年一二月一四日・東京立川    

森 忠明

 
(もりただあき)
 
(*今回「公共空間X」に森忠明『ハイティーン詩集』を掲載するにあたり、2002年刊行の『ハイティーン詩集』には載っていなかった「花見」を追加しています。「花見」を追加した事情につきましては、花見/初夏―森忠明『ハイティーン詩集』(連載19)を御覧下さい――編集部。)
 
(pubspace-x9289,2022.11.30)