主体の論理(3) 性的主体の論理

高橋一行

                                
   本稿は、J. バトラーの『ジェンダー・トラブル』を読解し、性的主体の確立について論じる。
   バトラーはレズビアンであることを公言しており、この書は、まずは同性愛を正当化したいという意図で書き始められたと思われ、その限りで当事者研究であると私は考える。しかしこの書は今やフェミニズム理論において最も評価されている本になっていて、当然のことながら、単に当事者研究であるということだけを売り物にしているということではなく、自らの属性に正当性を与えたいという思いから、さらにそれを原動力として対象に深く入り込んで性的主体の理論構築をしており、本シリーズの前回分で書いたように、実はまさにそれこそ当事者研究であると言うべきものなのである。そのことを本稿で扱う。ただし、バトラーはヘーゲルとフーコーを咀嚼して主体論を確立しているのだが、本稿ではバトラーのフロイト受容とラカン批判のみを扱う(注1)。それによって、バトラー理論の意義が明確になると思うからである。
   さて『ジェンダー・トラブル』の第2章「禁止、精神分析、異性愛のマトリックスの生産」では、まず第1節でレヴィ・ストロースが批判され、次いで第2節でラカンが批判される。バトラーはそこでレヴィ・ストロースとラカン両者の近親相姦禁止理論を批判する。それは異性愛を自然と見なし、男性中心主義をその内に含んでいるとされている。そこが激しく批判される。
   例えば長野慎一は、バトラーを論じた論文の結論部において、以下に本稿が論じるように、バトラーは精神分析の手法をうまく活用して主体の成立を論じていると、この論文の意義をまとめ、さらにそこでは同性愛や女性の主体の確立よりも、それらの脱構築に力点を置いているということを指摘している。そして異性愛者や男性中心主義者が揺るぎないものと考えている自己の境界の脆弱さを甘受すべきだとしている(長野 p.71)。
   また藤高和輝は、バトラー自身がこの書はフェミニズムの書であると言っていることを確認した上で、しかしバトラーの目的がフェミニズム内部にある異性愛中心主義批判であるとしている。そしてそれがまた男性的主体を普遍だと考えてしまうことを、フェミニズム内部から批判したかったのだとしている(藤高 p.129ff.)。
   つまりバトラーはフェミニズム運動でさえ、この近親相姦の禁止を自明のものとし、その上で異性愛を前提に、男性中心主義を受け入れてしまっているのではないかと批判しているのである。
   具体的にそのことを見て行こう。レヴィ・ストロースの『親族の基本構造』によれば、あらゆる親族組織に交換という構造が存在する。ある父系的な氏族から別の氏族へと女性が花嫁として交換される。それは父の名によって男たちを結束させる。父系性は女性を儀礼的に追放し、受け入れることで安定化する。
   そこでは近親姦タブーがあり、それこそが族外婚の異性愛を生産して行く。それは本来は人工物なのに、異性愛を自然のものと見なし、かつ男性に特権を与え、それによって男同士の絆を深め、そうして出来上がった構造を社会に普遍的なものだと見做すのである。それはバトラーによって、男根ロゴス中心主義と呼ばれる(Butler p.86f.)。
   興味深いことに、この近親姦の禁止と続外婚の規則は、構造主義文化人類学と精神分析学を繋いで行く。つまりレヴィ・ストロースの文化における言語構造を、ラカンは幼児が文化に参入する際の局面に読み替えて行く。このことを確認して、バトラーは第2節でラカンの分析を始める。そこではあの評判の悪いファルス論が、つまりペニスを象徴化するファルスを男性が持ち、そのことで優位に立ち、一方女はファルスを持つことができず、自らをファルスであるとすることよって、男の欲望の貫徹する場を作るという理論が批判される。
   バトラーはここでラカンの前期の論文「ファルスの意味作用」(1958)を検討している。それは正確な理解を示していると私は思う。そしてその男根主義の機構が同時に、異性愛こそが、また異性愛のみがセクシュアリティであるという主張に繋がっていると言う。
   このことは本稿ののちに再度取り挙げられる。結論を先に書いておくと、このラカンのファルス理論は、フロイトが作り上げたエディプス・コンプレックス論、つまり男の子が母親と性的に結ばれることを欲望し、父親を殺したいと思うという理論と、去勢理論、すなわち男の子はペニスを切られてしまうことに恐怖を覚えるという理論をもとにし、発展させたものである。しかしフロイトが生涯、ペニス羨望の観点を持ち続けたのに対し、ラカンは前期にファルス理論を立ち上げた後は、次々と新しい理論を打ち立てて、前の理論を捨てて行く。その動きの素早さこそが、つまり刻々と変化して行く理論を追うことこそがラカンの魅力なのだが、バトラーは中期以降のラカンには関心を持たず、一方でフロイトの理論の曖昧さの中にこそ救い出せるものが多いと考え、ラカンは徹底的に批判するけれども、フロイトは評価するのである。
   以下、フロイト理論を簡潔に説明し、ラカンの説に繋げたい(注2)。先のエディプス構造の中で、子どもは父親からペニスを取られてしまうという去勢の脅かしを受ける。この脅かしによって、男の子はエディプス・コンプレックスを克服するとされている。一方女の子は、自分のペニス不在に気付き、それは去勢されて失ったのだと考える。それでペニスを失った代償として父親からの贈り物として赤ん坊を授かりたいと思う。これが女の子の場合のエディプス・コンプレックスとなる。そしてそれはゆっくりと解消して、女性としての性的主体を確立する(フロイト「エディプス・コンプレックスの崩壊」1924、「女性の性愛について」1931)。
   ここからラカンはこれを次のように、より論理的かつ抽象的に発展させる。まず母親とは最初に出会う他者のことで、それは言語的な存在である。つまり母は象徴界の存在である。子どもはそれを想像的に解釈する。しかしここで母という他者にとって、さらに他者である父が現れ、母に法を与える。この象徴的な父を「父の名」と言う。
   このことがファルスから説明される。ファルスとは母親の欲望の対象である。母の欲望を満足させるはずの想像的対象である。母にはファルスがないので、男の子だと、まずは自らがその欠如を埋めようとする。かくして母はファルスを得て満足する。ここに父が現れる。そして母の欲望の対象は自分ではなく、父であることを子どもは知る。子どもはファルスとしての価値を失う。これが去勢脅迫である。ここから子どもは母の欲望の対象になることを諦めて、父と同一化する。父と同じようにファルスを持ちたいと考える。
   女の子の場合は、まず自分にファルスがないことに気付き、自分もそれを持ちたいと思い、しかしそれが叶わないと分かると、今度は赤ん坊を持ちたいと思う。ここまではフロイトと同じである。さらにラカンの場合は、その子どもはファルスの代理だと考えるのである。
   ここで仮装という概念が出て来る。というのも結局女の子はファルスを持つことができず、ファルスを持つ男性から欲望されることを欲望することになり、女らしさという仮装を身につけて、自らファルスに同一化しようとする。雑駁にまとめると、ファルス理論とはこのようなものである。
   ここにバトラーが噛み付く。猛烈な批判を始める。以下、バトラーはラカンの何が気に入らないのか、具体的に見て行きたい。
   まずはこの女らしさという仮装の概念が攻撃される。仮装とは、「男根主義の機構では常に表象不能とされている先在的で存在論的な女性性を前提とした女の欲望を覆い隠して否定するもの」(Butler1990 p.97)である。そして「女から欲望を取り上げてその女の欲望を<ファルス>のあまねく必然性の反映や保証になりたいという欲望に変えてしまう操作である」(同 p.95)とも言われる。
   さらに女の同性愛に対するラカンの無理解が批判される。女の同性愛の基盤は、ラカンによれば絶望である(ラカン p.160)。しかし絶望とはどういう事態を指すのか。それは欲望を捨てないと追求できないものなのか。そしてそこから、女性の同性愛は「欲望の不在という形となって、出現する拒絶の体内化」という脱性化されたものだろうという、ラカンによる結論が導かれる。「だがこの結論は、レズビアンのセクシュアリティをセクシュアリティ自身の拒絶と見なす異性愛の男の観察視点から必然的に生まれて来たもの」であり、さらにラカンはセクシュアリティを異性愛的なものと考えているために、観察者ラカンの方が同性愛の女性たちに拒絶されているのではないか。ラカンの方が彼女たちに拒絶されて、そのために絶望しているのではないかということになる(Butler1990 p.100f.)。
   このようにバトラーはラカンを鋭く批判する。しかし一方でフロイトは救い出そうとし、そこからバトラー自らの理論を提出する。そのことを具体的に見て行きたい。
   『ジェンダー・トラブル』の第2章第3節で、フロイト理論が取り挙げられる。そしてそれを参照しつつ、バトラーは「近親姦の禁止よりも同性愛の禁止が先行する」という、自らの理論を提出する。これをバトラーのテーゼと呼んでおこう。
   バトラーはまずフロイトのメランコリー論を使う。ここではふたつのフロイトの論文が参照される。まず「喪とメランコリー」(1917)でフロイトは、愛する人を失った時などに、実際に喪失に対してなされる対応を喪と言い、それに対して、何を失ったのか分からず、喪失を受容できずに、対象と同一化を図ることをメランコリーと言った。ここで失われた対象は、自我の中に内面化されている。それがメランコリーである。
   さらに「自我とエス」(1923)では、このメランコリー構造こそが一般に自我形成に見られるものだとしている。つまりメランコリーは単に病理であるというだけでなく、これこそが誰にとっても大人になるために必要な手続きなのである。フロイトの論理は以下のようになっている。
   男の子の場合を先に考えよう(同 p.232f.)。子どもまずは母親に対する対象備給が発展し、次いで父親にも同一化しようという傾向があるのだが、次第に母への性的な欲望が強まり、父がこの欲望の障害であることに気付くと、ここにエディプス・コンプレックスが生まれる。
   しかしこのエディプス・コンプレックスは崩壊せざるを得ない。近親姦は禁止されているからである。これが自我にとって愛の対象を喪失させ、その欲望対象を内面化させる。フロイトによって、メランコリーは、「失われた対象を自我の中に再現し、これによって対象備給を同一化によって置換する行為である」と簡潔に説明されている(同 p.227)。ここで男の子は、母への欲望を断念し、そのことによって失われた親を内部に取り込んで、自我形成を図る。
   しかしここのところでフロイトの説明は曖昧である。男の子は、かくして母親と同一化する。同時に元々あった父親との同一化も強化する。しかし近親姦の禁止が同一化を強化するというのなら、ここで失われるのは母親との繋がりであって、それがメランコリーとなって、母親との同一化が強くなるはずであるが、フロイトはなぜか、男の子の場合は、父親との同一化が強くなり、男の子は男らしくなると言う。
   バトラーはここで同性愛こそが禁止されているというテーゼを打ち出す。男の子の場合、「罰せられ、昇華されるのは、母に対する異性愛の欲情ではない」と書く。「文化の認可を受けている異性愛に道を譲るのは、同性愛のリビドー備給なのである」(Butler1990 p.117)。父親との同性愛が禁止されると、同性愛という欲望と父親という対象と同時に禁止されて、メランコリーの内面化がなされる。その結果、男の子は異性愛の欲望を強め、しかし近親姦の禁止によって母親との結合も禁止されているから、母親とは別の異性に関心を向けるようになる。そしてまた当然のことながら、母に同一化することによって、その喪失を内面化する場合もあり、異性愛の対象選択が排除される場合もある。母を内面化することによって、男性性を解体させ、女性的な超自我を打ち立てることもある(同 p.117f.)。
   このバトラーテーゼ、つまり近親姦の禁止に先行する同性愛の禁止という前提があって、その上でメランコリー理論を接続すれば、フロイトの言いたいことはうまく説明ができるということなのである。
   フロイトは同性愛の禁止が最初にあるというようなことはまったく言っていないのだが、しかしこのあたりの記述が曖昧で、そこにバトラーは自説を持ち込み、フロイト理論に明確な整理を与えている。
   一方、女の子も同じように説明がなされる。フロイトは、女の子については、男の子の説明の後に、「まったく同じように」として、「少女のエディプス状況は母との同一化の強化に進み」、「少女の女性的な性格を強める」と書く(同 p.233)。しかしここでも父親との異性愛が禁じられたのなら、父親との同一化がメランコリーとして内面化されるはずである。バトラーはすかさずここでも、同性愛の禁止と近親姦の禁止とが両方働くために、同性の同一化と異性への同一化とのどちらかになると言う(同 p.118)。母との結合を禁止されて、母を同一化して父親に向かい、その父親とは近親姦が禁止されているために、父親とは別の異性に対象が移ることになる。しかしここでも女の子の中に、男性性が強い場合と、女性性が強い場合とのふたつの気質が出て来ることになる(同)。
   ここでジェンダーアイデンティティは、同性愛の禁止を利用することで、男女それぞれに、男性気質と女性気質を作り出し、性的欲望を生産することになる。これがバトラーの理論である。
   このことによって、バトラーは異性愛/同性愛を、自然/非自然とみなす考え方を批判する。近親相姦、つまり男の子が母親に、女の子が父親に性的な欲望を抱くのだというのであれば、論理必然的にもうひとつの可能性、つまり女児-母親、男児-父親という結び付きの可能性とその禁忌は考え得るはずだ。子が親と最初の他人として接する時の感情があり、また異性愛が自然であるという仮定をすれば、近親相姦の感情は自然に起こり、それをどう禁止することから社会が始まると考えるのは、これも必然的な流れであるが、異性愛が自然だと考える必要はないとすれば、もうひとつの組み合わせの同性愛の感情も、親子間で自然に生じ、それを禁止するということは理論的な可能性として出て来るのである。
   この「自我とエス」の段階では、フロイトの理論は男女対照的である。そしてそれは今述べたように、フロイトの近親姦禁止の理論とバトラーの同性愛禁止の理論は、考えられる組み合わせの問題であり、両方とも納得の行くものである。しかしこのあとフロイトは、男女が対照的ではなく、つまりこのあとで、男女の差異を論じるのにペニスの有無という話があり、ペニスを切られてしまうのではないかという不安の中に男の子がいて、一方女の子はすでにペニスを切られてしまった悲しみの中にいるという去勢理論があって、男女のそもそもの非対称性を、エディプス理論だけで整合的に説明しようとする。「エディプス・コンプレックスの崩壊」(1924)や「解剖学的な性差の心的な帰結について」(1925)がその説明をする。フロイト理論はこのように先に進む。
   つまりこの「自我とエス」の段階では、男女は対照的であり、そしてここでの理論では、つまり近親姦の禁止だけでは、男の子の説明も、女の子のそれもどちらも不十分である。この不十分性を、このあとフロイトはペニス理論を彫琢することでより整合的な理論を構築する。一方バトラーは同性愛の禁止理論を提出して解決するのである。
   では、この同性愛の禁止という前提はどこから得られるのか。バトラーは言う。「フロイトは明白に断言していないが、同性愛タブーが、異性愛の近親姦タブーに先立つものであるはずだと言っているように思われる。つまり同性愛タブーが異性愛気質を作り出し、この異性愛気質によってエディプス抗争が可能になると言っているのである」(Butler1990 P.124)。
   しかし「明白に断言して」いなくとも、どこかから示唆を受けたはずである。それはどこなのか。そこが分からない。S. サリーもバトラーの業績を解説する本の中で、「しかし奇妙なことに、バトラーはこの発想がどこから来たのか明言していない」(サリー P.100)と言う。しかし明言されていなくても、どこかに暗示されているはずだ。
   ひとつ考えられるのは、このフロイトのメランコリー理論、つまり禁止されたものを内面に同一化するという理論だけではフロイトがうまく説明し得ないところを、上述したように、バトラーテーゼを導入すれば、より明解に説明できるということにバトラーが気付いたのである。曖昧なフロイト理論を整理する鍵は、フロイト自身の中に見出せるとバトラーは考えたのである。
   もうひとつの根拠は、以下に説明する両性性に拠るものである。十川幸司は、「自我とエス」における両性性について次のように書いている。
   まず先に説明したように、フロイトは、去勢の威嚇に出会ったときに、男の子は母親との同一化か、父親との同一化のどちらかを選ばなければならなくなり、多くは後者を選ぶとしている。しかしなぜ後者なのか。また女の子の場合は母への同一化を選ぶとされるが、これもなぜか。ここでバトラーの言う、同性愛の禁止があるからというのは、理由として最も納得の行くものである。つまり禁止があり、そのために同一化が生じ、メランコリーとして、その同性を自己の中に維持するのである。フロイトも実は同様のことを考えていて、男女はそれぞれ元々両性性を持っていて、そのどちらかが強いかで、同一化の対象が決まると考えていたのだと、十川は言う(十川 p.70f.)。
   この両性性はどこから出て来たのか。十川は、フロイトが多くの臨床経験から、男の子と女の子の両方が、それぞれ両方の性を持っているということに気付いていたのではないかと言う。そしてそのどちらが強いかということから、同性愛か異性愛かのどちらかが生じ、そしてそのどちらもが禁止されるのである。もちろん後者は近親姦だからという理由で禁止される。そうすると、フロイトは自覚はしていないが、すでに同性愛の禁止と、そのあとから起きる近親姦の禁止と、その両方を考えていたことになる。バトラーはそこから、自説をフロイトに由来するものと強弁するのである。
 
   さらにバトラーの、この同性愛の禁止理論は、バトラーの他の著作でも展開されている。これらを見てみよう。『ジェンダー・トラブル』は1990年に出たが、その3年後には、Bodies That Matter が出る。『問題=物質となる身体』と訳しておく(注3)。そこでバトラーは、フロイトの「ナルシシズム入門」(1914)を引用する(注4)。
   これは同性愛について書いた論文ではない。実はフロイトには同性愛について書いた論文がいくつかあるが、どれも同性愛については否定的である(注5)。
   この論文は題名の通り、ナルシシズムについて書いたものである。そこで補足的に触れたという感じで、同性愛について3箇所で言及する。まず同性愛などリビドー発達に障害がある人物では、自分自身をリビドーの対象として選択するので、ナルシシズムの選択型と呼ぶことができるとする(同 p.253f.)。このように同性愛を位置付ける。これが最初の記述である。
   二番目は以下の通りである。この論文はナルシシズムと良心の関係を論じており、審級としての良心が番人の役割を果たす自我理想という概念が導入される。「本質的に同性愛的なリビドーの多くは、ナルシシズム的な自我理想のために利用されたのであり、これを維持することに使われ、そこで満足を見出している」とした上で、この良心というのは、まずは両親の、次いで社会の批判を身体化したものであるとする。そしてその身体化の過程の中で、外部からの禁止があると、病気という形で外に出て行く。そして良心に抵抗する。そこでしかしその本人は、両親や社会から与えられた影響から離れようとして、同性愛的なリビドーを撤収する(同 p.265)。
   あくまで同性愛を禁じるのは、両親または社会からの圧力が身体化された良心であるというのがフロイトの理論だが、しかしそこに同性愛を禁忌として自ら受け止めるということが記述されている。
   そして最後はこの論文の最終段落にある。「自我理想はナルシシズム的なリビドーだけでなく、その人の同性愛的なリビドーは、同じ道から自我に還帰したのである。この理想が実現されないという不満によって、同性愛的なリビドーが解放され、これが罪責意識(社会的な不安)に変化する。」
   40ページ余りの長い論文から、この短い3箇所の記述を拾い出して繋げると、あたかもフロイトが、同性愛の禁忌がナルシシズム理論の根本にあるということを論じているかのようになる。
   バトラーは、まさしくこの引用文を指して、次のように言う。「同性愛の禁止を含み、一般に禁止は、罪の痛みを通じて機能する。フロイトはこの論文(「ナルシシズム入門」)の最終部で、同性愛の備給の投入として、良心の生成と自己規制的な可能性を論じるときに、この繋がりを提供する。言い換えれば、フロイトが自我の「自尊心」と呼ぶものを司る自我理想が、同性愛の禁止を要求する。この同性愛の禁止は、自己に向けられた同性愛の欲望である。良心の非難は、同性愛の欲望を反省的に別ルートで送ることである」(Butler 1993 p.35)。
   いささか「ナルシシズム論」のフロイト理論を拡大解釈しているのではないかという疑問は当然出て来る。以下、詳細に見て行きたい。
   まず岡崎佑香は、バトラーの身体の問題を論じ、そこでバトラーがフロイトのこの「ナルシシズム論」をどう読んでいるのか、克明に分析する。そこで先に私が拾い出した箇所に着目する。フロイトがナルシシズムの代わりに自我理想を作り出して、それを通じてナルシシズムの満足を得ようとしているところに、まさにバトラーが同性愛の禁止理論を持って来る。それは同性愛の禁止がなければ自我理想とそれを監督する良心が形成されないからである。そしてその点に着目したバトラーの「慧眼」を称えている(岡崎 p.161ff.)。しかし私は、バトラーはフロイトを深読みしていると思う。戦略的にそうしているのだと言って良い。
   比嘉徹徳はまったく逆に、フロイトのナルシシズム論では、そこからバトラーの同性愛理論が出て来ないとしている。フロイトはそのナルシシズム理論において、主体が他者に全面的に依存していること、そしてそこから導出される超自我は、自我に回収されえないものだが、バトラー理論ではそうならず、そこでは異性愛が規範となっているという前提で、その異性愛こそが超自我であって、自我はそこで同性愛を禁止されて、自己の性をメランコリーとして内在化するのだが、しかしそこでは自我は揺さぶられていないのである。ナルシシズムの核に根源的な他者が刻まれているとするフロイト理論をバトラーは掴んでいない(比嘉 p.276ff.)。
   バトラーは、フロイトに対しては、異性愛が規範になっている社会で、異性愛者は同性愛的他者に取り憑かれていると読み込む。異性愛者は本当は同性愛志向があったのに、それが禁止されてメランコリーになっているとバトラーは考えているのである。そのバトラーのフロイト理解を比嘉は批判する。私はこの批判は本質的なものだと思う。超自我と自我、良心の生成という問題を、異性愛と同性愛の理論そのものだと読み込むことはできない。要するにバトラーはフロイトを自説に引き寄せ過ぎている。
 
   バトラーが1997年に出した『権力の心的生』でも、このナルシシズム理論は反復される。先と同じことがここでも言われている。「ナルシシズム入門」の文言が取り挙げられ、ここで「ある種の同性愛がこの否認を通じて達成され、また抑制される」とバトラーは書く(Butler 1997 p.99)。
   さらにここでは、フロイトの「文化の不満」も援用される(注6)。しかしここでもフロイトの曖昧さに付け込んで、無理やり自説を持ち込み、それをフロイトに由来すると言い張っているという印象を受ける。
   というのも、フロイトはここで良心について語っている。バトラーはそれを引用し、禁止と欲望の関係を説明する。フロイトはしかしここで同性愛のことを語っている訳ではない。ところが、そこからバトラーは強引に同性愛の禁止テーゼを打ち出す(同 p.99f.)。
   フロイトは、「自我の内部に権威が構築され、この権威に対する不安のために欲動が断念され、良心の不安が生まれる」と書いた後で、「欲動の満足を断念するごとに、良心が強められる源泉となり、新たに欲動の充足を断念するごとに、良心はますます厳格で、不寛容になって行くのである。・・・良心は欲動の満足の断念によって生まれたものである」と続ける(同 p.256f.)。バトラーはこの箇所を引用して、「禁止は禁止された欲望を再生産し、それがもたらす断念を通じて力を増大させる。・・・禁止は・・・その欲望によって維持される。欲望は決して断念されない。それは断念の構造そのものの中で保持され、再肯定されるのである」とする(注7)。そしてこの禁止とは同性愛の禁止だとするのである。「良心が制定あるいは分節するとされる同性愛の禁止が、良心そのものを心的現象として基礎付け、構成する」(同 p.99f.)。
 
   かくして「同性愛の禁忌が近親姦の禁忌に先行する」というバトラーテーゼは、フロイトの言説の中に見出されると、何度でも繰り返すが、これはバトラーによって強引に結び付けられ、そしてそれはフロイトの諸理論、つまりメランコリー論、ナルシシズム論、良心の理論と接続された。これがバトラーの理論である。
   ここでしかしあらためてバトラーがどのようにして、このバトラーテーゼを得たのかということが問われて良い。つまりフロイトの言説の中にこれを読み込むのは、後付けで正当化を図っているに過ぎないのではないかという思いを禁じ得ないからである。実はこのテーゼは、バトラーが随所で引用するG. ルービンが言っている。まるで種明かしをするかのように、バトラーは『ジェンダー・トラブル』の第2章第5節に進んで、そこでルービンを引用する。
   ルービンの論文は1975年に発表されている。それは「レヴィ・ストロース、ラカン、フロイトをフェミニスト的に読んだものの中で、最も影響力のある」ものとして紹介される(同 p.137f.)。ルービンはこの3人を批判しつつ、同性愛についての理論的基盤を提出する。彼女は次のように言っている。「近親姦タブーが前提するのは、それに先立ち、それよりも分節化されていない同性愛タブーである。いくつかの異性愛の結合の禁止は、非異性愛の結合に対するタブーという形をとる。ジェンダーはひとつのセックスに自己同一化しているというだけでなく、性的欲望が別のセックスに向けられることも、当然ながら意味している。性の分業は、ジェンダーの両面に関与し、つまり男と女を作り出し、異性愛を作り出す」(Rubin p.180, Butler 1990 p.139)。
   禁止は欲望を作り出す。近親姦タブーと同性愛タブーは、「認可される異性愛と、境界侵犯的な同性愛の両方を生み出す」(Butler 同p.140)。つまり「同性愛禁忌が近親姦禁忌に先行する」というバトラーテーゼは、実はすでにここで言われている。
   ではこの1975年に出た論文のあとに、1990年に出たバトラーの本は何を狙って書かれたのか。
   ルービンの論述は、禁止が機能する前のユートピア的な理想の世界を前提にしているのではないかとバトラーはルービンを批判する。あたかも私たちを抑圧し、かつ欲望を生産する法が存在する前の、「オルタナティブな性の世界」をルービンは思い描いている。しかし「現在のジェンダー関係や、ジェンダーアイデンティティの懲罰的な生産が抑圧的だということを言うために、法の前に存在していた幸福な期間に頼る必要があるだろうか」とバトラーは問うのである(同 p.142)。
   ここで、現実を批判するのに、この世界が成立する前に、理想世界があったという考え方は如何なものかということになる。バトラーはルービンに、M. フーコーの思想を受け入れた後になぜそういうことを言うのかと問う(注8)。ここでは歴史以前にユートピアがあるという見方が批判される。始原にユートピアを設定してはいけない。歴史以前の世界は、法によって、事後的に作られるものである。
   必要なことは、近親姦タブーによって異性の親への欲望が生産され、かつ否定されるそのメカニズムに同性愛という概念を導入し、それをタブー視することによって、欲望の生産と否定をまたその対象との同一化を論じることではないか。つまり精神分析の理論を活用し、その中に同性愛のタブーを読み込んでいくことではないか。このようにバトラーは考える。
   かくしてバトラー理論が出来上がり、そしてそれは見事に成功していると言うことができる。
   本稿での私にとっての問題は、バトラーテーゼそのものではなく、なぜバトラーは自らのテーゼをフロイトから得たと言い張るのかということであり、もうひとつは、バトラーの功績はこのテーゼをフロイトの諸理論に結び付けたことで、それがどのように結び付いているのかということなのである。このことは以上で、一応の解決を見たように思う。そしてまさにここにバトラーの功績がある。
   バトラーとの対談でルービンは次のように言っている。「私はラカンの陥穽にははまりたくありませんでした」とルービンは話し出す。そして「ラカンの研究は逃れるのが非常に困難な、一種の深い落とし穴を作り上げてしまうような危険性を伴っていると私は思いました」と続け、「ラカンの中の全体化への傾斜や象徴界という彼の概念の非社会的な要素については問題視していました」と語っている(Rubin & Butler p.68 = p.295)。
   一方でフロイトについてのルービンの対応は曖昧である。つまり評価と批判と両方が混ざっている。そしてフーコーは賛美される。その発想をバトラーはそのまま受け継いでいる(注9)。
 
   さて、バトラーに対する最後の疑問は以下のことである。フロイトはこの後、ペニス理論を先に進めて行く。フロイトは生涯ペニスの自然性を疑わなかったし、ペニス羨望と去勢理論を捨てることはなかった。これは本来ならば、バトラーによって、強く批判されるべきものだ。しかしバトラーが批判するのはフロイトではなく、ラカンである。
   刻々とその理論を変化させるラカンに対しては、その変遷を見ないで、前期の理論のみに固定して、それを取り挙げて批判する。一方、多義的で曖昧な点を多く含むフロイトに対しては、好意的にそれを受容する。
   私は本稿において、バトラーのフロイト理解に絞って書いて来た。繰り返すがそれは評価に値する。しかしなぜラカンを評価しないのか。
   子どもが最初に接し、かつ大きな影響を与える母親が女であり、その女性性を前提にして、男の子と女の子とどう関わるかということを考えて行けば、その非対称性は明らかである。エディプス・コンプレックスですべてを説明しようとすれば、どうしても無理が生じる。その無理を、フロイトはペニス羨望と去勢理論で辻褄を合わせようとしている。ラカンもそこでフロイトと同じ道を歩んでいるように思える。ファルスはどうしたって、つまり抽象的なものだと言ったところで、どうしても男性的なものであって、その理論でもって女性を語っても、極めて不十分なのである。
   しかしラカンはその後、次々といろいろな説を編み出していく。まずラカンは想像的な自我に対して、無意識の象徴的な構造を説明した。しかし60年代のラカンはさらに進み、想像界に関わるイメージでも、象徴界に属する言語でも扱えない現実界を強調する。それはなぜかと言うと、無意識は言語としての構造を持っているが、しかし享楽などの非言語的な領域とも関わっていて、そこを重視し始めたからである。
   バトラーの性的主体理論を論じる本稿で、バトラーがラカンの前期の学説のみを取り挙げて、それを酷評し、しかし後期ラカンについては全く検討していないという批判は、当然しなければならないものであるけれども、それは稿を改めてすべきことであろうと思う。ラカンは後期になると、明らかにエディプス理論を捨ててしまっている。想像的自我と象徴的父または母という話は後景に退く。そこで重視されていなかった現実界の重さに気付き、そこに焦点を当てて、理論を展開する。
   一方でバトラーの現実界理解は曖昧である。多分バトラーは後期ラカンを読んでいない。
   では後期ラカンから何が言えるのか。バトラーの目的が異性愛の主体の脆弱性を指摘することなのだとすると、それなら後期ラカンからも導出できる。異性愛が自然で、同性愛が異常だとする考え方に対してバトラーは批判をしたいのだろうが、しかし異性愛もまた病気であるとしたらどうか。男性中心主義もまた幻想である。もちろんそれは幻想だから、容易に除去し得ると考えてはいけない。幻想だからこそ、私たちを支配しているのである。私たちを頑固に縛り付け、私たちのアイデンティティとなっているものの基盤が、実は脆弱であると指摘し、それを揺るがそうとするのは必要な試みだが、しかしバトラー以外の理論からもまたそういう結論は得られるのである(注10)。
   誰でもエディプス・コンプレックスを持っているということが、このエディプス理論の眼目であり、しかしそれを禁止することによって共同体が成立する。同様に誰もが同性愛志向があり、しかしそれが禁止されて異性愛が出て来るのだが、その異性愛はそこでメランコリーを内包している。つまり異性愛者は病理である。そういうバトラーの結論と同じものが、ラカンからも得られる。つまり人は誰でも現実界と遭遇することで、そこで享楽が生まれ、そこから他者が導出され、そこから欲望を成立させて生きて行く。その限りで、異性愛者も同性愛者も病気である。
   私がしばしば取り挙げるS. ジジェクもまた、後期ラカンを重視する。そのジジェクによるバトラー批判は、『厄介なる主体』の第5章でなされる。それは結構本格的なものだが、その要旨は、結局バトラーがラカンの現実界を理解していないということに尽きる。
   このジジェクの論もまた、その本の題名が示す通りの主体論である。現実界に呼応してどう主体が確立するかということは重要な問題である。しかしそれは次の課題となる。
 

1 このあとに参照する藤高和輝は、バトラーがスピノザのコナトゥス概念に惹かれ、そこからさらにヘーゲル受容に至った経緯をていねいに描いている。本稿ではそのことにも言及しない。
2 向井雅明、松本卓也、片岡一竹を参照してまとめる。
3  matterには問題となるという意味と物質という意味がある。なお、この本は翻訳はされていない。
4 「ナルシシズム入門」は「ナルシシズムの導入に向けて」と訳される場合もある。
5 フロイトの同性愛論のひとつは、「嫉妬、パラノイア、同性愛に見られる若干の神経症的機制について」(1922)にある。フロイトらしさが出ている。母親への固着、ナルシシズム的対象選択がその理由に挙げられ、その背後にはペニスがないことを発見したことに由来する女性嫌悪や父親への配慮や不安を挙げている。ほかにも、「女性同性愛の一事例の心的成因について」(1920)という論文がある。そこでは女の子が持つ、父親の赤ん坊を生みたいという願望が思春期まで続き、そのために母親の存在が父親の裏切りと感じられて、男性全体に嫌悪感を抱くようになったと論じられ、無理やりエディプス・コンプレックスで説明しようという試みがなされている。
6 「文化の不満」は「文化の居心地悪さ」と訳される場合もある。
7 ここでバトラーは欲動(instinct)と欲望(desire)を区別していない。
8 ルービンに対する批判も、フーコー的視点が徹底されていないということなのだが、そのことにはこの論稿では言及しない。
9 ルービンは1949年生まれで、1994年のこの対談時、彼女は45歳である。一方バトラーは1956年生まれで、この時38歳である。対談は「クィア・セオリーはフェミニズムと出会う」というテーマでバトラーによって編集された。
10 フェミニズム理論・クィア理論においてバトラーと並んで取り挙げられることの多いE. K. セジウィックをここで説明する。彼女もまた、性的主体の確立を論じているからである。セジウィックは1950年生まれで、クィアな女性を自認する。参考文献で挙げたように、2冊の本が翻訳されている。そこではレヴィ・ストロースの「女性の交換」理論が批判され、男性同士のホモソーシャルな欲望が同性愛であると見做されることへの恐怖から同性愛に対する抑圧的言説が生まれたということを、イギリス文学の代表的な作品を読み解くことによって論じている。
 
参考文献
今回、翻訳のあるものは、翻訳のページ数のみを記した。ルービンの論文及び対談については、訳が20年前の雑誌に載っているだけであり、かつ原文の方が入手が容易であるということもあって、こちらは原文と訳の両方のページ数を挙げた。またバトラーとルービンについては、英語表記の論文を参考文献に挙げているために、人名も英語表記とした。
 
Butler, J., 『ジェンダー・トラブル』(1990)竹村和子訳、青土社、1999
――   Bodies That Matter – On the discursive limit of “sex”-, Routledge, 1993
―― 『権力の心的な生 主体化=服従化に関する諸理論』(1997) 佐藤嘉幸他訳、月曜社、2012
フロイト, S., 「ナルシシズム入門」(1914)『エロス論集』中山元訳、筑摩書房、1997
――  「喪とメランコリー」(1917) 『人はなぜ戦争をするのか』中山元訳、光文社、2008
――  「女性同性愛の一事例の心的成因について」(1920) 藤野寛訳『フロイト全集17』須藤訓任他訳、岩波書店、2006
――  「嫉妬、パラノイア、同性愛に見られる若干の神経症的機制について」(1922) 須藤訓任訳『フロイト全集17』須藤訓任他訳、岩波書店、2006
――  「自我とエス」(1923) 『自我論集』中山元訳、筑摩書房、1996
――  「エディプス・コンプレックスの崩壊」(1924) 『エロス論集』中山元訳、筑摩書房、1997
――  「解剖学的性差の心的な帰結」(1925) 『エロス論集』中山元訳、筑摩書房、1997
――  「文化への不満」(1930) 『幻想の未来/文化への不満』中山元訳、光文社、2007
――  「女性の性愛について」(1931) 『エロス論集』中山元訳、筑摩書房、1997
藤高和輝『ジュディス・バトラー 生と哲学を賭けた闘い』以文社、2018
比嘉徹徳「ナルシシズムと<他者>」『一橋論叢』Vol.130, No.3, 2003
片岡一竹『疾風怒濤精神分析入門 ジャック・ラカン的生き方のススメ』誠信書房、2017
Lacan, J., 「ファルスの意味作用」(1958)、佐々木幸次訳『エクリIII』佐々木幸次他共訳、弘文堂、1981
レヴィ・ストロース『親族の基本構造』(1967) 福井和美訳、青弓社、2000
松本卓也『人はみな妄想する ジャック・ラカンと鑑別診断の思想』青土社、2015
向井雅明『ラカン入門』筑摩書房、2016
長野慎一「主体・他者・残余 バトラーにおけるメランコリーをめぐって」『三田社会学会』No.12, 2007
岡崎佑香「文字通り病み痛む身体? ジュディス・バトラー『問題なのは身体だ』の身体論」『現代思想』Vol.47-3, 2019
Rubin, G., “The Traffic in Women: Notes on the ‘Political Economy’ of Sex”, Toward an Anthropology of Women, Rayna Reiter, ed., New York, Monthly Review Press, 1975 =「女たちによる交通――性の『政治経済学』についてのノート」長原豊訳,『現代思想』Vol.28-2, 2000
Rubin G., & Butler J., “Sexual Traffic”, Differences, Vol.6 -2,3,
https://www.sfu.ca/~decaste/OISE/page2/files/RubinButler.pdf , 1994 = 「性の交易」Vincent K., 他訳、『現代思想』Vol.25-13, 1997
サリー, S., 『ジュディス・バトラー』(2002) 竹村和子訳、青土社、2005
セジウィック, E. K., 『男同士の絆 イギリス文学とホモ・ソーシャルな欲望』(1985)上原早苗他訳、名古屋大学出版会、2001
――  『クローゼットの認識論 セクシュアリティの20世紀』(1990) 外岡尚美訳、青土社、2018
十川幸司『フロイディアン・ステップ 分析家の誕生』みすず書房、2019
ジジェク、S., (1999)『厄介なる主体 政治的存在論の空虚な中心』鈴木俊弘他訳、青土社、2007
      
(たかはしかずゆき 哲学者)
 
(pubspace-x8083,2020.02.05)